ここは事故物件ではありません
部屋を見られている。
そう感じたのは、このアパートに引っ越して二ヶ月目のことだった。
駅から徒歩十分。騒音も少ないし、治安も良い。スーパーもドラッグストアも近い。女の一人暮らしだからこれはかなり重要になる。築四十年と少し古いけど、三年前にフルリフォームしている。
アパートの前に建つ三階建てのアパートがちょっとネックだったけど、セパレートバスで1LK・2階角部屋が決め手になった。
新しい生活にも慣れてきた頃、ふ、と纏わりつくような視線を感じるようになった。
朝、朝食の準備をしている時に。
帰宅した時に。
休日、リビングで寛いでいる時に。
ある日の夕方、カーテンを閉めようとして気づいた。じっとりとした視線を感じるのは、リビングとキッチンにいる時だけだ、と。
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「というわけ。どう見られてる、って思う?」
あれから半月。見られているという感じは続いている。
自分一人で考えても分からないので、友人の理紗に見てもらうことにした。
「どう、って言われても――あちら様じゃないの?」
リビングのカーペットに座った理紗は苦笑しながら外に視線を向けた。
その視線を追えば、水色の髪をツインテールにした女の子がニッコリ笑ってこちらを見ている。現実の女の子じゃない。前に建つアパートの、右斜め前の部屋の壁に貼られたポスターだ。調べたら人気アニメの登場人物の一人だった。
このアパート一番のネックは、向かいのアパートの部屋が良く見えることだ。当然、向こうからもこちらがよく見えるはずだし。
「あの子じゃないよ。それにあの部屋、二週間前に引っ越してきたばっかだし」
さらにあの部屋の住人は不在が多い。基本的にカーテンが閉まっているし、夜になっても電気が点いている気配がない。
「ここの真向かいは空き部屋なんだよね?」
「うん。先週の土曜日に内見来てたけどね」
ふうん、と理紗は呟き、紅茶を一口啜った。
「……隠しカメラって可能性もあるけど」
「スマホのカメラで探すのはやったよ。何も写らなかったから、たぶん大丈夫」
見つかった方が逆に怖い。
「そうなると残るは――」
理紗は思わせぶりに部屋を見渡した。言いたいことを察した私は小さく首を振る。
「事故物件サイトで調べたし、不動産会社でも確認した」
事故物件ではないと言われた。
老衰や病気で亡くなった人はいるけど、特殊清掃が行われたことはないという。自然死や不慮の事故でも特殊清掃がなければ事故物件には当たらない。
人が亡くなっている、というだけで拒否感がある人もいるんだろうけど、私は直近の事件や自殺でなければそこまで拘らない。拘っていたら、都内じゃ住める場所なんてほとんどないと考えている。
事故物件サイトで調べた時も、ここから五百メートルほど離れた場所に事故物件を示すマークが一つ付いていただけだ。
「とりあえず気のせいって思っておきなよ。でも、どうしようもなかったら家に泊まりにおいで」
「ありがとう理紗!」
本当に耐えられなくなったら理紗の部屋に避難させてもらうことにして、しばらくはレースのカーテンを閉めて生活することにした。
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小雨や曇りの日が数日間続いた。
久しぶりの晴れの休日。部屋の湿度や籠もった臭いに耐えられなくなり、レースのカーテンと窓を開けることにした。
カーテンと窓を開けると、ガランとした向かいの部屋が見えた。誰も引っ越してこなかったことに少し安心する。隣の部屋の壁では、今日も水色ツインテールちゃんがニッコリ笑っていた。
日差しと風が気持ち良くて、リビングのカーペットに寝転がる。
ふと、向かいの部屋の床に荷物が置かれていることに気づいた。さっきはなかった。
それは奇妙な荷物だった。色は黒っぽい。一つは楕円形のボールで、もう一つはやけに平たくて、長い。そう、まるで今の私のような姿だ。
あれは荷物じゃない。人だ。人が横になっている。
たぶん髪の長い女性。顔はこっちを向いている。
気づくと同時に目を凝らしていた。
楕円形のボールだと思ったものは人の顔だった。
黒く変色した肌。あんぐり開いた口からはだらりと舌が垂れ、白濁した眼が私を見つめている。
生きている人じゃない。
直感的にそう思った。
ザっと全身の血の気が引く音が聞こえて、体が凍りついた。それでいて心臓は異様な速さで脈打っている。
向かいの部屋の窓は閉まっているのに、嫌な臭いがここまで漂ってきたような気がする。せり上がってきた酸っぱいものをなんとか押し込める。
消防? 警察? 向こうの管理会社?
とにかくどこかに連絡しないと。
スマホはローテーブルの上で手が届かない。ぎこちない動きでなんとか起き上がる。スマホを手に取りもう一度向こうの部屋を見ると、そこには誰もいなかった。
私は必要最低限の戸締りをすると、スマホと貴重品だけ持って部屋を飛び出した。
とりあえずアパートが見えない所まで行くと、理紗に電話をかける。喉も口の中もカラカラに乾いて、上手く声が出なかった。
『七海? どうしたの? なんかあった?』
理紗の声を聞いたら、涙が出てきた。
「……ねえ、ごめん。今から……そっち行ってもいい? ちょっと、部屋にいたくない……」
『どこにいるの? 今からそっち行くから』
宣言通り、理紗はすぐに来てくれた。
話はしたいけど、私は半泣きでボロボロの顔をしているからカラオケに入る。どこから聞こえてくる力強い演歌に安心する。
固いソファに座り、さっき見たことを話すと理紗は「ごめん」と謝った。
「余計なことだとは思ったんだけど、どうしても気になって勝手に調べたの。七海、事故物件サイトと不動産屋は確認したって言ってたでしょ。ならニュースは調べた?」
「え?」
「……ネットニュースに小さく出てたんだけどね。あんたが住んでるアパートの向かい、去年一人暮らししてた女性が亡くなってる。死因は書かれてなかったけど、死後数日経過してたみたい。……それが、二階の部屋だって」
「……二階」
もし、の仮定が脳裏に浮かぶ。
その部屋が私の部屋の向かいだったら?
あの人がいた場所からは私の部屋のリビングとキッチンしか見えない。寝室に使っている部屋で視線を感じなかったのも説明がつく。
事故物件サイトは投稿制だ。誰も投稿しなかったら、掲載されない。理紗のように細かくニュースまで調べなければ分からない。
『ここは事故物件ではありません』
不動産会社の社員の嘘ではない言葉を思い出した。
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私はすぐにアパートの解約を申し出て、退去までは理紗の部屋に居候することにした。
次の部屋は無事に見つかった。片付けのため部屋に戻ると、向かいの部屋にはピンク色のカーテンがかかっていた。私が留守にしている間に引っ越してきたらしい。
そして水色ツインテールちゃんの部屋は空き部屋になっていた。
引っ越してから半年ほど経った頃。私は同僚の男性からある話を聞いた。
『長距離ドライバーしてる友人がいるんだけど、二ヶ月くらい事故物件の隣の部屋に住んでたんだよ。一人暮らししてた女性が亡くなって、死後何日か経って発見されたって部屋の隣。あんまり家にいないから、事故物件じゃなきゃ気にしないって。で、その事故物件の部屋は空き部屋だったんだけど隣からずっと呻き声みたいなのが聞こえてたんだってさ』




