七、
今日は、これから愛美と大事な約束がある。美智瑠は白色の品良く見えるワンピースとお気に入りの桃色のコートを着て、愛美と外での初対面に臨む。
美智瑠は鏡台の前に正座して破顔し、施したばかりのメイクのノリや完成度を確認した。標準色のリキッドファンデーションを塗って、まぶたと唇には鮮明な色を入れてある。
「よし」
準備完了だ。
美智瑠は立ち上がり自分の部屋から出ると、靴下に包まれた足先を静かに階段の平らな板の面に置く。瞬間湯沸し器である父の神経を逆撫でしないよう、声は出さず、呼吸すら控えて、物音も立てず、気分は命懸けで任務を遂行する忍さながらだ。こんなに常軌を逸するほど気を遣わなければならない相手が血の繋がりのある父親であるとは、この世界は残酷だ。
美智瑠は緊張感を全身に帯びて忍び足で階段を下りる。これでも充分、用心しているつもりだった。
しかし、無情にも緊急事態はすぐに発生した。
ガチャ。
突然、一階の居間のドアが開く音がした。
室内からアロハシャツとステテコというラフな格好をした父が出てきた。日焼けと酒呑みで赤黒くなった父の顔が、遠目からでもはっきりと分かる。
ここまで距離が離れているのにも関わらず、強烈に漂ってくる酒のにおいを嗅いだ美智瑠は目を大きく見開き息を呑んだ。とっさに引き返そうと、利き足を半歩後ろに下げる。
だが、運悪く間に合わなかった。
美智瑠は、聳え立つような階段を見上げた父とばっちり目が合った。
体は嘘をつけない。美智瑠の二の腕に、あっという間に無数の鳥肌が立った。
父の目は、あらゆる負を吸収したかのように光を失って濁り、完全に据わっている。
美智瑠は強張った顔を無理やり歪めて笑みを浮かべながら、
「お、お父さん、おはよう」
取り敢えず一応、戦々恐々と朝の挨拶をする。
「あ?」
瞬時に、父の顔に凶悪さが宿る。だらしなく口を縦に開けて発声すると、剥き出しになった攻撃的な邪気を全身に纏わせて余すことなく発散する。
美智瑠は、しまったと思った。
父の機嫌を損ねないように気を付けたはずが結果、逆鱗に触れてしまったようだった。
「何がおかしいんだよ、おい! 何ニヤケてんだよ、てめえーはよぉー!!!」
父の怒号が飛ぶ。自分以外の者が享受する、すべての幸福を認めないとでも言うかのように父は怒り心頭に発している。
美智瑠は急に多量に流れ込んできた緊張と恐怖に圧され、心臓が止まりそうになった。続けて戦慄が猛威をふるって襲いかかって来て、背筋をぞわぞわと不快に駆け巡る。
美智瑠は生理的に半瞬の間、激しくガタガタ身震いした。散り散りになった理性が徐々に戻ってくるのを感じると、即座に体の動きを止めた。冷や汗がこめかみを伝う。
激震する美智瑠の胸中などお構い無しに、父はよろめきながら階段を一段ずつ上って美智瑠の元へと近付いて来る。その歩みには、確かな怒りや恨みや不平不満が滲んでいた。
ここ最近、母の自宅不在率上昇に比例して父との遭遇率も高くなってきている。
美智瑠の頭は、パニックを引き起こす直前までいって混乱した。いち早くこの場から逃げ出すよう、脳内は壊れたラジオのように何度も何度も同じ警告を発する。それなのにも関わらず、美智瑠の体はまるで金縛りにでもあったかのように微動だにしない。目を見開いたまままばたきすることさえできず、美智瑠は気が狂うのではないかと危ぶむくらいの、かつて感じたことのない不安の大波に襲われた。
父は、ゆっくりと確実に距離を詰めてゆく。その足取りは重い。
むせ返るような酒のにおいが、むわっと美智瑠の鼻腔に流れ込んでくる。
美智瑠の双眸は、父の顔を直視できない。ただ、経年ゆえ黄ばんだ白い壁を穴があくほど見つめていた。
「おい! 遊びに行くんならその前に酒買って来い!!」
とうとう至近距離まで迫って来た父が怒鳴り散らす。その時の酒臭い唾が、シャワーのように美智瑠の顔に降りかかった。
美智瑠は感情を抑制できず、思わず泣きそうな顔をした。
その表情が、恐らく再び笑みを浮かべたようにでも見えたのだろう。
父はさらに激怒した。
「どいつもこいつも俺を笑い者にしやがってよぉ……俺のこと、一家の恥晒しだと思ってやがんだろ? ぶっ殺すぞ!!!」
悪鬼の顔をした父が、目にもとまらぬ速さで美智瑠の左頬を拳で殴った。
頬肉が凶悪的な衝撃を受けて、波打ち振動した。抉りとられるかのような激しい痛みが走る。口内に鎮座している舌が血の味を感受した。美智瑠は、その只事ではない異常さに涙を流した。
よどんだ空気の根源である父は、酒がきれた焦燥から居ても立ってもいられないようだった。抗えない怒りに支配されている。それは言動だけではなく顔の表情を見れば一目瞭然だ。目はつり上がり、赤黒い肌はさらに赤味を増している。
その時、美智瑠の人差し指と中指がぴくりと動いた。美智瑠は指の関節を折り曲げて拳を作る。そして、ゆっくりと手を開いた。自分の意志で指が動くということは、もしかしたら呪術のような金縛りが解けて自由に体を動かせるようになったのかもしれない。そうなると、一か八かの賭けに出たくなる。
美智瑠は決意を固めて一度ごくりと唾を呑み込むと、脱兎の如く階段を駆け下りた。
「てめえ! 逃げんじゃねえぞ!!」
父の放った怒号が、美智瑠の背中にぶつかる。
それでも、美智瑠は駆ける足を止めなかった。そのまま、玄関で靴とスリッパを雑に履き替えてドアを開けた。
外は想像を遥かに超えて明るかった。直射日光が目に入る。眩しくて眼球が痛んだ。美智瑠は反射的に目を細めた。
その光の先に、美智瑠が待ち焦がれていた愛美の立ち姿があった。
愛美は所作美しく振り返ると、華のある笑みを咲かせる。
美智瑠は外に出て後ろ手でドアを閉めて顔を伏せ深呼吸をした。
数秒後、家の中から父の怒号がこだましているのが聞こえてきた。
美智瑠はきつく目を瞑る。全身が自分の体ではないかのように制御を失って小刻みに震え出す。その肩をふわりと優しく抱く華奢な腕があった。柔軟剤のような花の香りが美智瑠の鼻腔をくすぐる。
美智瑠が顔を上げると、哀切極まるといった感傷を瞳にたたえた愛美と目が合った。
「美智瑠、顔どうしたの!? ひどい怪我……何があったの!?」
「愛美ちゃん……ごめん」
「えっ、どうして謝るの!?」
「……迷惑かけてごめん。私、今日はファミレス行けない。頬っぺと口の中が切れて痛いの。きっと、飲み食いできないと思う」
美智瑠は甘えられる相手が目と鼻の先にいることで、堰を切ったように号泣し始めた。
愛美は両腕を美智瑠の胴体に回して優しく抱きしめた。
「私たち、これから親友になる友達同士でしょ? だから、変に気を遣わないで。謝らなくて良いんだよ。美智瑠ちゃんはなんにも悪くないんだから。ファミレスでご飯は、また今度にしよう。ねっ?」
美智瑠はドアノブをしっかり固定して握りしめながら、愛美の肩の上に顎を乗せて涙と鼻水を流した。