60歳からの幼稚園〜心はいつでも純真無垢な幼稚園児〜
「そんな事は幼稚園児でも、小学生でも分かる」
私はこの言葉が大嫌いだ。成長と発展の途上にある子供たちに、これほど失礼な言葉はない。
学びの最中にある彼らは、知らない事が沢山あるのは当たり前なのだ。
新たなことを知りたいと思う時、彼らの目は輝き、希望に満ち溢れている。「そんな事は幼稚園児でも…」などという言葉を使う大人ほど、学びを放棄している。少なくとも私は、そう考えている。
そんな私は週二回、地域の公民館で自治体主催のパソコン教室で指導をしている。参加費は自治体負担により無料だ。基本的に対象者は60歳以上に限定されている。
ここには、色々なバックボーンの人々が集う。70、80を過ぎても好奇心や探究心旺盛の人がいる一方で、定年退職を迎えて仕方なく暇つぶしで来ている人もいる。
「誰でも簡単・基礎からのパソコン教室」と銘打っている以上、電源を入れるという基礎からやらねばならない。
「そんな事は分かってるんだよ」
「子供でも分かるような事は良いから」
必ずこの手の言葉が出てくる。私は苦笑いで受け流すが、内心は嘲笑している。
絶対とはいえないが、この手の揶揄を飛ばすのはほとんどが、勤め先を定年退職して間もない人達に多い。まだまだ自分は現役だという意識なのだろう。
「もう少しプログラミング的なものを知りたいんだけどなぁ」
どこかで聞きかじったような事を言う。すかさず私もきり返す。
「例えばどういう事をお知りになりたいですか。キャブレターですか?インジェクションですか?」
キャブレターもインジェクションも車の燃料噴射装置の事だ。プログラミングに全く関係ない。
「え?そ、そうだな…そうそう、インジェクションって、プリンターのことだろ?インジェクションプリンターってあるよな。それくらい知ってるよ」
インクジェットプリンターの事だろうな…内心バカにしつつも、今の私は講師だ。
「それは別の講座でやりましょう。今回は『基礎から』の講座ですので」
「仕方ねぇなぁ。こんなの会社で散々やってたからなぁ」
だったら何で来てるんだよ…ちなみにこの人は65歳の浩太郎。やたら知ったかぶりたがり、私に代わって色々説明しようとする。いわば、マウンティング野郎だ。
「まあすごいわねぇ。よくご存じなのね。私達は一つ一つが初めてだからね」
この人は82歳の恵子さん。幼稚園の園長先生を長年務められた方だ。先生でありながら、いや、先生だからこそ学びに貪欲で、謙虚な方だ。
浩太郎さんも、恵子さんに言われると黙るのだ。優しい語り口なのに、どこかにオーラがある。
「今日は、表計算ソフトを使って、色々計算してみましょう」
ほとんどの人は予習をしてきたり、「はじめての…」と書かれた本を持参してきている。私も期待に応えようと力が入る。
「へぇ~これは便利だ」
「グラフもできるのね!」
基礎を学ぶことを馬鹿にしてはいけない。基礎こそ学びの原点であり、知ることの楽しさが溢れているのだ。だからこそ、ここで躓かない様に、慎重に進める必要がある。
「あれ?これ、上手くいかないよ…やはり俺には難しいのかなぁ」
75歳の時雄さん。元大工だ。腕を組んで表情を曇らせている。私はすぐに駆け寄った。
「大丈夫ですよ。良いところまで来ていますよ!これ、ここをクリックしてみて下さい」
私が説明し、時雄さんが動かすと解決した。
「なんだ!そうだったのか。解決したよ」
時雄さんの嬉しそうな笑顔に、学びの壁を一つ越えた喜びが溢れていた。
「俺は大工だったからさ、実際に組み立てるのは得意なんだけどな。この…デジタルって奴は、まだまだでな」
「いえ、実はパソコンもプログラミングという組み立てで作られています。時雄さんの得意分野になりますよ」
「じゃあ先生は、パソコンの大工ってとこだな」
教室の中で笑いが起きた。
「こんなのは子供でも分かるんだよな」
また出た、マウンティング野郎。周りは浩太郎さんを一切意に介していないが、運営側として、周囲を馬鹿にする発言は看過できない。
休憩時間に、私は別室に浩太郎さんを呼んだ。
突然だったので、浩太郎さんは緊張の面持ちだ。
「浩太郎さんが、色々パソコンの知識をお持ちなのはよく分かりました。であれば、上級クラスをお勧めしたいのですが」
まず、やんわりとクラス変更を打診した。
「先生、俺を排除するのかい?俺は先生を補佐してやろうと思っているんだ」
誰も頼んでいないし、今後も頼むことはない…この人には。
「それならば遠慮して下さい。進め方もありますし、一つ一つ丁寧に理解を確認して…」
被せるように浩太郎さんは反論してきた。
「会社だったらこんな生温いやり方はしないよ。大体今からパソコンを覚えて何になるんだ」
「ここは会社ではありませんし、浩太郎さんの部下ではありません。皆、平等です。学びの目的を、他人がとやかく言う立場にはない筈です!」
私は強く言った。学ぶことを馬鹿にする発言は許せなかった。
「まぁ…先生の言うこともわかるけどさ」
浩太郎さんの表情がわずかに強張った。
「でもなぁ先生、いくら学んでも『分からない奴は分からない』って事を学ぶのも必要なんじゃないか」
「それこそ、浩太郎さんが決めることではないはずですよ」
「やっぱり排除じゃないか。皆そうやって俺を排除したがるんだ。前の会社でも…」
私は席を立った。休憩時間がまもなく終わる。
私が教室に戻ると、恵子さんが表計算ソフトを使い、グラフを作成していた。
「これ面白いわね。使いこなせたらもっと便利になるわ」
恵子さんの周りに他の生徒さん達も集まっていた。
「では、先程の続きから始めましょう」
浩太郎さんが遅れて戻ってきた。両手をポケットに入れ、不満気な表情を隠さない。しかし、私は特に取り合わない。
自分の機嫌は自分でとるものだ。
「先生、もう少し為になることやりましょうよ。基礎も良いけどさ。子供じゃないんだから私ら」
浩太郎さんはふんぞり返っている。
「今やっているのはね、幼稚園児でもわかりますよ」
私が反論をする前に、恵子さんが浩太郎さんのほうを向いた。
「私たち、子供なのよ。だって、何も知らないから来ているの。分からない事が分かるようになるって、素敵なことよ」
恵子さんは満面の笑みで浩太郎さんに言った。
「おぉ、そりゃ恵子さんの言う通りだ。基礎を疎かにすると、良い家が建たねぇんだよ。そういうことだよな、先生」
元大工の時雄さんが、恵子さんに同調した。
「はい!基礎なくして応用は出来ません」
他の受講者も皆が賛同していた…浩太郎さんを除いては。
次第に浩太郎さんの居場所が無くなってきていた。正確には、自ら失わせているのだった。私自身も、関わることから避けたくなっていた。
しかし、恵子さんだけは違った。
「浩太郎さん、私に教えて下さらない?ここの色の変え方なんですけど」
それは、休憩中に恵子さんが作っていたグラフだった。恵子さんは前回、色の付け方は完璧にマスターしていた。
だから、これは恵子さんが浩太郎さんに「場」を作るための嘘だろう。
「え?あ…あぁ、ここをクリックすると変わりますよ。ほら。」
「あら、本当!すごいわねぇ、どうもありがとう。また一つ学んだわ。頼りになるわねぇ」
浩太郎さんはバツの悪そうな顔をしている。散々罵った相手から礼を言われたのだ。私自身も、恵子さんの包容力に助けられている。
そういえば先程、浩太郎さんは「排除」という言葉を使っていた。私達は排除など最初からしていない。ところが、恵子さんの質問に答えてから、浩太郎さんは鳴りを潜めた。講習の間、ひと言も自分からは言葉を発しなかった。
講習終了時間の30分前になった。ここからは自由時間として、パソコンで何をやっても自由としている。
「あら、これ面白いわね」
「おぉ、簡単だ。これなら出来る」
そんな中で、浩太郎さんは帰り支度を始めていた。
「用があるから、ここで失礼しますよ」
それだけ言うと、浩太郎さんは部屋を出ていった。私が追いかけようとすると、時雄さんは私を見て、首を振った。
「先生、好きにさせておけば良いよ」
「いや、しかし…良いのかな…」
「良いんだよ、気が済んだんだろ」
そう言うと、時雄さんは席を立ち、私がいる教壇に来た。
「現役を退いたら、誰も相手をしてくれなくなった。そんなところじゃねぇのかな。恵子さんはどう思うよ」
「そうね。まぁ、子供じゃないのですから、そっとしておいてさしあげましょ。子供だったら、ちゃんと向き合ってあげないと駄目よ」
恵子さんは笑みを浮かべながら、そう言った。長年、園長先生を務めた恵子さんの言葉だから、尚更含蓄がある。
「私はね、幼稚園に来ていた子供達のことをいつも思い出しているの。皆、新しいことを学ぶ時の目の輝きは、とても美しいのよ。だからね、今日も私は幼稚園児。そうよね、時雄さん」
「え?いや参ったなぁ。じゃあ俺は、75歳の幼稚園児か。まぁでも、その通りだな」
そう言うと、教室中が笑いに溢れた。そして翌週から、浩太郎さんが来ることはなかった。今その席には、78歳の看護師の女性が座っている。
子供のような純粋な気持ちで学ぶこと。
それを、私はここで教えられている。
一方で、学びを馬鹿にして放棄することで、得たものはあるのだろうか。私は今も時々浩太郎さんを思い出す。
学びとは一体、何なのだろう。
終
誤って連載として投稿しておりました。短編で改めて再投稿させていただいております。




