♥11月…その3
日曜日。枝里子は友達の所へ課題を写させてもらう定で家を出た。材料は昨日先生から受け取っていたのだ。勉強熱心な娘をどこまで父が信じているか分からないが、夕方までに帰ってくれば大丈夫だろう。
枝里子は足早にショッピングセンター裏の公園へと向かった。約束の時間は12時だったが、先生の車は既に停まっていた。
「おはようございます」
「おはよう」
先生は相変わらず仏頂面だった。怒っているのかどうか分からない。枝里子は周囲に顔見知りがいないのを確認してから、助手席に乗り込む。煙草の香りが既に懐かしい。一瞬臭いが服に移るかもしれないと躊躇ったが、父にバレた所でどうでもよかった。これが最後のドライブになるかもしれないのだから。ぎこちない手でシートベルトを締める。
「今日はスカートじゃないのな」
黒のコートにジーパンと、普段着にしては硬めの格好だった。先生の方も紺色のセーターに綿パンと、慣れ親しんだ格好だった。こそこそと不倫で落ち合うカップルのようだ。
「一応、昨日まで病欠で寝込んでいましたから」
「そりゃ残念だ」
先生は軽く笑うと車を発進させた。お昼のFMラジオが適当なサウンドを運んでくる。車の振動がまた小気味良かった。移り行く景色が日常とは違う世界へと誘う。心持ち先生の機嫌も良さそうに見えた。このままずっと2人でドライブ出来たらどんなに楽しいだろう。
「無理に連れ出して悪かったな」
信号待ちの交差点でぽつりと呟かれた。
「先生が謝る事ないです。私の方こそ、一方的に避けてごめんなさい」
先生の視線を一瞬感じる。
「そうだな、理由も付けてくれると助かるよ」
「はい……」
車はいつの間にか高速へ乗り、山道を走っていた。このまま隣の県へ向かうようだ。夕方までに帰ってこられるだろうか。先生の顔色を伺うと、ミラー越しに目が合った。
「そう心配するな。もう少し先のサービスエリアで引き返す。今日は父親が休みなのだろう?」
枝里子は静かに頷いた。車が左へ車線変更をして徐々にスピードを落としていく。この辺りでは結構広めのサービスエリアに入った。誘導案内に従って適当に車を停車させる。2人は前を向いたまま、黙ってシートベルトを外した。
「お腹空いていないか?ついでに飲み物も買ってくるよ。何が良い?」
本当は一緒に降りて売店へ向かいたかったが、それは出来ないのだと悟った。枝里子は遠くから見えた「たい焼き」の文字とミルクティーを注文する。暫くして2人分の食料を抱えた先生が戻ってきた。
「流石にあんことミルクティーは合わないだろう」
悪態を突きながら、注文した品を手渡される。
「2つとも甘いからいいの」
それでもお礼を述べてから、2人して車内でたい焼きを貪った。久し振りに食べると結構甘い。2人とも静かに食べ終えると、再び沈黙がやってきた。エンジンを切っているのでラジオも鳴らない。時折前を家族連れや、カップルが通り過ぎて行くだけだった。
「触れてもいいか?」
先生が前を向いたまま、恥ずかしそうに呟く。枝里子が黙って右手を差し出すと、先生も静かに握り締めた。温かい。
「寒くはないか?」
「平気です」
枝里子は身体を先生の方に向けると、先生もこちらを向いて座り直した。互いに手を握り合ったまま、車内で向き合う。
「俺が隠している事で、お前が動揺するような事は1つしかないな」
罰が悪そうに顔を歪める。先生は枝里子の心境も含め、何もかもお見通しのようだった。
「私はエリコさんの代わりですか?」
1番気にしていた事だった。先生が慌てて首を振る。
「いや、お前とは似ても似つかないよ。エリコはもっと美人だった」
「先生酷い」
枝里子はプリクラに写っていた顔を思い出して拗ねた。確かに同性から見ても美人な女性だった。
「そう怒るな、冗談だ。……何処で彼女を見つけた?」
その口調はとても優しく、決して自分を責めいている感じではなかった。先生の瞳は、自分を介してもう1人の人物を見つめている。エリコ。先生の中にいるもう1人の女性。
「……見つけてしまったのは、本当に偶然だったんです。英語の辞書を借りた時に、背表紙の後ろに貼ってあったプリクラを見つけました。そこには昔の先生と、私と同じ名前のエリコさんが写っていて――――」
説明している内に声が震えてきて、最後の方はきちんと言葉にはならなかった。先生は黙って枝里子を抱きしめた。枝里子はいつの間にか嗚咽を漏らしていた。散々泣いたのに、まだ泣き足りないと身体が喚いている。
「お前には随分と辛い想いをさせてしまったな。すまない」
先生が優しく背中を摩る。枝里子が少し落ち着きを取り戻した所で、濡れた頬にキスが落とされた。
「いずれ話す時が来るだろうと思ってはいたが、こんなにも早く来るとは思わなかったな」先生の指が涙を拾う。「これから話す事は、俺にとって辛い過去だ。軽蔑されても構わない。だけど最後まで聞いてくれないか。その上でこれからの関係を考えて欲しい」
枝里子は小さく頷く。まだ2人とも手を握り合っていた。これが先生を繋ぎ止められる唯一の手段なのかもしれない。
「聞かせて下さい」
先生とエリコの間に何があって、どんな気持ちで手を差し伸べてくれたのか。知りたかった。先生はひと呼吸置いてから苦しそうに呟く。
「お前が見つけたもう1人のエリコは、俺の妹だ」
妹?枝里子は不思議そうに首を傾げた。あのプリクラは仲の良い兄妹と言うよりも、カップルに近かった。絶対先生の元カノだと思っていたのに。枝里子がそう返そうとした時、先生が更に重い口を開いた。
「その実の妹を、俺は見殺しにしたんだ」




