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四、

 その日から、美智瑠は愛美との交換日記のために朝五時半起きの生活が始まった。

 美智瑠はひどく後悔した。愛美の作ったルールを承認してしまった過ぎ去りし日の自分を責めた。アニメショップでの仕事が夜十一時に終わるため、早起きをすると大幅に睡眠時間が削られてしまう。おかげで毎日が寝不足だ。

 それに加え、寝ても覚めても美智瑠の家族関係は荒廃している。毎日のように酒を飲まなければ自分を保っていられない父に、娘に不平不満をぶつけてストレス解消をはかる母。

 美智瑠は行き詰まっていた。

 自宅にも自分の居場所はないが、かと言って仕事先であるアニメショップにも居場所はない。職場の同僚と仲良くなれたかと思ったら、美智瑠の病とも言うべきズル休み癖が顔を覗かせる。

 自然と手指が動きスマホを弄って仕事先まで電話をかけ

「今日は体調不良のため休みます」

 と一言告げる。

 気分が乗らない時は仮病を使って、とことんまで逃げる。その時の爽快感と喪失感は味わい深い。

 翌日、

「すみません。すみません。すみません……」

 とペコペコ頭を下げて出勤すると当然ながら上司に叱責される。

 仕舞いには、同僚や後輩にまで嫌味を言われたり雑に扱われたり、いつの間にか上下関係が出来上がっている。

 友達関係でも御多分に漏れない。いつも対等に見てもらえず、美智瑠は悩み傷付いていた。そんな中で声をかけられ出会ったのが、隣の家に住む愛美だった。

 美智瑠は先程、愛美から手渡されたばかりの交換日記のページをめくり黙読し始めた。

『美智瑠ちゃん、こんにちは。私は昨日、所属してる短大の舞踏研究会のサークル活動をしました。女子からキャーキャー言われてる格好良い先輩と運良くペアを組めて、少しだけだけどワルツを踊ったんだ。めっちゃ緊張した! 私、手に汗かいてないかなあとか、色んなことが気になっちゃって……。でも、先輩が「ステップ完璧に覚えられてるね。すごいね」って、褒めてくれたんだ! すごく嬉しかった! えっ、美智瑠ちゃんも? 実は、私もティアラ推し! 瀕死の重傷を負ってる王子のために命懸けで敵国に行って直談判する姿は本当にリスペクトに値するし、儚げで可憐な容姿なのに料理下手で気合いだけでホールサイズの謎ケーキ作っちゃうの健気過ぎてまじ尊すぎる! オタクなの短大のクラスメイトたちには隠してるから、美智瑠ちゃんと趣味合って本当に良かった!』

 読み終えた頃には完全に、美智瑠は頬を綻ばせていた。

 愛美は美智瑠の知らない世界を教えてくれるし、何より趣味も合う。少し非常識で強引な一面もあるのかもしれないけれど、美智瑠の数少ない友人達よりましだ。

 美智瑠は純粋に、愛美と仲を深めたいと思った。そして、黒のボールペンを手に持った。

『愛美ちゃん、こんにちは。舞踏研究会楽しそうだね! 人気のある格好良い先輩とペアを組めて良かったね! ワルツって言うと、上品で優雅で貴族がダンスパーティーの際に踊るイメージがあるなあ。愛美ちゃんの雰囲気にぴったりだね! サークル活動頑張ってね! また、ぜひ舞踏研究会のお話聞かせてね! 愛美ちゃんと推しキャラが同じでめちゃくちゃ感動してる! 健気過ぎるティアラ姫には私もグッときた! それに今日は、ファントムダイスの愛され女子の筆頭であるティアラ姫の記念すべき十七回目の誕生日。私の勤めているアニメショップでは、ティアラ姫のフィギュアやキャラソンやグッズなどを買い占めるお客さんが殺到したよ! ティアラ姫推しの私としては、我が事のように嬉しい! 来年は謎ケーキを作って食べて、一緒にティアラ姫の誕生日をお祝いしたいね』

 穏やかに微笑む美智瑠が黒のボールペンを机の上に置くのと、階下から父の怒号が聞こえてくるのとは、ほぼ同時に起こった。

 天国から地獄への堕落は、強制的で唐突に訪れた。

 アルコール依存症で呂律の回らない父が、一階で声高に何かを叫んでいる。

 美智瑠の顔から笑みが消えた。

「おい! 酒ねえぞー!! おーい!!!」

 美智瑠は父の怒号をそう聞き取った。

 まずい、と思った。

 美智瑠は知っている。

 酒を飲んでいる時の父よりも、しらふの時の父の方が実は百倍恐ろしい。しらふの時、父は全身をがたがた震わせ、眼球を剥き出しにして、短気にさらに拍車がかかる。自制心を完全に失い、悪鬼が乗り移ったかのように粗暴になる。家中の障子を拳で殴りつけて大穴をあけ、物がのっているかの有無に関わらず机や椅子をひっくり返して、妻である聡子の髪の毛を掴んであちらこちらへ引きずり回すことさえあった。

 すると、階段を上がる音が聞こえてくる。

「おい!!! いねえのか!!! いんだろ!!! 出てこいや!!!」

 父の空気を切り裂くような怒号が二階まで迫る。

 美智瑠は息を呑み大きく目を見開いた。慄然として、あっという間に顔面が蒼白になる。通常では考えられないような素早い動きで、美智瑠は自分の部屋に鍵をかけた。心臓が早鐘を打つ。

 普段であれば、母が父に酒の入った瓶や缶を渡して、とりあえずは一件落着するのだが、今回は肝心の母の気配が感じられない。恐らく、買い物にでも行ってしまったのだろう。

 ドンドンッ、ドンドンッ。

「おい!!! 居んだろーが!!! 開けろや、おい!!!」

 激烈な父の怒号とノックの音が、美智瑠の部屋に繋がるドアの外側から聞こえてくる。

 父は酒を求めて、ついに美智瑠の部屋にまで手を延ばしたのだ。

「……あ、あああ……うっ、うう」

 美智瑠は絶望的な現状に思わずうめいた。その場にうずくまり両耳を手の平で覆う。

 きっと、天罰がくだったのだ。いつも母にばかり犠牲者の役割を強いてきた罪が積もりに積もったのだ。

「……お母さん、ごめん……早く、帰って来て……」

「おらぁ!! 開ーけーろー!!!」

 ドンドンッ、ドンドンッ。

 粗暴な父は、最早ただの人間ではない。残酷に人を殺すことを好む凶悪殺人犯やチェンソーを持って暴れ回る怪物のようだ。

 殴られる。

 蹴られる。

 殺される。

 薄い板一枚が、今にも壊れそうだった。

「美智瑠ちゃん! 大丈夫?」

 ドアとは反対側に位置する窓から女声が聞こえてくる。

 美智瑠は、はっとして顔を上げ、ゆっくりと立ち上がった。

 聞き馴染みのある声だ。

 美智瑠は救いを求めるかのような憂いを帯びた瞳を窓へと向けた。

 そこには、眉間に皺を寄せて悲痛に顔を歪ませた愛美が、隣家の窓から身を乗り出している。

 美智瑠は、微かな希望の光が見えたような気がした。目頭を熱くして、泣きそうになりながら窓辺へと駆け寄る。そして、思い切り両方の腕を伸ばした。

 愛美は、美智瑠の手に自分の手を重ね合わせると強く握りしめた。

「こっちに来れる?」

 愛美が同情の表情を浮かべて問う。

 美智瑠は困惑した。ドアの前には父がいる。となれば自ずと、自分の部屋の窓から隣家の窓へと跳び移る他ない。だが、そんな超人的な運動神経を美智瑠は持ち合わせていなかった。

「行きたいけど行けないよ」

 美智瑠は、ううんと首を左右に振る。諦めの境地にいた。

「待ってて。私、お母さんを呼んでくるね!」

 愛美は繋がれている手をほどこうとした。

 美智瑠はハッとした。

「行かないで!」

 とっさに呼び止める。

 美智瑠は離れていこうとする愛美の手を強く握って離そうとしない。

 愛美は驚きを隠せないといった表情で目を見張る。

「おら! 開けろ、美智瑠!! 酒買ってこい!!!」

 ドンドンッ、ドンドンッ。

 美智瑠は限界まで追い込まれていた。今まで母の負ってきた役割が、母不在のために美智瑠にまで回ってきている。

「なんで? このままだと美智瑠ちゃんが危ないんだよ!」

 愛美は理解できないといった顔をする。

 美智瑠には、父に対してある確信があった。決意を込めた眼差しで愛美の瞳を射抜く。

「愛美ちゃんにお願いがあるの! 愛美ちゃんのお母さんには絶対にこのこと言わないで! あと、愛美ちゃんの家にお酒ない?」

 美智瑠はとにかく必死だった。早口でまくし立てる。

「……えっ、確か冷蔵庫に缶チューハイが何本かあったと思うけど……」

 愛美は拍子抜けしたかのように、わずかに首を傾げた。

「それ、頂戴! 後で、お金払うから! お願い! 一生のお願い! お酒持ってきて!」

「……分かった。待ってて!」

 鬼気迫る美智瑠の表情と声調に、愛美は大きく首を縦に振り頷いた。美智瑠の前から姿を消す。

 美智瑠は愛美を待っている間、仲睦まじかった頃の家族のことについて想いを馳せていた。父はよく休日に家族全員を車に乗せて、隣町にある食べ放題の店に連れて行ってくれた。その店では、寿司、焼き肉、カレー、お好み焼き、ハンバーグなど、美智瑠の好物がお腹いっぱい気の済むまで食べられた。父も母も美智瑠も食欲は旺盛な方だった。特に大食漢の父は無尽蔵の胃袋を誇り、そこに大量に盛ってきたハンバーグカレーライスを流し込んでゆくことを何度か繰り返した。その姿を母と美智瑠は、時折顔を見合せながら微笑ましげに見守る。そんな、ささやかな過去の幸せが今はこんなにも懐かしく、美智瑠は自分でも知らない間に涙をこぼしていた。

「美智瑠ちゃん! お酒持ってきたよ!」

 愛美が美智瑠の前に姿を現す。両腕で抱えるようにして、グレープフルーツサワーと記された缶を四本持っている。

「ありがとう!」

 美智瑠は手早く手の甲で涙を拭うと、愛美の手から缶チューハイを一本ずつ慎重に受けとり、踵を返した。

 美智瑠は、ドアを真正面から見つめる。

 ドンドンッ、ドンドンッ。

「美智瑠ぅ! 酒持ってこい!! おい!! 居んだろ、美智瑠ぅ!!!」

「……お父さん」

 美智瑠は小声でぼそりと呟いた。

 こうしていると、父と真剣に向き合っているみたいだった。美智瑠は、父が酒の力に呑まれてからずっと父を避け続けていた。

 今の父は、昔の父とは違う。完全に壊れている。それにともない、母も以前のような優しく寛容な性格ではなくなってしまった。これは決して悪夢などではなく、現実に起きていることだ。我が身が体験している不幸だ。

 美智瑠は、自分がこれからなそうとしていることを躊躇した。その行為には、父に対しての誠意がないことを知っていた。間違ったやり方だ。でも、この方法以外に狂った父を宥める方法を思い付かなかった。

「お父さん! 待って! 今、ドア開けるからね!」

 美智瑠は声を張り上げ、板一枚隔てた先にいる父へ呼び掛けた。覚悟を決めてドアを開ける。開いたドアの隙間から、美智瑠は缶チューハイを一本、父に向けて差し出した。

「お父さん、遅れてごめんね! お父さんの大好きなお酒だよ!」

 美智瑠は、何をされるか分からない恐怖から顔を見せず、父へ届くようにと懸命に酒を持った腕を伸ばす。

 恐怖と緊張の入り交じった瞬間。

 ドアの向こう側には確かに父の気配がするのに、父は一向に美智瑠の差し出す缶チューハイを手に取らない。

 美智瑠の目の色に焦りが滲んだ。

「お父さん! お酒を受け取って!!」

 美智瑠は顔をくしゃくしゃに歪めて、下を向いて叫んだ。

 もう我慢の限界だった。今にも抑圧していた感情が爆発しそうだった。酒缶を持った腕がぶるぶる微動し始める。

「……ったく、さっさとよこせよ。もう、はあ~」

 父の気だるげで暢気そうな声が聞こえる。美智瑠の片手から缶チューハイの冷えた感覚が消えた。

 美智瑠は、おそるおそる顔を上げた。

 缶の飲み口を開ける心地よい音が辺りに響く。続いて、喉を鳴らして豪快に飲む音が聞こえる。

「ああ~っ、おい美智瑠ぅ! もっと、酒……くれぇ」

 父の声が酒の刺激を受けて、より一層興奮を増してゆく。

「分かった! もっと、お酒あげるからね!」

 美智瑠はそれに負けじと声を張る。

 急いで残りの缶チューハイを三本まとめて、ドアの隙間から外の廊下へ置いた。間髪入れずに父の手が、それらを一本一本掴んで持ち上げるのを美智瑠は目の当たりにした。

 美智瑠は最後の一本が持ち上がったのを見届けると、弾かれたように自分の部屋のドアを閉めて施錠した。

 しばらくして、ようやく父が階段を下りる音が聞こえる。

 美智瑠は心底ほっとした。父とドア越しに対峙してから、ずっと身体中が底知れない恐怖で震えていた。それが今では、なし遂げた歓喜と感動で胸が震えている。

 美智瑠は立っていられなくなって、その場にへたり込んだ。荒い息遣いを整えていると、窓辺から鼻をすするような音がした。ゆっくり頭を回して音の方を見る。

 愛美が隣家の部屋の窓から顔を出した状態で泣いていた。

「愛美ちゃん……?」

 美智瑠は自分が泣かせてしまったかのように思えて狼狽した。震えの止まらない心身を奮い立たせて窓辺へと向かう。

「どうして泣いてるの?」

 美智瑠は、疑問を真っ直ぐに尋ねる。

「……ごめん。美智瑠ちゃんの方が泣きたいと思うのに、泣いたりして……でも、ちょっとびっくりしちゃって……とにかく、美智瑠ちゃんが無事で本当に良かった」

 愛美は涙を指で拭いながら答えた。

「もしかして、心配してくれたの?」

 美智瑠の問いに、愛美はこくりと首を縦に振る。

「どうして……?」

 本音が美智瑠の口から漏れる。

「心配するのは当然だよ。だって、私たち友達でしょ?」

 愛美は優しく微笑んだ。

「……友達……」

 美智瑠は、スマホに登録してある高校時代の友達の顔を順々に思い浮かべた。美智瑠が風邪で高校を三日間休んだ時、彼女らはその間にお見舞いメールを一通も送ってくれなかった。ようやく通学できるようになって、休んだ分のノートを写させてほしいと頼んでも誰一人ノートを見せてくれなかった。そのため、美智瑠の中での友達の定義は曖昧だ。

 友達を信じても裏切られるだけではないのか、そんな邪念が脳裏をよぎった。けれど、美智瑠は何度人に裏切られても結局は人を信じてしまう。それは、確かなことだった。

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