君だけが望んだ崩壊にさせないために
「惑星の子に告ぐ。リワース崩壊を止めたければーー」
(ああ、またこの幻聴か。)
ーーー
火の匂いがした。
振り返ると、村が燃えていた。
影が二つ。赤く光る眼。黒い棘。
炎が家を焼き、棘が人を貫く。悲鳴が響き、血が地面を染める。
俺は、ただ立ち尽くしていた。
気づけば、俺は走っていた。振り返らなかった。振り返れなかった。
背後で、爆発音が響く。
そしてーー静寂。
ーー1時間前。
俺の名前は、カーヤ・ターガオ。この村で生まれて、この村で育った。
特別な家柄でもなければ、目立つ才能があるわけでもない。父は村の雑用を請け負う仕事をしていて、母は家のことを一通りこなす、ごく普通の人だ。俺自身も、村の中では「どこにでもいる若者」の一人だった。
朝は手伝いをして、昼は仕事を覚え、この村で生きていくなら、それで十分だと思っていた。
朝は同じ鐘の音で始まり、昼には同じ匂いのパンが焼かれ、夕方になれば太陽は必ず塀の向こうへ沈んでいく。変わらない。それが、この村のすべてだった。
それでも俺は、不思議と飽きなかった。
理由は、たぶん一つだけだ。視線を上げれば、必ずそこにいる存在があったから。
イセギ村は、外から見れば
小さな村だ。五メートルの塀に囲まれた、面積にして
〇・二五平方キロメートルほど。人口は千人くらいで、
多くも少なくもない。
村の外に出てはいけない、という掟がある。
八百年前、この村を作った占い師がそう決めた。「村から出れば、災いが起きる」。子供の頃から何度も聞かされた言葉だ。親も、教師も、村の大人はみんな同じ顔でそう言った。
だから俺たちは、塀の外を「行けない場所」だと思っていた。怖い場所でも、禁じられた場所でもない。ただーー存在しない場所みたいなものだった。
それでも俺は、ときどき思う。塀の向こうには、何があるんだろう、と。
太陽が沈みかけた午後四時。影が長く伸び、風が少し冷たくなり始める時間。
「……お、おい。今日はなんか予定あるのか?」
声をかけるまでに、ほんの一拍、間が空いた。喉が詰まったわけでもない。ただ、言葉が出る前に心臓が一度、大きく鳴った。
目の前にいるのは、イリーナ・アルヨン。
金髪が夕暮れの光を受けて淡く輝いている。緑色の瞳は、見つめるたびに視線を外したくなるほど澄んでいて、俺はいつも、どこを見ればいいのか分からなくなる。この村では「村の女神様」と呼ばれている。その言葉が冗談じゃないと、近くに立つと嫌でも思い知らされる。
「特にないけど。どうして?」
声を聞いた瞬間、喉の奥がきゅっと締まる。何度も聞いているはずなのに、慣れる気配はない。
「それなら今日一緒に夕飯の買い出しにでも行かないか?」
言い終わった後、俺は自分の手を見た。力が入りすぎて、指がこわばっている。
「いいの?今日は私が買い出しのはずでしょ?」
正しい返答だった。分かっていたはずなのに、頭の中が一瞬、真っ白になる。
「ほら、あれだよ。あれ!」
自分でも情けないくらい、声が裏返る。沈黙が怖かった。
「そう!あれだ!明日になったらいつも行ってる店が定休日だろ?だから二日分の買い出しが必要で重たくて持てないだろ?」
言葉を並べながら、俺は必死だった。理由なんてどうでもよかった。ただ、この時間を引き延ばしたかった。
イリーナは口元を押さえ、肩を小さく揺らす。
「なんで焦ってるのよ」
笑われた。なのに、背筋に張りついていた緊張が、ほんの少しだけ緩んだ。俺は視線を逸らす。その表情を真正面から見る勇気がなかった。
「べ、別にいいだろ。なんでも。じゃあ鐘が五度鳴ったら買い出しに行くからな」
馬鹿にされた気がする。でも、今日のイリーナはいつもより元気がなさそうだった。笑ってくれて、よかった。
彼女の笑顔が、すっと消えた。遠くを見るような目で、静かに呟く。
「……五度目の鐘……か」
「どうしたんだよ。」
「……ごめん、なんでもない」
そう言って立ち上がり、身支度を始める。いつも通りの仕草なのに、指先がわずかに震えている気がした。
「おい、どっか行くのか?」
「うん、少し散歩に」
俺は机の上にあった手袋を掴んだ。
「そっか、気をつけろよ。今日は冷えるからこれもつけてけ」
手袋を渡すと、彼女は一歩近づいた。
「カーヤ、顔をよく見せて」
心臓が強く鳴った。息の仕方を忘れたみたいだった。
「な、なんだよ」
彼女は俺の顔を見つめ、ふっと微笑んだ。
「カーヤ、本当にありがとうね」
そして、ほとんど音にならない声で。
「……ごめんなさい」
俺は、その言葉の意味に気づかなかった。
彼女が去った後、地面に小さな水の染みが残っていた。
(……雨、降ってたっけ?)
空は晴れている。なのに、なぜか足元が冷たい気がした。でも、考えるのをやめた。彼女の笑顔を思い出すと、それだけで十分だった。
二度目の鐘がなって少し経つ。
イリーナは、まだ帰っていない。
「なあ、母さん。イリーナはまだ帰ってきてないのか?」
「知らないわよ。どこかに出かけたの?」
「ああ、少し前に散歩しに行ったんだが、様子を見にいってくるよ」
外に出ると、塀の近くに彼女の姿があった。
(よかった。何事もなくて)
(……にしてもなんであそこにいるんだよ)
彼女は塀を見上げ、小さく呟く。
「……そろそろかな」
「イリーナ、何してるんだよ。もうすぐ買い出しだけど
このまま店に向かうか?」
返事はない。肩が、わずかに震えている。
「……どうしたんだ?疲れているなら一回家に帰れよ。俺一人でも行くからさ」
肩に手を置き、顔を覗き込んだ瞬間ーー
「おい、ほんとに……ハッ!」
瞳に、涙が浮かんでいた。
「……さっき意地悪されて、いつも持っているお守りを塀の向こうに投げられたの」
背中に、冷たいものが走った。
(お守りが外に出たことよりも)
(イリーナを泣かせたことの方が、許せない)
「それは可哀想だな……俺が取ってきてやる」
そう言った瞬間、俺はもう引き返せなくなっていた。
俺はこの村で一年間、イリーナと同じ時間を過ごしてきた。笑っている顔は何度も見てきた。少し困ったように眉を下げる表情も知っている。
ーーけれど、泣いているところを見たのは、これで二度目だった。
その事実だけで、胸が締めつけられる。怒りなのか、不安なのか、それとも別の感情なのか、自分でもはっきりしない。ただ、何かが引っかかっている。喉の奥に小さな棘が刺さったまま、飲み込めずにいるような感覚。
イリーナは、いつもならもう少し明るい。少なくとも、人前で感情をそのまま見せることはしない。お守りを投げられた。それだけなら、今の沈み方も理解できる。
ーー理解できる、はずだった。
それなのに、何かが、おかしい。
(誰がやったんだ?)
(なんであんな場所で一人でいた?)
(いや、違う。今はそんなことを考えてる場合じゃない)
(イリーナが泣いてるんだ。それだけで十分だ)
そして、彼女は顔を上げた。涙の跡を残したまま、妙に落ち着いた声で言う。
「五メートルの塀を登れるの?」
その言葉で、ようやく現実に引き戻された。見上げた塀は、改めて見ると異様な高さだった。石は古く、指をかける場所も少ない。冷静に考えれば、登れるはずがない。
(……なんで、今さら気づくんだよ)
もう遅かった。俺は、引き返す理由を失っていた。
「まかせろ!」
勢いだけで壁に取りつく。すぐに息が荒くなり、腕が重くなる。指先が石を掴み、爪が軋む。足を上げても、距離はほとんど縮まらない。手を滑らせ、膝を打つ。鈍い痛みが走った。
その時だった。
「カーヤ、色々質問してもいい?」
息を整える暇もなく、声が飛んできた。
「それ今じゃないとダメなのか?」
正直に言った。今は一言話すだけでも、体力を削られる。
「……うん、ダメなの」
不思議と、その声は静かだった。まるで何かを確かめるみたいに、一つ一つの言葉を慎重に選んでいるようなーーそんな響きがあった。
俺は短く息を吐いて、頷いた。
「好きな色は?」
「赤だ」
答えながら、再び壁に手を伸ばす。
「好きな食べ物は?」
「オムライスだ」
石の冷たさが、指に伝わる。
「好きな季節は?」
「……冬……かな」
質問は、途切れない。俺は息を切らしながら、思った。
(なんで、こんなことを聞くんだ?)
(今じゃなきゃダメな理由なんて、あるのか?)
でも、イリーナの声は変わらず優しかった。責めるでもなく、急かすでもなく。だから、俺は答え続けた。
そして、最後の質問。
「将来は何になりたいの?」
迷わなかった。
「そりゃ商人だよ」
「どうして?」
「この村での生活も悪くはないけど、いつかは外に行ってみたいんだよ。だから商人になったら役所から許可が出れば他の村とかと貿易するために外に出れるだろ?」
言い切った瞬間、喉の奥がちくりとした。
イリーナが、目を大きく開く。
「今、まさに出ようとしてるじゃない」
(……ああ、そうか)
(これ、掟を破るってことなんだよな)
罪悪感が今になって襲いかかる。
その瞬間だった。
体の内側を、熱が駆け抜けた。
「あれ?」
腕が軽い。足に力が戻る。疲労が、嘘みたいに消えていく。指先に、はっきりとした感覚が宿る。
「どうして……急に力が?」
戸惑いながらも、体は動いた。石を掴む手に、力がある。足を上げるのが、驚くほど容易だった。気づけば、俺は塀の上に立っていた。
「登れた……?」
自分の手を見る。震えてはいない。爪は欠けているが、痛みはもう感じない。
下から、かすかな声が聞こえた。
「……そっか。うまくいったんだ」
俺には、その言葉の意味が分からなかった。
「……これが外の景色か」
塀の向こうには、草原が広がっていた。風が吹き、草が波打つ。同じ空のはずなのに、空気が違う。肺いっぱいに、何かが流れ込んでくる。
(外の世界は……こんなに広いんだ)
正確には初めて見る景色ではない。
でも、立って見る景色はまるで別物だった。風が全身を撫でる。足元に広がる草原が、どこまでも続いている。
(俺は、ずっとこれを見たかったんだ)
胸が高鳴る。怖さよりも、先に感動がきた。
「そうだ、お守りをとりにきたんだ」
視線を巡らせると、高い丘の上にそれはあった。
「……しかしこんな遠くまで、投げたのは子供じゃないかもな」
近づき、手を伸ばしたーーその瞬間。
「うわあああああ!!」
叫び声。
心臓が、凍りついた。
「なんだ?」
村の人の叫び声か?
振り返る。
最初に見えたのは、影だった。いや、影にしては大きすぎる。塀の向こう側で、何かがゆっくりと立ち上がる。それだけで、地面が震えた。
二十メートルはある。人の形をしているのに、人ではない。全身は黒く焼け焦げた岩のようで、その隙間から赤い光が脈打つように漏れていた。溶けた溶岩が、体の内側を流れているみたいだった。
顔には、表情らしいものがない。あるのは、燃えるように赤く光る両眼だけ。
次の瞬間ーー
その巨躯が、塀に手をかけた。五メートルの塀が、まるで積み木みたいに軋む。鈍い音を立てて、石が砕け散った。
巨躯は壊れた塀の破片を、片手で握りつぶす。指の間から、石が砂のようにこぼれ落ちる。
そしてーー村の中へ向かって、それを投げた。
破片は弾丸みたいに飛び、家屋に突き刺さる。屋根が吹き飛び、壁が崩れ、人の悲鳴が重なった。
その背後から、もう一体が姿を現す。
全身を覆うのは、無数の棘。骨とも金属ともつかない黒い突起が、背中、腕、脚、頭部にまで生えている。そいつが一歩踏み出すたび、棘が擦れ合い、耳障りな音を立てた。
胸の中心には、淡く白い光が灯っている。心臓の位置だ。鼓動に合わせて、光が脈打つ。
異形は、腕を広げた。次の瞬間、体表から棘が一斉に伸びた。
棘は矢のように飛び、家の壁を貫き、柱を砕き、屋根を引き裂く。逃げ惑う人々のすぐ脇を、無慈悲に、正確に、破壊だけを撒き散らしていく。
二十メートルの巨躯が、力で村を壊す。棘の異形が、村を削り取る。役割が、はっきり分かれていた。
これは襲撃じゃない。これはーー殲滅だ。
俺は、その光景を塀の外から見ていた。足が、動かなかった。息が、できなかった。
「……俺が、出たから……?」
頭の中で、言葉にならない声が響く。
ーー掟を破った。
ーー村を出た。
ーーだから、災いが来た。
二体の怪物は、まるでそれを証明するみたいに、淡々と村を壊し続けていた。
(違う)
(違う、そんなはずない)
(俺が出ただけで、こんなことになるわけがーー)
でも、目の前の現実が、その希望を踏み潰す。
俺は走り出していた。お守りをポケットに押し込み、塀へ向かう。風が頬を切り、息が白く散った。心臓の音が、耳の奥でうるさい。
足元の土を蹴る。掌に触れた石は冷たく、ざらついていた。体の奥に、何かが満ちていく感覚がある。
――いける。
そう思った瞬間、体は勝手に動いた。
「やめろおおおーー!!」
声は、空に吸い込まれていった。
村に戻ったとき、そこにはもう、生き物の姿はなかった。
ただ、静かだった。あまりにも静かで、自分の足音だけが、壊れた道に響いている。
家が、潰れている。屋根は落ち、壁は砕け、見慣れた道は瓦礫に覆われていた。
倒れている人がいた。その隣にも、さらにその先にも。誰も、動かない。
近づいて、顔を見る。見知った人だ。昨日、言葉を交わしたはずの人だ。目は閉じられていて、胸は、上下していなかった。
「……イリーナ……」
声に出した名前が、空気に溶ける。返事はない。
瓦礫に手を突っ込み、持ち上げる。爪の間に砂が入り、指が痛んだ。
違う。違う。違う。
顔を見るたび、首を振る。
「イリーナ、どこだ……!」
喉が熱くなる。声が、かすれる。名前を呼び続けても、返ってくるのは、自分の息だけだった。
俺は家へ走った。
扉は壊れ、室内は荒れ果てている。床には破片が散らばり、壁には深い傷が残っていた。
そこにーー
母さんが倒れていた。その少し先に、父さんも。二人とも、動かない。
「……あ……」
声が、喉で止まった。
これは、夢だ。そう思おうとした。でも、近づくと分かる。分かってしまう。
「……俺の……せいだ……」
掟を破った。村を出た。それだけのことだったはずなのに。
「俺が……村を出たから……」
母さんの手を握る。
とても冷たかった。
涙が溢れて止まらない。
床に、染みが増える。
止め方が、分からなかった。
「ごめん……なさい……」
誰に向けた言葉なのか、分からない。
膝が折れ、そのまま床に崩れ落ちる。視界が暗くなり、意識が遠のいていく。
(イリーナは……どこに……)
(なんで、俺だけ……)
(なんでーー)
意識の最後に、俺は思った。
――物語は、ここから繰り返すからだ。
――イセギ村が崩壊してから、三十分。
もう一つの物語が、静かに始まっていた。




