二、
翌朝、美智瑠は定刻どおり窓から射し込む太陽の光で目が覚めた。寝覚めが悪いからという理由で、スマホのアラーム機能を使わなくなって早三ヶ月。朝一番に自然光を浴びることを習慣化してから体調は、すこぶる良くなった。
仕事までは、まだ時間がある。美智瑠は、二年前から趣味が高じて近所のアニメショップの夜勤帯で働き始めた。レジ打ちや品出し、掃除など徐々に任される仕事も増えてきて、好きなものに囲まれての仕事は楽しいの一言だった。
美智瑠はアニメショップで働いて稼いだ金を、一人暮らしのための資金に回してコツコツと貯蓄していた。一日でも早く酒のにおいが染み着いたこの家を出たかった。
父は相変わらず酒に傾倒しており、しらふでも酒に酔っていても、人格が発作のように何の前触れもなく豹変して、狂犬のようになってしまうことに変わりはない。顔を耳まで真っ赤にしながら理性を失う父を世間から守ろうと、いつも気を揉む母に対して父は何の躊躇いも見せず牙を剥き出しにして怒る。母はそれでも健気で献身的に父の機嫌を極力損ねないように動く。
けれど、そんな母も美智瑠へは時に辛辣な言葉を吐いた。
「お前は、人は良いけど性格が悪くて個性的だから人に軽く扱われるんだ。お前は社会のゴミだ」
美智瑠は突き刺してくる言葉の数々に反感を持ちながらも、母が父のために流してきた涙の数が膨大であることを知っているため憎めない。
ふと、美智瑠は机の上に置いたままの交換日記に視線を走らせる。交換日記なんていつぶりだろう。小学生の時に仲の良かったクラスメイトの女子と短期間だけではあったが、やり取りした記憶がある。もう、その子とは連絡をとっていない。元気にしているだろうか。美智瑠は昔の楽しかった頃を思い出して、精神的に胸焼けがした。
愛美から手渡された交換日記のページをそっとめくる。黒のボールペンで書かれた癖のない美しい文字が並んでいた。
『こんにちは。美智瑠ちゃんのことずっと気になってたから、こうして交換日記をすることができてとても嬉しいです。お隣さん同士、これからゆっくりでいいから少しずつでも仲良くなれたら良いなって思ってるよ。私のお父さんもお母さんも美智瑠ちゃんのことすごく心配してる。私なんかで良ければいつでも相談に乗るよ。ファントムダイスは私も大好き。今度、推しキャラの話とか一緒にできたら良いな。私は、今、女子短大に通ってるんだ。専攻は英語コミュニケーション学科、サークルは舞踏研究会に所属してる。私も漫画やアニメが好きだから、美智瑠ちゃんのアニメショップのお仕事に興味津々だよ。お互いのこと、これからたくさん知っていけたら良いな。ふつつか者ですが、よろしくお願いします。』
美智瑠は目に涙を溜めながら一気読みした。
美智瑠は元々、友人が多い方ではない。心許せる親友もおらず、こちらが気を遣わざるをえないような、お喋りで無遠慮な友人が片手で数えられるくらいしかいない。そのためか、愛美の書いた文は余計に心に響いた。
彼女は、優しい人だと思う。
美智瑠は微笑んだ。最初の直感は当たっていたのだ。
美智瑠は机の引き出しから筆記用具を取り出すと、交換日記の二ページ目に彼女と同じ黒のボールペンを使って、ゆっくりと返事を書き始めた。
『こんにちは。交換日記をしようと言ってくれてありがとう。お隣さん同士だけど、今まで見かけたことも話したこともなかったね。声をかけてくれた時、ちょっとびっくりしたけど、すごく嬉しかったよ。愛美ちゃんも、ファントムダイスが好きなんだね。私もだよ。どのキャラにもそれぞれ良さがあってみんな好きだけど、一番推してるのはティアラ姫です。愛美ちゃんは誰推しですか? 英語に舞踏研究会って、すごいなあ! ステキ! 国際的だね! 私なんてただのフリーターだよ~。アニメショップのお仕事も好きなものに囲まれて楽しいけど、愛美ちゃんの方が色んな経験を積んでいそうで羨ましいな。こちらこそ、こんな私で良ければ仲良くしてください。よろしくお願いします。』
「ふぅー」
美智瑠は、書き終わったことへの安堵から唇をすぼめ大きく息を吐き出した。出来が良いとは言えない即席の文章だが、ボールペンで書いてしまっているので消すことができない。修正液や修正テープで消すこともできるが今は手元にないし、わざわざコンビニまで買いに行くのも手間がかかる。美智瑠は、これで良いとページを閉じてから机の上に交換日記を置いた。
逸る胸を抑えつつ若草色のカーテンを引く。いち早く、窓の向こうにいる愛美に交換日記を手渡したくてたまらなかった。しかし、隣の家の窓は固く閉ざされた上、カーテンらしきものが引かれ、わずかな照明の光の気配さえも感じられない。
「愛美ちゃん、いる?」
美智瑠は試しに、自分の部屋の窓を全開にして呼びかけてみた。
返事はない。
彼女は、きっと今頃、女子短大に通い学生生活を謳歌しているのだろう。
美智瑠は金銭的な事情で大学進学を諦めざるをえなかったため、大学への憧れが人一倍強い。世の中金がすべてとは言い切れないけれど、そう思う者がいてもおかしくないほど金の力は強大だ。
美智瑠は窓を閉め、愛美が部屋に戻ってきたことがすぐ分かるように若草色のカーテンだけはそのままにしておいた。