九、
アニメショップの夜勤を終えて、時刻は二十八時を回っている。蓄積された疲れが、猫背気味の姿勢にあらわれている。
室内は薄闇で、天井に取り付けられているミラーボールが回転しながら装飾的な光を周囲に撒き散らす。未成年を排する不健全さが漂う。妖艶で刺激的な雰囲気をさらに助長するかのように、スピーカーからはリズミカルな洋楽が大音量で流れている。
ソファ席が五、ボックス席が三。一人客でも団体客でも厭わない開けた空間は洗練されているが、サービス内容はキャバクラとピンクサロンの中間に位置している。
必ず男性客の上にまたがりキスをしなければ、店員から「ちゃんとサービスして」と注意されてしまう。明らかに気に入られていない客にサービスしようにも、露骨に嫌がられるだけなので困惑する。そんな時、美智瑠は賢い選択肢を選ぶことができない。無理やりキスしようとして、客から体を突き飛ばされることがあり、いかに自分が男好きしない女なのか分からなくてはならないのに生来の間抜けであるがゆえに、それが分からない。ただひたすらに男は性格が悪い奴が多いと、男と言う生き物を憎むだけだった。
そして今も美智瑠は、目の前にいる見知らぬ若い男性客を憎んでいる。美智瑠は男性客の膝の上に乗り、ドレスを上半身だけ脱いで大胆に肌をさらしていた。小ぶりな二つの乳房を雑に揉まれ、敏感な両乳首を執拗につねられて、あまりの痛みに酷烈な我慢を強いられた。こういった時に「やめて」や「痛い」な美智瑠ど、自己主張できないところは昔から変わっていない。大人しい性格で、損ばかりしてきた。
男性客はニタニタ笑いながら、容赦なく美智瑠の乳首を弄り倒す。
我慢の限界が迫る。乳首がちぎれそうなほどの痛みに、美智瑠は思わずのけ反った。泣きそうな表情をして、哀願する時のような潤んだ瞳を男性客に向ける。美智瑠のささやかな訴えは、男性客の見せかけだけの優しげな笑顔に跳ね返された。
乳首がとれてしまいそうなほどの激痛と形状変化への恐怖に、美智瑠は絶望した。
もう、これ以上は耐えられないかもしれない。そう、絶望の渦の中で悟った時、
「お客様、お時間です」
救いの手が差し伸べられた。
男性客の両手が美智瑠の乳房から離れてゆく。
やっと解放された。美智瑠は静かにホッと一息つく。
「延長はされますか?」
「いえ、帰ります」
「ありがとうございました。カンナちゃん、来て」
吉原は男性客に頭を下げたあと、美智瑠の方へ体を向けると手招きした。
カンナと言うのが、美智瑠のこの店における源氏名だった。
美智瑠は男性客に礼を言うと膝の上から下りて、ドレスの乱れを綺麗に正した。
それから、吉原の隣に立つ。美智瑠は、吉原の狐のように妖しげに光る切れ長の瞳や染髪剤に染められていない柔らかそうな黒髪に、目が離せなかった。男性恐怖や男性嫌悪など、どこかしかへ都合良く吹き飛んでいた。
「休憩室で休んでて」
「はい」
たった一言ずつの会話であるのにも関わらず、美智瑠の胸は喜びで大きく跳ね上がる。
美智瑠は吉原のすべてに魅力を感じていた。
「お疲れ様です」
美智瑠は吉原の指示に従い、挨拶しながら休憩室の中へ入った。
「お疲れ様です」
数人の女の子たちが顔を上げて挨拶を返してくれる。
美智瑠は休憩室の中にある洗面所へ行き、かごの中に積み上げられているおしぼりを一つ手にとって、自分の乳房と乳首を丹念に拭いた。執拗につねられた乳首がじくじくと痛む。
痛みに浸る間もなく、吉原ではない、別の男性店員が洗面所に顔を出して手招きする。
「カンナちゃん、行くよ」
「はい」
美智瑠は従順に頷き、すたすたとフロアへ向けて足を進める男性店員のあとを追う。
店内は、スーツ姿の男性客やカジュアルな私服姿の男性客で賑わっている。膝の上にまたがってキスをする女性コンパニオンもいれば、器用に酒をねだる甘え上手な女性コンパニオンもいる。
かなわないな、と美智瑠は思った。華やかで猥雑で特殊な異空間。けれど、そんな異空間に馴染むことのできない自分がいる。
「カンナです。よろしくお願いいたします」
強烈な疎外感を身に染みて感じながら美智瑠は軽く頭を下げると、団体客が座っているソファに客と客の間に入る形でぎこちなく座った。
すると、美智瑠の目の前で、二人の男性客が顔を見合わせ小声で言葉を交わす。
「一番良い女って、こいつかよ」
「なっ」
美智瑠は感情を顔に出さずにはいられない程の強いショックを受けた。引き裂かれるような心痛が全身の隅々にまで濁流さながら駆け巡る。男性客二人のわずかなやり取りから、美智瑠は子どものような無邪気な残酷性を感じた。
「カンナちゃんは、この店のナンバーワンなんですか?」
美智瑠の心に深く刻み込まれた擦過傷が癒えないまま、左側にいる男性客が声を掛けてくる。
「いえ、私は入店したばかりで……人気も何もないと思いますが……」
美智瑠は無理やり笑顔を作って客の顔を見ると、精一杯、殊勝に見えるように答えた。
「ふーん、チェンジで」
男性客は素っ気なく顔を逸らすと冷淡な調子で言った。
「えっ」
美智瑠は突然、日本語力をすべて失くしたかのように言葉を失った。
「……頭も悪い女。ったく、こいつじゃねえ方が良いんだよ……すいませーん!」
男性客は苛立ちを隠せないとでも言うかのように、乱暴に右足だけを激しく貧乏揺すりしながら店員を呼んだ。
「まっ、待ってください! 私、頑張りますからチェンジだなんて言わないでください」
美智瑠の口から咄嗟に、自分でも驚くような言葉が飛び出していた。
「……あっ、そう。そんなに言うんなら良いよ。俺を楽しませてくれるんだ? それじゃあ、何か面白い話でもしてもらおうかな」
男性客はふんぞり返って、奴隷のパフォーマンスを観賞する暴君にでもなったかのように、居丈高な態度を崩さない。
「分かりました。お客様のお名前は、なんとお呼びすれば良いですか?」
美智瑠は男性客の横柄さに胸を抉られながら、それでも必死に食らいつこうとした。そこまでして頑張ろうとする理由は分からない。けれど、美智瑠はこれ以上客から拒絶され続けることに恐怖を抱いた。
「名前? 好きに呼んで。それで? 面白い話は?」
男性客は不敵な笑みを浮かべる。
「はい。お客様は、芸能人の加地佑介さんに似ていますね」
加地佑介は、今をときめく若手イケメン俳優だ。似ていると言われて嫌な顔をする人はいないだろう。美智瑠は、そう高をくくっていた。
「そう? それで?」
男性客のすげない返しと様変わりした冷淡な顔つきに、美智瑠の心臓は凍りついた。
「えっ、えーと……」
思わず、パニックを起こしかける。
「すみませーん! この子、チェン……」
男性客は無情にも声を張り上げながら挙手をする。
「あっ、ま、ま、待ってください!」
美智瑠は、なぜか反射的に引き留めてしまった。
「何? まだ、何かあるの?」
男性客は冷酷さを感じさせる目でジロリと美智瑠を見る。
「あっ、いや、あの、その、えっと……」
美智瑠は激しく取り乱し、しどろもどろになった。
「ちょっと、失礼しまーす」
男性客はさっと立ち上がり、ソファとテーブルの狭い隙間を通り抜けると、背を後方の壁につけて直立不動の姿勢をとった。
美智瑠は唖然とした。
男性客の行動は、他の客や女性コンパニオンや店員の注目を一斉に集めた。
時間だけが流れた。
男性客は相変わらず無言で、背を壁につけて微動だにせず突っ立っている。周囲に不満をアピールしているようだ。
ところが、不思議と誰も立ち続けている男性客に話しかけず近寄りもしない。
美智瑠は冷めた目で男性客を凝視した。体を突き飛ばした客といい、乳首を執拗に責め続けた客といい、この客といい、セクキャバに来る男は皆一様に人の心を持っていないのだろうか。後から沸いてくる怒りが、沸々と美智瑠の腹の中で膨張してゆく。
「カンナちゃん、休憩室行って良いよ」
吉原が感情の読めないポーカーフェイスを浮かべて手招きしている。
美智瑠は右隣の男性客に礼を言うと、立ち上がってテーブルを離れた。休憩室へ入って女性コンパニオンに挨拶をすると、山びこのように挨拶が返ってきた。
美智瑠は、オタクサークルの紅一点として愛されてきたような漆黒のロングヘアを持つ女性コンパニオンの隣に、体育座りをした。
「こんにちは」
美智瑠は隣にいる女性コンパニオンにどことなくシンパシーを感じて、もう一度挨拶をしてみると、目と目が合った。
「こんにちは。私、いちごミルクっていう源氏名で週五で働いてます。お姉さんは最近入った人ですか?」
いちごミルクと名乗る女性コンパニオンは、小動物のような瞳をクリクリさせながら特徴的な話し方をする。
美智瑠は、いちごミルクに対して一気に親近感と安心感を覚えた。
「私はカンナと言います。実は、今日が初日で……お客様はきつい人が多くて心が折れそうです。だから、こうやって女の子達と一緒にいた方が気持ちが落ち着くんです。さっきなんて、席に着いて早々お客様から嫌味を言われて……チェンジって、何回も言われたんですけど、私、初めてでどうしたら良いのか分からなくて……」
美智瑠は自己紹介がてら抑制できずに弱音も吐く。
いちごミルクはしばらくの間、美智瑠の顔を品定めするかのように見た後、
「……ああ、なるほど」
と、声を漏らした。
それだけで、いちごミルクの正直な気持ちが伝わってくる。
美智瑠は、片頬を軽く平手打ちされたかのような柔い衝撃を覚えた。白津神社で複数の男子学生達から投げつけられた、心ない言葉の数々を思い返す。
「私はお客さんから『チェンジ』って言われたら、『ああ、このお客さん、私のことタイプじゃないんだー』って察して、すぐに席を立ってボーイさんに事情を話すようにしてますよ! あとは、他の女の子に任せた方が、お互いのためだと思うので」
いちごミルクは姿勢を正して、ハキハキした口調でアドバイスをくれる。
「ありがとうございます。とても、勉強になります。初めての勤務で分からないことだらけで……」
美智瑠は頭を下げて、礼と言い訳を口にする。
「いえいえ、初日ならしょうがないですよ!」
いちごミルクは美智瑠とは目を合わさず、視線を宙に彷徨わせながら、同情するかのように首を横に振る。
無知な美智瑠に的確にアドバイスをくれたいちごミルクのことを、美智瑠はすぐに好意の眼差しで見た。手元のポーチの中にあるスマホを取り出して、連絡先を交換し合う二人の姿を思わず妄想した。今すぐにでも考えを行動に移さなければ、どちらかが接客のために男性店員から呼び出されてしまうだろう。美智瑠は落ち着きなく足の指先をもぞもぞと動かし始めた。
「いちごミルクちゃん、本指名のお客さん来たから行くよ」
すると、美智瑠の予想は見事に的中した。休憩室に顔だけ覗かせた男性店員が、いちごミルクに向けて手招きする。
「はい!」
いちごミルクは、子どものように元気一杯に返事をして立ち上がった。
「……あ、がんばってください」
美智瑠は状況を呑み込むのが遅く、ワンテンポ遅れて励ましの声をかける。
「はい! お互い頑張りましょう!」
いちごミルクは振り返らずにそう言うと、男性店員の後に続いて薄闇へと消えていった。
「あ、カンナちゃんはもう上がりね。給料渡すから、着替えたら受付まで来て」
男性店員が再び休憩室に顔を覗かせると、毅然と指示を出す。
「……えっ、あ、はい」
美智瑠は突然の勤務終了を告げられて半ば動揺した。
男性店員は言いたいことを言い終えると早々に姿を消している。
今、休憩室内にいるのは、美智瑠一人しかいなかった。美智瑠は急いで華やかなドレスを脱ぎ、地味な私服に着替えた。
美智瑠は、忘れ物や紛失物がないか何度もロッカーの中や周辺を見渡し、用心に用心を重ねた。こういったいかがわしい業種では、窃盗が日常的に起きるのではないかという憂慮からだ。けれど、鞄の中には財布もあるし、スマホもパスモもある。美智瑠は、ほっと胸を撫で下ろすと、リュックサックを背負い休憩室を出て受付へ行った。
受付前では、吉原が上半身だけ振り向いて美智瑠を待ち構えていた。
「お疲れさま」
吉原は優しい声音と柔らかな笑顔で美智瑠を労う。
甘いチョコレートが熱で溶け出すように、自分の心も形無しに蕩けてしまいそう、と美智瑠は今にも正気を失いそうだった。
「初出勤だけど、どうだった?」
吉原が首を少し傾げて、美智瑠の目を上目遣い気味に見つめる。
その何気ない仕草の一つ一つに、男性慣れしていない美智瑠は容易く陶酔した。
「き、き、緊張しました」
「緊張しちゃったかあ。大丈夫? やっていけそう?」
「……はい」
「良かった。また、来てくれるんだね。お給料、今、渡すね」
「はい。ありがとうございます」
求人サイトでは時給五千円以上と記されていた。四時間は勤務しているのだから、少なくとも二万円は給金としてもらえるだろう。シャンパンをいれてくれた太っ腹の男性客もいたので、加算給も入るかもしれない。美智瑠の中で期待が風船のように膨らんだ。
吉原が美智瑠の前に再び姿を見せて優しく微笑む。
「お待たせ。はい、これ。今日のお給料の八千五百円と領収書ね」
「ありがとうございます」
美智瑠は手元の千円札八枚と五百円硬貨に視線を落とした。
そして、悟った。不器量で間抜けでコミュニケーション能力の低い女は、いくら女といえど、たとえ危険を冒して風俗系の店で働いたとしても大金は稼げない。なぜ、そんな簡単なことに最初から気が付かなかったのだろう。
美容整形手術をして、他者から虐げられがちの欠点を埋めよう、これからの自分の人生を明るくしよう、との企みは呆気なく崩れ去った。現実はそんなに甘くないということだろう。
冷厳な現実に失望しつつも、美智瑠はドキッとした。いつの間にか、吉原が隣に立っている。すぐ近く、少し手を伸ばせば触れられる距離にいることが美智瑠の頬を赤く染め上げた。
吉原は指をさして薄い唇を開く。
「あそこのVIP席は、本指名のお客さんと半個室風の席で寛げる空間になっていて、稼ぐ女の子達はみんなそこで本番して次に繋げてるんだ。カンナちゃんもナンバー入りできるように頑張ってね」
VIP席は他の席と比べると、照明器具の灯りがしぼられているように見えた。仕切りの隙間から、美智瑠の父親によく似た赤ら顔の男性客がいちごミルクのたわわな乳房の先端を一心不乱に舐めている。
美智瑠は絶句した。
いちごミルクは休憩室で話した彼女からは想像もつかないくらい性的に乱れた姿で嬌声を上げている。
いちごミルクを膝の上に乗せた男性客は、繋がった下半身を激しく揺すっている。
その男性客の顔がどのように見ても父親にしか見えない。美智瑠は肝を潰した。
美智瑠の脳内は、正確な状況把握ができず混乱を極めている。そんな中、まとまった人の流れが、こちらへ向かってくるのを感じて思わず身構えた。若い団体客が目の前を通り過ぎてゆくのを見た途端、大きく見開かれた美智瑠の二つの目から自然と涙が溢れた。美智瑠は挨拶も忘れて、逃げるように店を出た。
帰宅すると、美智瑠はすぐに自室へと駆け込んでベッドに突っ伏し、ひたすら泣いた。落ち着いてから、
机の上に置かれたままの交換日記を開いた。愛美のスマホのメアドが書かれたページを見て、美智瑠は愛美宛にメッセージを入力する。
『こんな壊れた世界なんて消滅すればいい。気がおかしくなって心が死ぬ』
美智瑠は感情に理性をがんじがらめに縛られ錯乱した状態で、スマホ画面の送信ボタンをタップした。