♥9月
夏休みに先生の家で勉強したおかげか、実力テストはどれも平均点以上を取ることが出来た。自分でもこんなにいい点が取れるとは思わなかったので驚く。
「やれば出来るじゃないか。その調子で中間も頑張れよ」
返却時に服部先生にも珍しく褒められたので、枝里子は思わず笑をこぼした。頑張った成果が実際目に見えると嬉しい。苦手な口語訳も、先生に教わったおかげかほぼ満点だ。お母さんにもこれを見せれば、小遣い停止を撤回してくれるだろう。
これで少しは認めてもらえただろうか。枝里子は先生が黒板に書く姿を見つめながら、この距離は遠いと感じた。他の授業では全然思わなかったから不思議だ。自分にとって先生は、近いようで遠い存在なのかもしれない。この距離が対等になることはない。あんな冴えないおっさんの何処が良いのだろう。
「次の問題を……山下、答えろ」
先程から上の空だったので、話を聞いているはずもなかった。先生がこちらを睨んでいる。枝里子は渋々と立ち上がって正直に謝った。
「すみません、もう1度お願いします」
「もういい。代わりに野崎、答えろ」
相変わらず授業中の先生は怖かった。枝里子は静かに椅子を引いて座りなおす。部屋にいる時とはやはり違う。先生が学校と言う職場にいる以上、個人的に接してくれるはずもないのだった。
純粋に寂しかった。誰かにこの気持ちを相談する事も出来ない。やっぱり自分みたいな生徒は、恋愛対象としてみられないのだろうか。ため息をつくと教科書に落書きをする。こんな生徒に一々構っていたら、教員なんて務まる筈もないか。先生が自分に抱いているのは単なる同情だ。可哀想だから、子猫を可愛がるみたいに接してくれているだけなんだ。
そうだと分かっていながらも、枝里子は先生の家へ行かずにはいられなかった。同情でもいいから先生の傍にいたい。今日は黄色のタンクトップに、7分丈のジーンズで行くことにした。
最近は1度着替えてから訪問するようにしている。制服を脱ぐことで、生徒という立場から解放されるような気がするからだ。
「お邪魔しまーす」
ほんのりと煙草の香りがする部屋で、枝里子は静かに宿題をやり始めた。ここにいると自分が認められるような気がして嬉しい。夏休みの補習以降、頼めば先生もこの部屋に帰ってきてくれて、勉強を見てくれるのだった。
先生は自分の気持ちを知っている。はっきりやめておけとも言われた。それは互いの立場があっての事で、個人的には少なくとも気に入られている。先生と生徒と言う立場がなければ、先生は自分のことを見てくれるのだろうか。
ここに通いつればつめるほど、先生に対する想いが積み重なっていくのを感じた。寂しくなるのを実感した。だからと言って、欲張っても先生は何も与えてくれない。想いを告げれば、この部屋に2度と入れないのは分かっていた。他に行く所もないのだから、しばらくはこのままでいい。一方的な関係でも仕方がないんだ。
枝里子は自分自身を納得させると、一息着いて床に寝そべった。カーペットの毛玉が顔に食い込んでちょっと痛い。とても静かだ。こうして煙草の匂いを感じていると、先生がすぐ近くにいる気がする。
身体の痺れで目が覚めた。少し横になるつもりが、どうやら本格的に寝入ってしまったらしい。慌てて身体を起こすと、布団がかけられているのに気付いた。台所から物音が聞こえる。
「やっと起きたか」先生がパンを齧りながら現れた。「薄着で寝たら風邪引くぞ」
「ご、ごめんなさい」
寝顔を見られたかと思うと、急に恥ずかしさが込み上げてきた。
「それにしては凄いいびきだったな」
「えっ、嘘!」
咄嗟に両頬を押さえて赤らめると、先生が笑い出した。
「嘘だよ、お前も疲れていたんだろう。勉強も程々にな」
先生がテレビを点けたので時刻がわかった。夜の7時だった。いつもの先生にしては早い帰宅だ。
「お腹空いてないのか?」
パンを食べながらテレビの前に座る。寝る前にお菓子を食べていたし、晩ご飯は家で食べるようにしていたので、首を横に振った。
「今日も教えて欲しい所、あるのか?」
「えっと……ちょっと待ってもらえますか?」
枝里子は急いで問題集を開いた。先生が帰ってくるとは思わなかったので焦る。普段は連絡しないと、九時を過ぎても帰って来ない癖に。そう考えると今日は、寝顔まで見られて完璧不意打ちだった。
卑怯だと思いながら答え合わせをしていると、テレビの音に混じって寝息が聞こえてくるのに気付いた。顔を上げると、いつの間にか先生がテレビの前で横になっていた。
「自分だって寝ているじゃない」
枝里子は先生の寝顔を見てやろうと、ゆっくりと音を立てずに近づいた。肘をついて寝ているので、頭が危なっかしそうにふらふら揺れている。試しに太腿を指で突っついてみたが、起きる気配はなさそうだった。
枝里子は笑いを堪えながらもう少し近づいた。目を閉じていても、固い表情は相変わらずだった。よく見るとまつ毛が長い。それに福耳だ。先生の可愛いパーツを発見して微笑む。不思議と愛らしく思えて堪らない。
「私、やっぱり先生の事が好きみたいです」
先生からは相変わらず寝息が聞こえた。寝ている分にはお地蔵様みたいで可愛いのに。授業時とのギャップに笑うと、今度は自分が布団をかぶせてあげようと立ち上がった。
「山下はそれでいいのか」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。心臓から物凄い音が聞こえる。一気に鼓動が早くなったのを全身で感じた。
もしかして起きていたの?恐る恐る振り返ると、先生がテレビの前に座り直している所だった。目が合う。先生が見つめている。枝里子は生唾を飲み込んだ。
「お、起きていたんですか」
何とか絞り出した声がそれだった。
「うとうとしていただけだ。寝るなら布団を敷く」
どうしよう。間違いなくさっきの告白は聞かれていたに違いない。枝里子は急に先生との関係が壊れていくのを感じて足が竦んだ。
怖い。先生に拒まれるのが怖かった。もう1度否定されるのが嫌だった。答えなんて聞きたくない。心の準備も出来ていない。
立ち尽くしていると、先生とまた目が合った。言葉より先に涙が溢れてくる。早く言い訳をしないと。今のは冗談だとはっきり言わないと。焦る気持ちとは裏腹に、先生は黙って枝里子に手を差し伸べた。
「おいで」
その表情は優しくて、何処か切なさを感じさせた。無理に笑って見せているせいかもしれない。枝里子は震えながら先生の大きな手に触れた。思わず涙が溢れた。自分を振り解こうと思えば出来たはずなのに、どうして。
枝里子は泣きながら先生に抱きついた。先生は拒まなかった。受け止めてくれた。泣きじゃくる子供をあやすかの様に、優しく頭を撫で続けてくれた。
「気に入ったのは仕方がないよな」
それが先生の言い訳だった。




