9.穏やかな日常と…
夏、台所。
美桜がフライパンを振っている。
「彩梅ちゃん」
「?」
「卵」
彩梅が渡す。
「割って」
「……」
彩梅は慎重に卵を割る。
殻が入る。
美桜が笑う。
「ほら」
「……」
彩梅は真剣な顔。
美桜が言う。
「料理は適当でいいの」
「適当?」
「うん」
「……難しい」
美桜が笑う。
「彩梅ちゃんは全部きっちりやろうとするからね」
彩梅は黙る。
美桜は言う。
「でもさ」
フライパンを揺らす。
「料理は失敗しても死なない」
彩梅が少し笑う。
「それはそう」
卵焼きができる。
美桜が皿に乗せる。
「どうぞ」
彩梅が食べる。
「……おいしい」
美桜が得意げに言う。
「でしょ」
少しして。
彩梅が言う。
「美桜」
「ん?」
「ここに来て」
「?」
「良かった?」
美桜は少し考える。
そして笑う。
「うん」
小さく言う。
「すごく」
その笑顔は少しだけ寂しかった。
その日の夜。美桜の部屋。小さな机。
スマホが鳴る。画面。母。
美桜は少し嫌そうな顔をする。
でも出る。
「もしもし」
母の声。
「美桜ちゃん」
「うん」
「体調どう?」
「普通」
少し沈黙。
母が言う。
「そろそろ」
「?」
「進路考えないと」
美桜は黙る。
母は続ける。
「秋から専門学校、通信制大学出願あるでしょ」
美桜は小さく言う。
「……うん」
「一度帰ってきなさい」
その言葉で
部屋の空気が少し重くなる。
母は言う。
「話し合わないと」
「……」
「逃げてばかりじゃダメ」
美桜は何も言えない。
電話が切れる。
静かな部屋。
美桜は机に座る。窓の外を見る。
遠くに五条家の屋敷の灯りが見える。
小さくつぶやく。
「……どうしよ」
初めて。ヘラヘラした笑顔が消えていた。
志乃の家の台所。蛍光灯の白い光。
志乃がお茶を入れている。
美桜はテーブルに座っている。スマホを握ったまま。
志乃が聞く。
「電話?」
美桜は頷く。
「母から」
志乃は察したように頷く。
「帰れって?」
美桜は小さく言う。
「……秋の出願」
志乃はお茶を置く。
美桜の前。
「そっか」
少し沈黙。
美桜の声が震える。
「志乃おばさん」
「うん?」
「私」
目に涙が溜まる。
「帰ったら」
言葉が詰まる。
「……また」
志乃は静かに待つ。
美桜は顔を覆う。
「また死のうとするかもしれない」
志乃は何も言わない。
美桜の涙が落ちる。
「怖い」
声が震える。
「家にいると」
「……」
「息できなくなる」
志乃はゆっくり言う。
「無理に帰らなくてもいい」
美桜は首を振る。
「でも」
「?」
「逃げてばっかりだって」
志乃は優しく言う。
「逃げるのは悪いことじゃない」
美桜は泣きながら笑う。
「彩梅ちゃん」
「?」
「悲しむかな」
志乃は少し微笑む。
「悲しむと思う」
美桜は俯く。
「……だよね」
数日後、診察室。
美桜が座っている。目が少し赤い。
医師が静かに聞く。
「実家に戻る話が出ているんですね」
美桜は頷く。
「秋の出願で」
医師は聞く。
「帰るのが怖い?」
美桜は小さく言う。
「はい」
沈黙。
そして美桜は言う。
「先生」
「はい」
「私」
少し笑う。でもその笑顔は弱い。
「また死ぬかもしれない」
医師は静かに言う。
「そう思うくらい怖いんですね」
美桜は頷く。
「家にいると」
「?」
「自分が」
少し間。
「消えた方がいいって思う」
医師は静かに言う。
「坂元さん」
「はい」
「あなたは今」
少し微笑む。
「生きたいと思っている」
美桜は驚く。
「……え」
医師は言う。
「怖いと言える人は」
静かな声。
「生きたい人です」
美桜の目に涙が浮かぶ。
その日の夕方。
工房の裏。
美桜が言う。
「彩梅ちゃん」
「?」
「ちょっと話いい?」
彩梅は頷く。
美桜は少し迷う。でも言う。
「私」
「?」
「秋に」
「……」
「一回実家戻るかもしれない」
彩梅の手が止まる。
「……え」
美桜は笑おうとする。
「出願とかあるからさ」
「……」
彩梅は何も言えない。
胸がざわざわする。
美桜が言う。
「ちょっとだけ」
「……」
「帰るだけ」
彩梅の声が小さくなる。
「……戻るの?」
美桜は少し困った顔。
「まだ分からない」
沈黙。
蝉の声だけ。
彩梅は初めて思う。
いなくなるかもしれない。胸が苦しい。
彩梅は言う。
「……そう」
それだけ。
美桜は少し寂しそうに笑う。
「ごめんね」
彩梅は首を振る。
「謝らなくていい」
でも声が少し震える。
美桜は気づかないふりをする。
工房の中。
宗一郎が作業している。
二人の声は外から聞こえる。
宗一郎は聞いている。
でも出ていかない。
木を削りながら
小さくつぶやく。
「……そうか」
それだけ。
そしてまた、黙って作業を続ける。
宗一郎は知っている。
人は別れを経験して大人になることを。




