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1.雪の終わり

三月の北陸は、まだ冬の匂いが残っている。

空は薄い灰色で、山の上には雪が残っていた。

坂元美桜は、電車の窓から外を見ていた。

田んぼ。

低い山。

古い家。

都会とは全然違う。

ポケットの中で、携帯電話が冷たい。

通知はない。

当たり前だ。

高校の友達には、何も言わずに引っ越した。

思い出す。


三月一日。

卒業式。

体育館は暖房が効いていて、むしろ暑いくらいだった。

担任が言った。

「専門学校、短大、大学に行く人も、浪人する人も、就職する人も、それぞれの道を頑張ってください」

拍手。

その日の夕方。

家。

父の声。

「なんで落ちるんだ」

母の声。

「あなた本当に勉強してたの?」

美桜は笑っていた。

いつもの癖だ。

「まあ、ちょっと足りなかったかな」

父が机を叩いた。

「ふざけるな」

母が言う。

「塾だって行かせたのに」

「何のために」

「本当に」

「あなたは――」

そこから先は、よく覚えていない。

夜だった。

冷たい水。

息が苦しい。

誰かの声。

救急車のサイレン。

病院の白い天井。

医者が言った。

「命は助かりました」

母は泣いていた。

父は黙っていた。

そして数日後、親戚が来た。

母のいとこ。

北陸に住んでいる人だった。

「しばらく、うちで休ませる?」

その一言で決まった。


電車が止まる。

「次は終点です」

美桜は立ち上がる。

ホームに降りると、空気が冷たい。

「美桜ちゃん?」

声がする。

振り向くと、五十代くらいの女性が手を振っていた。

「久しぶり」

「志乃おばさん?」

「そうよ」

笑う。

「大きくなったね」

「そうかな」

「まあ、とにかく乗って」

軽トラックだった。

助手席に乗る。

車が走り出す。

田んぼ。川。遠くに雪の山。

「ここ、何もないでしょ」

志乃が言う。

「うん」

「でもね」

「人は優しいよ」

美桜は少し笑う。

「それは助かる」

少しして、町に入る。

小さな商店街。

その中に、古い店があった。

木の看板。

「五条工房」

志乃が言う。

「ここ」

車が止まる。

「美桜ちゃんのバイト先」

「え?」

「療養中でもさ」

「少し動いた方が良いって先生も言ってたでしょ」


五条家の店は、古い通りの一角にある。

木の引き戸を開けると、鈴が小さく鳴る。

中には静かな匂いが満ちている。木と、漆と、古い建物の匂い。

棚には器が並んでいた。

深い黒の椀。

朱色の皿。

「ここね」

志乃が続ける。

「この町で一番の工芸の家」

「五条家」

中から老人が出てきた。

背筋がまっすぐだ。白髪。鋭い目。

「宗一郎さん」

志乃が言う。

「この子です」

宗一郎は美桜を見る。

一瞬で、全部見透かすような目だった。

「坂元美桜です」

美桜は軽く頭を下げる。

宗一郎が言う。

「高校は?」

「卒業しました」

「大学は?」

一瞬、空気が止まる。

美桜は笑う。

「落ちました」

宗一郎は表情を変えない。

「そうか」

それだけ言う。

そして店の中を見る。

「働けるか?」

美桜は少し考えてから言う。

「多分」

宗一郎はうなずく。

「多分じゃ困る」

「働くか」

「働かないか」

美桜は少し笑う。

「働きます」

宗一郎は言う。

「明日から来い」

そして付け加える。

「ここは遊び場じゃない」

「五条の名で物を作る場所だ」

そのとき、奥の廊下を

一人の少女が通った。

黒髪。制服。表情がない。

美桜と目が合う。

一瞬だけ。

すぐに視線をそらした。

志乃が小声で言う。

「五条家の孫」

「彩梅ちゃん」

美桜はその背中を見る。

不思議な子だと思った。

まるで

雪の中の花みたいだった。

その日、美桜はまだ知らない。

この町で出会うその少女が、

自分の人生を

少しだけ救うことになることを。


翌日、夕方。

美桜は店の棚を拭いていた。

「これ、すごいね」

思わず呟く。

棚には工芸品が並んでいる。

銀色の茶器。

繊細な模様の小皿。

薄くて透き通るような酒器。

奥から宗一郎が出てくる。

「手を止めるな」

「はい」

美桜は慌てて拭く。

宗一郎は器を一つ手に取る。

「それは触るな」

「え?」

「まだ完成していない」

「すみません」

宗一郎は少し美桜を見る。

「笑うな」

「え?」

「仕事中だ」

美桜は少し困る。

「癖なんです」

宗一郎は何も言わない。

しばらくして、ふっと言う。

「癖は直る」

それだけだった。

そのとき。

店の扉が開いた。

制服の少女が入ってくる。

昨日、見た子だ。

黒髪。背筋がまっすぐ。表情がない。

「おかえり」

宗一郎が言う。

「学校は」

「問題ない」

短い返事。

少女の視線が、美桜に向く。

宗一郎が言う。

「アルバイトだ」

「坂元美桜」

美桜は軽く手を振る。

「よろしくー」

少女は少しだけ頭を下げる。

「五条彩梅です」

声は静かだった。

それだけ言うと、奥へ行こうとする。

美桜が思わず言う。

「ねえ」

彩梅が振り向く。

「うん?」

「この町ってさ」

「面白いとこある?」

少し沈黙。

彩梅は考える。

「ない」

美桜は笑う。

「正直」

彩梅は少しだけ首をかしげる。

「坂元さん」

「美桜でいいよ」

「美桜さん」

「うん」

彩梅は言う。

「笑いすぎ」

美桜は吹き出す。

「それよく言われる」

彩梅は表情を変えない。

そのとき宗一郎が言う。

「彩梅」

「手伝え」

「はい」

彩梅は工房へ入る。

金属を打つ音が再び響く。

美桜はその背中を見る。

不思議な子だと思った。

笑わないのに、なぜか目が離せない。

こうして、二人の春が始まった。

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