第3話 キズモノと呼ぶなかれ――それは誇り高き努力の証
ヴァルディス伯爵家の応接間は、必要以上に華美ではないが、隅々まで手入れが行き届いていた。
この場が「誠実さ」を重んじている証のようにも見える。
向かい合って座るのは、モンターニュ侯爵ヘルマンと妻のマティルダ、そして娘クリスティーヌだ。
そして、迎える側は伯爵夫妻と、その長男ノエルである。
形式的な挨拶が一通り終わり、用意された茶が注がれる。
先に口を開いたのは、ヘルマン侯爵だった。
「本日は……このような席を設けていただき、感謝いたします」
低く、慎重な声は、とても丁寧だ。しかし、王国最大の軍事力を担う立場だけに、その声音には、隠しきれない重さがあった。
「率直に申し上げますと……我が娘は、世間で言うキズモノ令嬢です」
膝に下ろしているクリスティーヌの指先が、わずかに震えた。
侯爵家の娘として、泣き言も弱音も許されなかった。完璧を目指してきた。けれども、父親の謝罪の言葉は、まるで鋭い刃のように閉ざした心に食い込んでいったのだ。
ノエルは、目ざとく、それを見抜くと、心の中の何かが膨れ上がるのを感じていた。
侯爵の静かな言葉が続く。
「第二王子のみならず、先日の公爵家の件と、立て続けの婚約破棄。いずれも、父である私の力不足が招いた結果です。娘には何の落ち度もなかった。それにも関わらず……守り切れなかった」
侯爵は深く頭を下げた。
「このようにキズモノとなった娘を、貴家にお繋ぎする資格があるのか……正直、今も迷いはあります」
卑下とも、懺悔ともつかない言葉。
それは娘を溺愛しつつも、貴族家当主としての後悔そのものだった。
その場に、再び沈黙が落ちる。
キズモノになった娘を格下の伯爵家に押しつけるという、典型的な政略結婚の構図を恥じているかのように……
息苦しさを感じる場で、最初に反応したのは伯爵夫妻ではなかった。
「それは、違います」
父はきっと、ここで波風を立てない言葉を選ぼうとしているのだろう――いつもそうだ。
ノエルは、思わず立ち上がっていた。
しかし、その声だけは不思議なほど静かで、はっきりとしていた。
あろうことか、伯爵家の息子ごときが、侯爵の言葉に噛みつくなんて。
その非礼に、全員が息を呑む。
しかし、彼は迷いなくヘルマン侯爵を見据え、続けた。
「侯爵閣下に一切の落ち度はございません。ましてや、クリスティーヌ嬢をキズモノなどと呼ぶ理由は、どこにもありません!」
侯爵が、思わず顔を上げた。
「私は、ウワサではなく、事実だけを見ています」
ノエルの視線は、今度はクリスティーヌへと向けられた。
「王太子の婚約破棄の場へ居合わせました。あの状況で、感情に流されず、礼を失わず、毅然とその場を去った。その態度は、並大抵の精神力では不可能です」
クリスティーヌは、息を呑んだ。
「そもそも、第二王子主催とされたあのパーティーを、本当に運営なさっていたのは、お嬢様です。常に会場を見渡し、指示を出し、何かあればすぐ対応なさっている姿を拝見しておりました」
ノエルは意図的に笑みを浮かべて見回してから、クリスティーヌと、しっかり目を合わせて続けた。
「本当は、私だけの秘密にしておきたかったのです。あなたのその尊い努力を知っているのは、自分一人だけでいいと思ったんです。けれども、閣下の言葉を黙って聞いているわけにはいきませんでした。あなたは素敵です」
その言葉に、クリスティーヌは目を見開いた。令嬢としてはありえないことに、口元までもが開いている。
そこにあるのは、会場の誰も気付いてくれなかったはずの「影働き」をひと言も喋ったことのない青年が見抜いてくれた驚き……
そして喜びだった。
「それに、悔しいことに」
「悔しい?」
思わず侯爵が言葉を聞き返した。
「はい。私ができなかった、王立学園史上初めてにして唯一の全科目満点で、三年間、首席にいらっしゃった方です。背中を追いかけ続けて、ついに手が届かなかった優秀な先輩です。だから、そんな方に婚約者として選んでいただけるなんて、私には勿体ないほどのご褒美なのです」
ノエルは、そこで意図的に笑顔を浮かべると、クリスティーヌと目が合った。
――微笑んでくれた、とノエルは信じることにした。
「能力も人格も…… 少なくともあの場にいた誰よりも優れています。私が心から尊敬するに値する女性だと思います」
淡々とした口調だった。
だが、その言葉には、計算も、遠慮も、条件もなかった。
ただの断言。
クリスティーヌは、すぐに言葉を返すことができなかった。
――否定されることには、慣れている。
評価されることにも、条件が付くのが当たり前だった。
「王子妃として優秀だから」
「王室の役に立つから」
「王子に都合がいいから」
けれど今、目の前の青年は、何も求めずに、ただ肯定した。
胸の奥で、何かが静かに、音を立ててほどけていく。
「……恐れ入ります」
ようやく絞り出した声は、わずかに震えていた。
「過分なお言葉です」
「いいえ。滅相もない」
ノエルは真摯な眼差しでクリスティーヌを見た。
「私は事実しか言っていません」
その様子を見守っていた伯爵夫人セリーヌは、そっと微笑んだ。
「本人がこう申しておりますので、我が家としては、この縁談を前向きに考えております」
それは、形式的な言葉だったはずなのに、クリスティーヌには、とても温かく響いた。
政略。
条件。
釣り合い。
そうした冷たい言葉で始まったはずの婚約に、今、確かに――かすかな温度が生まれていた。
そして、さらにセリーヌは続けた。
「マティルダ様、いいえ、マティ? 私たちの子どもよ。きっと仲良くできるに決まってるわ」
「えぇ。そうね。セリィ、やっぱりあなたの息子さんね。本当に、あなたが友だちでいてくれて良かったわ」
母親同士は、既に昔通りの「親友」に戻った口調だ。
本来、侯爵の言葉に食ってかかる伯爵家の息子の態度はありえないが、それが娘へ向けた気持ちゆえなのだと思えば、些細なことにしか思えない。
ヘルマン侯爵は、唇を噛みしめ、一度だけ深く息を吐いた。
「クリス、どうだい? 私は、ノエル君が気に入ったのだが」
「お父さま……」
クリスティーヌは、膝の上で拳を握りしめる。
この人の前では、少しだけ、肩の力を抜いてもいいのかもしれない。
そんな予感が、胸に残っていた。
少しずつですが、二人の距離が近づき始めました。
ここからは「不遇」よりも「積み上げ」が主軸になります。




