十二、
晴れでも雨でもないどんよりした曇りの日に、美智瑠は一人で近場の繁華街へ出掛けた。最後の一本だった黒のヘアゴムがちぎれたがために、上野にある品揃え豊富なファンシーショップまで赴いて、大量にヘアゴムを購入するつもりでいた。
自宅から上野まで、歩きでおよそ三十分以上かかる。美智瑠は前傾姿勢をして、何者かと競争でもしているかのように両脚を素早く交互に動かして早歩きをした。これも、電車代節約のためだ。
ふいに心地良い秋風が左頬を優しく撫で上げ、美智瑠は何気なしに顔を右へ向けた。その視線の先に思わぬ相手がいた。美智瑠は驚愕のあまり、眼球が飛び出そうなほどに目を大きく見張った。すぐ近くで、年の離れた男女のカップルが仲睦まじそうに歩道を歩いている。
二人とも美智瑠のよく知る人物だった。一人は肉親。もう一人は一日限りの仕事仲間だ。
美智瑠は、あまりにも受け入れがたい現実に動揺と憤激を隠しきれず、顔を真っ赤に染めた。
あんなろくでもない父親が、今日は昼間から外をうろついている。セクキャバの女性コンパニオンである、いちごミルクと手つなぎデートを楽しんでいる。
父は家族全員の仲を滅茶苦茶にした張本人でありながら、金で女を買い一人だけ潤いを補給している。そんな、人には厳しすぎる割に自分には甘すぎる父の好色な姿を目の当たりにした美智瑠は、固く握りしめた拳をぶるぶる震わせた。
美智瑠は脇目も振らず、当初の外出目的さえ放り出して、家までの道のりを走った。
帰宅すると、母親が畳部屋で座布団の上に正座をしながら涙を流していた。腫れ上がった顔が、ひどく痛々しい。その傍らで、空になった酒瓶が数本、一箇所に集められていた。
「……うっ、うっ、うぅっ、美智瑠ぅ……行ってしまった……行ってしまったよ……」
「えっ。な、な、何? 何が行ってしまったの?」
「……お父さんが……」
「うん」
「……お父さんが……私のお金を奪ってどこかに行ってしまったの……」
母親は苦しげに涙声を振り絞ったあと嗚咽した。
美智瑠は母の細い肩を、あらゆる外敵から守るかのように、しっかりと抱き締めた。すると、母が藁にも縋ろうと美智瑠の腕に、ひしとしがみついてくる。
美智瑠は、母の変色した痣だらけの顔の皮膚を至近距離で見て、堰を切ったように泣き始めた。こんなになるまで殴れるなんて加害者は人間の心を宿していないに違いない。正気の沙汰ではない悪行を働いた加害者の正体を美智瑠は知っている。確実に父の仕業だろう。美智瑠は、伴侶である女性にも何の躊躇いもなく暴力を振るえる父に対して、いつか同じ目に遭わせてやるという激しい気持ちを常々抱いてきた。激情と共に殺意が込み上げてくる。
「……お母さん、ごめんね。何の役にも立てなくて……」
美智瑠は申し訳なさと同時に、喉元にせり上がってくる怒りで声が震えた。
「……美智瑠……」
母は弱々しく娘の名前を呼んだ。
「痛いでしょ? 私もこの間、お父さんに殴られたの。メイクで隠してたから分からなかったと思うけど。お母さんは、その時の私の何倍も重傷だと思う。目も腫れてるし……早く一緒に病院に行って手当てしてもらおう」
美智瑠は、母の細い肩を抱いたまま上に持ち上げて、立たせようとする。
「……私もどうしたら一番良いのか分からない……でも、大丈夫。大した怪我じゃないから」
母は諦めの表情を浮かべて首をゆっくり横に振る。美智瑠の腕を押さえて、決して正座を崩そうとしない。
「何で? 全然そんな風には見えないよ!」
煮え切らない母の態度に美智瑠は苛立った。
「あまり大事にしたくないの。お父さんだって苦しんでるのよ。たまに、泣きながら私に謝ってくれるの」
母は眉尻を下げ困惑しているようだった。
「……お母さん! しっかりして! お父さんを庇ってもお父さんは変わらない! 殺されちゃったらどうするの!! あの人は、気が狂ってるんだよ!!!」
バシンッ。
感情的になって叫んだ美智瑠の頬に母の平手打ちがおりてきた。
「いい加減にしなさい! 誰のお陰でこの家に住めてると思ってるの! この家が、お父さんの持ち家だからよ! 追い出されたら私は他に行く場所がない! 私は一人では生きていけないの……」
母は体勢を崩すと、両手で顔を覆い声を上げて泣いた。
「なっ……!」
なんでそんなこと言うの? お母さんには私がいるじゃない……。
美智瑠は、そう続けたかったが何故か咄嗟に言葉をのみ込んだ。もしかしたら、平手打ちされた衝撃が思いの外、大きかったからかもしれない。
母は昔から父には弱かった。自由恋愛で結婚したものの、最初に惚れたのは母の方で一途に恋して尽くし続けた結果、愛するより愛されたい質である父の心を見事に射止めるまでに至った。男女平等が叫ばれるようになった昨今、我が家だけは時が昭和時代にタイムスリップでもしたかのように男尊女卑のスタイルを貫いている。
暴言を吐かれ暴力を振るわれても尚、母は娘よりも父の方に気持ちが傾いている、と言う絶望感が美智瑠の胸を抉った。
こんな家族関係は間違っている。
美智瑠は涙を服の袖で拭って、畳部屋にある箪笥の中から救急箱を持ってくると母の痛ましい顔の外傷に消毒液をたっぷり湿らせたガーゼを無言で押し当てた。
「痛っ!」
母が悲鳴にも似た声を上げて、顔をびくりと震わした。だが、大きく動いたのは数秒間だけで、後はじっとして身動き一つせず大人しく応急手当てを受け入れている。そういったところが、美智瑠は母親によく似てしまったのだと思わざるを得なかった。