第8話 なぜ、オレじゃない
王宮の回廊を、ロザリンドと帰る道すがら。
エスコートをする時以外、ロザリンドはいつもオレの一歩後ろを歩く。
それが「正しい距離」だと、シャルルは教え込まれてきた。
シャルルはそこで、信じられないものを見るかのように足を止めた。
ノエル・ヴァルディスと、クリスティーヌ。
かつて自分が切り捨てた二人が、笑顔で歩いていた。
『並んで歩いているのか……』
クリスティーヌも、自分と歩くときは、いつも一歩後ろだった。
それが王族に対する礼儀だと、シャルルは疑っていなかった。
しかし、ノエルの隣を歩く彼女の笑顔は、シャルルが見たこともないほど眩しく輝いていた。
幸福に満ちた表情だ。
『あんなに輝いている顔、見たことがなかったな』
かつて「平凡な顔!」と罵ったはずのクリスティーヌは、信頼すべきパートナーと並んで歩きながら、自信に満ちて、輝くばかりに美しく見えた。
もはや、王宮で二人の関係の素晴らしさを聞かない日はない。
クリスティーヌは先に、名前と顔を結びつけ、場を整える。
ノエルは名前を告げられるたびに、即座に政策と解決策を提示する。
互いに補い、互いを信頼している二人の働きは、既に誰もが賞賛を抜きにして語れなくなっていた。
ただすれ違うことに耐えきれず、シャルルは声をかけた。
「ノエル!」
呼び止められ、ノエルが振り返る。
クリスティーヌは一瞬だけ状況を見て、静かに距離を取る。
「第二王子殿下にあらせられましては、ご機嫌麗しゅう」
知っている。
こうして、相手が第二王子だと、ノエルに教えているのだ。だが、そんなことに構っている心の余裕はない。
どうにかして、否定してやらなくては気がすまない。だって、ヤツは欠陥品なのだから。
「先日の職人育成についての政策案だが――机上の空論だ。あんなものでは上手く行くはずがない」
挑発だった。
だが、ノエルは感情を動かした様子も見せず、首をちょっとだけかしげた。
「どの点がでしょう」
具体性を問われ、言葉に詰まる。
「先日の西辺境伯領への視察で、部分的にではありますが成功しつつあります。汎用性のある施策として敷衍できることは証明可能かと存じます」
立て板に水。
スラスラスラッと「成功しています」と言わんばかりの事実を並べられては二の句が継げない。
スッとクリスティーヌが資料を差し出している。
小さく会釈して受け取ると、ノエルは淡々と開いて提示してきた。
二人の信頼関係を示すように、息の合った、流れるような動き。
「資料はこちらに。ご確認ください」
手に取ると、かつてあらゆる書類がそうであったように、一目ですべてがわかる資料だ。
クリスティーヌが作ったものに違いないと、シャルルは理解してしまう。
反論の余地もない事実を叩きつけた後、ノエルはシャルルから視線を外し、隣のクリスティーヌを見た。
「クリス、資料をありがとう。君のおかげで、説明の手間が省けたよ」
さっきまでの氷のような声が、嘘のように甘く溶ける。その「特別扱い」に、シャルルは胸が抉られるような錯覚を覚えた。
だからこそ、そのまま黙っていられなかった。
「え…… あ、しかし、だな、こ、ここの費用は大きな無駄となるであろう!」
「その点であれば、ご安心ください。ほら、この職人の居住地を指定することで、費用がこれほど節約されますから」
「だが、それだと、こっちは!」
重箱の隅をほじくり返すように、職人の作業着費用の項目が無駄だと言いつのる。
「それもご安心ください。ほら、こうして作業着による事故が減少することで、最終的な費用は節約されることがわかっています」
逃げ道はなかった。
論理は積み上がり、数字は揃い、反論はすべて返される。
別の問題をふっかけても、即座にノエルは説明し、クリスティーヌが資料をパッと用意する。完璧なコンビネーション。
横では、話の内容が一切わからぬロザリンドが、口を挟むことも、助け舟を出すこともできず、ただ気まずそうに立ち尽くすだけだった。
そして、もはやどんな難癖も付けられなくなったのを見極めたのだろう。
最後にノエルは言った。
「殿下。あなたはさっき『机上の空論』・『無駄』だとおっしゃいました」
そこには抗議も、嘲る意志も、怒りの気持ちすら見えない。あるのは淡々とした「説明」である。
それは、わかる者から、わからない者への託宣の響きを持っていた。
「これは民の命に関わることです。無駄なものなど一つもないと私は考えています。作業着の安全のこと、家のこと。それを『無駄だ』と切り捨てるのでしょうか?」
「しかし、それは……」
反論の言葉が浮かばない。
「民の命について、何か出来るというのなら、それを『机上の空論だ』などと言わずに、実現するべく考えるのが我々の使命だと思います」
「だ、だが……」
何かを言い返さなくては、と気持ちは焦るが、ノエルの言葉があまりにも重い。
「民の命を守ろうとしないなら、あなたが守ろうとしている『国』とは、一体どこにあるのですか」
ノエルの静かな問いに、シャルルは一歩後ずさった。
かつて自分が「顔を覚えられない無能」と見下した男は、自分よりも遥かに高く、広い場所から、この国を見ていたのだ……
シャルルは、負けた。
いや…… シャルルたちは、負けたのだ。
完全に。
その夜、私室で一人、シャルルは天井を見つめた。
「……なぜ、オレじゃない」
なぜ、自分ではなかったのか。
なぜ、彼女は去り、彼は選ばれたのか。
答えは、どこにもない。
いや――
本当は、もう分かっているのかもしれない。
だが、認めた瞬間、すべてが崩れる。
王宮の灯りは、静かに夜を照らしていた。
その光の中で、選び間違えた王子は、
ただ一人、立ち尽くしながら、今一度声に出していた。
「なぜオレじゃない」
その問いに、もう答えが出ていることを、シャルル自身が一番よく分かっていた。




