八、
上野の夜は、昼間とはまた違った様相を呈する。繁華街は歓楽街へと姿を変え、夜気にアルコールのにおいが違和感なく溶け込む。
暗い路地裏に一歩入れば、そこには黒いスーツを着た男たちが立ちながら煙草を吹かしている。その通りを進んだ先にある左側の雑居ビルの地下一階へ、美智瑠は緊張により今にも破裂しそうになる心臓を抱えながら前進した。
父親から殴られた時にできた頬の痣は、リキッドファンデーションとコンシーラーの重ね塗りで上手く隠せている。
目的地へとたどり着くと、美智瑠は深呼吸をしてから意を決して室内に入った。照明控えめの薄暗い室内は、黒のソファとテーブルが幾つか規則正しく配置されている。
「すみませーん! 面接に伺いました矢部と申します!」
美智瑠は平常時の倍はありそうな声量で、誰もいない室内へ向けて声を張り上げた。
しばらくして、部屋の奥の方から黒のスーツを着こなした店員と見られる男性が姿を見せる。年齢の読めない坊主ヘアで貫禄がある。
「はい。お待ちしてました。こちらへどうぞ」
店員に誘導され、美智瑠は黒色のソファに浅く腰掛けた。
「担当呼んでくるので少しお待ちください」
「はい」
美智瑠は大きく頷きながら小さく返事をした。
担当が来るまでの間、美智瑠は落ち着きなくキョロキョロと周囲を見渡した。ここが、キスとスキンシップが売りのセクシーキャバクラという業種の店か。求人サイトに載せられている写真と比較すると、思ったより小ぢんまりとしている。おそらく、清掃が行き届いているのだろう。黙視できるごみは落ちていない。
「お待たせしました」
前方から男性の声がする。
美智瑠は顔を上げ、声の方へ視線を遣った。
担当と見られる男性が一枚の薄く白い紙を手に持ち、颯爽と歩いてきて美智瑠の隣に座った。
美智瑠は思わず息を呑んだ。
ホストや俳優であったとしても遜色ないほどに担当男性の顔立ちは整い、全身からは最早カリスマの域とも言うべき色気が放たれている。
男慣れしていない美智瑠は、それだけで酩酊状態であるかのように体内がくらくらして、不審者に間違えられてもおかしくないくらい大袈裟に頭を下げた。
「お越しいただけて良かったです。私、採用担当の吉原と言います」
美智瑠は頭を上げ、上目遣い気味に担当男性の顔を見る。
吉原は艶やかで妖しい魅力的な笑みを口元に浮かべて、じっと美智瑠の目を熟視している。
互いの視線が交錯した。
美智瑠は息が詰まって、苦しいほどの極大なる興奮を感じた。あっという間に理性が、火に触れた蝋燭のように溶け始めて消えてゆく。
美智瑠は吉原からセクキャバで働く上での仕事内容や給料の説明を受けた。だが、気もそぞろでまるで話を理解することができなかった。それなのにもかかわらず、美智瑠は唯々諾々と分かったふりをして首を縦にこくこくと振り頷いた。
吉原は時折、甘い声質で美智瑠を褒めた。美智瑠は褒め言葉を否定するために、水を被った犬が全身を激しく震わす時のように、首をぶるぶる左右に振った。
「美智瑠ちゃんって、面白いんですね。反応が可愛いから見ていて飽きないな」
魅惑的な微笑をたたえて事も無げに言う吉原の言葉に、美智瑠はまさに天にも昇る気持ちだった。
面接は終わり、無事に採用が決まって、美智瑠は明日から週五日で深夜から明け方まで働くことになった。また、再び吉原に会うことができる。高額な給金をもらうことができる。憧れのキャバ嬢ドレスを着ることができる。そんな良いこと尽くしのオンパレードのみを妄想して、美智瑠の心は浮き立った。