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エリコ  作者: ムライリカ
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♠4月…その1

 最初から意識していなかったと言えば、嘘になる。服部は4組のクラスの副担任になった時から、名簿を見た時から、密かに山下の事を気にかけていた。それは彼女の名前が枝里子だったからだ。漢字は違えども、同じ発音のエリコ。この巡り合わせも一種の呪いだと悟った。償い。それは服部の後ろを一生ついてまわるものなのかもしれない。




 山下と直接顔を合わせたのは、春休み明けの始業式の後だ。2年4組の主担任、浅川先生に連れられて、服部も教室に足を踏み入れる。昨年度からの引き継ぎ部分もあり、数名の生徒の名前と顔は知っていた。所謂目立つ生徒だ。舐められないようにと、気を引き締めて教卓の前に立つ。


「このクラスの副担任になった服部敦士です。皆さんの古文を担当します。部活担当は演劇部ですので、よろしく」


 一つ高い場所から生徒を見下ろす。案の定数名の生徒しか目が合わなかった。皆挨拶などはさっさと済ませて、早く帰りたいに決まっている。午前授業を受ける心境なんてそんなものだ。服部は潔く浅川に教卓を譲ると、窓際で生徒の自己紹介に耳を傾けていた。彼女は名簿の最後だった。


「出席番号40番、山下枝里子です。部活動は特にやっていません。よろしくお願いします」


 端的な事実を述べて着席する。他の生徒もようやく終わったかと表情を緩めて前を向いた。

 あの子が枝里子か。長い黒髪を見つめていると、記憶の中の彼女がぼんやりと姿を現す。エリコも昔はあれくらい長かったが、やはり似ても似つかない子だった。彼女の生まれ変わりの筈もないか。服部はやや安堵しながら、浅川の長い話が終わるのをひたすら待った。




 その夜、久し振りにエリコの夢を見た。彼女は怒っていた。濃いブルーのワンピースを着て、こちらを睨んでいた。

 服部はその理由を鮮明に覚えていた。目覚めは最悪だった。彼女との最後の記憶が一気に溢れ、罪悪感から堪らなく吐き気を催した。

 慌てて台所に駆け寄ると、嗚咽と共に胃液を吐き出した。涙目になりながら口をゆすぎ、換気扇の下で煙草を1本取り出す。火を点けると線香のような煙が静かに立ち上った。


 あれから8年。何故今更、エリコと名のつく生徒が現れたのか。償いは自分が生きている限り永遠に続く。夢と同じく怒っているからに違いないと思った。




 服部はますます生徒に関わるのを避け続けた。周囲の人間を恐れた。自分の過去を知っている人物はいないはずだが、それでも警戒するに越した事はない。それもこれも全て山下のせいだ。理不尽だと思いつつも、彼女のせいにしなければ心の収まりがつかなかった。

 問題の山下枝里子は、他の生徒と何ら変わらない、至って普通の生徒だった。成績も悪くはない。目立った非行もなく、校則を守って生活している。教師にとって扱いやすい部類の生徒だった。友達も複数いるようで、一緒に登下校する仲間もいる。苛められている様子も見受けられない。


 だが服部は、彼女が時々無理をしているのではないかと感じていた。例えば授業中。名簿で一番後ろの席なのをいい事に、山下は大概黒板から目を逸している。それでいて彼女を当ててやると、一瞬鋭い目付きをこちらに向けてから、正解を述べるのだ。そんな事で一々当ててくんなこの野郎とでも言いたげに。

 これくらいの反抗的な生徒ならよくいるので、自分はあまり気にしないのだが、彼女の鋭い視線は時々仲の良い友達にも向けられた。全てを否定するかのような冷ややかな視線。まるで敵だと言わんばかりの態度。彼女は周囲に対して常に気を張り巡らせていた。

 その事実に気付いてから、実は山下も面倒な部類の生徒ではないかと思うようになった。偶にいるのだ。良好そうに見えて、影を背負っている生徒が。その大半は家庭環境に問題があったりする。服部は教員生活も長いので、その辺りは充分考慮しているつもりだった。




 生徒に対する一番の処置は、深く関わらない事。本人が行動を起こさない限り、教師もまた反応を起こさない。探らない。最近はプライバシーの侵害やら、個人情報やらで、生徒の連絡先すらまともに取り扱えない時代なのだ。今時一個人に対して、思慮深い先生が果たしてどれだけいるだろうか。近頃は独身男性と言う理由だけで、保護者から白い目で見られるようにもなった。無論今年で34を迎える服部もその中の一人だった。

 幾ら年下の可愛い生徒達と一緒に生活しているからと言って、彼女達が恋愛や性的対象になる訳がない。そんな不祥事で捕まるのは教職者でもごく一部だ。生徒なんてその辺の客商売相手と何ら変わりもしない。特別に情が沸く訳でもない。これ以外にやる事がなかったので、今でも教員生活を続けているに過ぎなかった。


「服部先生、もうすぐ保護者を交えた進路相談があるので、悪いですけど簡単なリストを作って貰えないでしょうか?」


 向かいの机で日誌を読んでいた浅川先生が、こちらの顔色を伺いながら尋ねてきた。服部はすぐさま意向を汲み取る。


「もうそんな時期ですか。分かりました、今週中に作っておきます」


 浅川が「すまないね」と苦笑いを浮かべながら席を離れた。主担任の浅川は今年で57歳。パソコンなどの事務処理が苦手なので、殆ど自分が受け持つ事になっているのだった。自分達中堅には上からも下からも雑用が押し付けられる。生徒にはウザがられる。そういう職場なのだ。


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