3.海へ
ジリリリ。
その不快な音に反応して、僕の右手が大きく右に動いた。
カツンという軽い音の後、右手に激痛が走り、ガシャンという、何かがテーブルから落ちたような音が部屋に響いた。
「いってぇぇ」
僕が布団をソファから落として、右手を押さえながら起きると、テーブル足の横で、裏蓋を上にした状態で、未だに鳴り続けている目覚まし時計が見えた。
痛みと五月蠅さで一気に目が覚めた僕は、ソファから立ち上がり、目覚まし時計を持ち上げて、アラームを止め、テーブルの上にゆっくりと置き直した。
今日は夏休みから3日後の、天神と海に遊びに行く日だ。
とは言っても、僕は海で泳げないから、見守っておくだけなんだが……。
僕は歩きながら寝巻を脱ぎ、洗面所の洗濯機に捨てるように投げ、僕の衣服がアパレルショップのTシャツ棚の様に積み上げられた、ラックの方を向いた。
その中から、海パンらしき模様のパンツを見つけたので、その両端を右手と左手で持ち、勢い良く引き抜いた。
すると、当然というか必然というか、1本の支えを失ったジェンガの様に、海パンから上の衣服が僕の足元に崩れ落ちていった。
僕は自分でやったにも関わらずに、呆れたため息を1度吐き、衣服を畳んで再び積み上げた。
その際、お洒落でも何でもないグレーのパーカーを1枚抜き取り、身に纏った。
「……こんなの、いつ買ったっけな」
洗面台の前に立ち、歯を磨きながら、ふとそんな疑問を抱いた。
そんな時。
「先輩……おはようございます―――って」
洗面所入口から陽花の眠そうな声が聞こえてきたので、僕が体を向けると、陽花はどうしてか、目をまんまるにして立ち尽くしていた。
「おあおう、おおしたんあ?」
僕がそう声をかけると、陽花は深刻そうな顔つきになったが、僕はそれを無視して洗面台を向き直し、うがいをし、顔を洗った。
「……やっぱり、今日は海に行くんですね……」
そんな僕に、陽花は容赦なく話しかけてきた。
「……やっぱり?」
陽花のやっぱりという発言が気になり、タオルで顔を拭きながら洗面所の入り口を向くと、すでにそこに陽花はおらず、扉が虚しくパタンと音を立てて閉まっていた。
「……何なんだよ……」
僕はタオルを洗濯機に投げ入れて、陽花を追う様に洗面所を後にした。
それから、必要最低限の荷物を用意して僕は家を飛び出した。
海パンにグレーのパーカー、そして黒のショルダーバッグと、とてもお洒落とは言い難いが、天神と近くの海に行くだけなら、十分な恰好だろう。
これから、天神と合流してバスに乗り、海岸に向かう予定だ。
その海岸は、僕が生まれる少し前に作られた、いわゆる人工の砂浜である。
陸から橋が掛けられ、それを越えた先の埋立地に、規模の大きいショッピングモール、道路、人工的に植えられた松、砂浜、そしてそれらを越えて、ようやく海がある。
ショッピングモールには、観覧車含む遊園地もあり、夜にはイルミネーション等のイベントもあるため、家族連れやカップル等で、季節を問わず賑わう、この街随一の観光スポットでもある。
僕はバス停前のベンチに座り、斜め上の空を見上げた。
現在快晴、生暖かい風が肌を撫でて通り過ぎて行った。
太陽が煌々と輝き、光がアスファルトや看板等の物体を容赦なく照り付け、道行く人々が、日傘をさしたり鞄を頭の上に置いたりして、不快そうにそれを嫌っているようだった。
一方の僕は、塩ビ波板を使った超適当な屋根のあるバス停横のベンチに座っているためか、風が吹いている分心地よく、別に不快ではなかった。
「ごめん! 待った~!?」
遠くの方からそんな叫び声が聞こえ、ベンチから立ち上がり、声の方に体を向けた。
それと同時に、息を切らした天神が僕の目の前で急ブレーキをかけて止まった。
天神は、下に水着を着ているのか、特に荷物は持っておらず、何故かお洒落でも何でもない、学校指定のジャージを身に纏っていた。
そんな天神は両膝に手を着き、苦しそうに肩で呼吸していた。
「おい……大丈夫か?」
僕の質問に、天神は息を切らして答えられず、右手を上げて左右に振った。
「……大丈夫ってこと?」
天神は背を伸ばし、腰に手を当ててから首を縦に振ったが、まだ息を切らしていて声を出せなさそうだ。
「どれだけ走ったんだよ」
「はぁ……はぁ。……家から」
家からということは、3kmと少しか……。
「別にそんなに急がなくても―――」
キキィィィッ。
僕の声を遮るように、そう音を立ててバスが停まった。
「はぁ……はぁ、ほら、ギリギリ、だったでしょ?」
1本遅らせても、と言いかけたが、咄嗟に「そうか、お疲れ」と言って、天神の背中を押しながら2人でバスの中に入った。
バスに揺らされること数分。
乗客の殆どが、僕たちと同じく終点である、ショッピングモール前で下車した。
僕と天神は最後に下車し、降りた直後にバスはショッピングモール内へと入って行った。
涼しい車内から、一気に灼熱の地に放置された僕と天神は、空を見上げてしばらく動くことが出来なかった。
「……行くか」
「……うん……ここから少し距離あるもんね」
短い会話を終え、僕が先にトコトコ歩き出すと、後ろから天神が「よ~し!」と叫んで走り出し、すれ違いざまに僕の腕を掴んできた。
「ちょ、ま―――」
僕は天神を止めようと声を出そうとしたが、そんなことをしている余裕もないくらい、天神の力は想像よりも強く、そして何より、早かった。
僕と天神の腕はピンと伸びていた。
僕は全力で足を動かし、手を強く握りしめた。
熱気と花の匂いを纏った風が僕の鼻腔と肌を撫でて通り過ぎた。
恥ずかしさなのか運動しているからなのか、心拍数がバクバク上がり、感情もぐちゃぐちゃで、ただ、ひたすらについて行くことしか出来なかった。
「はぁ……はぁ……は、早すぎ、だろ……」
結局、埋立地唯一の、1本の道路の前まで走り、横断歩道の信号に引っかかってから、ようやく天神は止まった。
僕が膝に手を着きながら、顔を上げて天神を見ると、天神は信号機の柱に両手をついて全体重を預け、体全体で呼吸をしていた。
天神は、走る時にリミッターが無いのかもしれない。
元気があるのは良いが、あり過ぎるのも困りものである。
そんな、動けない僕たちに、不条理にも、信号が青に変わったことを知らせる、ピヨピヨという音が鳴り始めた。
僕は大きく深呼吸して息を整えると、動けない天神の方に歩いた。
「だ、大丈夫か? 天神」
「う……うん……ご、ごめん……か、かた……肩かして」
そう言いながら、天神は僕の腕、肩と這いずって来て、左から右へと腕を回してきた。
そこまで無理して走らなくても、と思いつつ。
このまま横断歩道を渡るのは危ないので、僕は左手を天神の左の腰に当てようとして、そこで躊躇って手を止めた。
でもな、手を回さなまま渡るのは……流石にか……。
「よし、歩けるか?」
「う、うう……うん。」
確認を取り、僕は、1歩歩くのと同時に、そのままの勢いで天神の左の腰に手を当てて、支えを作った。
天神の体が一瞬震えたが、2人は無言のまま、無事、横断歩道を渡りきる事が出来た。
「よし、もう少しだぞ、天神」
「……うん……ごめんね……もう少し、このままで……」
「……そんなに辛いのか? あれだったら松の下で休む?」
「……そうじゃないもん」
僕の質問に、天神は吐き捨てるように言ったが、天神が左を向いて言ったせいで、よく聞き取れなかった。
確かに、今の天神は息も切れておらず、元気そうだ。
僕の支えは必要ないだろう。
「え?」
僕が聞き返すと、どういう訳か天神は何も答えることなく、ただ、僕の右肩に回している腕に力を入れて、天神の顔へとグイっと寄せてきた。
「な、なんだよ」
「うるさい、行くぞぉ!」
天神は怒ったように、今度は僕を引きずりながら歩き出した。
何でかは分からないが、がにまたで大きく足を開いて歩く天神に合わせて、僕は小さく足を動かしてパタパタついて行くことしか出来ず、周りの視線がとても恥ずかしかった。
結局そのまま海岸に到着し、砂を踏んだ時点でようやく解放された。
「わぁ~見て、葉月君! 人一杯!」
「真っ先に触れるとこ、絶対にそこじゃないだろ」
天神は、そんな僕のツッコミも無視し、さっきまで何事も無かったかのように、左右に踊りながら、楽しそうに海の方へ走って行った。
それを見て僕は、泳げないのに同行してきたということに、少し罪悪感を覚えた。
そうして僕が、天神の背中をボウっと見つめていると、不意に右肩を軽くポンポンと2回叩かれた。
僕がその人物を確認するために、首を右に回すと、右頬に細くて綺麗で華奢な指がぷにっと当たり、右頬がその形に丸く凹んだ。
「先輩、泳げないんでしょ」
そう言ったのは、暗い顔を浮かべたままの陽花だった。
「何だ、陽花も来てたのか」
陽花はゆっくりと指を下ろし、顔を上げ、怪訝な顔を浮かべる僕と目を合わせた。
「どうかした?」
僕のその質問に、陽花は「ん」と言って、僕の背後、右斜め前を指さした。
僕は顔を戻し、その指の方角を見た。
そこには、畳まれたビーチパラソルがレジャーシートの上に雑に投げられ、砂浜の一部を場所取りしてあった。
「あの後、すぐにここに来たの?」
「ん、そうですよ……どうせ、何も持ってこないだろうと、思って」
そう言いながら、陽花はそのレジャーシートへと歩き出した。
僕はその背中を追う様に、遅れてゆっくりと歩き出す。
そんな僕の左側から、パタパタという周りの足音よりも一際大きい足音が聞こえてきて、その方向を見ると、丁度ブレーキを掛けて、天神が僕の目の前で止まった。
足元は濡れていて、砂もくっついていた。
「はぁ、はぁ……葉月君……? ……どこ向かってるの?」
膝に手をついて顔を上げる天神に、僕は陽花と同じように、レジャーシートの方向を指さして「陽花が、場所取っててくれたんだよ」と言うと、天神はその方向に顔を向けて、背を伸ばした。
「ふぅ。……で、その場所を取ってくれた、陽花ちゃんはどこにいるの?」
天神は僕の方を見て、目をパチパチさせていた。
「どこって……え?」
「え?」
僕は指を下ろしてレジャーシートの方向を向いた。
そこには、そのレジャーシートへと向かう、フリルの付いた黒色のワンピース型ビキニを着た、陽花の背中が見えた。
視界の端で、天神も僕と同じ方向を見ていた。
しかし、どういう訳か、キョトンとして、首を傾げていた。
僕は、そんな天神の方を向いて、質問した。
「……見えて、無いのか?」
「んん?」
天神は眉を顰め、遂には首を90度に曲げた。
本当に見えてない……訳がないよなぁ。
「まぁ、いいや……場所は分かるから……行こうか」
「んん? ……うん」
僕が歩き出すと、不思議そうな顔を浮かべたまま、天神が遅れて歩き出し、小走りで僕の横に並んできた。
不思議なことに、辺りの喧騒よりも、僕の歩くザッザという音と、天神の歩くペタペタという足音の方が大きく聞こえ、1歩前の足音が頭で響いて離れなかった。
それから数歩歩いた所で気が付いたが、先程まで前を歩いていた筈の陽花の姿が無くなっていた。
そこで僕は、天神が見たという街頭下の陽花の事を思い出した。
消えた訳じゃ、無いよな。
僕が歩きながらボウっとそんなことを考えていると、不意に天神が「あ」と言って先を走り出した。
「あ、葉月君。これの事?」
そう言って天神がドスっと音を立ててお尻から着地したのは、先程、陽花が指さしていた先の、レジャーシートだった。
「あぁ、うん。それだよ」
僕はハッとしつつ、小走りでレジャーシートに近づき、雑に投げられたビーチパラソルを手に取って広げた。
「で、陽花ちゃんは、何処に居るの?」
足で砂を蹴り上げて穴を掘る僕に、天神が座ったまま足をパタパタさせて、そう聞いてきた。
「……な。居ないんだよね」
「ふふ、何それ」
答えに困った僕が、ビーチパラソルの柱を穴に刺して埋めつつ曖昧に返すと、天神は小さく笑って立ち上がり、僕の方を振り返った。
「ありがとね、葉月君」
にっこり笑いながら言う天神だが、僕は何のお礼なのか分からず、苦笑いを浮かべて「はは」と返すことしか出来なかった。
そんな僕をよそ目に、天神は「よし」と言って切り替えると、ビーチパラソルで出来た日陰に屈みこんだ。
何を始めるのか分からず、僕はビーチパラソルの柱を持ったまま、天神の様子を見ていると、天神は周りの砂を1箇所に集めて山を作っていた。
それを見て直ぐに、天神が、僕に気を遣って砂遊びを始めたことに気が付いた。
僕は天神の正面に屈みこみ、話しかけた。
「泳いできたら?」
その言葉に、天神は手を止め、「む」と言いながら顔を上げ、眉をひそめて、僕と目を合わせた。
「さっき泳いできたもん」
「泳いできたって……足元だけじゃん―――」
「いいから、シュヴェリーン城の建設手伝ってよ」
「……シュヴェリーン城て」
シュヴェリーン城とか、建設とか……僕は、謎に意識が高い天神に呆気にとられたが、再び手を動かして一生懸命山を作る天神を見ていると、体の方が自然と動きだしていた。
「天神」
「んー?」
「砂で何かを造形するときはな―――」
「砂を濡らす」
目を瞑り得意げに話そうとした僕の唇に、冷たい何かが触れて無理やり黙らされ、その代わりに天神が僕の言いたかった事を話した。
「でしょ?」
僕が目を開けると、唇にぶちゅっと押し付けられていたのは、海水なのか水が入った500mlのペットボトルで、天神はそれを押し付けながら得意げな顔をしていた。
僕は、意地悪くキラキラと輝くペットボトルを右手で持ち、唇から引き剥がした。
それに合わせて、天神はペットボトルから手を放し、その手をジャージのポケットに持って行くと、更に350mlの小さいペットボトルを3つボンボンと取り出して、砂の上に置いた。
「海に行った時、海水を汲んできたのか……」
「どう? 意外と使えるでしょ……監督」
右手をピンと伸ばし、敬礼をする天神を見ながら、僕は苦笑いを浮かべた。
監督……現場監督の事だろうか……意識たけぇ~。
僕が若干引いていると、天神は右手を下ろし、どうしてか申し訳なさそうな顔になった。
「まぁ、でも……スコップとかバケツは、持ってきてないんだけどね」
「……要らないだろ……何でそんなに意識高いの?」
遂に声に出してしまった僕が、しまったと口を手で覆うと、時すでに遅く。
顔を上げると、天神は目を吊り上げて鬼の形相をしており、どす黒いオーラを纏っていて、分かり易く怒っていた。
しかし、天神と僕の目が合った時、天神は両頬をぷくっと膨らませて立ち上がった。
「休憩します」
「おい」
僕の静止を無視し、天神は吐き捨てて、レジャーシートの方向に動き出そうとした。
だが、天神は足を向けた所で、何かに気が付いたように「あれ」と言って、僕の方に顔を向け、見下ろしてきた。
「……どうしたの?」
まんまるな目を向けて黙った天神に質問すると、それに答えるようにレジャーシートの方を指さした。
「さっきまで、無かったよね……あんまり覚えてないんだけど」
僕は、天神の目から、指さされたレジャーシートの方に目を向けた。
「……何で、スコップとバケツがあるんだ?」
「……私に聞かれても……葉月君が持ってきたんじゃないの?」
「さっきまで、無かっただろ……多分」
「誰か、忘れて行ったのかな」
「……そんなに都合のいいこと―――」
言いながら、僕は顔を上げた。
すると、そこには。
松の木の間を潜って歩く、陽花が見えた気がした。
特徴的な水着と、華奢で真っ白な体は、間違いなく陽花の背中だが……言ってて気持ち悪いから、気のせいだと、僕は目を逸らした。
「ん? どうしたの?」
「……何でもない……陽花だよ……」
「また陽花ちゃん?」
僕が天神の方に顔を向けると、天神も同時に顔を僕の方に向け、目が合った。
疑うような天神の目に、僕はドキッとしてしまい、つい口籠ってしまった。
「……多分」
「……そっか……まぁ、何でもいいや……貸してもらおう……先に休憩するけど」
そう言い残し、天神は僕を置いてレジャーシートの方に歩いて行ってしまった。
マイペースな天神に呆気にとられ、僕は暫く動けなかったが、天神がレジャーシートの上にパタンと座り込んで、ジャージを脱ぎ始めた所で、僕は砂の山に目を向けて屈みこんだ。
下が水着なのは百も承知なのに、何で見れないんだろうな……。
僕はそんな事をぐるぐると、日に焼けた脳みそで考えながら、砂を掘っては山に積んで、掘っては山に積んでを繰り返した。
それから数十分が過ぎた頃。
水着姿になった天神が、バケツを持って駆けて来た所から、作業は飛躍的に進んだ。
そして遂に。
「ふぅ……やっと、完成したね」
「あぁ……うん。……まぁ、シュヴェリーン城には程遠いけどね」
2人並んで立ち、満足そうに息を吐きながら、砂のお城を眺める。
そんな時、天神が何かに気が付いたように「あ」と言って顔を上げた。
「写真撮ろうよ」
そう言って、僕が了承をする前にザッザっと音を立てながらレジャーシートに向かって走り出した。
僕がその天神の背中を見つめていると、視界の左端に陽花が見えた気がした。
ゆっくりと視線だけを左に動かすと、レジャーシートの上で体育座りをし、恨めしそうに僕を見つめている陽花と目が合った。
その時。
天神がジャージのポケットからスマホを取り出したその勢いで、キーホルダーが引っかかり、宙で1回『チリン』と音を立てた。
すると、天神は「うわぁ!」と驚いた声を上げて、ドサッという音を立てながら、尻もちをついて後ろに倒れていた。
何があったのか分からず、天神の方をポカンと口を開いて見ていると、今度は陽花が立ち上がり、どういう訳か涙目で天神の方へ駆け寄って行った。
「おか―――じゃなかった……せんぱ~~い!」
何かを言いかけて立ち止まり、その後直ぐに動き出して、天神に抱き着いた陽花。
それが不意打ちになったのか、天神は陽花を受け止め切れずに、背中を砂浜に付けて倒れてしまった。
「大丈夫?」
僕が歩いて近づき、声を掛けるまで、陽花はずっと天神に抱き着いていたし、天神もそれを引き剥がすのが申し訳なさそうに、上半身だけを起き上がらせて、困った顔を僕に向けていた。
「陽花ちゃん」
「? どうしたんですか?」
天神の問いかけに、陽花は、けろっと笑顔を浮かべて体を起こし、そう返答した。
その切り替えの速さに、僕と天神は苦笑いになる。
「い、いつからそこに?」
「えっと、1度、帰ろうと思って、鬱陶しい松を避けてたら楽しそうな声が聞こえてきて……悔しかったので戻ってきたんです」
「……てことは、2、30分はそこで座ってたの?」
「……そうですけど……見えてましたよね?」
陽花は、目を細めて不機嫌そうに僕を睨みつけてくるが、それを無視して話を続けた。
「う~ん。集中してたしな……というか、何でさっきまで、天神には陽花の事が見えてなかったんだろうな?」
その質問を聞いた途端、陽花は真顔になって、よいしょと言いながら天神の上から降りて立ち上がった。
「よし、湖作りましょう」
陽花は手を叩いてそう言うと、ニコッと僕に笑いかけてきた。
僕はそんな陽花の正面に立ち、両頬を軽くつねって引っ張った。
「……もう誤魔化せないぞ……この前の部屋の時といい、今日といい……いい加減、謎が多すぎる……何か知ってるんだろ?」
「いいはないへふは、ほんあほほ」
陽花は僕の両手首を握って引き剥がすと、砂のお城の前に屈みこんで、湖を掘り始めてしまった。
そんな陽花を見て立ち尽くす僕の隣に、キーホルダーがスマホに当たる乾いた音を鳴らしながら、天神が並んできた。
「話したくないなら、仕方ないよ」
「……聞いといた方が、良いと思うんだけどなぁ」
「……それよりさ、ほら」
天神が僕の手を取って、湖を掘り進める陽花の前まで歩いた。
「写真、撮ろうよ」
その声に陽花はビクッと反応し、手を止めてゆっくり顔を上げた。
そして、顔だけを天神の方に向けて「私は……遠慮しておきます」と言って顔を戻してしまった。
「……そっか」
天神は口角を上げてにっこり笑うと、僕の方を向いた。
「じゃ、撮ろうか」
そう言ってから天神はスマホを操作して、小さく「よし」と呟いた後に、お尻を砂浜に着けて座り込んだ。
そんな不思議行動をとる天神に、僕は不思議そうな視線を送った。
「……何してるの……ほら」
天神は、右手で砂浜をパンパンと叩いて、僕に座るように指示してきた。
「……はい」
僕は海の方にくるりと体を向けながら脱力し、流れるような動作で天神の隣に座った。
そして、天神はスマホのカメラを起動し、少し斜め上に構えた。
「じゃぁ、撮るよ~……葉月君、もうちょっと寄れる?」
「う、うん……こんなもん?」
僕が左腕に体重をかけて、控えめに体を天神の方に傾けると、天神はそんな僕の左肩に手を回して、グッと引き寄せてきた。
何が、とは言わないが、天神の体重が僕に預けられているせいで、柔らかに膨らみが僕の右腕に当たり、とても居心地が悪かった……いや、良いのか……うん、気持ち悪い。
僕はそれを悟られない様に、口角を上げて作り笑いを浮かべた。
スマホの画面には、くっついて並ぶ2人と、その左に湖を掘る陽花の後姿、そして、その上には砂のお城が映っていた。
僕は目線をカメラに向けて、意識を逸らした。
視界の端に映る天神の顔が、少し赤くなっているような気がした。
パシャ、という音を立ててシャッターが切られると、天神が僕からパッと勢いよく離れ、視線を、太ももの上に移動したスマホに落とした。
「ごめん……近過ぎたね」
「いや……大丈夫……」
変な空気になり、僕は顔を上げた。
雲ひとつない空に傾いた太陽が、僕を容赦なく照り付けて輝いていた。
周りの喧騒も、何故か遠くに感じて、体温も上がっている筈なのに、先程まで天神が触れていた右腕の方が、もっと熱く感じ、ジンジンと響いた。
その時、僕のお尻に、ドンと衝撃が走った。
「あの、すみません。そこに居られると邪魔なので、退いてもらってもいいですかね」
首を回して後ろを向くと、僕のお尻を殴った痕跡を残したまま、陽花が目を細めて僕と目を合わせた。
「ごめん……でも、次からは殴る前に声をかけてくれない?」
言いながら、僕は立ち上がって体を陽花の方に向けると、陽花は直ぐに、先程まで僕が座っていた場所を、周りの高さと合わせて掘り始めた。
僕は、そんな陽花から後ろの砂のお城の方に視線を動かすと、既にお城の周りには、シュヴェリーンの特徴的な湖と島が造形されていた。
「……上手いし、早いな」
僕のその感嘆の声に、未だに下を向いていた天神がハッとして立ち上がり、僕と同じく後ろを向いた。
「す、すっご……」
「な……1人の作業ペースじゃ無いよな……」
僕と天神が、何もせずただ突っ立って陽花を褒め殺していると、それが癪に障ったのか、身震いさせた陽花が、掘っていた砂を強く握りしめ、僕の脛めがけて思いっきり投げてきた。
殆ど岩の塊みたいな砂が、勢いよく叩きつけられて、僕は声も出せずに反射で足を上げ、バランスを崩して後ろにズッコケてしまった。
「だ、大丈夫!? 葉月君!」
「う、うん。大丈夫」
心配して屈みこんでくれた天神に返事をして、その奥の陽花を睨みつけた。
すると、最初は驚いていた陽花も、すぐに目をキリっと斜めにして、僕を睨み返してきたと思ったら、直後に俯いてから、ゆっくりと口を開いた。
「……砂遊びが上手なのは、あなたのせいなんですからね……」
言葉の意味が分からず、天神は不思議そうな顔を浮かべ、僕は「ど、どういうこと?」と聞き返した。
「いいから黙って川でも作ってくださいよ」
陽花は早口でそう吐き捨てて、島を造り始めてしまった。
僕は、何となく謝ろうとしたが、口を開いた所で言葉に困り、すぐに口を閉じた。
「……分かったよ。……天神は、どうする?」
天神の顔を見ながらそう聞くと、話しかけられると思っていなかったのか、ビックリしたような顔をしていたが、すぐに手を顎に当てて考え始めた。
「……う~ん……そうだなぁ……」
天神が悩み始めたので、その間に僕は起き上がり、中腰の態勢になった。
その時。
陽花の手が止まったのが視界の端で見えたので、僕が陽花に顔を向けると、今度は目をキラキラとさせて天神を見上げていた。
「天神先輩! 一緒に海で遊びませんか!?」
「え……? でも……」
蚊帳の外の僕が天神を見上げると、申し訳なさそうな顔をしている天神と目が合った。
「折角海に来たんだし、行ってきなよ」
僕がそう言っても、天神は申し訳なさそうな顔を変えることはなかった。
そんな天神を見兼ねてか、陽花はザっと音を立てながら立ち上がり、天神の両手を握って腰の高さまで持ち上げた。
「先輩もこう言ってくれている事ですし、行きましょうよ!」
陽花は余程嬉しいのか、足を小刻みに動かしてパタパタと足踏みしていた。
「えぇっと……でもなぁ……」
「大丈夫だって、陽花もさっきまで1人で座ってて遊び足りないだろうし、天神も体力、有り余ってるだろ?」
僕の言葉に、陽花はにっこり笑って、うんうんと首を縦に振って肯定していた。
しかし、それでも申し訳ないのか、天神は陽花と僕の顔を交互に見ていた。
まぁ、判断するのは天神だし、とそう考えた僕が、視線を砂浜に戻そうと顔を動かすと、その途中で、僕を睨みつける陽花と目が合ってしまった。
1度無視しようとして、でも気になって視線を戻したのが2度見の様になってしまったからか、陽花の目つきが更に怖くなっていた。
もうひと押ししろ、という意味なのだろうが、もう既に言えることは言った僕は、天神を見つめたまま、口をもごもごさせるしか出来なくなってしまった。
太陽に照り付けられて出る汗なのか、焦りによる冷汗なのか分からないが、額からダラダラと汗が伝って、顎から砂浜に落ちていく。
「……どうしたの? やっぱり―――」
これ以上てこずると陽花に殺される。
気が付くと、僕は天神の左手と陽花の右手を掴んで、海に向かって思いっきり走っていた。
天神の持っていたスマホが、宙を舞って何処か彼方に飛んで行ったが、気にしていられない。
「ちょ、ちょっと! 葉月君!?」
天神は驚いたのか、そう叫んでこけそうになりながらも何とか僕に付いてきていたが、一方の陽花は楽しそうに「やったー!」と言いながら、僕を抜かしそうな勢いで跳ねながら走っていた。
熱風の様な風も、周りで遊ぶ人達も、何も気にすることはなく。
結局、僕はパーカーを脱ぐことはなく、3人で海の中へとダイブした。
直前に聞こえた天神の「うわっ!」という声と、陽花の「ひゃっほー!」と言う声が聞こえて直ぐに、僕の聴覚は無くなり、目がヒリヒリして閉じたせいで、視覚もなくなってしまった。
息が切れた状態で海に潜ったせいで、僕は直ぐにぶくぶくと音を立てて息を吐いてしまい、その音だけが脳に響き渡り、気泡が僕の頬を撫でて通り過ぎ、とてもくすぐったかった。
僕は急いで姿勢を立て直し、頭を海面に出して、そのままの勢いで顔を海上にあげ、空を見上げながら思いっきり息を吸い込んだ。
新しい空気が肺の中を隅々まで流れ、とても気持ちがよかったが、そこが海であることに気が付いた僕は、急いで海から砂浜に向かって泳いだ。
パーカーが水を吸いきって、とてつもなく体が重かった。
こんな馬鹿な真似、2度としない。
僕が砂浜で四つん這いになって息を切らしていると、後ろの方から2人の楽しそうな声が聞こえてきた気がするが、疲れたからか、その声も周りの喧騒に溶けて消えていった。
「はぁ……はぁ……僕は、大人しく、川でも掘っておこう」
顔を後ろに向けて見えた、楽しそうに水をかけあう天神と陽花を見て、僕はつい独り言を漏らしてしまった。
それからどのくらいの時間が経ったのだろうか。
熱に焼かれて、途中から時間感覚も記憶も無い。
只ひたすらに、砂のお城とその湖から海まで、川となる溝を掘っていただけだった。
現在、7割は掘り終わった所で、胡坐をかいてボーっとしている。
一体何を見ているかというと、正面でビーチバレーを嗜んでいる天神と陽花だ。
僕が川を掘っている途中で、気が付いた時には、2人は見知らぬ女性と合計4人でビーチバレーをしていたのだ。
断片的ではあるが、そういえば2人が海で遊んでいる時に、声を掛けられていた気がする。
心のどこかで、声を掛けたのが男で無かったことに安心している自分が居て、良く分からなかった。
それから暫く、休憩ついでにビーチバレーを見ていたが、天神がクロススパイクを決めた所で、僕はため息を1度吐いてから起き上がり、川を掘る作業を再開した。
吐く呼吸も、掘る砂浜も、共に火傷しそうなほど熱かったが、どうしてかA型なのが邪魔をして、どうせ水を流すというのに丁寧に川を掘ってしまっていた。
意識がハッキリとせず、朦朧とする中で、僕は思い出した。
唯一ある過去の記憶。
10歳の頃の夏も、こうして1人で川を掘っていたなぁ、と。
その時に来た女の人……。
やっぱりあれは―――。
「葉月君!」
天神の呼ぶ声で、僕は手を止めて顔を上げた。
すると、それと同時に天神が屈んで姿勢を低くしたので、自然と目が合ってしまった。
暖かい風に花の匂いが乗って僕の鼻腔をくすぐり、それが気まずくて、僕は直ぐに目線を掘削中の川へと落とした。
「私も手伝うよ」
天神はそう言うと、今僕が掘っている所よりも、少し先を掘り始めた。
深さも幅も、僕の掘ってきたものとは全く違う、天神の個性が?き出しの川。
僕はそれに繋げるのが何となく癪で、少し迂回して川を掘るようにした。
すると、天神はさらにその川に繋げてこようと、僕が別の川を掘るたびに、くねくねとさせて何度も何度も繋げて来た。
途中、顔を上げた時に、天神が両頬をぷくっと膨らませて、更に目を輝かせ、暑いからか顔を真っ赤にして川を掘っていた。
結局、掘り終えた頃には、川が複雑に入り組み、まるでテスラバルブの様な形相を成してしまっていた。
「……とんでもない事に、なったな……」
「……葉月君のせいなんだから」
「……僕ですか……そうですか」
「……どうする? 埋める?」
「……う~ん……」
僕と天神は、川の終点の海の波打ち際で立ち尽くして、そんなことを考えていた。
等間隔で足のくるぶしまで海水に飲み込まれる。
因みに、陽花は一緒にビーチバレーをした女性たちと、海の家でご飯を食べに行ったらしく、戻ってくる気配は微塵もしなかった。
しかし、それにしても、ひとつ、不思議に思ったことがあった。
「……にしても、誰も気にしてない、みたいだよな」
「……そうだね……皆、川を跨いでは行くけど……嫌な顔とか、不思議な顔とかしてなかったもんね……この砂浜じゃ、普通の事なのかな……」
「……この地域、変わった人が多いのか……」
「いや……そういうことじゃ、無いと思うけど」
そうやって、僕と天神が中身のない会話を繰り広げていると、その背後から目立つ足音が聞こえ、ザっと音を立てて立ち止まった。
「こら! 君たち、危ないでしょ!」
その太くも優しい叱り声に、僕と天神はハッとして、体を後ろに向けた。
するとそこには、胸にライフセーバーと大きく書かれた黄色いシャツと、赤いキャプを被った、目立つ男の人が立っていた。
目立つのはその身に纏った服装だけではなく、ムキムキの筋肉と更に焼かれた肌の色が、この男の人の特異性を助長していた。
しかし、この時の僕は熱でやられていたせいか、どこかおかしく。
謝る事とか、川を埋める事とかをすることはなく。
どういう訳か、天神の手を取ってビーチパラソルへと走っていた。
「ちょ、ちょっと! 葉月君!?」
天神の必死の静止も、今の僕には届いていなかった。
ビーチパラソルの下のレジャーシートに、2人並んで倒れ込むように寝ころび、僕は直ぐに仰向けになって、必死に深呼吸をした。
顔を上げると、男の人は追いかけて来るわけでもなく、先程と同じ位置に立ったままで、腰に手を当てて呆れた顔を僕の方に向けてきていた。
「はぁ……はぁ……ねぇ、葉月君……」
「ん?」
天神の声に、僕は顔を動かさずに答えた。
「逃げて、どうするの? はぁ……」
「……そりゃ、勿論海水を―――」
「……どうしたの?」
僕がゆっくりと顔を天神の方に向けると、不安そうな顔の天神も僕の方を見ていたようで、目が合ってしまった。
「海水、汲んでくるの、忘れてた」
「そっか……あれ? バケツ、どこやったの?」
「あぁ、そっか……川の溝を強化するために、濡らしながらやったから……バケツ持って行ったんだった」
「そうなんだ……あれ……?」
天神がバケツを探そうとしたのか、顔を上げ、しかし不思議そうな声を出したので、僕も顔を上げて、同じ方向を向いた。
すると、そこに映ったのは、その体格に不釣り合いのバケツを持った、先程のライフセーバーの男の人が、僕たちの方に向かって歩いて来ている所だった。
「な、なんで近づいて、来てるの?」
「……まぁ、冷静に考えて……逃げたし」
「……そっか……怒られるのかな……」
「……殴られたら、ケガじゃ済まなそうだな……」
「……殴らないでしょ……多分」
「……覚悟は、出来てるけどね」
しかしまぁ、特に危機感もなく。
気が付いた時には、男の人は僕の目の前まで来ていて、やはり、立ち止まった。
その反動で、バケツパンパンに入っていた海水が跳ね、数滴砂浜に落ちて沈んでいった。
「君たち、忘れものだよ」
そう言って、男の人は優しく砂浜にバケツを置くと「それにしても」と流れるように屈んで、砂のお城の方を向いて続けた。
僕たちはその様子を、目をまんまるにして見上げ、硬直し、見つめることしか出来ない。
「ここまで凄いサンドアートは初めて見たよ……造りが細かいな」
男の人は、砂の一粒一粒まで細かく見ていそうなくらい目を尖らせ、唸りながら、砂のお城の周りをくるくる回り始めた。
気が付くと、太陽は殆ど真上の位置に来ており、砂にその光が反射してキラキラと輝き、男の人に反射して、凄く眩しかった。
「君たち、こういうの好きなの?」
その眩しさから、手で眼前を覆い、見えたのは男の人の隆々な足元だけだったが、声音からワクワクしているのが伝わってきた。
僕は眩しさから目を細め、顔を見れないまま、大して考えもせずに答えた。
「好きですよ……僕、泳げませんし」
僕のその返答に、男の人の表情は見えないが、どこか満足そうに、うんうんと激しく首を縦に振っているようだった。
「そうか、だったら……これに出てみないか」
そう言って、男の人は真っ赤なパンツのポケットから、とあるパンフレットを取り出して、僕に手渡してきた。
僕は右手でそれを素直に受け取り、内容を確認した。
すると、それが気になったのか、天神が右からパンフレットを覗き込んできた。
その際に、天神の左手が僕の右手に触れ、更に、たわわが僕の右腕に押し付けられて、何が何でも僕は右腕を動かすことが出来なくなってしまった。
ビーチパラソルのおかげで陽は当たっていないはずなのに、顔から火が出そうなほど熱かったが、僕は煩悩や本能、思考、思想を全てゼロにして、視点を一切動かさず、ただボーッと、ぼやけて見えるパンフレットの文字を眺めた。
そんな僕の気持ちを知ってか知らないでか、天神はそのパンフレットの文字を読み上げ、勝手に教えてくれる形になった。
「8月15日、サンドアート大会……1位が50万円、だって!」
「ご、ごじゅう……まん?」
一体、深夜バイト何日分の給料なんだ……?
僕がその金額に驚愕していると、只でさえぼやけているパンフレットの奥にある、更にぼやけた男の人の足が、右足左足と交互に後ろに動いて、回れ右をしたように見えた。
そこで、僕はパンフレットから顔を上げ、男の人に視線を向けると、男の人は体を後ろに、顔だけを僕の方に向けて口角を上げ、にっこり笑っている様に見えた。
「まぁ、1位じゃなくても、5位まではそれにあった賞金が出るし、参加賞でも雑貨用品がもらえるから……興味があったら参加してみてよ」
僕は直ぐにその言葉に反応出来ず、ポケっとしていると、男の人はそれでも満足したのか「じゃ」と言って、どこかへ消えて行ってしまった。
「……ねぇ、参加するの?」
僕が離れていく男の人の凛々しい背中を追いかけていると、右にべったりくっつく天神が、耳元でそう話しかけてきた。
「……どうだろ……参加費とかは、書いて無いんでしょ?」
「ん? うん、書いて無いけど……え?」
「え?」
そこで、久しぶりに天神と目が合った。
「……見えてないの?」
「……うん……どうしてだと思う?」
僕が嫌見たらしく、にっこりと笑って問いかけると、天神はそれでも気が付かないのか、分かり易く、? を顔に浮かべ、つぶらな瞳で僕を見てきた。
そうか……気が付かないか……。
僕は諦め、右手をあまり動かさないように気を遣いながら、手首のスワップを利かせて左手に向かってパンフレットを投げつけた。
しかし、力が全く足りなかったのか、パンフレットはバサッと音を立てて風に攫われ、虚しく地面に落下した。
そこで初めて、パンフレットが見開きであったことに気が付いた。
ついでに、天神は何故僕がパンフレットの文字を読めていないか察したようで、天神は僕の右腕からパッと離れ、視界の端で顔を真っ赤にして下を俯いていた。
僕はその天神を無視して、砂に隠されそうになっているパンフレットを右手で持ち上げ、パラっと表紙を捲って、内容を確認した。
するとそこには、過去のその大会の優勝者のチームとメンバーの名前、更に、その作品の写真が載っていた。
どうやらこの大会、今回で6回目らしく、第1回から全ての作品が載っていたのだが、その中でも一際目立つ作品があった。
それは、第1回の作品だから目立ったとか、そういう訳ではなく。
他の第2~5回までの作品は、マーメイドやイルカの生き物や日本城、竜宮城等の建造物だったのだが、第1回の作品だけが何故か、『大きな木』だったのだ。
凄く精工とか、描写が細かいとか、ディティールが凄いとか、そんなことは全くない優勝作品。
だからこそなのか、僕の目はその作品から動かすことが、出来なかった。
「どうしたの?」
そんな硬直した僕が心配になったのか、天神が今度は僕と直角に正座をして、パンフレットを覗き込んできた。
「いや……どうということは、無いんだけど」
僕はパンフレットを左手に持ち替えて天神の方に寄せると、天神はパンフレットの右端を持ち、目をキラキラと輝かせていた。
「み、みんな凄いね……私たち、入賞すら出来ないんじゃない?」
確かにどの作品も出来は良く、素晴らしいのだが……どうやら、天神には別に、第1回の作品は目に止まらなかったらしい。
だが、妙に、何かを誤魔化そうとしている様にも見えた。
「あれ……ねぇ、葉月君」
「ん?」
「ここ、この名前……」
天神は何かに気が付いたのか、不安そうな声を出しながら、空いた手でパンフレットを指さした。
僕はその綺麗な指、ではなく、指さされた文字を見て、自分の目を疑いたくなった。
そこには『チーム名:Ocean View メンバー:葉月瑞 天神栞』と、そう書かれていた。
「……疲れてるのかな」
僕がパンフレットから手を放して目頭を親指と人差し指で押さえると、パンフレットはだらんと脱力して、天神の方へと落ちて行った。
「……私、昨日はよく眠れたけど……変な文字が見えるんだよね……」
そう言って天神は、丁寧な動作でパンフレットを両手で持ち上げ、パンと音を立てながら閉じると、そっと左側のレジャーシートの上に置いた。
「……よし……海水、流すか」
臭い物に蓋をするように、僕は右手をパンフレットの上に置いて立ち上がると、天神は僕を見上げ、暫く何かを考えてから、諦めたように「うん」と言って立ち上がった。
僕は特にそれを気にせず、海水の入ったバケツを持ち上げ、シュヴェリーン城の周りの湖に、ゆっくりと流し込んだ。
固められた砂の上に流された海水は、浅く掘られた湖をあっという間に埋め尽くしていった。
盛り上げられた小さな島々に海水がぶつかって、小さく波が立ち、島を削りながら、ゆっくりと、静かになっていき、陽の光を反射して眩しく輝きはじめた。
僕はそれを見ながら、静かにバケツを砂の上に置き、少しだけ感動していると、横に立つ天神が、何かに気が付いたように「あ」と小さく呟いてから振り返り、レジャーシートの上で雑に丸まった、自分のジャージをゴソゴソと漁り始めた。
「どうしたの?」
僕のその問いかけに、天神は漁る手を止めることなく「陽花ちゃん……呼ばないと」とそう小さく答えた。
「そうか……陽花か……忘れてた」
「……それ、陽花ちゃん傷つくと思うから……聞かなかったことにするね……っと……あったあった」
天神はジャージを持ち上げて、その勢いでポロっとスマホが宙を舞い、、天神はそれを追いかけるように、勢いよく立ち上がり、バランスを崩して前に倒れそうになりながら、何とかスマホを両手でつかみ取り、右足を砂を巻き上げながら大股で前に出して力を入れ、倒れないよう精一杯に耐えていた。
僕は彼方に飛んで行ったと思っていたスマホが、ジャージの傍に落ちていたことに感動しつつ、その一連の動作を他人事のようにポケッと見ていたが、気が付くと僕は、両手を前に出し、称賛の拍手を送っていた。
すると、天神は態勢を変えないままゆっくりと顔を動かし、僕を睨みつけてきた。
そこで僕は手を止め、にっこり笑ってから、振り返り、海水の進み具合を確認した。
海水は順調に流れ、もう少しで海に辿り着く、そんな所まで来ていた。
……バケツって、こんなに海水入るのか……?
僕がそんなことを疑問に思っていると、電話が終わったのか、天神が僕の前に来て立ち止まり、僕の顔を見上げてきた。
「ねぇ、葉月君」
「ん? どうしたの?」
僕が川から天神の顔に視線を動かすと、天神は僕の目を見つめ、頬を少しだけ赤くして、小さく笑っていた。
今日、この海に来てから、天神と目が合うことが多い気がする。
そのせいか、天神と話す際に挙動不審になって喋り方が変になったり、顔が急に真っ赤になったり、しなくなった気がする。
……天神も、そうだといいなぁ。
と、真顔で気色の悪いことを考えていると、そこでようやく天神が口を開いた。
「あっち、行こ」
そう言いながら、天神はピンと左腕を伸ばして真っすぐ指さした。
「ほう」と言いながら、僕はその指さされた方を向く。
するとそこは、砂浜の終わりを告げる、ほぼ壁の様な岩場だった。
僕は目を細め、天神の方を向き直し、目を見つめた。
すると、天神は先程よりも、更に目をキラキラと輝かせていた。
「……よし、行こうか」
「うん!」
僕が歩き出すと、天神が遅れることなく、パタパタと僕の横に並んで一緒に歩いた。
そんな道中、、密かに僕は、いつか断れる人間になろうと、そんな決意を勝手に1人で表明していたのだった。
賑わう砂浜を無事に抜け、岩場の前に到着すると、2人で同時に立ち止まった。
先程まで快晴だった空に、雲がぽつりぽつりと現れて太陽を覆い隠し、蒸し暑さと潮風と喧騒だけが感じられ、少しだけ、気分が落ち込んでいた。
「……で、何しに来たの?」
僕が聞くと、天神は「んん」と唸りながら、首をせわしなく動かして、岩場にある何かを探し始めた。
そんな天神を不思議そうに見つめていると、その視線に気が付いたのか、天神が続けて口を開いた。
「んっとね……この奥にね……岩場に挟まれた扇状の砂浜があるらしくて……」
天神はそこで話すのを止めて、僕の顔を見ると、ニコッと笑って続けた。
「行きたくない?」
「うん、行きたい」
僕は、即答していた。
それから3分くらい。
周りからの視線を受けながら、岩場の通り抜けれそうな道を探していると、ある点で、岩場の方向から風が吹いていることに気が付いた。
そこを、岩場とほぼ平行に海の方向から観察してみると、岩場の表面が出っ張っていて、その奥に道の様なものが見えた。
僕は、岩場から離れて岩場を観察していた天神の方を向いた。
すると、天神はフォトグラファーの様に、両手の親指と人差し指を合わせて、横長の小窓を作り、岩場を観察していた。
……一体、何を探してるんだ……?
そう思いながらも、僕は右手を大きく振りながら「おーい」と天神を呼んだ。
天神はそれに気が付いたのか、ニコッと笑いながら左手を大きく振り「見つかったの~?」と質問してきて、一切僕の方に来る気配がない。
……来ないんかい。
僕は右手を止めて、手首を縦に動かして、こっちに来るように招いた。
しかし、天神はその意図が掴めなかったのか、振る手を止めて疑問符を顔に浮かべ、不思議そうに首を傾げていた。
……結構距離あるから、叫びたくないんだけどなぁ……。
僕は諦めて手を下ろし、口に手を当てた。
「天神! 見つかったぞ!」
そう叫ぶと、天神とその周りの人が僕の方を一斉に向いた。
天神は目を丸くしていたのだが、周りの人の目は、まるで俗物を見るような目で、凄く居心地が悪かった。
……早く来てくれ。
「見つかったの!?」
すると、その願いが通じたのか、天神はハッとして、次の瞬間には満面の笑みで僕の方へ走ってきた。
周りの目が、僕から天神に移った。
一方の僕は、あまりに揺れる何かが見え、とてもじゃないが見ていられず、岩場の方に体を向けた。
それから少しして、息を切らした天神が僕の横に並んで、膝に手をついて肩で呼吸し始めたが、僕はそれを無視して説明を始めた。
「こっち、来てみ」
僕が砂浜への抜け道の見える所へ移動すると、天神も直ぐに姿勢を伸ばし、腰に手を当てて息を切らしながらゆっくり付いてきて、僕の右側で立ち止まった。
天神はその場所から、僕の指さす場所を目を凝らして見始めたが、それでは見えなかったのか、僕の体をグイっと強く押して場所を取り、再度目を凝らして抜け道を探し始めた。
「あ、ほんとだ……凄いね、よく見つけたね……」
「まぁ、何だろうな……言いたいことは色々あるんだけど……」
僕は、ゆっくりと、天神の膨らみに目を向けた。
しかし、次の瞬間に、天神が僕の方に目を向けてきたので、僕はサッと天神の顔に視線を向けた。
「え? 何かあるの?」
「……天神は……この道、通れないかもな」
「え? な、何で?」
天神の顔を見るに、本当に分かっていないようで、僕はどう教えてあげれば良いか分からなかった。
僕は、不思議そうな顔の天神から、改めて抜け道の方を向いた。
……何とか、行けるのか……。
「いや、何でもない……でも、危なかったら止めよう」
「う、うん……分かっ、た?」
終始不思議そうな天神を無視し、僕は上に来ていたグレーのパーカーを脱いで、天神に手渡した。
しかし、その意図を理解していないのか、天神は「何? これ」と更に更に不思議そうな顔になって僕を見ていた。
「これを着て、先に行ってくれ……」
僕は意図を伝えるのを諦めて、要点を伝えて天神の背中を押した。
「わ、分かったよ……ちょ、ちょっと待って」
天神はそう言うと、僕のパーカーを体の前で広げ、何かを躊躇っている様子だった。
顔も少し赤かったし……風邪でも引いたのかもしれない。
「大丈夫?」
僕が声を掛けると、天神は体をビクッと縦に揺らしたと思ったら、その後直ぐに、素早くパーカーを着始めた。
その間に1度瞬きをすると、次の瞬間には天神は岩場の抜け道へ入ろうと、挑戦し始めていた。
すると、僕が危惧した通り、胸のふくらみがギュウっと岩場へと押し付けられ、凄く通り難そうだった。
岩場に引っかかり、ケガをしないがkあ、凄く不安だった。
「どう、通れそう?」
僕がそう声を掛けると、天神は何故か目をギュッと力強く瞑って、一生懸命、ゆっくりと動き出した。
どうやら、僕が言いたかった事が分かったらしい。
天神は顔を真っ赤にしていて、僕は不安になったが、次の瞬間に、体が半分抜け道に出た反動で、一気にもう半分も抜け道に出て行った。
その勢いで、天神は倒れたらしく、こちらからは足しか見えず、不安だったので僕も急いで抜け道に入った。
僕の不摂生が功を奏し、何にも引っかかることなく抜け道に出たが、そのわずかな間に、さっきまで倒れていた筈の天神はどこかに消えていた。
もう既にこの先の砂浜に行ったのだろう。
僕は顔を上げ、抜け道の先に見えた、陽の射していない、薄暗い砂浜に向かって歩いた。
砂浜に出ると、そこは先程の天神の話で聞いていた通り、扇状の砂浜が岩場に隔絶されており、その真ん中にぽつりと、青赤白のビーチパラソルが立っていた。
更にゴミなのか、丸く赤い浮き玉や、それについていたロープ等も撒き散らされていて、全く整備されている様子が見られない。
しかしそれにしても、どういう訳か、天神の姿が見えない。
「天神!」
僕はそう叫ぶが、その声は虚しく岩場に吸収されていった。
……どこに行ったんだ。
僕は首を回して、辺りを確認した。
その時。
「は、はづき! くん! こ……こっち!」
天神の緊迫した僕を呼ぶ声が海から聞こえ、僕は顔を海に向けた。
すると、そこには。
「た、たす―――けて! この子、だけでも!」
この海に不釣り合いな程大きい渦に、天神と浮き輪をつけた男の子が、今にも呑まれそうになっていたのだ。
「す、すぐに助ける!」
そう、言ったはいいものの、絶対に僕だけじゃ無理だ。
僕は急いで助けを呼ぼうとガラケーを探したが……そういえば、天神にジャージを貸したから、手元に無いんだ。
僕は辺りを見渡した。
すると、投げ捨てられた僕のジャージを見つけた。
僕は顔を上げる。
すると、天神が助けたのか渦に呑まれそうになっていた男の子は渦の外に出ていたが、天神は今にも渦の真ん中に呑まれそうになっていて、顔も一瞬しか海面に出てこなかった。
僕は、急いで向かいながら、状況を整理した。
男の子を助けるとはいえ、天神が無謀にも海に突っ込むことがあるのか?
僕は天神から男の子の方に顔を向けた。
すると、男の子が掴んでいる浮き輪に、ロープが繋がっているのが見えた。
僕は走りながら、そのロープを目で追った。
すると、その元に繋がっていたのは浮き球で、砂浜に少しだけ掘ってあった溝に引っかかっていたが、渦の勢いに負けて、今にも外れそうになってしまっていた。
そこで、僕は先程の天神の言葉を思い出した。
……この子だけでも……か。
僕は渦の方から、男の子が繋がれている浮き球に体を向けた。
「……間に合え!」
叫んだとほぼ同時に、浮き球は砂浜の拘束を抜け出して、上にポンと打ち上げられた。
渦の勢いがどれだけ凄いかが分かる。
僕はその浮き球を、何とか空中でダイビングキャッチし、更にそれを引っ張って、今度はロープを全力で握りしめた。
ロープを腕に巻きつけながら、渦の勢いに何とか抵抗し、男の子を砂浜の上に打ち上げることが出来た。
僕は急いで男の子の呼吸を確認しに走った。
男の子は、気絶しているだけで、しっかりと呼吸はしていた。
僕は男の子を回復体位で横に寝かせてから、浮き輪を持って海に入った。
迷っている暇はなかった。
僕が渦に近づくと、やはりその勢いは凄く、僕は渦の流れに逆らわないように、浮き輪に体重を預け、なるべく顔を海面に出して、状況を確認した。
「天神!」
そう、声を振り絞っても返事は無いし、頭1つすら見えなかった。
僕は、一瞬、心を落ち着けるために目を瞑った。
「……ふぅ」
迷っている、暇はない。
死ぬかもしれない。
でも、構わない。
僕は目を瞑って大きく息を吸い、浮き輪のロープを握りしめて、一気に海に潜った。
全身がチクチクして、苦しかったが、とにかく落ち着いて、ゆっくり目を開き天神を探すことに神経を集中させた。
冷静に考えろ……渦の行きつく先だ……。
僕は潜水した位置から、渦の中央の位置を考えて、その方向を向いた。
……しかし、誰もいない。
……もっと下なのか。
だが、ロープの長さは全く足りない。
僕はロープから手を放し、全身を使って勢いよく潜水した。
目が、慣れてきていた。
渦の流れが見えてきたおかげで、随分下に流されてしまっている天神を発見した。
天神は、全身脱力し、頭を下にして流されていた。
……時間が無い。
それとも、手遅れか。
僕は必死で足を動かしたが、何せフィンもなく、久しぶりの海だからか、渦の流れるスピードに追い付ける気がしなかった。
結局。
僕が天神に追いついたのは、渦の流れの弱くなってきた、随分海底の方で、息ももう持ちそうにもなかった。
だが、このまま諦めて、天神を見殺しにする訳にはいかない。
僕自身、やり残したことが、山程ある。
僕は海底に足を着き、思いっきり蹴飛ばした。
その衝撃でなのか。
天神の口から、ポコポコっと気泡が飛び出して、僕はそれを追い抜いた。
……2人は、無理か。
僕は既に攣って動かないはずの足を必死で動かしながら、覚悟を決めた。
僕、頑張ったよな……もう、諦めても、文句、言われないよな……。
手を上に伸ばし、背を伸ばし、ロープをギュッと握りしめた。
そのロープを天神の細く華奢なくびれにギュッと結ぶと、僕は天神の口を開いて、自分の口で覆い隠した。
いや、只の変態行為ではなく。
右手を顎に当て下に引き、僕は残った息を吹いて押し込んだ。
そして、その息が漏れないように、離すと同時に天神の口を閉じた。
……心臓は動いていた。
奇跡だ……だったら、今の息も……意味はあったと……思いたい。
気が付くと、僕は沈み始めていた。
不思議と苦しくない。
そして、何故か分からないが、手足と体が凄く冷たい。
沈みながら、考えていたのは、天神の事だった。
視界の先で、天神が誰かに引っ張られて、海面に上がっていくのが見えた。
……天神は、助けを呼んでから海に入ったのかもしれない。
ガラケーのパスワードも設定出来ないくらいの情弱で良かったなと、初めて思った。
天神は良く出来ている。
気を遣えて、笑顔で周りを元気にできる。
僕は……天神が、好きだったのだろうか……。
ギュゥっと何かが体を締め付けてきた。
最初、これが恋心か。
とか考えたが、視界の端で、うねうね動く黒い触手の様なものが見えて、恋心ではないと気が付いた。
肺の空気がちゃんと全て出され、口から気泡が溢れてきた。
口を開き、白目を剥き、殆ど前も見えてなかった。
だが、このまま死ぬのはなんか惜しくて、全力で情報を得ようと、酸素の足りていない脳みそをフル回転させた。
上を向いて見えたのは、海に入る陽花と、あのライフセーバーの男の人だった。
そして、この触手の様なもの。
どこか、映画のフィルムの様にも見えた。
その触手の力で、僕の体は海底の方に向けられた。
その先。
岩の間に、不気味な青い光を纏った、泡の様なものが見えた。
触手の様なものは、そこから生えてきているようだった。
ぼやける視界の中、泡の中に人の様なものが見えた。
それは、体育座りで足を抱える裸の女の子の様で……知った様な顔でもあった。
「……は、はる……か?」
僕の意識は、そこで途絶えた。
あれが、陽花だったのかどうかは分からない。
最後の記憶は、只の、それだけだった。