2.そして夏休み
今思えば、あの始業式の日がとても懐かしい。
あの日から、天神が水泳部のマネージャーになったり、陽花がずっっっと居候してたりと色々あったが、それも全て、今から始まる夏休みで清算されるだろう。
現在僕は、午前中で終わった学校の校門前で天神を待っていた。
天神はあの始業式の翌日から、水泳部のマネージャーとして入部したのだが、いつも忙しそうに放課後の室内プール内を動き回っていた。
個人個人の記録や体調管理、道具の管理などが主な仕事らしいが。
潮風先生は部下を使い潰すタイプの上司らしい。
末恐ろしくて、真夏の今日でも鳥肌が止まらない。
そうして僕が両腕で体を抱えて震えていると、多数の生徒の足音の中で一際大きく、快活な足音が僕に向かって近づいてきた。
「ごめん葉月君! ちょっと遅くなった!」
その声の方を向くと、天神が息を切らして僕の前で急ブレーキをかけて止まった。
天神は手を膝に付いていて過呼吸気味になっており、どれだけ急いで来たかが分かる。
「全然良いけど……大丈夫?」
「はぁ……はぁ、……うん、だ、大丈夫……」
本当かよ、と思ったが口に出さず、天神の息が整うのを待つことにした。
しばらくして、天神は腰に手を当てて伸びをすると「ふぅ」と言って何事もなかったように僕を見た。
「よし、帰ろうか」
「……うん」
この数か月で、天神の御転婆な性格にも慣れてしまった。
「あ、そうだ、葉月君」
「ん?」
歩き始めて数分後、それまで無言だった天神が、僕を見上げて話しかけてきた。
「3日後なんだけど……」
「うん」
「……えっと」
もじもじして、上目遣いに言葉を詰まらせた天神を、急かすことなく、続きを待った。
暫くして、意を決した様な表情で、天神が顔を上げて口を開いた。
「3日後、一緒に海行こ!」
「うん、いいよ」
僕の即答が意外だったのか、天神は立ち止まりポカンとした表情を浮かべた。
「どうしたの?」
それに合わせて僕も立ち止まって天神の方を振り返った。
すると、天神は急にぷくっと怒り、吊り目になって近づいて来ると、僕の右足の先をギュゥと左足で踏みつけてきた。
天神が軽いからなのか、力がない為なのか、全く痛くない。
「……やめろよ」
「ん、知らない」
天神は足を離すと、僕を置いて先に駆け足で進んでいった。
少し遅れて僕も進み始めると、天神が急に振り返って「じゃぁ、3日後ね!」と言って走って去って行ってしまった。
追いつく気が起きなかった僕は、その遠くなって行く背中を見ながら歩いていると、後ろからトンと僕の背中を誰かが叩いて来た。
誰が叩いてきたのかを確認しようと振り返ると、その人物は僕の視界から隠れるようにして小さく屈み、僕が振り返った方向とは逆の方向から回り込むようにして前に出てきた。
「せ~んぱいっ、お疲れ様です」
声で犯人を察した僕が歪めた顔を戻すと、そこには上目遣いで両手を後ろに回し、いたずらっぽく笑う陽花が立っていた。
「何ですか!? その顔は!」
ぷんぷん怒る陽花だが、後ろから複数の男女の楽し気な会話が聞こえてきた僕は、そんな陽花の頭をぽんぽん軽く叩いて、歩き出す。
「ちょ、ちょっと! 何で無視するんですか!」
急に歩き出した僕に驚いた陽花が、少し遅れてトコトコと隣に並んで来てそう叫んだ。
「何? 自分の家に帰る気になったの?」
「な!? まだそんな事言ってるんですか!? だから、帰るも何も、家が無いって何度も説明したじゃないですか!」
「その度に、言ってる意味が分からないって言ってるだろ」
「ぐぬぬぬ……まぁいいです。先輩には女の子を追い出す勇気なんて、無いでしょうから」
「……ぐぬぬ」
全くその通りで、返す言葉が無い。
あの始業式の次の日に、我が物顔で僕の家に帰ってきていた陽花を、追い出すことが出来なかったのがすべての始まりだった。
その日以来、陽花を追い出す事も出来ず、ずっっっと居候されている始末だ。
あの日、力尽くでも追い出していれば違う未来もあったのだろうか……いや、僕にそんな事、出来るわけが無いのか。
「そうだ、先輩」
「ん~?」
歩きながら話しかけてくる陽花に、適当に相槌を打って続きを促した。
「今日はバイトの日ですか?」
「ん~? うん?」
「ん?」
急に立ち止まった僕に1歩遅れて陽花が立ち止まり、振り返って不思議そうな顔を浮かべた。
しかし、驚きたいのは僕の方だ。
「何で、僕がバイトしてる事、知ってんの?」
「え? えっと……何で?」
バイトを再開するのは今日から出、陽花にはもちろん天神にも言ってないし、学校から直に向かっているので、バレるはずが無いのだ……。
「ま、まぁとにかく。質問に答えてくださいよ……あるんですか? 無いんですか?」
「……あるよ」
何か隠し事でもあるのか、話をはぐらかされた気がするが、時間も無いので正直に答えた。
「分かりました! じゃぁ、部活帰りに寄りますね」
そう言って、陽花は学校の方に颯爽と走り去ってしまった。
何を言っているのか分からず、僕は呆然と立ち尽くし、その背中を見送った。
見えなくなって数秒後。
ようやく脳の思考が追いついてきて、言葉の意味を呑みこめた。
「今日、部活―――あぁ、そういえば陽花は推薦だったか……というか……来る気かよ」
僕は小さく「はぁ」とため息を吐き、バイト先のファミレスへと小走りで向かった。
ファミレスは、僕の家へと続く曲がり角の、国道を挟んだ向かい側にある。
国道沿いにあるためか、休日や祝日、夜間は毎日ピークでお客さんが訪れる。
僕は1年生の頃にこのファミレスで働いており、給料を生活費に当てていたのだが、ある程度貯金ができたのを機に、倹約しつつバイトを暫く休んでいたのだが、2年生で予想以上にお金を使っていたので、夏休みを機に再開することにしたのだ。
僕はファミレスの北側にある店員用の駐車場を横切り、店員用の入口から中に入った。
もう少しでピークが来るので皆キッチンに居るのか、ロッカーのある更衣室兼休憩スペースはガランとしていて、僕のタイムカードを切る音だけが悲しく響いた。
自分のロッカーの中に、必要な物だけ入った薄い鞄と学校の制服を入れ、ファミレスの制服に着替えた。
そして、その部屋からキッチンへと繋がる、扉のドアノブに手を当てて開いた。
「お疲れ様で~す」
言いながら扉を閉めて前を向くと、キッチンに見えたのは1人の男性だけだった。
しかも、サングラスを掛けてスマホを触り、パイプ椅子に腰掛けていて、働こうとする様子すら見えない。
「ん、誰だ、君は」
僕が見ていると、男の人はその視線に気が付いたのか、パイプ椅子から立ち上がってサングラスを外した。
背は僕よりも10cm程高く、金髪でバランスが良く鼻筋の通っている顔立ちのイケメン、そして何より、目の色が赤く、低い声も相まって厚い威圧感を感じた。
「は、初めまして……今日から復帰の、葉月瑞です……」
男の人は無言で僕を睨みつけたまま近づいてきた。
目の前で立ち止まり、腰を曲げて顔の高さを合わせ、顔を覗き込んでくる。
「な、何でしょう……」
僕はそれに怯んでしまい、1歩後退りして距離を取った。
「そうか……君が葉月君か……姉貴―――いや、前の店長から話は聞いてるよ」
男の人は腰を伸ばし、ため息をついてサングラスを戻しながらそう言った。
前の店長……ってことは、この人が今の店長なのか……? まぢか?
「これからピークだってのに、今日は俺1人のワンオペだったから、助かるよ」
「1人……?」
嘘だろ? ホールもキッチンも1人で回すとか、無理があるだろ。
「あぁ、だが君を入れて2人だ。俺は吉沢洋哉、これからよろしく頼むよ」
「よ、よろしくお願いします」
「うん、じゃ今日は、君がホールで、俺がキッチンで行こうか」
吉沢さんはそう言ってパイプ椅子に戻ってしまった。
「あの……キッチン、ホール各1人って……無理ないですか?」
只でさえこのファミレスは無駄に広く、禁煙と喫煙の席を入れて50席はある。
夜間はその席がほぼ満席になるのだ。
僕は絶望の表情で吉沢さんにそう問いかけた。
すると、吉沢さんはサングラスをクイッと上にあげて僕を睨みつけてきた。
「おかしいな、姉さんから聞いた話だと、君は有能らしいんだがな……当てが外れたか?」
「……いくら有能だって、50席近くを捌くのなんて、無理がありますよ……」
吉沢さんはサングラスとスマホをポケットにしまい、1息置いてから返してきた。
「そうだな……じゃぁ、1つ話をしてやろう」
「え?」
急な話に呆気に取られる僕を、お構い無しに吉沢さんは続けた。
「君以外のバイトはな、葉月君。4ヵ月前に全員辞めていったんだよ……進学や就職を理由にね」
4ヵ月前……確かに、丁度そんな時期か……ん?
「ということは……」
「そうだ、それから今日まで、俺は1人で回してきた……だから2人になるってのは、俺にとって相当嬉しいことなんだよ」
どんな超人だよ……てか、本社は動かないのか……?
「……でも」
「まぁ、だから」
吉沢さんは立ち上がり、エプロンを右腕に掛けて近づいてきた。
「だから、安心して注文を取ってこい……カバーは任せろ」
すれ違いざま、左手で僕の肩をポンと叩き、吉沢さんはエプロンを身に着けた。
……か、カッケェよ……吉沢さん……。
僕が吉沢さんの背中を見て感涙を浮かべていると、ファミレス入口で、お客さんが入ってきたときに鳴る音楽が、店内に鳴り響いた。
「じゃぁ、行ってきます」
「おう、行って来い」
吉沢さんに見届けられて、僕はキッチンからホールに出た。
それからは……本当に地獄だった。
まず机を1つ1つ拭いて行き、呼び鈴の鳴った席に注文を取りに行き、それを吉沢さんに伝え、何故か切れまくるドリンクバーを充填し、食器を片付け、レジを取り―――その間にもお客さんは入り続け、それに合わせて音楽も鳴り続ける始末。
……途中、ノイローゼになって倒れてしまうかとも思った程だ。
予約ボードの名前も減るどころか増え続けるし……本当の絶望を思い知らされた数時間だった。
吉沢さんは余裕があったのか、作った料理を自分で運んでくれていたので、本当に助かった。
……これ、1人でやってたのかよ……。
現在、夜中の23時。
ピーク時が嘘のようにお客さんは減り、2組がカードゲームや携帯ゲームをしているのが見えるが、注文が通ってこないので、ようやく休憩することが出来ていた。
「ナイスファイトだ、葉月君」
立ったままの吉沢さんが、腕を組んで僕をそう労ってくれた。
僕は吉沢さんに譲られたパイプ椅子に、両肘と両膝をぴったりとくっつけて前のめりに脱力していた。
「……これを1人で回すって、どんな超人ですか……凄すぎますよ……はぁ」
「ん? あぁ、あれ」
僕は顔を上げて吉沢さんの顔を見ると、吉沢さんは口角を上げて笑っていた。
「あれ、勿論嘘だよ、無理に決まってるだろ」
ははは、と吉沢さんは笑うが、僕は疲れと呆気で声も出なかった。
……やっぱ、無理があるよな……そりゃそうだ。
だが、そうなると1つの疑問が浮かび上がってくる。
「でも、今日僕以外来てないですよね……吉沢さん、1人でどうする気だったんですか?」
「ん? あぁ、1人で回したことが無いわけじゃないから、何とかなるか~ってね」
……やっぱり、吉沢さんは超人だったようだ。
「そうだ、葉月君の知り合いで、バイト探してる子いないの?」
「……う~ん、そうですね……」
僕がそう言って顎に手を当てて考えていると、久しぶりに入口の音楽が鳴った。
僕は考えるのを止めて、立ち上がった。
「行ってきます」
「おう」
僕はホールに出て、レジ前に立つ2人組に近付いた。
「あ、先輩! お疲れ様です!」
僕が顔を上げると、そこには制服姿の陽花と、その後ろに私服姿の天神が居た。
陽花は元気そうに手を大きく振っているが、天神は何故か恥ずかしそうにもじもじしていた。
天神の着ている服は、明るいベージュのストレートパンツに白色のブラウス、黒色のサンダルと、清楚な感じで纏まっていて、とても似合っていた。
声に出して伝えるのは無理だが、本当に、似合っていた。
「では、御自由な席へどうぞ~」
僕はにっこりと作り笑顔でそう言ってから、踵を返すと、そんな僕の腕をガっと掴んでくる不届き物が居た。
「先輩、ちゃんと案内してくださいよ~」
今はお客さんが少ないから良いが、陽花は家でも同じノリで来るので僕は少しピキって振り返り、またしっかりと引きつった作り笑顔を浮かべた。
「では、お客様? おタバコはお吸いになられますかぁ?」
「私、未成年ですよ!?」
僕は引きつった笑顔を浮かべたまま、禁煙の席へと案内しようとしたその時、陽花の腕を後ろに立っていた天神が勢い良く掴んで、さっさと禁煙の席に座って行った。
天神と目が合わない事が不思議だったが、凄く助かったので手を合わせて感謝しつつ、僕はキッチンへと戻った。
キッチンに入ると、吉沢さんがパイプ椅子の上に立って足をピンと伸ばし、上の換気用の窓から禁煙席の方を覗き込んでいた。
「……何してるんですか、吉沢さん」
僕のその声に驚いたのか、吉沢さんはガタンと椅子を傾けながらも、何とかバランスを取り、椅子の上に屈んでから顔をゆっくり上げ、恐る恐る僕の方を見た。
「葉月君……あの美人2人組は……君の知り合いなのか……?」
青ざめた表情を僕に向けて、姿勢を変えないまま吉沢さんはそんな質問してきた。
「同級生と、後輩ですよ……どうかしました?」
「いや、その……まさか君に、美人な女性の知り合いがいたとはな……驚いたよ……ふぅ」
吉沢さんは言い終わると、そこでようやく椅子に座り直し、サングラスを掛け直した。
「どうしたんですか? 一目惚れでもしました?」
余りに反応が良い吉沢さんをからかう様に僕がそう言うと、吉沢さんはビクッと肩を震わせて、サングラス越しに僕の目を睨んできた。
「あのな……俺は……いや、あまり言いたくはないんだが―――俺はな、女性恐怖症なんだ……多分、姉貴のせいでな……だから、どんな美少女だろうが、一目惚れなんてな、以ての外なんだよ、葉月君」
足を組み、サングラスをクイっとあげて吉沢さんはカッコ良く言うが、僕はそれを聞いて返事に困り、口をもごもごさせることしか出来なくなる。
こんなにもイケメンでモテそうなのに、女性恐怖症かぁ……世の中、分からないなぁ。
そんな時、呼び鈴が鳴りテーブル番号が光った。
「あ、行ってきます」
「おう」
僕は助かったぁと思いつつ、ホールに入り、光った番号のテーブルへと向かった。
「あ、先輩! こっちですよ、こっち!」
「……分かってるよ」
僕はハンディを取り出してテーブルの横に立った。
陽花はメニューを開いていたが、正面に座る天神は下を向いていて顔が見えなかった。
「ご注文をお伺いいたします」
僕がハンディを開いて注文を聞こうとすると、陽花が少し腰を浮かして席の奥側に移動し、さっきまで自分が座っていた場所を、ぱんぱんと2度叩いた。
「先輩、まずは座ってくださいよ」
「お客様、ここはファミレスです。ホストクラブではありませんよ。ご注文を」
「せ~んぱいっ」
そう言って再び陽花は、席をぱんぱんと叩いた。
僕は引きつった全力の笑いを浮かべて首を傾げ、注文を待つ。
僕と陽花は睨みあい、無言の時間が続く。
そんな時、僕の後ろにあるキッチンの方から、カタンと扉が開く音が聞こえ、その後に「座るんだ、葉月君」という囁き声が聞こえてきた。
体を横に首を90度回し、目線を後ろに向けると、両手で窓枠の下を持って体を支え、覗き込んできている吉沢さんが、口をパクパク動かしていた。
僕は真顔になって正面を向き直し、諦めて席に着いた。
「さ、先輩。何食べますか?」
陽花はメニューを開いてテーブルの真ん中で開き、それを見ながらそう言った。
「食べねぇよ」
僕がそう言い返すと、陽花が僕の方に顔だけ向けて、眉をひそめた。
「む、違います。天神先輩ですよ」
「え、私?」
僕は何で座らされたのか分からず、イラっとしてそれを表情に浮かべるが、それを陽花は華麗にスルー。
一方の天神は急に名前を呼ばれてビックリしたのか、目を丸くしていた。
「そうですよ、何か、ファミレスの前からずっと下を向いてるじゃないですか。元気が無い時は、一杯食べるのが一番良いんですよ?」
陽花にグイグイ詰め寄られ、天神は少し嫌そうな顔を浮かべた。
「私、あんまりお腹空いて無いんだけど……付いてきただけだし」
「まぁまぁ、余ったら葉月先輩が食べますから……カルボナーラ、お好きでしたよね?」
「え? う~ん……そうだけど」
どうやら僕は蚊帳の外らしく、滞り無く会話が進んでいるので、僕は背もたれを使って深く腰掛けた。
しかし、その直後に陽花が僕の方を見て、ムッとした顔になった。
「ちょっと、何やってるんですか? 先輩。注文、通りますよ」
「……何で座らせたんだよ……」
僕がそう言いながら姿勢を直し、ハンディを取り出そうとした。
それに合わせるように陽花も席にお尻をつけてちゃんと座り直し、更にどういう訳か僕の太ももをギュウっと抓ってきた。
「痛い痛い。何するんだよ」
僕はその手を払いのけると、陽花は「ふん、先輩なんて知りません」と言ってそっぽを向いてしまった。
僕はどうして陽花が怒っているのか分からず、諦めて立ち上がり、席の横へと移動した。
すると、天神が僕の方を見て、手を合わせながら「ごめんね、葉月君。邪魔しちゃって」と小さく謝罪してきた。
僕はそれに「大丈夫」と返し、「ご注文を伺います」と作り笑いをして続けた。
正面を向いた天神は、どこか少し寂しそうな顔をしている様に見えた。
「じゃ、これとこれ」
そう陽花がメニューを指さしながら喃語を吐き出し、僕は何とかハンディに注文を通して繰り返した。
どうやら合っていたようで、天神が「うん、大丈夫」と返してくれたが、陽花は再びぷいっとそっぽを向いてしまった。
「では、少々お待ちください。」
僕はハンディを閉じ、キッチンに真っすぐに帰った。
道中、どうして陽花が怒っていたのか、天神が下を向いていたのか考えたが、あの場で分からなかったのだ、考えても答えが出る訳が無かった。
キッチンに入ると、ガタンと吉沢さんが扉を閉める音が聞こえた。
どうやら今回は無事に降りれたようで、パイプ椅子に座ってサングラスを掛けて僕の方を見てきた。
サングラスのせいで目は見えないのに、どこか呆れているようにも見えた。
「葉月君……君って男は……」
それは気のせいでは無かったようで、吉沢さんは呆れた声で、注文の通った料理を用意しようとしていた僕に、そう話しかけてきた。
僕は急に話しかけられて驚き、声を裏返して「はい?」と言って吉沢さんの方に顔を向けた。
「何故だ、葉月君……何故なんだ、君は……」
「……何がですか?」
吉沢さんは立ち上がり、僕の前まで来ると、「はぁ」と大きくため息を吐いてから続けた。
「君は何故、目の前に座る美女の服を褒めないんだ」
「……服、ですか?」
何を言っているのか良く分からず、僕は首を傾げた。
「本当に分からないのか、君……あれは、あの顔はな服の感想を待っていたんだぞ……」
「……そうなんですか?」
「あぁ、分かったら、早くこれを持っていけ……あのな葉月君、気を付けろよ。もし俺の姉貴にそんなことをしたら、鳩尾を殴られて、後頭部を掴まれてな、顔面を、こう―――」
話しながら、吉沢さんはカルボナーラが綺麗に盛り付けられたお皿を、僕に手渡してきた。
このカルボナーラ、いつ作ったんだ……!?
僕は驚きつつもそのお皿を受け取り、未だに、放送禁止用語をつらつら並べている吉沢さんを無視して、どこをどう褒めればいいのか考えつつ、ゆっくりとキッチンを後にした。
しかし、遂には考えつくことはなく、席へと到着してしまった。
それまで楽しそうに話していた陽花も、僕に気が付くとそっぽを向いてしまった。
「カルボナーラをお持ちしました」
僕がそう言うと、天神は小さく手を上げて「はい」と言いつつ、腕をテーブルから下ろした。
僕はカルボナーラを置いて、天神の前までスライドし、小さく息を吸って姿勢を正した。
トレーを脇に抱えつつ、息を吐き、今度は大きく息を吸って天神の方に体を向けた。
それを不思議に思ったのか、天神は不思議そうな顔を僕に向けた。
二重の大きな目に見つめられ、居心地が悪かった僕は天神の服に視線を移した。
清楚な服は天神に良く似合っている……だが、どう褒めれば良いものか……。
僕がそうやって口をもごもごさせていると、僕の右太ももを陽花が肘で突いてきた。
僕が陽花の方に視線を向けると、陽花は「思ったこと、言えばいいんですよ」と囁いていた。
僕は天神の方に視線を戻し、息を吸わずに続けて口を開いた。
「その服、可愛いな」
「え?」
早口で、しかも急に言ったせいか、天神は聞き取れず聞き返してきた。
僕は、今度はゆっくり息を吸い、天神と視線を合わせた。
「……服、似合ってるぞ」
「あ、ありがとう……」
僕は耳の先まで熱くなり、天神も顔を真っ赤にしていた。
隣の陽花は、及第点とでも言わんばかりに、ふんと鼻で笑い、水を1口飲んでから僕の方に顔を向けた。
「先輩、私のご飯早く持ってきてくださいよ」
「……少々お待ちください」
陽花の切り替えの速さに驚きつつ、僕は小さくため息を吐いて頭を抱え、キッチンへと戻るのだった。
それから0時までの数十分。
特にお客さんが来ることもなく、ファミレスの閉店の時間を迎えた。
残りの2組はあの後直ぐに会計を済ませて帰ったし、天神と陽花も食事を終えると直ぐに家へと帰って行ったので、ピーク時が嘘みたいに暇で、吉沢さんがスマホを触るタップ音と、時計の秒針が時間を刻む音だけが良く響いていた。
暇な僕はキッチンの拭き掃除をしていたが、拭く所が無くなるくらいピカピカになった。
「よし、帰ろうか葉月君。俺は戸締りと清掃をして帰るから、先に帰っていいよ」
「あ、分かりました。お疲れ様です」
「あぁ、お疲れ」
僕は更衣室に、吉沢さんはホールへと互いに背を向けて歩き出した。
扉を開き、真っ先にタイムカードを切った後、自分のロッカーを開いた。
学校の制服に着替え、バイトの制服を、ロッカーの横にある籠に投げ入れた。
ここの制服は、店長がまとめてクリーニングに出してくれるので非常に助かっている。
僕は鞄を取り出してロッカーを閉め、店員用の出入り口の扉に手を当てて開いた。
その瞬間、むわっとした生暖かい向かい風が吹き、肌を撫でて更衣室へと侵入していった。
僕は3歩前に出て、扉から手を離した。
扉がパタンと閉まり、空気の流れが止まった。
そのせいか、蒸し暑い空気が漂うのみで、服の間を縫って肌に触れ、体温が上がり、うっすら汗をかくのを感じた。
僕は1度「はぁ」と息を吐き、軽々とした鞄と共に小さく跳ねて、帰り道を歩き出した。
店員用の駐車場を横切り、国道に出て、ファミレスの薄暗くなった入口を横切ろうとした、その時だった。
「あ、葉月君。お疲れ様」
そう声をかけられた僕は、驚いて「うわ」と情けない声を出しながら、右足の踵を縁石に打ち付け、そこを抑えながら屈みこんだ。
すると、そんな僕を心配してか、声の主がパタパタと僕の傍まで近づいてきた。
「だ、大丈夫? 葉月君」
僕は痛みに耐えながら顔を上げた。
すると、そこに居たのは、ちょっと前に陽花と一緒に帰った筈の天神だった。
天神は中腰になって心配そうに僕の踵を、首を傾げて見ていた。
「僕は大丈夫だけど……天神は、何でここに……?」
言いながら僕は、ジンジン痛む右足を少し曲げて、変な態勢で立ち上がった。
「陽花ちゃんが走って先に帰っちゃって……怖くて1人じゃ帰れないから、葉月君を待ってたんだよ……本当に大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫……それより、アイツ、先に走って帰るって……どんな神経してるんだよ……」
「ごめんね、疲れてるのに」
「んいや、大丈夫。もう遅いし、帰ろう」
「うん」
短い会話を終了し、僕が歩き出すと、遅れて天神がその少し右後ろを付いて来た。
しばらく無言のまま、横断歩道の前まで歩いてきた。
国道を通るため少し遠い位置にある歩行者用の赤信号の光だけが暗闇を照らしていた。
時折、その光すらもかき消し、無音の空間を引き裂きながら、車が横切っていく。
その車が遠くに行っても、音だけが頭の中で反響し続けた。
特に、気まずさもない。
いつもいつも、帰り道に話し続ける訳でもないし。
だが、今日の放課後から―――海に誘われてから、天神がよそよそしい気がする。
目も合わせてくれないし、元気も無い気がする……僕が何かしてしまったのかもしれない。
赤信号が青色に切り替わるまで、僕はそんな答えの出ないであろう堂々巡りをし続けた。
信号が切り替わり、僕が歩き出すと、今度は天神が横に並んで来た。
天神はそのままの流れで右腕を上げると、左前にある僕の家へと続く道を指さした。
「あれ、陽花ちゃんじゃない?」
僕がその指さされた方向を見ると、天神はそんな僕を無視して走り出した。
その時、天神の携帯か、僕の携帯か。
風鈴の音が、チリンと1度だけ鳴り響いた。
僕は陽花の姿を確認出来ていないが、歩道を左方向に走る天神の横顔は、どこか必死に見えた。
ただ事じゃないと、僕もそれに付いて行くように走った。
歩道を渡り切り、左に曲がると、その先の街灯の下に立つ天神が見えた。
天神は左手で街灯に触れ、キョロキョロと不思議そうに辺りを見渡していた。
「……陽花は居た?」
僕が追いついて声をかけると、天神はハッとして僕の方を向いた。
少し怯えた様な顔をしていて、不思議だった。
「陽花は、先に帰ったんだろ? ここに留まる理由も無いし……」
「……そうだね、気のせいかも……ごめん」
「もし仮に陽花が居たとして、ホラーだしね……むしろ、こんな所に居なくて良かった」
僕のおどけた発言に、天神は苦笑いを浮かべ「そうだね、帰ろう」と言って僕の後ろに隠れた。
天神は、半年たった今でも、1人でこの道を歩くことが出来ないらしい。
最近は夕方も明るく、くっついて帰ることも無かったのだが……久々にくっつかれると、色々と気まずかった。
上の服、ブラウスで……夏の制服より薄いし……。
僕は体を左に傾けながら、左手を使って、右腕に巻きつく天神の肩を押し、引き剥がそうと試みた。
しかし、僕が肩を押す力よりも強く、天神がギュゥっと抱き着いてきた。
そんな天神に僕は怪訝な顔を向けると、天神は目をスッと細くし、ムスッとした表情を浮かべて口を開いた。
「……怖いもん」
そうか、とも言わずに、僕は諦めて前を向き歩き出した。
それからしばらく歩き、僕の家を過ぎて突き当りを左に曲がった頃。
天神が僕の脇腹を肘で突いてきた。
「何だよ」
「ねぇ、怖いからさ……何でもいいから、話、してよ」
「……嫌だよ。もう少しで家に着くし、我慢すれば―――」
呆れて天神の方を向くと、天神の顔に浮かぶ涙が、近くの街灯の光を反射して、オレンジ色に輝いた。
「……そんなに怖いの?」
僕のその質問に、天神は首を横に振って続けた。
「……欠伸だよ……もういい」
天神はそう言ってそっぽを向いたが、右腕を掴む力だけは弱まらない。
僕は前を向いて1度「はぁ」と息を吐いて返した。
「……そうだな……じゃぁ、僕が唯一覚えてる昔話でも……聞く?」
「うん」
僕の問いに天神は即答した。
僕は恥ずかしさを隠すために、1度小さくコホンと咳をして、僕が唯一覚えている、10歳の頃の夏の話を始めた。
断片的で曖昧な記憶。
いきなり砂浜でお城を作っている場面から始まり、突然水着のお姉さんが登場。
2人で川を完成させて、ライフセーバーのお兄さんに怒られるまで。
着ていた服や、周りの状況まで含めて、事細かに話していると、天神の震えは止まり、僕の右腕を掴む力も弱くなっていた。
記憶が途切れ、う~んと唸りながら思い出していると、天神が突然足を止め、僕もそれに少し遅れて足を止めた。
顔を上げると、正面には天神の住むマンションのロビーの光が、眩しいくらいにキラキラと輝いていた。
「本当にありがとう……仕事終わりで疲れてるのに、ごめんね」
天神はパタパタと足音を立てながら、マンションの入り口の明るい所に移動し、僕の方を向いてそう言った。
ニコッと笑顔を浮かべる天神の顔を見ることが出来ず、僕は目を逸らして「大丈夫だよ……おやすみ」と手を小さく上げて、踵を返しながらそう返した。
「うん、おやすみ! あと、1つ良い!?」
わざわざ離れて叫ぶ天神に、僕は苦笑いを隠さずに振り返り、右手を上げて続きを促した。
すると、天神は笑顔で両手を合わせて口を三角形で覆い、叫んだ。
「偶然だけど! 私も男の子と遊んだ思い出があるの! ホント、偶然だよね!」
天神は言い終えると、ニコッと笑ってマンション内へ入って行った。
僕は呆然と立ち尽くし、その背中を見守った。
天神と出会った時の懐かしさも、胸の高鳴りも……全部、全部偶然なのだろうか……。
……駄目だ、辞めておこう。
僕は痛むこめかみを右手で押さえて、家への道を急いだ。
家を目前にし、すぐに部屋の電気が点いていないことに気が付いた。
陽花が帰ってから、1時間程度は時間が空いていたから、先に寝たのだろう。
天神の見た、街灯下の陽花の事が、どうしても頭の片隅で引っかかったが、僕はそう楽観的に考えて、家の玄関の扉を開いた。
靴を脱ぎ、家に上がると同時に、玄関がゆっくりとパタンと音を立てて閉まった。
僕は慌てて鍵を閉め、再度家に上がり、廊下途中にある照明のスイッチをパチッと押すと、この半年で見慣れた、片付けられてピカピカなリビングが見えた。
即ち、廊下とリビングを隔てる筈の扉が開いたままということだ。
この扉、家を出るときは開けたままだが、寝る前には必ず閉めている。
これは陽花が居候し始めてから始まった文化で、僕自身それが定着せずに何度陽花に注意されたか分からない。
「……まだ、陽花は寝てないってことか……?」
……忘れただけか。
僕は鞄をリビングのソファに投げ捨て、今や僕のものではない寝室への扉を、ゆっくり開き、その隙間から部屋を覗き込んだ。
すると、空気の流れに乗って嗅ぎ慣れない、花のフローラルな匂いと、何故か海のような潮の匂いが混ざった、複雑な匂いが鼻腔を占拠した。
部屋は真っ暗で、陽花が帰ってきたような様子はない。
「……陽花~」
恐る恐る扉を開け、声を掛けながら電気をつけ、部屋中を見渡すが、陽花の鞄は無いし、気配すらも感じられなかった。
「……いないか」
僕は諦めてドアノブに手を乗せて体重を預け、扉を閉めようとした。
その時。
チリン、と風鈴が鳴ったような音が聞こえた。
バッと勢いよく顔を上げ、音の正体を確認した。
そこには、開かれたカーテンと窓。
そして、その手前のカーテンレールに、青と赤の、2色の風鈴が吊るされていた。
青色の風鈴が揺れており、赤色はカーテンに引っかかっているためか中途半端に揺れていない。
僕はドアノブから手を放して態勢を戻し、ポケットからガラケーを取り出した。
ガラケーを、目の上まで持ち上げると、それに掴まるようにしている、小さな風鈴が部屋の電気と重なった。
僕はそれを左右に振った。
しかし、どういう訳なのか、風鈴の舌が外身に当たっても、チリンという音を立てず、カランと乾いた音を出すだけだった。
僕はそれが不思議で、何度か揺らしてみた。
「……ねぇ、人の部屋で一体何やってるんですか? 先輩」
そんな声が聞こえた僕は、ゆっくりと携帯を下ろして、正面にあるベッドを確認した。
するとそこには、あたかも当然の様にベッドの縁に座る、陽花が居た。
「……あれ? ……居たのか……?」
「……居ましたよ、まったく。失礼ですね、先輩は」
「じゃぁ、1つ聞きたいことがあるんだけど……」
僕の質問に、陽花は首を傾けて続きを促してきた。
僕は、衝撃の光景を脳で処理しつつ、何とか言葉を絞り出す。
「……な、何で……陽花は……その、水着を着てて……しかも、濡れてるんだ?」
陽花は現在、フリルの付いたワンピース型のビキニを身に纏い、パッと見て分るくらいに水を滴らせ、しかし、それなのに、さも居て当然かのような表情を浮かべていた。
僕の質問に、陽花は顎に右手の人差し指と親指をあてて、考え込んだ。
そして数秒後、結論が出たのか、右手を下ろして僕の目を見た。
「……ファミレスから走って帰った後、水着に着替え……海に行き……え~っと……今さっきそこの窓から帰って来た……ってな所で……納得していただけますか?」
「……文中の単語の意味は分かる……ただ―――」
「まぁ、良いじゃないですか……それより、いつまでこの部屋に居るつもりですか?」
僕の言葉を遮って、陽花が矢継ぎ早に言葉を紡ぐと、ベッドから立ち上がって僕の方へ近づいてきた。
そうして、それを無言で見守る僕のお腹に両手を当てて、ポンと力を入れて押してきた。
想像以上の力で押された僕は、踵を沓摺にぶつけ、その痛みで態勢を崩し、後ろにお尻から倒れ、後頭部を壁にぶつけてしまった。
しかし、そんな僕を見放すように、無慈悲な女こと陽花は、バタンと勢い良く扉を閉めてしまった。
僕は小さく、ハァと小さくため息を吐き、痛むお尻を右手で押さえながら立ち上がり、リビングのソファにドサッと座った。
この痛みが引いたら、お風呂に入ってさっさと寝よう。
僕はテーブルの上のリモコンを手に取り、赤の電源ボタンを押した。
『今回紹介する商品は……こちらです! 見てくださいよこれ! 何だと思いますか!? そう、最新型掃除機でございます!』
「見りゃ分かるだろ」と小さくツッコみ、僕はピッと、今度はリモコンの3を押した。
『こちらの商品、今連絡いただきますと……なんと、送料無料で、2日後にはお届けいたします!』
赤い字幕で値段が表記されていたのは、見覚えのある最新型掃除機だった。
……同時放送してる?
僕はそこまで見て、電源ボタンをもう1度しっかり、力強く深く押し込んだ。
「……無駄な時間だった……」
僕はリモコンをテーブルに投げ、足をつき、ソファから立ち上がった。
それから、お風呂、歯磨きを終え、1杯の水を飲んでから、目覚まし時計のアラームをセットすることなく、ソファに横になって布団を深く被り、眠りに就いた。
特に何も起きない今日。
夏休みは、この今日という日の繰り返しで、あっという間に終わるのだろう。
いや、今日は、特に色々起きてたか……。