十、
地下への階段をおりると、目の前にある分厚くて重たい防音扉をゆっくりと開ける。ここのライブハウスの常連だと言う愛美の後ろにくっついて、美智瑠も足を踏み入れる。
鼓膜が破けてしまいそうなほどの大音量で、激情的な音楽が流れているフロア内は薄暗い。ざっと見渡して二十人くらいの人々が立ったまま、ステージ上で音楽を奏でている歌手やギタリストを見ながら体を揺らしている。
観客の男女比は圧倒的に男性の方が多く、女性は少数であるため、美智瑠はすぐに居心地が悪くなった。ライブハウスの妖しげで不健全そうな空気が、一日で辞めたセクキャバの店内の雰囲気に類似しているせいもあるだろう。男性への恐怖感が募ってオドオドし始めた美智瑠とは対照的に、隣で音楽にのっている愛美は元気溌剌としている。
今晩、美智瑠をライブハウスに誘ってくれたのは愛美だった。ボクササイズジムで汗を流すのと同じくらいストレス発散に効果的だと、愛美が言うので美智瑠はその言葉を信じた。ちょうど、セクキャバ勤務で傷付いた心を持て余していたこともあり、美智瑠は今宵の外出を心待ちにしていた。
「ねえ、カウンターに行ってお酒もらわない?」
愛美が、出入口付近でもたついている美智瑠をフロア奥へと促す。
「うん! お酒飲みたい。気持ちあげたいから」
美智瑠は少しでも男性恐怖を和らげるためにも愛美の提案に賛同した。
フロアの端を人混みを避けながら歩いてゆくと、カウンターと見られるブースから人間でできた直線が一本のびている。長い行列だ。恐らく、無料で一杯だけ好きな飲み物を注文できると言うウェルカムドリンク目当てだろう。
美智瑠は、行列に並んだり順番待ちしたりするのが苦ではない質だ。何の躊躇いもなく自然と列に並んだ。
愛美もその後に続く。
「あっ」
美智瑠が目と口を大きく開き、興奮気味に愛美の腕に触れた。
「ん、どうしたの?」
「見て! ファントムダイスのティアラ姫!」
「えっ、ホントだ。超可愛い!」
美智瑠の目の前にいる男性が着ている白Tシャツの絵柄が、ファントムダイスの人気キャラであるティアラ姫だった。
予期せず同志が現れたことに美智瑠と愛美は歓喜する。
女性受けの方が良いとされているティアラ姫だがしっかりと男性からも支持されていることがうかがえて、美智瑠は思わず目頭を熱くした。
「お兄さん、こんばんは。シャツの背中にかかれているティアラ姫、めっちゃ可愛いですね! ファントムダイス好きなんですか?」
愛美が美智瑠の肩越しに眼前の男性に声を掛けた。
すると、その男性はくるりと後ろを振り向いて、美智瑠と愛美の顔を交互に見た。男性は面識のない人間からの突然の声掛けに若干驚いている気配もあったが、すぐに柔和な笑みを浮かべる。
「えっ、あ、はい。ファントムダイスですよね? 好きですよ」
二十代前半と見られる若くて気取らない感じの爽やかな好青年だ。
「きゃー、嬉しい! 私たちもね、ファントムダイス大好きなんです! 特にティアラ姫推しで……行列に並んだら目の前にティアラのシャツ着てる人いる~仲間だあ~って感動して……だから、思いきって声かけちゃいました!」
愛美がいつになく無邪気に子どものようにはしゃいでいる。
美智瑠はその様子を見て、愛美が男女で接する時の態度を使い分けているような気がして複雑な気持ちになった。
美智瑠の背後にいた愛美は今や、美智瑠より前に出てきて男性との会話に花を咲かせている。
男性も柔和な笑顔で愛美を見つめて、ファントムダイスに関する話を喋ったり聞いたりしている。
美智瑠は二人の話を耳に入れながら「うん、うん」と微笑みながら相槌を打つ。その弾んだ会話の中で、男性の名前がタケルと言って、一ヶ月に一回ほどの頻度でここのライブハウスに顔を出している。ファントムダイスは元カノの影響を受けて好きになった、などの情報を入手した。
「すみませーん! ご注文うかがいますよー!」
そうこうしている内に、行列が進み順番が回ってきたようだ。
カウンターの中にいる男性スタッフが、困っているような苛立っているような名状しがたい表情を浮かべて声を張り上げる。
「あー、すみません! ハイボールお願いします」
タケルが焦りを滲ませて、カウンターで酒の注文をした。
その後に、愛美はレモンサワー、美智瑠はグレープフルーツサワーを頼み、二人は酒を持ってタケルのいる開けた空間に移動した。
「良ければ、一緒に飲んでもいいですか?」
愛美が積極的にタケルの傍に行って話しかける。
「もちろん」
タケルは快く即答した。
ステージ上ではアーティストたちが演奏準備を終え、場の空気を盛り上げるようなメッセージ性のある熱い言葉を観客に向けて投げかけている。
拍手喝采。
満を持して、照明が落とされ演奏が始まった。
明るく健康的でロックな曲調だ。まだ見ぬ新しい明日に向けて希望の光を絶やさず前向きに今を生きて行こう、そんな想いのこもった歌詞が織り込まれている。
音楽に浸っている間、心があらわれ浄化されて、美智瑠の中に常に横たわる漠然とした不安感が薄らいでゆく。気が付いた時には大粒の涙が両頬を伝い、止まらなくなっていた。
「美智瑠、大丈夫?」
愛美が心配そうに顔を覗き込む。
美智瑠は泣きすぎて両掌で顔を包むと、その場にしゃがみ込んで嗚咽した。
そんな美智瑠の頭上で、微かな驚きの声が上がる。
「大丈夫? 取り敢えず一旦、外に出る? 外の空気を吸った方が気分転換になって、気持ちも落ち着くと思うから」
「うん、うん。私も、それが良いと思う」
タケルの発案に愛美も賛成した。
「掴まって。はい、立ち上がるよ。一、二、三……」
美智瑠はタケルに肩をとられてゆっくり立ち上がると、共にフロア内を歩いて出入口である防音扉を開け、ライブハウスを後にした。
「……ごめんね。私、重いでしょ? 本当にごめんね……」
「全然! 教科書いっぱい詰め込んだランドセルより軽いよ」
「ちょっと~、ランドセルって懐かしすぎ! 何年前よ~! でも、美智瑠は気にしすぎだよ。もっと、私達に甘えていいんだからね」
人につけられた心の傷は、人の手によって癒されるのだと言うことを知った。
三人は美智瑠の介抱のために近くの公園のベンチに腰をかけた。美智瑠は思う存分泣いて負を吐き出し、日の光を浴びて正を受け入れ、心が空っぽになってすっきりしたような心地になった。
タケルは美智瑠の体調を常に気にかけ、自動販売機のミネラルウォーターを気前よく奢ってくれた。その頃には、美智瑠の涙もすっかり引いて、三人はぽつりぽつりと自らの身の上話をし始めた。
タケルが、まるで紅でも塗ったかのように赤く厚い唇を開く。
「俺の家は、まさに万引き家族って言う言葉がそのまま当てはまるような家でさー。貧乏ではあるけど、そんなに貧困に喘いでいる訳ではない。でも、両親が異常にケチ臭くてスーパーで食べ物をびた一文も払わないで盗ってくる。その度に警察に捕まるのに、懲りずに何度も何度も盗みを働く。両親は万引きの常習犯だよ。俺は犯罪者の息子なんだ……その事実は何があっても変わらない。醜聞は、いつ何時でも常に纏わりついてきて一生消えることはないんだ」
「それは……、言葉では上手く表現できないけど、すっごく辛いことだと思う……私は、母親が軽度知的障がいと性依存症があってデリヘルとスナック勤めしてる。父親は甲斐性なし。兄は精神障がい者で、今は症状が落ち着いたから作業所に通ってる。……美智瑠は?」
「私は、父親がアルコール依存症で、父親の暴力と暴言のせいで家の中は滅茶苦茶。本当に気が休まる時がなくて毎日一分一秒を生きること、息を吸って吐いてって誰もが当たり前にしていることがとても苦しくて辛い時がある……当然、家族仲は悪い」
三人の体の中で、フルマラソンを完走しきった後のような脱力感が流れた。
「……何かみんな、ドラマみたいな設定の訳あり人間なんだね」
束の間の沈黙を破ったのは愛美だった。
「確かに」
「すごい偶然だよね」
目は合わせずに同意して、三人はそれぞれ膝の上にのせている自分達の手や足元に眼差しを注いでいる。
「……でもさ、闇が深い者同士、恵まれている人たちよりもずっと理解し合えるような気がするな!」
愛美がわざと明るい表情と口調で場の空気を暖める。
「そうだね。こうして公園のベンチで語り合っているのも何かの縁だろうし、これからもよろしく」
タケルが三人の関係が次に繋がるような希望を持たせた言い方をして、美智瑠と愛美に優しげな視線を送った。
「うん。また、三人で集まれたら良いね。美智瑠はもう落ち着いた?」
「えっ、あ、気にかけてくれてありがとう。私はもう大丈夫だよ。それよりも、今日は二人の貴重な話が聞けて本当に良かった! それにしても、愛美の家庭事情初めて聞いた……もっと早く言ってくれれば良かったのに……私じゃ頼りにならなかったからだよね? 本当にごめん! あ、あと、タケルくん、良かったら私たちと連絡先交換しない?」
美智瑠は、おずおずとバッグからスマホを出した。
「良いよ」
タケルはそう快諾すると、二人とスマホを突き合わせて連絡先を交換した。
「ありがとう! ねえ、これからどうする?」
「どうしよう? 飲みに行きたいところだけど、美智瑠のことも心配だしまた日を改めて会おっか!」
「うん! めっちゃ楽しみ~!」
「また連絡するね」
三人はベンチから立ち上がって、各々の帰路へ体を向けた。
「バイバイ」
美智瑠は別れを告げられても、しばらくの間その場から動けなかった。正直言うと、あんなおかしな人間のいる壊れた家になど帰りたくはなかった。話を聞いた限りでは、愛美もタケルも自らの複雑な家庭環境に苦悩しているはずだ。それにも関わらず、二人は家に帰ることに対してまるで躊躇した様子を見せない。胸の中で分厚い深刻な暗雲が立ち込めて、美智瑠は思わず下唇を噛み締めた。
タケルは駅の方へとどんどん歩みを進めてゆく。
隣家に住む愛美が、足を止めた美智瑠を気にして振り返る。
「美智瑠? どうしたの?」
「……あ、私は用事思い出したから愛美は先に行ってて」
「そっか。じゃあ、私は先行くよ。美智瑠、気を付けて帰るんだよ」
「うん! バイバイ」
「じゃあね~!」
美智瑠は手を振って、愛美が完全に視界から消えるまで待ってから再び公園のベンチに座った。