第7話 選び間違えた王子
最初の違和感は、小さなものだったのかもしれない。
けれども、王と第一王子が戻り、王宮内の評価を突きつけられると、その「差」が、あまりにも歴然としていた。
シャルルがそれを「絶望」として自覚したのは、ロザリンドが王宮の文官に囲まれるようにして、黙り込んでいる光景を見たときだ。
「どうした、ロザリンド?」
「あ! シャルルさまぁ」
声をかけると、彼女ははっとして、美しい微笑みを浮かべ、甘ったるい声を出した。
「何か困っているのか?」
実際問題として、居並ぶ顔を見る限り困っているのは文官の方だろうとは思ったが、婚約者を庇うのも務めである。
「い、いえ。少し話が難しくて……」
周囲にいた文官たちは、気まずそうに視線を逸らす。
「シャルル様に決裁いただく案件を事前調整するために、お持ちしたのですが……」
「案件よりも先に、法律用語を覚えていただかないと、ご説明するにも限界がありまして」
「こちらは、次回の演習に使う消耗品ですが、計算表の読み方をご存知でいらっしゃらないご様子で……」
かつてクリスティーヌは、当たり前のようにやっていたこと。いや文官が来る前に、すべてを処理していたはずだ。
だから、シャルルは何も考えず、サインをするだけでよかった。
けれども男爵家令嬢の、しかも、王立学園でも平凡な成績であったロザリンドには不可能なことばかり。
そもそも、学園を卒業するかしないかという年齢で、文官たちと渡り合えていたクリスティーヌが、規格外だったのだ。
もはや、あの頃のような、自然な橋渡しは不可能。
文官たちに「ちょっと見せてくれ」と読んでみれば、税制の条文に関する修正の依頼、近隣領主との折衝についての協定文案、軍需物資の配分に関するいざこざの調停などなど。
どれも、王子の婚約者が直接口を出す必要はないこと。だが、そこには様々な立場が、権利と義務を複雑に抱えている。
だからこそ、王子の婚約者という立場が必要だった。
王子が直接介入すれば、誰かの恨みを買う。
その“緩衝材”こそが彼女の役割だったのだ。
そしてシャルルは思い浮かべてしまった。
言葉を選び、空気を読み、衝突を防いでいた、クリスティーヌの姿を。
『ロザリンドには、無理だ』
できない――正確には、それを教わっていないのだ。
彼女は男爵家令嬢として、十分にわきまえている。
下位貴族家の妻となる身だ。夫を立てて口を挟まず、可憐で、従順が良いと教わってきた。
だがそれは「王子の妻」として期待される資質とは、致命的に噛み合っていなかった。
「わかった。今後は、諸君が直接、話し合いたまえ」
「そんな! 王子! それでは、調整を付けるのに時間が!」
「仕方ないだろう。それとも、それを俺がやれとでもいうのか?」
文官たちは黙るしかなかった。しかし、ことが王宮の、それも文官だけが関わる場なら、なんとでもなったかもしれない。
歪みが、決定的な形で表に出たのは、シャルル主催の夜会だった。
本来なら、婚約者が中心となって采配する場だ。
かつては、クリスティーヌが滞りなく仕切っていた。
だが今、ロザリンドは指示書を握りしめたまま、混乱の極致にいる。美しく着飾ったはずのドレスも乱れがち、髪を飾るアクセサリーも、振り落とさんばかり。
「え、えっと席順は、こっちのはず。え? ご欠席? こちらは奥様をどうしても? ワイン? 今、それどころじゃないわ。そんなのそっちでやってちょうだい。……今は南の分で統一しているの。後で説明するわ」
係の者が何か言いかけたが、ロザリンドはそれ以上聞く余裕を失っていた。
だが、王家は公平であらねばならない。
ワイン一つ出すのでも、産地に偏りが無く、かつ、ライバルの領地が「敵」のワインに手を伸ばさずに済む気配りは必須である。
そのことを、ロザリンドが知らなかったはずはない。
けれども、今並んでいるのは、南のワインばかり。北方伯ご自慢の「北のワイン」は一つもない。
「飲むものすらないのかね?」
領民の思いを肩に載せているのである。当主が、王家のパーティーで、ライバルのワインを飲むことなど、許されなかった。
本来、主催者のシャルルがお詫びに行かねばならないが、事態の把握をしている間に、北方伯は帰ってしまった。
あれもこれも、どれも。現場の人間は懸命に働いたが、指示する側のホンのちょっとした配慮、確認の不足が重なっていく。
……結果は惨憺たるものだった。
身分や立場への配慮を欠いた配置。
挨拶の順番の混乱。
料理の提供が遅れ、楽師の出番が前後する。
場の空気は冷え、失笑と囁きが広がる。
「……王子殿下」
終了後、老練な文官が控えめに言った。
「今後は、夜会の運営を王宮側で補佐いたしましょう」
文官たちは、もうロザリンドを「王子の婚約者」としてではなく、「触れてはいけない厄介事」として扱うと決めたのだろう。
だから、これは事実上の「取り上げ」だ。しかし、結果がすべてである。シャルルは何も言えなかった。
さらに悪いことに、他家主催の夜会に出席した際も、ロザリンドは浮いていた。
「王子の婚約者」としての距離感を測れず、不用意に親しげになりすぎたり、逆に引きすぎたり。
出された料理を素直に褒めたのは、ロザリンドなりの善意だ。
しかし「先日のアンスバッハ侯爵家のお料理と遜色ありませんわ」と、他家を引き合いに出してしまったのは最悪だった。
男爵家令嬢であれば、知り合いに囲まれて「ウチワの言葉」ですむものの、王子の婚約者の言葉となれば、それは「王家の言葉」となる。
よって、主催した公爵家から「我が家は侯爵家並のおもてなししかできないのですね」とイヤミたっぷりの手紙が王にとどいた。
悪意は無くても「困った現象」だけが積み重なっていく。それをシャルルはどうにもできない。
「もっと勉強してくれ!」
だが、今から学んでも、間に合わないのが現実だ。
そんな中で呼び出されたのが、第一王子夫妻との面談だった。
王妃までもが、庇うでも責めるでもない、疲れた目で隣に座っていた。
「シャルル」
アルベールの声は静かだったが、逃げ場はなかった。
「君は、王宮がどういう場所か理解しているか?」
「……承知しております」
「いいや、理解していない」
隣に座った王妃が静かに続ける。
「王宮は、感情で動く場所ではありません。支え合い、補い合う場所。我々の一挙手一投足によって変わるのは貴族の心だけではないのです」
時には、王家の不用意な一言で、潰れてしまう大商人だっているのだと言われてしまう。
ロザリンドは俯くことしかできない。
シャルルは感じていた。
『母も兄も、言葉の端々に、クリスティーヌの姿が透けて見える』
返す言葉を探すが、ついに見つからなかった。
最後に、兄は言った。
「婚約を破棄した件も含め、父上は深く失望されている」
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
その失望の正体を、シャルルは知っている。
『比較されているんだ』
そして、比較をすればするほど、あれほど輝いて見えたロザリンドの可愛らしさは空虚なモノにしか見えなくなっていった。




