4.過去へ
真っ暗な景色。
無臭の空間。
肌に触れるものは何にもない。
そんな場所で、僕の意識は覚醒した。
今、瞼が開いているのか、はたまた、閉じているのか。
それすらも分からない。
ふわふわした感覚だけが、僕の5感を包み込んでいた。
そうしてしばらく漂っていると、次第に、霧が晴れたみたいに闇が開けてきた。
ただ、その代わり。
開けて見えてきた景色は、茶色く、くすんでいて、折角の綺麗な海も、モノクロの様になっていて、酷くぼやけて見えた。
海……そうか……僕は、溺れて……死んだのか……?
僕は何となく、空が見たくなり、上を向いた。
すると、ここはどうやらビーチパラソルの下の様で、それが陽どころか空をも遮っており、何も分からなかった。
だが、何となく。
覚えのあるビーチパラソルよりも、ずっと大きく見えた。
そうやって暫く、不思議そうにビーチパラソルを見上げていると、正面の海から、悲鳴が聞こえてきた。
何事かと、僕はゆっくり顔を正面に向けた。
すると、そこには、そこには不釣り合いな大きさの渦が発生していて、大人が2人……男性と女性がその渦に呑まれて行った。
何故か、それだけが鮮明に見えたのだ。
砂浜に大勢人は居るが、誰もそれを助けようとはしない。
何で、助けないんだ?
僕は体を動かそうと力を入れるが、思う様に体が動かず、前に頭から倒れてしまった。
だが、それでも、あの2人は見殺しにしちゃいけない気がして、僕は左手を支えに、体と右手を一生懸命に伸ばした。
何で……体が、動かないんだよ!
何で、こんなに悲しいんだよ……。
自分でも気が付かなかったが、泣いていたのか、視界が潤んで何も見えなくなった。
そんな僕の前に、誰かが立ち止まったのか、真っ黒に輝く靴とズボンの裾が視界を埋め尽くした。
その人物は屈みこみ、僕の右手を取って、ギュッと握りしめてきた。
「坊ちゃん……ここは、我慢を……すみません……すみません……」
その声を聴いた瞬間に、僕の心拍数が一気に跳ね上がり、周りの声も,その人物が握りしめる右手の痛みも、体温も……何も感じなくなった。
……僕は、何か、重要なことを、忘れている。
……何で今まで、過去の記憶が無いことに、疑問を抱かなかったんだ……何で、探ろうとか、思わなかったんだ……。
気が付くと、僕の涙は止まっていた。
今あるのは、自分の無力さによる、自責の念だけだった。
僕はゆっくりと顔を上げた。
僕の前ですすり泣く、おじいさん? の股の間から、先程の人だかりが、今度は砂浜の別の者を囲んでいるのが見えた。
何を囲んでいるのか。
僕はそれを見逃してはならないと、本能的に察知し、ぼやける視界の中で、一生懸命に顔を見ようと目を凝らした。
自分の心臓の動く音と、呼吸の音が、一段と大きくなったような気がした。
はぁ……はぁ……。ドクンドクンドクン。
だが、その音たちも、視界がハッキリしていく中で、次第に小さくなっていった。
そうして、ようやく、その砂浜に倒れる人物の形がハッキリとしていった。
2人、横になって倒れていた。
……背の小さな男の子と、16歳くらいの女性だった。
その2人の意識を、ライフセーバーの男の人が、確認しているようだった。
僕はその女性を、見た事がある気がした。
暫く、僕は口を開けながら呆然とその2人を見ていた。
その時だった。
16歳くらいの女性が、急に上半身を起こし、数回の瞬きの後、何かを探すように首を回し、何故か、僕の方を向いて、目を合わせてきた。
……女性は、凄く悲しそうな顔をしていた。
そんな顔、しないで欲しかった。
僕の目から、絶えず涙が溢れ出てきた。
悔しくて、目を瞑ったが、その隙間から涙が漏れ、頬を伝い、顎から砂浜に落ちていき、ポスポスと音を立てながら、虚しく吸われていった。
そこで、僕の体は言う事を聞かなくなってきた。
力が抜け、顔から砂浜に倒れる。
そんな僕の肩を、おじいちゃんが何か言いながら揺らしているようだったが、全く聞き取れない。
いや……もう聞き取る気が無かったのかもしれない。
……こんな世界に、居られない。
何が、何で、と聞かれれば……分からない。
だが、それだけで、僕がこの世界に生きる意味が分からなくなるには、十分だった。
視界は真っ暗になり、体が浮くような感覚になった。
そして、それからしばらくして、遂に、何も考えられなくなった。
僕は、意識を失った。
―――チリリリ。チリリリ。
耳元で鳴り響く時計のアラームを、ノールックで本能的に止め、上半身を布団と一緒にゆっくりと起こした。
……あれ、何してたんだっけ。
……。
眠いからか、全く、何にも思い出せない。
僕は時計を持ち上げた。
時刻は18:25。
「……寝すぎだろ」
僕はそうボソッと呟いて、立ち上がり、洗面台に向かった。
心なしか、家具が全体的に大きく見えたのだが……物の大きさも分からなくなるくらい寝てしまっていた自分が、情けなかった。
洗面所の扉を開けて中に入り、うつむいたまま洗面台の前に立ち、背伸びをしながら顔を洗った。
冷たい水を何度か顔に打ち付け、タオルで顔を拭く。
そこで僕は顔を上げ、鏡を見て、腰を抜かしそうになった。
「……何だよこれ」
洗面台から鏡に映る、顔だけの僕は、酷く幼い顔をしていて、髪型も自慢のツーブロックではなく、さらさらヘアのおかっぱ頭だった。
僕は、ハッとして自分の服を両手で漁った。
ズボンのポケットからガラケーを見つけ、急いで取り出して日付を確認しようとしたのだ。
しかし、ガラケーを開いて最初に見えた画面は、作った覚えのない、砂で作られた大きな木の写真だった。
「……どうなってるんだ」
僕は3度戻るボタンを押し、ホーム画面に戻った。
そこにはカレンダーが表示されていて、僕は目を剥いて、おしっこを漏らしそうになった。
「……10年前じゃねぇかよ……どうなって―――」
ピンポ~ン。
そう玄関のチャイムが音を立てて鳴った。
僕が驚愕のあまり動けなくなっていると、ドアが3回、トントントンと叩かれて、声が聞こえてきた。
「―――きく~ん、まだ寝てるの~? ―――づきく~ん。お~い」
その声を聴いて、僕はハッとして玄関へと走った。
天神だ。
……天神なら、何か知っているかもしれない。
藁にも縋る思いで玄関を開けると、背の高い天神が居て、僕はその顔を見上げた。
すると、天神は玄関がいきなり開いたことに驚いていた顔をしていたが、直ぐに困惑の表情に変わっていった。
「……な、なんで泣いてるの? 大丈夫?」
天神にそう言われ、僕も初めて自分が泣いていたことに気が付いた。
「ご、ごめん」
僕は下を俯いて、一生懸命に涙を拭ったが、溢れて止まらなかった。
そんな僕を心配してか、天神は屈んで、僕の頭を優しく撫でてきた。
「と、とりあえず……中に入ってもいい?」
「うん、いいですよ」
僕は涙を拭きながら振り返り、家の奥へ入った。
気分は、本当に10歳に戻ったような気分で、天神が美人な知り合いのお姉さんにしか見えなかった。
リビングに入り、ソファに2人並んで座った。
僕は鼻を啜り、頑張って涙が溢れ出るのを止めた。
きっと、目を鼻も、真っ赤になっていることだろう。
そして、それから少しの沈黙の後、天神が口を開いた。
「……で、何があったの?」
天神の優しい声に、僕は1度、ぐすんと鼻を鳴らして、天神の顔を見上げて話をした。
「気が付いたら、10歳だったんだけど……何か知ってる?」
「えぇ?」
僕の質問を聞いて、天神は凄く凄く困ったような顔になった。
「……えっと、その……わ、私の知ってる葉月君は、10歳の葉月君だけだよ?」
天神は言いながら、持って来ていた特徴的なバッグからスマホを取り出した。
そこで僕は、天神が浴衣姿であることに気が付いた。
特徴的に見えたバッグも、浴衣バッグと呼ばれるものらしい。
天神がスマホを操作し、何かを探している間。
僕は、天神の浴衣姿と綺麗にメイクされた顔、整えられて結ばれた、鈍く輝く髪にしか目がいかなかった。
これではまるでエロガキである。
僕はなるべく天神の顔にだけ目線を向け、待っていると、天神が「あ、あった」と言って、僕の方に寄ってきて、肩を合わせてきた。
僕はドキッとして心臓の動きが早くなったが、天神はそんな僕を無視して、スマホの画面が見えるように僕の前に出してきた。
スマホの画面に映っていたのは、砂浜に作られたお城の前で写真を取る、グレーのパーカーを着た10歳の僕と、水着姿の天神だった。
僕は目を剥いて驚き、スマホを両手で握りしめていた。
「なんだ、これ……僕の記憶と、違うぞ……」
だが、確かに……どこかで、見た事が……。
僕はスマホの画面を見ながら、考えて、ハッとした。
あぁ、そうだ……唯一覚えていた記憶だ……10歳の頃、出会った女性は、天神だったんだ。
……どうなってるんだ。
僕が、必死に考えていると、気付かずに僕の左手の下敷きになっていた、天神の手の親指が小さく横にスライドした。
それに合わせて、スマホの画面が次の写真を映し出す。
次の写真は、僕のガラケーにもあった、砂で作られた大きな木の写真だった。
「……これ、第1回のサンドアート大会で、優勝した時の作品だよ……ライフセーバーのお兄さんに誘われて……覚えてない?」
「そうか……パンフレットの……」
あれは、見間違えじゃなかったんだ……。
「……何で、僕たちはこの木を作ったの?」
「え? 覚えてないの?」
僕が顔を上げると、天神は少しだけ寂しそうな顔になった。
「……この木は、私の思い出の木だよ……私、田舎に住んでた時の、記憶が殆ど無くって……唯一覚えてる、誰かと、何かを、約束した木なんだよ……?」
僕はその写真を見て、何故か心臓が跳ねた。
パンフレットの時にはならなかった、不思議な気持ちだ。
「……天神」
「ん?」
「……この木、何処にあるか、覚えてる?」
僕が真剣な顔で質問すると、天神は少し考えて、暗い顔になって、答えた。
「……お父さんか、お母さんに聞けば……分かるかも……でも、どうしたの?」
その質問に、自信が無い僕は俯いて、小声で返す。
「……行ってみたい」
「え?」
上手く聞き取れなかったのか、天神は聞き返してきた。
僕は顔を上げ、天神の目を見て、今度は意識して、しっかり声を出して返した。
「一緒に、この木の場所へ、行こう」
「えっと……でも、う~ん……」
天神は少し悩んで、考えて、結論が出たのか、ニコッと微かに笑って、僕の目を見て答えた。
「いいよ、でも、今日は―――」
天神は立ち上がり、僕の手を取った。
僕は、その力に抗わずに立ち上がる。
「夏祭りを、楽しも!」
夏祭り……今日は、その約束をしていたのか……。
「うん。分かった! よし! 行こう!」
僕は自分を鼓舞するために叫ぶと、自然と元気が出てきた。
2人して、エイエイオーと謎の掛け声を叫んで、家を飛び出した。
夏祭りの会場への道中。
僕は、天神との夏の思い出をやり直している。
そんな気分になっていた。
16歳の男子高校生として、天神の横を歩ければ、どれだけ良かったことだろうか。
顔を上げ、横に並ぶ天神の横顔を見上げた。
夏祭りの陽に照らされて、ほのかに赤く見える顔に、優しく穏やかな顔。
僕の胸はキュッと痛くなった。
その時、その視線息が付いたのか、天神の顔が僕の方に向けられた。
屈託なくにっこり笑いかけてくる天神が、左手を僕の方に差し出してきた。
僕は少し躊躇って、天神の左手の上に、右手を乗せた。
すると、天神はその僕の手を、キュッと握ってくれた。
それに合わせて、僕は右手の力を緩めた。
……小さかった筈の、天神の手が凄く大きい。
右手全体で、天神の暖かさを感じ、これはこれで良いや。
そんな、元も子も無いことを、どこかで考えてしまっていた。
それから暫く、天神の歩幅に一生懸命について行く、ただのそれだけのことに集中していると、次第に人通りが多くなっていき、ちらほらと出店が並ぶようになってきた。
出店の間を埋め尽くすように、丸く小さな提灯が吊るされていて、キラキラと少し眩しく、聴視共に賑やかになってきた。
「不思議だよね~」
そんな中で天神は、ふっと立ち止まり、前を向いたまま、そう話しかけてきた。
周りは相当に騒がしい筈なのに、天神の声は、しっかりと耳に届いた。
「どうしたの?」
僕は、天神の顔を見上げて、続きを促した。
しかし、その先の高い位置にも出店があるのか、天神の顔が逆光に晒されて、口元が小さく微笑んでいる事しか分からなかった。
天神は、少し間隔をあけて、僕の方を見てから、続きを話始めた。
……僕の声は、届いて無かったのかもしれない。
「地元の祭りなのに、今まで、存在すら知らなかったんだよ? ……こんなに、大規模なのにね……ねぇ、聞いてる?」
1人勝手に落ち込んで俯いていると、そう話しかけられて、僕はバッと顔を上げた。
すると、中腰になっていた天神と鼻の頭が触れ、それに驚いた僕は、1歩後退りして距離を取ってから、息を吸う間もなく返した。
しかし、「僕も」と勢いよく喋り出した所で、やはり息が持たず、今度はしっかり息を吸って「知らなかったから、なんとも……」と答えた。
それを聞いて、天神は「そっか」と呟いて、姿勢を戻した。
変な空気になり、周りの喧騒が大きくなっていった。
だが、その後直ぐに、天神が何かに気が付いたのか「あ、そういえば」と、声を出し、バッグの中から、パンフレットを取り出して、僕に向けて伸ばしてきた。
僕はそれを素直に受け取ったが、意図が分からず、直ぐにパンフレットから天神へと目線を移した。
すると、既に天神は中腰になって僕の横に並んでいて、僕にニコッと笑いかけてきた。
天神がパンフレットに視線を移したので、僕もそれに合わせた。
「ほら、見てよここ」
天神はパンフレットを指さして、何かを伝えたいようだったが、一方の僕はそれどころではなかった。
周りの音よりも何よりも、大きく感じた天神の小さな筈の微かな呼吸音と温度を感じ、花の匂いが僕を包み、心拍数は大きく跳ね上がり、凄く、苦しかった。
僕は、胸を一生懸命に、力強く抑えた。
だが、そんな僕に天神は気が付いていないのか、話を続けていた。
「この先にある、538段ある階段を登った先に広場があってね、そこに櫓とか出店とかイベントとか、お祭りのメインがあって……更にその先の階段を上がった所に、神社があるらしいんだけど……私、こんな神社、知らないんだよね……葉月君は―――葉月君?」
パンフレットが僕の手を離れて地面に落ちる音。
天神が脱力する僕の体を腕を回して支えてくれた、感触と温度を最後に、僕の意識はプツンと途絶えた。
意識が覚醒し、バッと音が鳴りそうな程勢いよく目を開くと、真っ白な天井が見えた。
僕は、状況を確認しようと、流れるような動作でバッと音を立てながら腕を振り、掛けられた毛布を吹き飛ばしながら、上半身を起こした。
「は、葉月君!? 大丈夫!?」
声の方向を向くと、天神が両手をベッドの端について、目を見開いて驚いていた。
「こ、ここは……」
言いながら、僕の五感が遅れながらに覚醒して行き、天神のその奥の人混みと、雑踏、そして、火薬が弾ける爆音が鳴っていることに気が付いた。
「ここは医療救護所だよ。葉月君、急に倒れるから……凄く怖かったんだよ?」
「ごめん」
「ううん、謝らないでよ。どう? 動けそう?」
天神の声は、静かで、優しかったのに、爆音の中でも、しっかりと僕の耳に届いた。
「うん、動けるよ……今、花火やってるんでしょ? 見に行こう」
僕は、喋りながら足を横に向けて下ろし、ベッドの端に座った。
それに合わせて、天神は両手を膝の上に、背を伸ばすと、心配そうな声音で、口を開いた。
「ダメだよ、無理しちゃ……寝てないと」
その言葉に、僕が天神の方を向くと、心底心配そうな顔になっていた。
「体調なら大丈夫だよ……折角の夏祭りなのに、僕のせいで何にも、楽しめてないでしょ? 花火くらい、見ないと」
僕は言い終わってニコッと笑い、両足を同時に地面につけて立ち上がった。
「……無理、しないでね」
天神が椅子から立ち上がり、僕と並んだことで、2人で前に進み、医療救護所を後にした。
医療救護所を出ると、右前に櫓、辺り一帯に出店が並んでおり、吊るされた提灯がいくつも櫓と繋がれていたが、全てが闇を纏い、その存在を隠そうとしているようだった。
次の瞬間。
ヒュ~という音を立てて、たった1発、光を纏いながら宙に舞い、そして闇に消えていった。
暫くの沈黙。
そして、それを打ち破るように、パッと暗闇に花が咲き、辺り一帯を照らした。
赤・橙・?・緑・青・藍・紫。
それらの七色が編んで重なり、木々や櫓や提灯、そして人々までもを、現実離れした色に照らし、幻想的で、僕は、口を開いたまま顔を上げ、呆然と、立ち尽くしていた。
視界の左端に移る天神も、同じように空を見上げていた。
それに気が付いた次の瞬間。
沈黙をかき消して、バンッと大きい音が鳴り響いた。
地を響かせるようなその音に、僕はビクッと肩を上げ、顔を下に向けて、目を瞑り。
驚きビビり散らかしていると、次の瞬間には辺りに拍手喝采が巻き起こった。
僕は顔を上げ、周りを見渡し、直ぐに顔を下げた。
どうやら、花火大会は……終わったらしい。
僕はがっかりして肩を下ろしていたが、左から拍手の音が聞こえたので、僕は顔を上げ、天神の方を向いた。
すると、暗闇が、今度は暖かいオレンジ色の光に照らされ、天神の嬉しそうな顔が見えた。
天神はそのままの顔で、僕の方を向いた。
「凄かったね! 今の!」
辺りの提灯が天神を中心に、順番に火を灯していき、辺りの雑踏も元に戻っていった。
僕はその音に助けられたと思った。
俯き、泣いていたからだ。
凄く綺麗な花火は見れた……たった1発だったが、間違いなく1生でたった1度の、思い出にはなっただろう。
しかし、ただ、それだけの事しか、天神と共有できる思い出が無いのだ。
僕は、死んだのだ。
ある筈の記憶も持っていない僕が、凄く悔しかった。
せめて、この世界で、今日よりも前の日の記憶があれば、どれだけ楽だっただろう。
「葉月君?」
天神の暖かい声が聞こえた。
ポツポツと涙が地面に落ち、そして、溶けて行った。
そんな僕の右肩に、柔らかくも暖かい、天神の手が乗せられた。
そして、それに気が付いた次の時、僕の体は宙に浮いていた。
「よいしょ!」
そう叫びながら、天神が僕の事をお姫様抱っこしてきたと思ったら、どこかに向かって走り出したのだ。
こうなっては、僕も泣いている場合ではなかった。
「な、なに!? どこ行くの!?」
水の中に居るかの様に歪む視界の中、楽しそうに走る天神の笑顔を見上げる。
天神は僕の質問に答える様子もなく、ただ、どこかに向かって走っている。
どうやら坂を駆け上がっているようで、僕の体は天神の体に密着し、体温を間近に感じる。
腕まくりをし、鞄を腕にかけ、靡かせる今の天神に、着物バフのお淑やかさは欠片もなかったが、とても、暖かかった。
暫くそんな天神の笑顔を見上げ、ワクワクして、涙も枯れてきた頃。
目的地に到着したのか、天神は急ブレーキをかけて、ようやく停止した。
額に汗を浮かべ、息を切らす天神に見入っていると、天神がふぅと息を整えた所で、久しぶりに目が合った。
僕は直ぐに目を逸らして、周りを確認した。
「……ここ、どこなの?」
「んっとね……とりあえず、降ろしても良い?」
「……是非」
言いながら顔を上げると、天神はにっこり微笑んでいた。
天神は「よいしょ」と呟きながら屈み、僕はその途中で飛び降り、両足で地面を思いっきり踏むように着地した。
僕は直ぐに姿勢を整えて、軽く背伸びをした。
すると、そんな僕の手に天神の手が触れた。
「こっちだよ」
天神は僕の手を引っ張って、前に歩き始めた。
僕はそれに素直に従って、天神より少し左後ろを歩いた。
それから直ぐに。
天神が「あ、そうだ」と言って僕の手を放して立ち止まったので、僕は天神の左側に立ち止まり、天神の顔を見上げた。
すると、天神はニヤニヤしながら僕の後ろに回ると、その両手で僕の目を覆い隠した。
僕はその意図が分からず、ポケっと突っ立っていると、僕の背中に天神の体が優しく触れ、前に力が加わったので、僕はそれに素直に従って、前にゆっくりと歩いた。
さっきまで感じなかった周りの風と、天神の体温を感じながら、一歩、一歩と、躓かないように、すり足で前に進む。
いつ止まるんだろうか、何か合図があるんだろうか、と少しずつ不安になりながらも、ゆっくり、ゆっくり前に進んでいると、天神が止まったのか、固定されていた顔以外の、首から下だけが前に進もうとして、グイっと体が後ろに引っ張られ、物凄く首を痛めたが、それを隠しながら姿勢を戻し、また、天神の体にぴったりくっついた。
首が動かないよう、伸ばして頭を天神の方に押し付けると、天神の覆う手の力が、少し強くなったような気がした。
「つ、着いた?」
下顎だけを動かして上擦りながら声を出しそう聞くと、天神が「うん、着いたよ」と優しく耳元で囁いてきた。
急に囁かれ、耳元に天神の体温を感じて肩をビクッとさせると、それが面白かったのか、天神は小さく笑い、僕の耳元から遠のいていった。
「よし、じゃぁ、3からカウントダウン、始めるね」
「それ、必要なの?」
「うん、必要」
「そっか……必要か」
覆われて真っ暗な視界の中、どうせ見えないのに、僕が目だけを動かして上を向いて質問すると、思った以上の速度で返答が帰ってきた。
僕はそれに驚いて、苦笑いで目の位置を元に戻した。
すると、その時にまつ毛が天神の手に当たったのを感じ、それがくすぐったかったのか、天神の手がぴくっと震え、少しだけ隙間が空き、眩しい光だけがそこを通過してきたので、僕は目を瞑った。
天神はそんな僕を無視し、カウントダウンを始めた。
「じゃぁ、行くよ?」
「うん」
「3」
遂に始まったカウントダウンに、僕は内心ドキドキしていた。
「2」
先程漏れてきた光の正体が、早く見たくて、気になって、体がうずうずし始めた。
「1」
さぁ、景色が、開けるぞ。
「よいしょ!」
覆い隠していた天神の手が、僕の顔からパッと離れた。
先程まで天神の手が触れていた部分の温度が高いからか、風をより強く感じ、更に強い光が目を貫いて刺さり、僕は目を薄目にした。
だ、そのおかげもあって、徐々に、徐々に開けていく景色を、ゆっくり、ゆっくりと楽しむことが出来た。
「……」
僕は、声も出せなかった。
前に歩いて、先にあった柵から上半身を乗り出して、その景色に見入った。
そこは、天神と行ったあの埋立地だった。
僕が死んだ、あの砂浜も見えた。
その砂浜と松林は現在、光という光が無く、息を殺し、その存在を一生懸命に隠そうとしていたが、その手前にある国道と、ショッピングモール。
国道沿いの街灯が淡く白色を照らし、特に、ショッピングモール屋上の、観覧車や展望台がライトアップされ、七色に光り輝き、その存在を間違いなく証明していた。
だが、その、更にずっと奥の向こう側。
そこにある地平線にはどうしても光が届かず、手を伸ばしていたが、それよりも、月明かりが目立ち、光り輝いて地平線を照らし、それがとても意地らしく、幻想的に映っていた。
「どう? 綺麗でしょ」
天神がそう言いながら、僕の右に並んで立ったので、僕は上半身を柵の前に戻した。
「うん、凄く綺麗……だけど」
僕が天神の顔を見上げると、不思議そうな顔をした天神も、僕の方を見た。
「よく知ってたね……こんな所」
その質問に答えず、天神は前を向いてしまった。
その時、風が吹き、頬を撫で、流れて行った。
草と花の匂いが混ざった、とても落ち着く匂いだった。
僕も天神に合わせて前を向いた。
すると、少しして、天神が口をゆっくりと開いた。
「……さっきね、花火を見て……思い出したんだ……夜景が綺麗な所があったなぁって……でも―――」
そこで、天神の言葉が止まった。
僕は夜景を見ながら、その言葉の続きを待った。
「―――誰と、いつ見たか……分からないんだよね……それが、すごく気持ち悪くて、怖くて―――」
天神の言葉が、段々と早く、重くなっていき、どこか焦っている様に感じた。
「だけど、葉月君と、一緒に居て、この景色を見て、それが凄く嬉しくて、楽しくて、だけど……だけど、さっきの恐怖や、気持ち悪さは、心のどこかにあって、それが膨らんで、1人で勝手に、急に不安になって……私―――」
僕は天神の方を向いた。
天神は夜景を見ながら、その光を受けて輝いていたが、その顔の表面を、涙が乱反射して、何粒も何粒も、地面に落ちて行っていた。
僕が唯一覚えている記憶の、あの、綺麗で優しいお姉さん。
そして、元気で溌溂としていて、周りを楽しくさせる同級生。
その人が泣いているのを見て、僕の心はキュッと締め付けられ、苦しくなった。
その人は僕の方を向いて、言葉を続けた。
「私、この世界に、生きてるのかな?」
それは、予想外の質問で、僕は不意を打たれてしまった。
この世界に、生きているのか……か。
それは、僕も知りたい事だった。
僕は言葉に詰まり、天神と見つめあったまま固まってしまった。
だが、天神の涙を見ていると、苦しすぎて、僕は俯き、次の瞬間には天神の手を持ち上げ、絡ませ、掴んでいた。
僕の手は小さく、情けなかったが、僕は顔を真っ赤にしながら、矢継ぎ早に続けた。
「この世界に生きてるのかなんて、僕にも分からないよ……僕も、死んだんだし……多分だけど」
言ってて情けなかったが、天神がずっと、真剣に見つめてくるので、僕は続けた。
「死ぬ前の僕も、それまでの記憶が全くなくて、何で生きているのか分からなかった」
僕は、話していて、自然と手の力が強くなっていった。
「だけど、天神と出会って、それまでの事とかどうでも良くなって……だけど、死んで……それでも、目が覚めたら、天神が目の前に現れて……僕は、それが、凄く嬉しかったし、凄く安心した……花火を見て、夜景を見て……ただ、それだけの事が、楽しかった」
天神の握る手も強くなり、僕はドキッとしたがそれを隠して、まだ続ける。
「……天神も、そうだったら嬉しいし……」
僕は力を入れ、天神の目の奥の光をしっかりと見つめた。
「それに、それを、ただのそれだけの事を、楽しいと思えてるんだから、僕たちはこの世界に生きてるんだよ……間違いなく」
僕は俯き、しっかりと息を吸い、もう一度天神の顔を見た。
天神の涙は、止まっていた。
夜景を横顔に受け、逆光で顔の半分しか見ええてないが、ほんの少し、笑っていた。
凄く下手くそで、言葉になっているのかも曖昧な、でも間違いなく本心の、その言葉が、響いたのだろうか。
「……ありがとう。葉月君……こんなに小さい男の子に、諭されちゃった」
「……小さいは余計だ……確かに、130無いけど……」
僕が薄目で反発すると、天神はふっと息を漏らして笑い出した。
それを見て、僕も自然と笑っていた。
やっぱり、天神は笑顔が似合うし、綺麗だ。
僕が、その気持ちを心の奥で押し殺して笑っていると、天神が急に僕の体に腕を回し、持ち上げた。
「ちょ、なに!?」
僕の声を無視し、天神は更に、どういう訳か、その場でくるくると回り始めた。
「ちょっと! ま、待って! 目が、目が! 回るから!」
僕の静止を無視して、天神は笑いながら回っていた。
その途中で「やっぱり私、葉月君の事、大好きなんだ!」とか、良く分からない事が聞こえてきたが、今の僕にはそれ所では無かった。
それからしばらくして。
僕が吐き気を催した辺りで、天神はようやく止まり、僕を地面に降ろしてくれた。
「はぁ、はぁ……げ、元気過ぎだろ……」
僕は膝に手をつき、全力で呼吸をした。
そんな僕の視界に、天神の足が現れた。
「今日はありがとう、葉月君」
僕の後頭部にそう話しかけられ、嬉しかったが、それどころじゃなかった。
天神は屈み、僕の顔を覗き込んできた。
「……大丈夫?」
「……うん、気付くの、遅くない?」
僕は落ち着いてきたので、体を起こして、天神の顔を見た。
泣いたからか、顔は赤く、だが、微笑んでいた。
「……帰ろっか」
「うん、帰ろう」
天神が立ち上がった所で、2人並んで帰り道を歩いた。
今度はお姫様抱っこでも無いし、手も繋いでいない。
だが、それでも、時折肩に触れる天神が、凄く暖かかった。
それから僕たちは、特に会話も、イベントも無く、無事に家に到着した。
1つ、おかしなことがあるとすれば、何故か天神が僕の家に泊まることになった事くらいだろう。
まぁ、僕は10歳で、天神は16歳。
何か起きる訳も無く、現在僕は、リビングのソファで横になって、真っ暗なテレビ画面を見つめていた。
天神には偉そうなことをベラベラと語っていたが、僕はどうなんだろうか。
僕は、ソファで横になって以降、自分の身に起きたことについて、ずっと考えていた。
身を翻し、天井を見上げた。
「……僕は、生きているのか?」
「生きてますよ、貴方は」
「そうか……生きてるのか……」
僕の独り言は、空に響いて消えていく筈だったのに、返事が返ってきて、僕は反射で返したが、直ぐに違和感を覚えた。
「ん?」
「ん?」
陽花の声が聞こえ、初めは幻聴かと思ったのだが、月明かりに影を帯び、天井に人影らしきそれが映ったので、上半身を逸らしながら、更に首を上に向けて後ろを確認すると、そこには、上下が逆になった私服姿の陽花が立っていた。
天神と同じく、僕が初めて出会った時と年齢は同じようだ。
それにしても、白い服を着ているせいか、哀しそうな顔が、更に際立って見えた。
「……陽花」
僕は急いで起き上がり、ソファの上で正座をして、陽花の方を向いて顔を見上げた。
目が合うと、陽花は口角を上げてニヤッと笑いだした。
目が全く笑ってないのが、凄く怖かった。
「……何だよ」
「先輩、小っちゃくて可愛いですね」
「……」
「ぎゅーって、してもいいですか?」
両手を目一杯広げて、一歩前に出てきた陽花から、僕はホバー気味に後ろにスライドして、同じだけ距離を取った後、質問を投げつけた。
「……僕の身に、何が起きてるか……陽花は、知ってるの?」
僕のその質問に、陽花は、分かり易く肩をビクッと震わせて、両手を戻し、再度動かして、体の前で腕を組んだ。
それから、少し間をおいて、数回呼吸をしてから、キュッと硬く結んだ唇を、ゆっくりと開いた。
「……知ってます、けど……全部は、言えないです……すみません」
「そっか……でも、1つだけ、聞いておきたいんだけど」
「はい、何でしょう」
僕は一瞬溜めて、覚悟を決めて、質問をした。
「僕は、本当に死んでないの?」
その質問に、陽花は困り顔を作り、組んでいる右手を上げて、顎に当てた。
「……そうですね~、何て言ったら良いんでしょうか……」
陽花はそれだけ言って、「う~ん」と唸り始めた。
僕は、陽花が答えを出すまで、体育座りになり、その様子を眺めていた。
するとしばらくして、答えが出たのか、陽花は複雑そうな顔のまま、静かに口を開いた。
「……先輩は、死んでます」
僕が驚いて、「さっきと言ってること違うじゃん!」と、言うよりも早く、陽花は、矢継ぎ早に「でも」と言って、さらに続けた。
「やり直せるんです……そこが、重要なんですよ」
「……やり直せるって……どういう事?」
僕が首を傾げて質問すると、陽花は1度、コホンとわざとらしく咳をし、眼鏡をクイっと上にあげ、右手の人差し指をピンと上に立てて、解説を始めた。
「まず、今いる、この世界」
陽花は2度、右足で音を立てながら、床を踏みつけた。
「ここは、先輩が死んだ基準となる世界線の、分岐となった世界なんです。この分岐の世界は、先輩が基準の世界に於いて、どのタイミングで死んだかで、複数存在しているんです」
急に現実離れの単語が聞こえてきて、僕は右手の人差し指を唇に、親指を顎に当てて、唸りながら、使えない脳みそをフル回転させて、考え込んだ。
陽花は腕を再度組み、そんな僕を眺めていた。
暫く考え込み、陽花が鼻歌をし始めた所で、僕は理解するのを諦め、しかし諦めきれず、陽花に質問することにした。
「……つまり、なんだ。今回は、基準の世界での僕の死因が溺死だったから、今この分岐の世界に居る、ってこと?」
その質問に、陽花は前に出した人差し指を横に振って、チッチッチとわざとらしく声に出して続けた。
「大事なのは死因じゃなくて、いつ、どこで死んだか、なんですよ……つまり、イベントってやつですね」
「……じゃあ、僕が、後1秒遅れて死んでたら、別の分岐だったってこと?」
「まぁ、そういうことです……先輩、紙とペン、ありますか?」
「え? あぁ、うん」
僕は体を伸ばし、付近にあった紙とペンを用意してテーブルに置くと、その隙に、ソファと僕との間に割り込むようにして、陽花が座ってきていたようで、肩がぴったりとくっついてしまっていた。
しかし、陽花はそんな事気にもしていないようで、黙々とその紙に図を描き始めた。
僕はその隙に、お尻でソファの上を歩きながら、少し距離を取って、気付かれない内に質問を投げかけた。
「……そういえば、所でなんだけど……今、聞いてもいい?」
「はい、何ですか?」
陽花は手を止めなかったが、耳を傾けてくれた。
「陽花って、何者なの?」
その質問に、陽花は一瞬手を止め、その後直ぐに、再び手を動かし始めた。
1拍置いて、陽花はゆっくり口を開いた。
「……先輩の、子供ですよ」
その言葉に、僕はフリーズしたが、どうせまた、陽花の冗談だろうと考え「またまた~」と茶化したが、陽花はそれを無視して、話を続けた。
「私は、基準となる世界で生き延びた、先輩の子供なんです……そこでは、私が生まれる少し前にお父さんが死んでしまって……そのせいか、お母さんは、私を無視して仕事ばかりして……私、そんな生活が嫌で、1人で調べてたんです……お父さんが死んだ原因を……そしたら、ある時、見つけたんです……2つの風鈴と、印の描かれた、街の地図を」
陽花は手を止め、僕の方を向いた。
真剣な眼差しが、僕の両目を貫いた。
そこには、動揺して目が震えている僕が映っていた。
陽花は、そんな僕を見つめたまま、更に続けた。
「そして、気が付いたんです……その風鈴を、その印の所で鳴らすと、過去や、分岐の世界を行き来できることと、青を鳴らせばお父さんに、赤を鳴らせばお母さんに、見えたり見えなくなったりを切り替えられることに」
それを聞いて、僕は、バイト帰りの天神が見たという陽花と、砂浜での陽花の事を思い出した。
あの時の風鈴の音は……それなのか……?
あの時は、携帯に付けていた風鈴が、偶然鳴っただけだと思っていたが……。
急に色々言われ、僕は頭がパンクしそうになっていた。
……本当なのか、嘘なのか……でも、そんな嘘を吐く、必要があるのか……。
僕は言葉を詰まらせ、陽花の目を見つめる事すら出来なくなった。
月明かりが差し込んでいた部屋も、今は真っ暗に見えた。
しかし、陽花はそんな僕の肩を両手で掴み、まだ話を続ける様子を見せた。
僕の視点は、無理やり陽花の顔に合わされた。
「……いいですか、先輩。これは、私の憶測に過ぎないんですが……私のお父さん―――つまり、先輩は、記憶量のパンクで死んだと考えているんです」
「……記憶量の、パンク?」
僕がその言葉の意味を理解できずに呆然としていると、それを無視して、陽花が「これを見てください」と言って、先程描いていた図の方を向いた。
僕も、それに合わせて顔を動かす。
すると、そに描かれていたのは、短い縦の1本線と、その中心から伸びた、長い横の1本線だった。
陽花はペンを持ち、カチカチっと2回ノックさせて、その図形の上から、また何かを描き始めた。
「いいですか、先輩。この横線が、基準となる世界だと考えて……この横線の途中から、枝分かれして、分岐の世界が出来るんです……」
そう言って、陽花はサッサっと、基準の横線から枝分かれした線を4本描いて、平行にその線を、しかし、横線よりも短い長さで伸ばした。
「そして、この分岐の線の根本……つまり、基準の横線と交わる点で、先輩は死んでいるんです」
言いながら陽花は、枝分かれの線と基準の横線の交点を黒丸で塗りつぶした。
「でも、この分岐の線、何かおかしいと思いませんか?」
「……基準の横線よりも、短い?」
「そうなんです……何故なら―――」
陽花は、分岐の線の終わりから斜めに、基準の横線の方に伸ばした。
「私が生まれるというイベントの時に、全部の分岐が、基準となる横線に集まってきたんですよ」
「……だから、記憶のパンク?」
「そうです」
陽花はペンを投げ捨て、僕の方を向いた。
しかし、僕はその図形から目を離せなかった。
「……でも、さ。なんで、僕以外の人にはそれが適応されないの?」
「それは、この基準の横線が、先輩のものだからですよ……私の考えですが、この基準の横線は、人間関係の中心になる人がそれぞれ持っているもので、その関係する人以外には、適応されないんです……じゃなきゃ、この世界は分岐の世界で満たされて、とんでも無いことになっちゃいますから……」
解説に疲れたのか、陽花は「ふぅ」とため息を吐き、ソファにもたれかかった。
しかし、僕はまだ、納得が出来ていなかった。
「……でもそれだと、今僕が10歳の分岐に居るのは、何でなの?」
その質問に、陽花は起き上がり、ペンを持ち、再び図に向かった。
すると、陽花は基準の横線の、真ん中より少し右に、垂直の、分岐を含む全ての横線を通る、縦の線を引いた。
「いいですか、先輩。今日先輩が経験した死因は、この縦線なんです」
「それは?」
「私は、パニシングポイントと呼んでます……つまり、消失点ですよ」
「消失点?」
突然胡散臭い単語が飛び出し、僕は訝しむ目を陽花に向けた。
「……何ですかその目は……良いですか、先輩」
陽花はそう言って、先程引いた縦線の右に、等間隔で更に3本の縦線を描いた。
僕はそれを黙って見守る。
「そして、この4本の縦線と、基準の横線、更に、分岐した線の交点に印を付けますよね……とりあえず、この印を消失点だと思ってください」
「……」
陽花が僕の目を覗き込んできたが、僕が無言で頷いて返すと、それを了承と取ったのか、陽花はさらに続けた。
「この消失点では、必ずイベントが起こるんですが……このイベント、何故か分かりませんが、どれもこれも必ず、10歳の頃の基準の世界……つまり、今いるこの世界に繋がっているんです」
「……何でだよ」
僕は馬鹿らしくなり、図形から顔を上げ、ソファに全体重を預けて、後ろに倒れた。
陽花は、そんな僕の顔の方を向いて、口を開いた。
「……先輩、今日死ぬとき、何か、変なものを見ませんでしたか?」
その質問に、僕の心臓は跳ね、分かり易く心拍数が上がった。
「……見た」
「……何を、見たんですか?」
僕は思い出したくなかったが、陽花に見つめられ、頭を数回掻き、仕方なく、あの時の事を思い返してみた。
「……青い泡と、その中に裸の人? と、えっと……変な、黒い触手みたいな物が、見えた様な……気がしないでもない」
「やっぱり、そうなんですね……」
陽花は分かり易く暗い表情になり、俯いた。
「やっぱり? って」
「いえ……すみません……それについては、言えないです」
陽花は目を瞑り、申し訳なさそうに押し黙ってしまった。
そんな陽花を見て、それについては聞き返すことを止めようと思ったが、そこで、ふと、明らかに、起こりえない事が起こっていることに気が付いた。
「なぁ……なんで、天神は16歳なんだよ」
しかし、陽花は目を瞑って、無言のままだ。
……これも、答えられないのか……。
僕は諦め、ソファから立ち上がった。
「陽花、散歩にでも行くか」
「え?」
僕の急な提案に、陽花は驚いた顔をして僕を見上げた。
僕は、屈みこみ、そんな陽花の手を握って立ち上がった。
それには陽花も抵抗できず、一緒に立ち上がった。
「未来の、その、陽花のお父さんの僕は、陽花の顔を見ずに死んじゃったんだろ?」
「え? は、はい……」
「だったら、陽花も、その僕との触れ合いは無かったわけだ」
「そ、そうなりますね……で、でも、それと散歩がどう繋がるんですか」
「……15年も寂しい思いをさせたんだ……今、少しでもその罪を償えるなら、遅いくらいだろ?」
その言葉に、陽花は体をビクッと震わせて、涙を瞳に浮かべていた。
「なんか、小さい先輩に言われると、凄く複雑です」
我慢できなくなったのか、涙を流し、にっこり笑う陽花を、10歳の僕の体では抱きかかえることは出来なかったが、陽花の身長が低いおかげで、背を伸ばして頭を撫でることは出来た。
「じゃぁ、行こうか……」
僕が陽花の手を持って、前に歩き出そうとすると、陽花は、その腕を僕が歩くよりも強い力で引っ張った。
そして、その引っ張られた僕の体に陽花がギュッと抱き着いてきた。
「な、なんだよ、急に」
「……最後に、聞きたいことがあるんです」
「さ、最後って……どういう事だよ……」
言いながら、僕は、嫌な予感がした。
「……先輩、私のお母さん―――いや、天神先輩の事、好きですか?」
その質問に、僕は体を震わせて、声を詰まらせてしまった。
陽花は、僕の答えを待っているのか、抱き着いたまま、無言のままだ。
顔が乗っている僕の左肩に、熱い水の様な水滴が、沢山流れ込んできていた。
ぐすんと鼻をすする音も聞こえてきている。
その音や、陽花の体温を感じて、好きかどうかを考えてしまっている、自分が凄く情けなかった。
「好きだ……天神も、陽花も」
それを聞いて陽花は「そっか」と言って、更に僕を強く抱きしめてきた。
僕は開いた両手で、優しく陽花を包んだ。
そこで、何かの糸が切れたように、陽花はわんわん泣き始めた。
「ぜんばい! わだじも! おがあざんも! だずけてくださいね!」
「あぁ、任せてくれ……」
そこで、僕はこれから陽花がどうなるか、ようやく理解できた。
僕は更に力を入れて強く抱きしめようとした。
その時だった。
僕の腕は宙を切り、陽花は消えてしまった。
僕はそのまま前のめりに倒れ、床に四つん這いになってしまった。
「……陽花……ごめんな……」
気付けば、僕の頬を涙が流れていた。
情けなく床に落ちていくその涙を見ながら、自分の情けなさが嫌になった。
15歳の少女が、負っていい運命じゃ無い。
余りにも、重くて、苦し過ぎる。
その時。
後ろの扉が開かれて、僕の体を暖かく優しい、オレンジ色の光が包んだ。
「葉月君? どうしたの?」
どうやら天神が目を覚ましたらしく、そんな声が聞こえてきた。
しかし、全く眠そうでもなく、むしろ、震えている様にも聞こえた。
僕は、涙を右腕全体で拭って立ち上がり、天神の方を向いた。
「だ、大丈夫? 目の周り、真っ赤だけど」
そう言って、近づいてくる天神を見て、やっぱり僕は涙を我慢することが出来なかった。
情けねぇなと思いつつ、わんわん溢れる涙を止めることが出来ず、気が付けば天神に抱っこされて、あやされていた。
あ風呂上がりの天神の匂いや、艶のある細く繊細な髪の毛が、僕の体に触れていた。
今の僕にはそれが凄く心地よくて、結局、疲れて意識が無くなるまで、泣いていたような気がする。
小鳥のさえずりと、花の匂いに包まれて、僕はゆっくりと目を開けた。
すると、目の前に現れたのは、白く、きめ細かな、肌だった。
どうやら、泣きつかれた僕を、天神はベットに連れて行き、一緒に寝ていたらしい。
余りの心地のよさに、僕の瞼は再び閉じようとしていたが、それよりも先に、意識が覚醒し、現在の状況を冷静に判断してしまった。
僕は飛び跳ね、天神の腕の中をすり抜けて、ベッドから転がり落ちた。
その衝撃で、ポケットに入りっぱなしだったガラケーが床にポロっと落ちて開いた。
現在時刻は6時23分。
普段の僕と比べると、余りにも早起きだが、不思議と疲れは感じなかった。
僕はガラケーを閉じ、持ち上げた。
青色の金魚の描かれた、風鈴のキーホールダーが、乾いた音を立てて鳴った。
「……陽花」
僕はガラケーをポケットに戻し、床に座ったまま天神の方を向いた。
気持ちよさそうに眠っている天神の奥に、大きい赤と青の風鈴が見えた。
網戸から漏れる風に揺らされているが、全く音を立てていない。
僕はそれから目を逸らし、ベッドに近づいて、両腕をベッドに乗せて組み、枕にして天神の顔を見つめた。
「……落ち着く寝顔してるよ……」
優しさの塊の様な天神が、僕の死が原因で、陽花の子育てを放棄するとは思えない。
他の何か、要因があるような気がする。
天神の寝顔に癒されながら、ボーっと考えていると、天神の目がゆっくりと開いた。
「……おはよ」
「おはよう」
天神の眠そうな声に、僕が返事を返すと、天神はどういう意図があるのか、両手を大きく広げ、「んっ」と唸った。
「ん?」
「んっ」
腕を伸ばし、天神は少し近づいてきた。
僕はそこで意図を理解し、再びベッドに上り、天神の懐に潜った。
今は、誰かに甘えたかった。
それが、天神なら、尚更だ。
天神の腕が僕の頭と腰に当てられて、包まれた。
少し息苦しかったが、それがむしろ心地よく、僕は間もなく、2度寝をしていた。
雲1つ無い、真っ青な空に、酷く輝く真っ白な太陽が、虹の輪を作りながら、僕たち2人を照らしていた。
数え切れない程居たはずの車内も、電車を何度か乗り継ぐ内に減っていき、今はがらんとしていて、僕と天神は2人しかいない車内で、並んで座っていた。
時折、電車が跳ね、僕の肩が天神の腕に触れ、冷房の効いた車内でも、その肩だけは暖かかった。
天神は、僕の頭を支えにして寝ている。
……結局、あれから、昼まで寝たんだけどな……。
天神は普段元気な分、休みの日は良く寝ているのかもしれない。
僕は、首を回して、窓の外を見た。
木々の間から、青い海と地平線、人工の砂浜が見えた。
今乗っている電車が走っているのは、割と高度の高い山で、あの海は近くの様に感じるが、実際は何駅も何駅も乗り継いで、ようやく辿り着ける距離にある。
それが分かっているからか、違和感が凄かった。
改めて、海の広さを思い知った。
「……綺麗だねぇ」
天神の声が、頭の上から聞こえてきた。
どうやら、僕が首を動かした事が原因で、目を覚ましてしまったらしい。
「うん……そうだね」
言いながら僕は、窓にうっすら反射した天神の顔を見た。
優しく笑っていて、外の景色を見てうっとりと見つめていた。
その時。
視界の端で、突然木々が禿げ、先程、木々の間から見えていた景色が、パッと広がって見えた。
その瞬間、全ての音が消えた。
「うわぁ、す、凄いね……私、こんなに景色が綺麗な所に住んでたんだ……なんで、記憶が無いんだろ」
天神の感嘆声が聞こえたが、僕は海に見とれ、返すことが出来なかった。
更に、それと同時に、僕は1つの事しか考えれなくなった。
……僕は、この景色を、見た事が、ある……気がする。
そうやって暫く、2人並んで外の景色を見ていると、電車のアナウンスが聞こえてきた。
それをきっかけに、僕の意識はハッと開け、電車の音や、匂いや、冷房の冷たさが戻ってきた。
「……ここだよ、葉月君」
「うん、降りよう」
僕と天神は目を合わせ、同時に頷き、立ち上がった。
扉の前に立つと、同時に電車がブレーキをかけ、止まる寸前に体が横に引っ張られ、それに耐えきれなかった僕は、天神の腕にぶつかってしまった。
「ごめん」
僕が直ぐに誤って離れると、天神は小さく笑い、それが聞こえた所で、扉が開き、僕は急いで、跳ねながら外に出た。
外に出ると、一気に蒸し暑い熱気が僕の体を包み込み、冷房のベールが剥がされ、ジワっと汗が滲んできた。
「あっつ……」
僕がそんな情けない声を漏らしていると、天神も飛び降りたのか、両足で地面を踏みつけながら、僕の隣に音を立てながら着地した。
「あ、暑いね……」
僕は茶色の半ズボンに緑のTシャツだが、天神は白いTシャツの上から薄い青色のワンピースを羽織りホワイトパンツを着ているので、余計に暑そうだ。
「うん……これは、急いだ方が」
「いいね」
短い会話を終え、僕たちは1つしかない改札を抜けて、目的地へと歩き出した。
駅にあった時計は、16時32分を指していた。
目的地の場所は、天神と自宅に寄った際に、お母さんに電話して聞き出してくれた……が、マンションから出てきた天神には、分かり易く泣いた跡があり、あの時の、元気を装う天神の顔が、忘れられない。
僕は天神の隣を歩きながら、小さく「よし」と気合を入れ直した。
今歩いているのは、道の整備されていない、凸凹した硬い土の道で、周りは雑木林に囲まれていた。
駅から暫くは、海が見え、平屋もちらほらあり、道路もあったが、今はその影もない、正に田舎道、というよりは獣道の方が近いくらいだ。
太陽は木々に阻まれ、1本道を風が走って通り過ぎ、少し涼しかった。
僕は蛇行しながら、石を蹴って歩くが、天神は真っすぐ歩き、そんな僕を見守ってくれていた。
「ねぇ、葉月君」
「うん?」
歩きながら、天神が話しかけてきた事で、僕は後ろ歩きになり、しかし、足を止めることなく、返した。
「この後、どうする?」
「……どうするって?」
「帰るころには、道も暗くなってると思うんだよね……終電も途中で来ると思うし」
「うん、確かに」
「で、なんだけど」
なかなか要点を話そうとしない天神が不思議で、僕は顔を上げて天神の目を見た。
2人は目が合い、天神は大きく息を吸って、口を開いた。
「私の、昔の家がこの町にあるらしくて……お母さんが、その家に泊まっても良いって、言ってくれたんだよね……だから―――」
天神がもう1度息を吸い、話そうとしたところで、僕の踵に大きな障害物がぶつかり、僕は躓いて、声にならない悲鳴を出しながら、後ろに倒れそうになってしまった。
だが、天神は、そんな僕の伸びた手を掴んで、引っ張ってくれた。
体の右半身に力が加わり、僕の体はくるっと回って、天神の体にくっついて止まった。
「あ、ありがとう」
僕は顔を上げ、天神の目を見ながら礼を伝えると、天神は驚いた顔をしながら「今日、泊まって行く?」と先程の言葉の続きを小さく漏らした。
「うん……そうし、ようかな」
「う、うん……その方が、いいよ」
天神は僕の手を放したので、僕は急いで離れた。
これではまるで、僕がヒロインである。
僕は顔を真っ赤にし、再び1本道を急いで歩いた。
「あ。ま、待ってよ!」
天神はその僕の後ろを早歩きで付いてきて、暫くして、また2人、並んで歩いていた。
それから暫く歩き続け、いつ着くのだろうと思い始めた所で、目の前に坂道が現れた。
僕たちは立ち止まり、坂の頂点を見つめた。
「あれ、あの葉っぱ」
「……うん、行こう」
僕たちは目を合わせ、頷き、坂道を、何故か走った。
坂道が終わり、その先には、辺りに木々が無い、丘のような場所に出た。
そして、その丁度真ん中付近に、大きな1本の巨木が生えていた。
その圧巻の姿に、僕と天神は立ち止まり、首を上にあげ、口を開けて立ち尽くした。
「で、でっけぇ~」
「凄いね……こんな木、写真でも見た事無いよ……」
その丘には風が吹き荒れており、何本も何本も、僕たちを撫でて、通り過ぎて行った。
巨木の葉っぱが揺れ、互いにぶつかり、音を奏でていた。
遮る物のない、斜めに刺さる太陽の陽が、葉っぱに反射し、少し眩しかった。
「よし、近づいてみよう」
「……うん」
僕が歩き出すと、遅れて、今度は追いついてくることなく、天神が付いてきた。
僕は、ある場所を目指して歩いた。
そこは、パンフレットの写真でも気になっていた、巨大な木の根、なのだろうか、一部だけ隆起した、それでも今の僕よりもずっと高い、苔だらけの根っこ、だった。
僕は、その根っこの傍に立ち、ぺたぺたと手で触ってみた。
何で僕は、巨木の中で、特にこの部分が目に入ったのだろうか。
「根っこなのに、大きいよね」
「うん」
「……私がね、何かを約束したのも、この近くだった気がするんだよね~」
天神はそう言いながら、その木の根っこをぺたぺた触りながら、その周りを歩き始めた。
「その思い出に、僕は関係あるの?」
「う~ん、どうだろ……有るような、無いような……本当に曖昧で、薄っすらだから」
「そっか」
僕は、根っこに手を当てながら、巨木を見上げた。
下から見ると、葉っぱが隙間なく重なり合って埋まり、しかし、葉っぱで見えないはずの空が、陽の反射によって、見えているような気がした。
そんな時。
「うわ!」
と声を出しながら、天神が地面に倒れるのが視界の下側に映り込んだ。
「大丈夫?」
僕は顔を下げ、急いで天神の元に駆けつた。
「う、うん」
天神は小さく「イテテ」と言いながら、仰向けになった。
しかし、そのままの態勢で、直ぐには起き上がろうとはしなかった。
清楚な服装のせいか、土汚れが目立って見え、膝は赤く染まっていた。
「はぁ~、何かに躓いちゃったよ」
「あはは~」と笑いながら言う天神だったが、結構に痛そうで、僕は最初、苦笑いしか出なかったが、道中、自分も躓いたことを思い出して、急に恥ずかしくなった。
「……石か何かに躓いたの?」
「う~ん、何だろ。音は軽かったんだけど」
そう言いながら、ようやく立ち上がった天神が、ぱんぱんと土を掃って、何に躓いたのかを確認しに歩き出した。
どれだけ吹っ飛んだんだ、と思いながらも、僕もその後ろに付いて歩いた。
すると、少ししたところで、天神が立ち止まり、屈みこんだ。
そこは、巨木と根っこの間で、天神の横に移動することが出来ず、僕は天神の後頭部を見つめざるを得なかった。
「何かあったの?」
僕の質問に、天神は「ん~?」と曖昧に答えたので、一生懸命に背伸びをして覗き込んだが、天神は何かを掘っているようで、見えたのは後頭部と、髪の隙間を縫って、ちらっとうなじが見えるだけで、左右に動いて頭を木にぶつけて見るも、少し赤くなった耳以外、何も見えなかった。
僕は諦めて後ろに数歩下がり、巨木にもたれかかって脱力した。
首だけを左に動かし、作業をする天神の背中を見つめた。
先程仰向けになったせいか、所々に土が付いて汚れていた。
凄く細くて、華奢で、柔らかそうな背中なのに、見ているだけで、凄く落ち着けた。
僕は首を戻し、目を瞑った。
すると、優しい風を感じ、頬を撫でて僕の体温を奪いながら、通り過ぎて行った。
葉の音と、田舎特有の緑臭さ、それに巨木の匂いが混ざり合い、凄くリラックスできた。
気が付くと、首がコクリと前に倒れそうになった。
その時。
「葉月君! 見てよこれ!」
そんな、興奮気味な天神の声に、無理やり目を覚まさせられ、顔を声の方に向けると、天神がズザーと音を立てながら滑り込んで来て、僕の目の前で屈んだ。
天神の手には、土で汚れて真っ黒な、スチール缶が掴まれていた。
「これ、開けてもいいのかな!?」
宝物を見つけた男の子みたいに喜ぶ天神は、土で汚れた手で顔を触ったのか、一部を茶色くした顔を僕に近づけ、そう質問してきた。
「えっと、まず聞きたいんだけど」
「うん」
「それに躓いたの?」
「そうだよ! 凄くない!? これって、奇跡だよね! 運命だよね!」
「う、う~ん……奇跡、運命、ねぇ」
明らかに誰かが埋めたものだろうが、勝手に開けて良い物か……。
だが仮に、これがタイムカプセルだとして、そんなに浅い所に埋めるのだろうか。
それじゃ、見つけてくれと言っているようなものだ。
開けてみても、良いのかもしれない。
何より、目を輝かせて見つめてくる天神が、僕に否と言わせなかった。
「……よし、開けてみよう」
「やった!」
天神は少し僕から距離を取り、僕との間にスチール缶をゆっくり置いた。
蓋にはうっすら文字が書かれているようだったが、劣化や擦れからか、掠れてしまっていて、その文字を読み取ることが出来ない。
だが、間違いなく、煎餅とは書かれていた。
「よし、開けるよ?」
天神が手を蓋に当て、僕の目を見つめてきた。
僕はそれに対して頷くと、天神も頷き返し、2人してスチール缶に目を向けた。
そして、天神が小さく「よし」と言い、その後、数秒置いてから「せーの」と僕の耳に聞こえるくらいの声量で言いながら、勢い良く蓋を開けた。
一瞬、天神が持ち上げた蓋に、傾いた太陽の陽が反射して眩しく、視界が真っ白になったが、天神が手を下したことで、その中身を見ることが出来た。
「……何だ、これ」
「……う~ん……水着、と……パーカー?」
「それは分かるんだけど……何で、この中に?」
僕と天神は同時に顔を上げ、目が合った。
「……葉月君、これ、どうする?」
「……持ち上げてみる?」
「も、持ち上げるの?」
「うん、持ち上げよう」
僕がスチール缶に顔を戻し、天神もそれに合わせて頭を下げたのか、僕の後頭部に、天神の頭がゴンと音を立ててぶつかった。
どうやら、僕が前のめりになり過ぎていたらしい。
僕は恥ずかしさで、耳の先まで赤くしたが、悟られないよう静かに後ろに下がった。
そして、流れるようにグレーのパーカーを手に取って、持ち上げた。
目の高さまで持ってくると、パーカー全体が持ち上がり、その時、ポケットから紙がポロっと落ちて、地面に落下した。
僕はその紙を目で追い、
パーカーを丁寧に畳んで太ももの上に置いた。
その際、ひまわり柄の黄色いビキニのトップスを見ながら、変な顔をしている天神が見えたが、とりあえず無視して、僕は紙を手に取った。
すると、それはどうやら封筒だったようで、触ってみると、中に入っている紙の四隅が確認できた。
表には2人の名前が書いてあるようだったが、これも、掠れてしまっていて、読むことが出来なかった。
僕は開けてみようかと、その封筒を裏返した。
しかし、封筒の開け口は、見た事ないキャラクターのシールで蓋がしてあって、流石に開けるのは憚られた。
僕は手紙をパーカーの上に置き、そこでようやく、今度はビキニのボトムを見ながら変な顔をしている天神に、話しかけた。
「戻そうか」
その声に天神は反応し、ビキニを下ろして、僕の目をしっかりと見た。
「うん、そうだね」
言うと、天神はビキニを畳み始めたので、僕は太ももの上にあるパーカーを、そのまま浮かせて、ゆっくりスチール缶に戻した。
天神も、畳み終えたのかビキニをスチール缶に戻したが、その時「ん?」と言って、封筒を持ち上げた。
天神は、それを太陽の方に向け、中を透かそうとしていたが、失敗したようで、直ぐに諦めて封筒を下げ、僕の方を向いた。
「これ、何処にあったの?」
「ん? このパーカーのポケットだけど」
「ふ~ん、そっか」
天神は封筒に目を落とし、何かが気になっている様子だが、それを話そうとはしない。
僕は、そんな天神が気になり、質問することにした。
「その封筒が、どうかしたの?」
「ううん、ちょっと、不思議だな~って」
なにが? と聞くまでも無く、天神は手紙の裏面を僕に見せて、蓋をしている、キャラクターのシールを指さした。
「これ、私が作ったキャラなんだよね」
僕は「ふ~ん」と言いながら、前のめりになって、改めてそのキャラクターを見た。
そんな中、天神は「で」と言って続けた。
「私、そのキャラをね、ある遊園地のキャラクター募集に出してみたの」
「うんうん」
「そしたらね、なんか、採用されちゃって」
「それは、凄いな」
僕は言いながら態勢を戻し、天神は手紙を下ろして、僕の目を見て続けた。
「そのシール、その採用記念のシールで」
「ほう」
「私しか、持ってない筈なんだよ、ね」
「……」
「……」
2人は、見つめあったまま硬直した。
これは、陽花の言っていた、分岐とか基準の世界とかと、関係があるのか?
僕は少し考えてみたが、どうやったって、答えが見つかる筈が無かった。
僕が神妙な顔をしていたからか、天神は少し怯えた表情を浮かべた。
「何? これ。怖い話?」
「……天神は、そのシールを誰かにあげた覚えとかは無いの?」
「無い、とは言い切れないかな……昔の記憶、殆ど無いし……ただ、あげるような友達が居たら、今も関りがあると思うんだけどね」
急に話が重くなり、僕は口を真横に一直線に結んだが、天神の顔が余りにも暗くなったため、話を切り替えるために一生懸命に口を開けた。
「開けてみるか、その手紙」
「……良いのかな、凄く、大切そうだけど」
「……それを言われるとな」
2人で手紙を見つめ、喋れなくなってしまう。
その時、突風が吹き、僕たちの間を縫って通り過ぎて行った。
僕は腕で顔を覆い、天神は髪を押さえていた。
目線を下に向け、手紙を確認すると、天神の右手が力強く手紙の端を握っていたが、風に靡き、起き上がっていた。
風が止み、僕は首を振って髪を雑に整えて正面を向いた。
すると、天神が、「あ」と言って、口を開け、唖然にも苦笑いにも似たような顔を浮かべていた。
「葉月君」
天神は右手を上げた。
「封筒、開いちゃった」
封筒の蓋は上を向いてあられもない姿になっており、その下からは、中の便箋がちらっと飛び出していた。
「……見るか」
「……そうだね」
天神は右手を下ろし、少し力を入れ、封筒の口を開いた。
中にはスプライト柄の便箋が見えた。
そこに天神の左手が伸び、便箋を親指と人差し指で掴んで、持ち上げた。
そして、便箋が外に出そうになった。
その時だった。
封筒が急に重くなったかのように、天神の体を引っ張ってスチール缶に落ち、封筒の中から、見覚えのある、黒い触手の様なものが飛び出してきた。
それと同時に、強風が吹き荒れ、僕は尻もちをついて、その場にいるのが精一杯だった。
天神は急いで右手を封筒から離し、距離を取って木の根っこに背をぶつけていた。
左手に持っていた筈の便箋は持ったままだったが、天神はその左手で封筒からの風を防いでおり、手紙はぐちゃぐちゃで、その原型を留めていなかった。
「な、なんだこれ!」
「葉月君! 大丈夫!?」
「あぁ、大丈夫! 天神は!?」
「私も大丈夫! 前は見られてないけど!」
とりあえず、天神は大丈夫そうだが、気が付いた時には、封筒から飛び出した黒い触手は、僕の周りを飛び回っていた。
「天神! 僕、ダメかも!」
「な、な、なんで!」
僕は、今度は見逃さないように、右腕を盾にしつつ、その黒い触手の正体を掴もうと凝視した。
すると、次第にその正体が見えてきた。
それは、映画のフィルムの様で、そこには、小さい男の子と女の子、そして、それよりもう少し歳をとった後の、男性や女性が、一緒に遊んでいる所が描かれていた。
……これが、もし、仮に、僕と天神だとして……このフィルムの様なものは、一体……。
考えていると、ふと僕は胸に違和感を覚え、顔を下に向けた。
すると、どういう訳か、僕の体から、同じようなフィルムが飛び出してきていた。
そこに描かれていたのは、昨日や今日の出来事だった。
夏祭りでの花火や、夜景、今日の天神と寝た所や、巨大な木を2人で見ている所、そして、さっきの一緒にスチール缶を開けた所。
僕はその中でも、陽花を映すフィルムを必死に探した。
嫌な予感がしたからである。
しかし、僕から出ているフィルムの、どこを探してもその姿は無かった。
僕は、僕を包むフィルムに目を向けて、陽花を探した。
始業式、バイト、砂浜でのシュヴェリーン城作り、その他にも、家でご飯を食べているフィルムを見つけたが、やはり、そこに陽花は居なかった。
1人で、そんな豪華なご飯を食べる訳が無いのに。
しかし、それに気が付いた頃には、僕の体の力は抜けていき、遂には脱力してしまった。
気が付くと、僕の体には無数のフィルムが巻き付いていた。
僕の次第に意識も薄れていた。
そんな中で、天神の叫び声が遠くの方から聞こえてきた。
「葉月君!? 大丈夫なの!?」
僕は、その天神の声に返すことが出来なかった。
どれだけ口を開いて、叫んでみても、声が少しも出なかったのだ。
僕は最後にと、必死に手を伸ばそうとした。
出せる限りの力を入れ、歯を食いしばり、触手を振り払おうとしたが、無力にも、それが叶うことは無かった。
そして。
気が付く間もなく。
僕は、意識を失っていた。
僕が目を覚ますと、そこは砂浜だった。
何が起きているのか分からず、僕は顔を上げた。
すると、空中で、パッと花が咲き、僕を照らした。
しかし、無音だ。
だが、どうしてか、僕はその花から顔を動かすことは出来なかった。
……なんだ、花火か。
音のない花火は、少しだけ滑稽だったが、それでも美しく咲き乱れ、つい、見入ってしまった。
僕はそれを見ながら、状況を確認することすら面倒くさくなり、ただボーっとしていた。
その時、何かが右肩に触れた。
暖かく、柔らかく、それでいて、脆そうな何か。
その瞬間、僕の脳裏に天神の姿が過った。
「天神」
僕の声が小さく漏れていた。
「何? 葉月君」
右から声が聞こえ、その時、急に全ての音が戻ってきた、
バン! と音を立てて鳴る爆音。
天神の体の震えや、息遣い、自分の心臓の音が重なって聞こえた。
そして、その合間を縫って、波の音や人々の雑踏。
ここは、どこなのだろうか。
天神に聞けばいい物を、僕は、それを知るのが怖かった。
僕は今まで、何をしていたのだろうか。
……記憶が無い。
そんな自分が、怖かった。
何か、重要なことを、忘れている。
そんな気がして、僕の中で、焦燥が膨らんで、爆発しそうになっていた。
しかし、その時。
もう1度。
暗闇の空を、1つの花火が、照らして輝いた。
遅れて。
バン! と音が鳴り響いた。
七色の花火だった。
僕の頭が、キンッと痛んだ。
「どうしたの? 大丈夫?」
天神の手が、僕の右腕に乗り、心配そうな声が聞こえてきた。
その声が、何度も脳内を反復し、響いた。
天神の声は、落ち着く。
僕は、理解するのを諦めた。
すると、先程までの痛みが嘘のように、スッと引いて行った。
もう、何でもいいのかもしれない。
重要な何かを忘れている気がするが、それも、もう。
僕は諦め、考えるのを止めようとした。
その時。
「おかえり、葉月君」
と、天神の声が聞こえてきた。
僕の頭痛は、より一層悪化した。