♥11月…その2
次の期末テストで高得点を取る為にも、枝里子は俄然張り切って先生の部屋を訪れていた。今日も先生は留守だったが、代わりにテーブルが炬燵に変身している。
昨日の内に出してくれたのだろう。枝里子は感謝しながら、炬燵に潜ってテレビを付けた。炬燵布団はかなり煙草臭かったが、先生の香りだと思うと少し安心する。
「さて、英語から取り掛かるかな」
枝里子は辞書を借りようと、後ろの本棚を探った。漫画ばかりかと思いきや、大学時に使っていたと思われる教材も幾つかある。どれも結構古そうだった。
少し気になったので、枝里子は幾つか引っ張り出して中を開いてみた。流石に漢文で書かれた本には驚く。所々下線が引かれており、要点も詳細に書き記されている。かなり使いこまれた形跡が残っていた。
自分の知らない先生がここにいる。教師になる為にもの凄く勉強したんだ。普段の態度からはとても想像がつかなかった。
「先生はどうして教師になったんだろう」
出会った時から既に先生だったので、考えた事もなかった。一頻り教材を見終えて感心する。手前の何冊かは最近も使われているようだった。今度参考までに聞いてみようかな。
ようやく目的の辞書を手にする。この辞書もよく見ればだいぶ擦り切れており、何度もページを捲った痕が、手垢となって存在しているのだった。英語も随分書き込みがされている。何気なしに捲っていると、表紙の後ろにプリクラが一枚貼ってあるのに気付いた。随分古いプリクラだ。ローマ字でお互いの名前が記入されており、男女2人が仲睦まじそうに写っている。
「エリコ……?」
自分と同じ名前。枝里子は食い入るようにカメラ目線の女性を見つめた。幸せそうな顔で無愛想な男に寄り添っている。一目で昔の先生だと分かった。
枝里子は慌てて辞書を閉じた。見てはいけない物を見てしまった。苦しくて胸を押さえる。胃がキリキリと痛みだし、心臓の鼓動が激しい。
先生は過去にもエリコと付き合っていた。その事実に打ちのめされる。偶然ではないと確信出来た。自然と涙が溢れ、炬燵布団を濡らす。先生にはもう長い事、彼女はいなかったと教えてくれた。作れなかったのだ。今でも彼女を引きずっていて、それで同じ名前の自分を気にかけてくれたのだ。先生が気持ちを受け入れてくれたのは、自分も『エリコ』だったからだ。
涙が嗚咽に変わる。止まらなかった。悲しかった。彼女の代わりなのかもしれない。自分の名前に惹かれただけなのかもしれない。きっかけは絶対にそうだった。
枝里子はやりかけの宿題を鞄の中にしまうと、静かに立ち上がった。帰ろう。一刻も早くこの部屋から出たい。逃げるように部屋を後にすると、エレベーターから出て来た男性と目が合った。先生だった。
どうしてこんな時に限って早いの! 枝里子は反射的に非常階段の方へと走り出していた。
「山下!」
遠くで先生の声が聞こえる。無視して階段を駆け下り、急いでマンションから離れた。追いつかれまいと必死に走った。惨めに傷付いた姿を誰にも見られたくなかった。部屋に帰ってからは余計に涙が止まらず、人知れず枯れるまで泣き続けた。
翌朝。泣き腫らした瞼を擦り、携帯画面を開いた。昨日から着信が5件も入っている。全て先生からだった。
学校に行きたくなかった枝里子は、仮病を使って休む事にした。とてもこの顔で外には出られない。今は友達にも会いたくなかった。
「枝里子、学校には連絡入れておいたから。お母さん今日は仕事だけど、1人で大丈夫?」
お母さんが心配そうに部屋を覗く。枝里子は布団から頭だけ出して頷くと、再び目を閉じた。まだ涙が出そうだった。
もう1人のエリコ。茶髪で色白の、美人な女性。先生にお似合いの女性。枝里子は怖気付いた。もし自分の名が『枝里子』ではなかったら。あの雨の中、探しに来てはくれなかっただろう。部屋を貸してはくれなかっただろう。
父も出て行った後で、1人家の中を彷徨う。今更勉強する気も、学校へ行く気も起きなかった。先生に会うのが怖い。あの目で問い詰められるのが怖い。お昼過ぎに、また携帯の着信が入った。勿論先生だった。出られるはずもなく、静かに項垂れる。
「先生、怒っているだろうな」
理由も告げず一方的に拒絶しているのだ。もう飽きられているだろう。枝里子は再びベッドに潜ると、枕に顔を押し潰した。もう1人のエリコなんて、見つけなければよかった。あんなプリクラ1枚で打ちのめされるとは思わなかった。次第に惨めさが押し寄せてくる。どうして自分も先生を好きになってしまったのだろうか。
2日休んだら、土曜日になった。今日は父も休みで家にいるので、ゆっくり寝てもいられない。枝里子はベッドに潜ってばかりだった身体を起こすと、携帯電話を開いた。もう先生からは着信すら来ない。
「枝里子、身体の具合はどうだ?」
父が様子を見に部屋をノックした。枝里子は「平気」とだけ答えて机に向かう。
「病み上がりなのに勉強するのか。もう少し身体を休めなさい」
「でも、来週小テストがあるから」
戸惑う父を押し退けて教科書を開く。先生、先生。ノートを開く度に先生の顔が浮かんできて泣きそうになった。切なさで胸が押しつぶされそうになる。誰かを好きになるって、こんなにも苦しみを伴うものだとは思わなかった。
会いたい。理由を知って、また抱きしめて欲しい。枝里子は立ち上がると、思い切って先生に電話をかけた。先生、謝るから早く出てよ。縋るような気持ちとは裏腹に、留守番電話へと切り替わる。もう1度かけてみても結果は同じだった。
「先生……」
自分から拒絶したくせに卑怯だと思った。膝を抱えて座り込んでいると、インターホンが鳴った。朝から客人なんて珍しい。耳を澄ましていると、よく知った声が響いてきた。
『おはようございます。朝早くからすみません。自分は4組の副担任をしている服部という者です。山下枝里子さんはいらっしゃいますか?』
先生だ。先生が訪ねに来てくれたんだ。枝里子は咄嗟に口元を押さえた。今度は嬉しくて涙が溢れた。本当は部屋から出て行きたかったが、父が対応しているので堪える。ただでさえ感づかれているのだ。ここで自分が出て行ったら気づかれてしまうかもしれない。枝里子はドアに張り付いて聞き耳を立てた。
『先生でしたか、これはわざわざご足労ありがとうございます。枝里子はいますが、どういったご用件でしょうか?』
『先日休まれた分のテスト返却です。最近勉強熱心なご様子でしたから、早めに本人に渡しておきたいと思いまして。それとお大事にしてくださいとお伝え下さい』
2、3回何やら言葉を交わした後に、ドアの閉まる音がした。枝里子は急いで窓に駆け寄り、先生の後ろ姿を見つめた。先生はこちらに気付かず、そのまま車に乗って行ってしまった。1人静かに見送った後、部屋のドアがノックされた。父だ。
「今先生が見舞いに来てくれていたよ。枝里子も呼ぼうとしたんだが、気を遣わせるから悪いと言って帰ってしまわれた。お大事にしてくださいとの事だ。これ、先生からの預かり物で、先週分のテストだそうだ」
しっかりと糊付けされた封筒を受け取ると、1人になってから慌てて開封した。テスト用紙の他に、1枚のメモが入っている。
『明日、ドライブに行けるか?』
小さく遠慮がちに書かれた文面に、明日の全てが詰まっているようだった。先生からの初めての誘い。だが、こんなにも心浮かれないデートは滅多にないだろう。
体調不良で欠席していたのに、外へ連れ出そうとしている辺り、仮病だとばれているようだった。両親にも今日の内に治ったと言い訳しなくては。
枝里子は返却されたテストをようやく見た。皮肉にも満点で笑った。