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水着とパーカー  作者: 芥之 相
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1.転校生

さざなみが砂浜に打ち上げられて奏でる音と、家族、友達、恋人達の遊ぶ賑やかな声が混ざり合い、僕の耳に響いた。

 一方の僕は、砂浜にぽつりと立つビーチパラソルの下で、砂のお城を作っていた。

 グレーのパーカーを身に纏い、プラスチックのおもちゃでお城を作る僕のことを、周りの人はどう見ていたのだろうか。

 あるいは、目にも留まっていなかったのかも知れない。

 でも、その時の僕はそれがすごく楽しかったんだと思う。

 僕は、何故あの砂浜に居たのだろう。

 偶然か、運命か、たったそれだけの理由で行くのだろうか?

 僕は―――海が嫌いだ。

 砂のお城を建て終えた僕は、次に川を作り始めた。

 砂のお城の下を通る、良くある普通の川だ。

 プラスチックの小さいバケツで溝を掘り続けた。

 そんな事をしていても、周りの人達は止めようとしなかったし、溝を軽くジャンプして避けるだけで、それを不思議にも思っていないようだった。

 そんな時。

 誰も止まらなかった筈なのに、突然、僕の体を影が覆い尽くした。

 その瞬間に柔らかくも暖かい、花の匂いの風が僕の頬を撫でて通り過ぎた。

 僕は顔を上げ、その人物と目を合わせた。

 そこに居たのは、黄色い水着を来た綺麗な女性だった。

 歳は16歳位だろうか。

 女性はにっこり笑うと、屈んで目の高さを合わせてきた。

 僕に、何か用だろうか。

 不思議に思い、顔を傾け女性を見つめた。

「楽しい?」

 柔らかく優しい声が、周りの喧騒をかき消しながら届いた。

 そして、その人の声以外が、聞こえなくなった。

「君、葉月瑞はづきみず君だよね?」

 僕は答えることなく、川に目を落として作業を進めた。

 きっと、楽しいかどうかなんて、当時の自分にはどうでも良くて、質問の答え方が分からなかったんだと思う。

 そんな僕に、女性は怒ることも、聞き返すこともせず、小さく「よし」と言い、何故か僕の掘る溝の更に先の方から堀始め、僕の溝と繋げてきた。

 僕はせっかく自分が掘った溝を邪魔されたと思い、ムッとして、左に大きく避けてから、更に別の溝を掘り始めた。

 女性はそんな僕の溝と更に繋げようとしてくる。

 そのたびに僕は避け、結局海に繋がったころには辺りは溝だらけで、流石に周りの人も邪魔そうに、顔を歪めてジャンプし、避けていた。

 暫くの時間が経ち、川が完成し、僕は海からお城の方を向いて額の汗を拭った。

 女性も並んで汗を拭う。

 その時だった。

 「こら! 君たち、危ないでしょ!」

 そう言いながら、赤いキャップに黄色いシャツを着た男の人が近づいてきた。

 胸にはライフセーバーと大きく書かれていた。

 僕たちは急いで溝を1本だけ残して埋めると、逃げるようにビーチパラソルへ戻った。

 その際持ってきたバケツに入れた海水を、お城の上に作った穴に入れて川へと流した。

 太陽の光を反射してキラキラ輝いて流れる川を見ながら、僕と女性は並んで座った。

 女性は何故か泣きながら笑っていたし、僕にはその理由が良く分からなかった。

 訳も分からず、僕の頬を涙が伝った。

 そこで、記憶が途切れている。


 僕はバッという音を立てながら毛布を打ち上げ、上半身を勢い良く起した。

 枕の右に雑に置いてある時計が、チリリリという雑音を撒き散らして鳴り響いていた。

「そうか……今日から新学期だ……」

 僕は反応の悪くなった時計の頭をグーで叩いてアラームを止めると、眠い目を擦りながら立ち上がった。

 洗面台に向かい、歯を磨いて寝癖を手櫛で直してから制服に着替えると、毎日用意するのが面倒くさくて、全ての教科書が入ったパンパンの鞄を持ち、家を出た。

 鍵を閉めて確認を終わらせた僕は、通学路方向を見て1度頬を叩いて走り出した。

 2度寝が恐ろしくて、アラームをギリギリに設定しているせいで、学校に行くときはいつも走っている。

 それは新学期になっても変わらない。

 まだ冷たい風が僕の頬を撫でて通り過ぎた。

 家から1km離れている国道に出ると、僕と同じように、急いで学校へ向かう自転車に追い抜かれ、国道を走る車が冷たい風を、僕に押し付けながら通り過ぎていく。

 僕はそれに負けないように、全力で走った。


 学校に着くと、下駄箱側面に貼ってあったクラス割を見て、2ーbの教室前までゆっくりと歩いた。

 教室の入口には、箱に二つ折りになって入っている紙と。教室内の机の位置に番号の書かれた紙が貼ってあった。

 僕は訳も分からず、残り2枚となった紙の右側を取って広げた。

 紙には『40』と書かれており、どうやら、教室左下の1番端の席だった。

 僕はその紙を見るまでの間に整った息を、もう1度深く吐いて扉を開けた。

 クラスメイトの視線が僕の1点に集まったが、直後にチャイムが鳴り、前の扉から担任の先生が入ってきたことで、全ての視線はそこに移動した。

 僕は急いで机に向かい、鞄を机の横に掛けて座った。

 何故か右が空席だが、誰か来ていないのだろうか。

 僕は疲れで視線を下に向け、耳だけを担任の先生に傾けた。

 先生自身の自己紹介やこれからの流れについて説明終えた頃、先生が「それと」というのに合わせて僕は顔を上げた。

「この新学期から、この学校に転入してきた子がこのクラスに入るから、紹介したいと思う」

瞬間、教室がザワザワとし始めた。

先生が扉を開きに行き、直ぐに教壇の前へ戻ってきた。

そんな先生から少し距離を開けて、生徒が入ってきた。

クラス中が静まり返り、視線がその生徒に集中した。

端正な顔立ちの金髪、ミディアムヘアで、モデル体型。

紛うことなき美少女。

クラス中が息を呑み、中腰になっている男子生徒もいる。

僕は、その美少女を、どこかで見たことがある気がした。

顔を見つめていると、ふいにその美少女と目が合った。

美少女は、ニコッと、屈託なく笑った。

僕は、その瞬間に視線を机落とした。

高鳴って苦しい胸を、右手で抑える。

何だ、これは……何で僕は、こんなにも緊張しているんだ……!? 童貞だからか……!? 何で、こんなに、胸が苦しいんだ……!?

僕は、何処で見た事があるのかを、改めて考えるために、両腕を汲んで机の上に乗せ、目から上だけを外に出して、美少女を見つめた。

一体……何処で……?

 僕が、そんな事を考えていると、美少女はクラスを見渡して、自己紹介を始めた。

「私の名前は、天気の天に神様の神、下は、本に挟む栞で天神栞あまかみしおりと言います。これからの2年間、仲良くしてください! よろしくお願いしますっ!」

元気よく深々と挨拶を終えた天神に、クラス一同の拍手喝采が送られた。

 指笛の様なものが遠くから聞こえ、先生は苦笑いを浮かべていた。

「よし、じゃあ今日の残りくじで済まないが、葉月の隣の席が空いてるから、そこに座ってくれ」

「はい! 分かりました!」

元気よく返事をし、トテトテと僕の隣の席に近づいてくる天神に、クラス中の視線が集まる中、僕はこれ以上胸が苦しくなるのが嫌で、話しかけられないようにと窓の外に目をやった。

 まぁ、姿勢を低くしているせいで、殆ど壁しか見えていなかったが。

それでも、窓際で、桜の木に小鳥が泊まっているのが見えた。

あぁ……いっそのこと鳥になりたい……。

「隣、よろしくね! 葉月君!」

窓と壁の間を縫って侵入してくる、生暖かい風に当てられて、1人黄昏る僕の背中に、容赦なく話しかけてくる天神。

無視するのは失礼かと恐る恐る振り帰ると、その奥から、左から飛んでくる視線が物凄く痛い。

「よ、よろしく……」

僕が渋々そう返すと、そこでようやく、天神は満足そうに席に着いた。

僕は両手を組み直し、机に肘をついて乗せると、それを頭の支えにして、改めて下を向いた。

だめだ……何処かで見た事あるとか以前に……僕には天神が明るすぎる……関わったら早死にしてしまうッ!

「よし、じゃあこれから全校集会だから、皆、廊下に並んでくれ……っとそうだ、あと、全校集会が終わった後、葉月と天神は職員室に来てくれな~」

関わらないでおこうと、そう考えた直後に、先生からそんな言葉が飛んできて、僕は人生で初めて絶望した。

「はい、行くぞ~」

そんな僕を無視して先生は手を叩きそう言うと、クラスは一斉に廊下へと並び始めた。

僕はゆっくりと立ち上がり、クラスの並に流されるように並んだ。

その際、天神が近づいてきて口を開いたが、他のクラスメイトが、天神に押しかけ、囲んでくれたおかげで、話さずに済んだ。

……これからも、天神は人気者だろうから、話す機会が無いことを祈ろう。


しかし、現在、全校集会開始直後。

 そんな願いも虚しく、僕と天神は隣同士で並んでいる。

初日だからなのか、新学期からそうなったのかは知らないが、あいうえお順に縦に並び、折り返し頭に戻って2列目からあいうえお順に並ぶという、意味の分からない事をし始めて、早々に絶望していた。

最初こそ、天神は、静かに校長先生の話や、生徒会長の話を聞いていたのだが、途中から飽きたのかPTA会長の話が始まった頃には「その髪型怒られないの?」だの「部活は何やってるの?」だの「名前の漢字ってどう書くの?」と紙とシャーペンを渡して来るだの、最前列でやるには余りにも勇気がある行動を起こしてきた。

その度に僕は「う~ん」とか「そう」とか適当に返していたが、ムッとした天神がシャーペンで太ももを突いてきたことで、名前の漢字だけはちゃんと教えてあげた。

左方向からの生徒指導の先生の視線が痛い。

1年の頃から既に、ツーブロックの髪を直してこないと目を付けられていたのだ。

これ以上は騒げないと、僕は天神の耳元で「やめろ」と小さく囁くと、天神は「やっと話してくれた」と少し嬉しそうだったので、しまったと思った。

しかし、それからは特に天神が絡んでくることもなく、校歌を歌い終えて教室へと戻る流れになった。

校舎階段を登って、2階廊下の途中で俺と天神は列を抜け、職員室へと向かった。

渡り廊下入口の1人分の隙間を天神が先に進み、僕はそれに続いた。

渡り廊下には丁度良く陽が差していて、ボッと体温が上がったのを感じた。

渡り廊下を過ぎ、別校舎に入ると1階の新入生たちの賑やかな声が聞こえてきた。

「元気だねぇ~、新入生諸君は」

職員室前の窓をガラっと開けて天神は身を乗り出し、先程歩いた、渡り廊下の下を行く新入生を見てそう言った。

 天神が言えたことでは無いだろ、と思いつつ、僕は天神の言葉に返した。

「まぁ、最初のうちはな……」

「ふふ、何? その含みある言い方は」

パタンと音を立てて廊下に着地した天神が、両頬をぷくっと膨らませて怒った。

わざとらしいが、顔のせいで可愛いいと思ってしまった僕は職員室に視線を移した。

「……さっさと終わらそう」

「うん、そうだね」

僕は扉を3回ノックして開き、担任の先生を探した。

しかし、職員室の中はガランとしていて、僕が手を放して脱力し、元に戻ったドアノブの音だけが虚しく響き渡った。

しかし、パーテーションで仕切られた角の机に、影が見えた気がした僕は、それを凝視したが、そんな僕の後ろから脇を通り抜けるように天神が顔を覗かせたので身を引いた。

「あれ? まだ誰もいないの?」

「……みたい、まぁ直で来たし……まだ体育館に居るのかもな」

「……そっか、確かにね。じゃ、もう少しまとっか」

「あぁ、うん」

僕は1度、パーテーションの方を向いて、視界の端で、天神が顔と一緒に廊下に戻ったのを確認して、気のせいだろうと諦め、奥に行ってしまったドアノブを持ち、手前に引っ張った。

その時。

「あれ? 何だ、葉月じゃないか」

そう言いながら、ガラガラと音を立てて、椅子に乗った人物が、パーテーションから飛び出してきた。

金青色の髪を肩の下まで伸ばし、切れ長な目を持つ凛々しい顔つきで、身長も僕くらいある、ザ・大人の女性。

全男子の憧れの的で、全女子が羨ましがる美貌を持ち、スタイルも良く水泳部の顧問を務める程運動神経も抜群。

なのにも拘らず、冷たいオーラを放つ、近寄りがたい独身の大人の女性。

潮風紫陽しおかぜあづさ先生だ。

「潮風先生……居たんですね」

僕と目が合うと、潮風先生は、右手をポケットから出して僕を手招きしてきた。

それを無視するわけにもいかず、僕はドアノブから手を放し、仕方なく職員室内に入って、潮風先生に近づいて行く。

ガランとした職員室内に僕の足音と、潮風先生がパーテーションの内側に戻っていく椅子の音だけが響いた。

僕が職員室の半分くらいまで歩いた頃。

パタパタという足音が僕の背中に近づいてきて、暖かくも柔らかい手が肩に触れた。

「ねぇ、何してるの? 不法侵入はダメだよ」

底なしに明るい声……天神だ。

しかし、その声に僕が反応するよりも先に、潮風先生が再び、ガラガラと椅子を引きずりながら、パーテーションから飛び出してきた。

「葉月、お前……いや、これは私の幻覚か? 葉月の後ろに美しい生徒が見える……すまない、私の働き過ぎか……」

僕の背後を凝視して、そう言いながら、自己解決したのか、右手で両目の内側を抑えて、パーテーションの内側に戻っていった。

「……何だ、あの人」

そんな潮風先生を見て僕が小さく呟くと、天神が僕の横に並んで、きょとん顔で前にあるパーテーションを見つめた。

「え? 誰かいるの?」

「……行けば分かるよ」

僕は歩き出して、その少し後ろを天神がパタパタと付いて来た。

僕は少し、歩くのが早いのかもしれない。

僕はパーテーションの右側から回り込む様にして中に入ると、潮風先生が机の上でパソコンを広げて何か作業をしていた。

僕はなるべくパソコンを見ないようにして、それを通り過ぎ、その机の右側に立った。

更に、そんな僕の横に天神が並び、そこでようやく潮風先生は顔を上げ、椅子をくるりと回して僕たちの方を向いた。

潮風先生は、さっきまでは着けていなかった筈の眼鏡を外して、机の上に置いた。

その仕草に僕は少しドキッとしたので、それを隠すように口を開いた。

「あの……僕、何かしました?」

僕が聞くと、潮風先生は少し申し訳なさそうな顔になって、目を合わせてきた。

「いや、それがだな……何か言いたいことがあったと思うんだが……忘れた」

「えぇ!? あの、一瞬で!?」

僕は、もう歳なんじゃないですか!? と言いかけて直ぐに口を噤んで一直線にした。

「……お前、何か言いかけただろ」

僕は口を噤んだまま、首だけを横に振った。

「いや、絶対に失礼なことを考えていたなぁ!」

しかし、それでは納得できなかったのか、潮風先生は立ち上がって僕の肩を掴んで揺らしてそう叫んだ。

そんな最中、横に立つ天神の「ふふ」という小さい笑い声が聞こえてきた。

それに気が付いた僕は、揺らされながら横目に天神の方を見た。

右手を丸めて口元を隠し、お淑やかに笑いながら、天神は続けた。

「2人は仲が良いんですね」

その声で、ようやく天神に気が付いた様に、潮風先生が僕を揺らす手を止め、バッと音を立てながら、勢いよく天神の方を向いた。

 潮風先生の髪の毛が、僕の顔全体を撫で、物凄くくすぐったかったが、凄くいい匂いがして、そんなに嫌じゃなかった。

「幻覚じゃなかった!」

潮風先生は叫びながら、全体重を椅子に預けて、倒れるように椅子に座った。

 本当に、騒がしい人間である。

「始めまして、天神栞です! よろしくお願いします!」

キラキラと輝き、満面の笑みで手を差し出してきた天神が、余ほど眩しかったのか、潮風先生は、両腕で顔を覆い隠しながら、天神の方を向いた。

「ま、眩しすぎるっ……葉月っ……この子は、一体っ……?」

隣で見ていると、ギャグにしか見えないその光景に、僕は苦笑いで返す。

「今日、転入してきたんですよ……職員室で話くらい出てたでしょ……」

俺の言葉で潮風先生は、ハッとして右手を顎に当てて何か考え始めた。

「はっ……た、確かに……いや、会議中ほとんど寝てたしな……どうだろう」

潮風先生は、ゆっくり顔を上げて、天神と目を合わせた。

「これからよろしくな、天神様」

言いながら潮風先生は両手で天神の手を包み込んで、顔を真っ赤にした。

「はい、よろしくお願いします」

それに天神は屈託のない笑顔で返すと、潮風先生は手をパッと放して距離を取り、コホンと小さく咳払いした。

「……そうだ、思い出したぞ、葉月」

潮風先生は先程言いたかった事を思い出したのか、机の左側横長の引き出しからプリントの束を取り出して、僕に手渡してきた。

僕はそれを素直に受け取り、内容を確認した。

『新入生歓迎! 体力と忍耐力を楽しみながら身に着けよう! 水泳部へ是非!』というゴシック体の文字と、部活中の写真が、チラホラとバラ撒かれた、1時間で作ったようなプリント用紙だった。

「……何ですか? これ」

「見ればわかるだろ、水泳部勧誘のパンフだよ。で、だ。葉月……その水泳部の勧誘プリント、今日中に全部、新入生に配って回ってくれ」

「無理です」

僕はプリントを机にドンッと力強く置いて、即答した。

すると、潮風先生は椅子の背もたれに体重を預け、何故か眼鏡を掛けてキラリと輝かせ、僕の顔を見てきた。

 レンズが白く輝き、表情が読み取れない。

「おいおいおい、これはお願いじゃない。命令だ、今日中に配って回るんだよ……この昨日の夜中に慣れないパワポを駆使して5時間で作った……血と涙の結晶のような、まるで我が子のようなプリントをな!」

潮風先生は叫びながらプリントを持って立ち上がり、それを僕に押し付けて来た。

 あんた子供居ないでしょ、と言いかけて、また口を横に一直線に結んだ。

 僕と潮風先生は睨みあい、我慢できず、僕は口を開いた。

「無理ですよ! こんな数! というか、部活動決めて入学してる新入生も少なくないんですから! こんなプリント貰ってくれませんよ!」

僕がそう言い返すと、潮風先生はカッと顔を赤くして僕の胸倉を掴み、更に目を斜めに鋭くして、睨みつけてきた。

潮風先生は、僕と変わらないくらいの身長なので、その剣幕に僕は押されてしまう。

しかし、潮風先生は直ぐに怒鳴って来るわけでもなく、肩を少し揺らして、急に泣き始めてしまった。

「こんなプリントってな、葉月……パワポがどれだけ難しいか知っているのか……? なぁ、葉月……プリントって、手書きじゃダメなのか……?」

僕の顔を見上げて来た潮風先生はしっかり泣いていて、呆気に取られてしまった。

昨日の夜、何があったんだよ……。

別に手書きじゃダメだって事はないだろうが……泣く程に頑張って作ったであろうプリントを見て、そんなことはとてもじゃないが言えなかった。

僕がそんな潮風先生と見つめあって困惑していると、横の天神がパッァっと満面の笑みを浮かべて、くるりとこちらを向いて話始めた。

「葉月君! 私も手伝うから、頑張って配ろうよ!」

 急に話しかけられ、呆気にとられた僕も、直ぐに我に返り、返した。

「えぇ……無理だろ」

僕が自分を苦しめるような発言をする天神に困惑していると、潮風先生が僕の胸倉から手をパッと離し、今度は全身で天神をギュッと抱きしめた。

「ありがとう天神ぃ! お前は私の天使だったんだな! 最初は葉月の天使だと思っていたんだが、こんな冷酷な人間に、こんな心の綺麗な天使が手を貸すわけないもんなぁ! ありがとう! 天神! 天使様ぁ!」

天神は潮風先生に抱きしめられて、苦しそうに両手を潮風先生の脇の下から、僕の方に伸ばしてきていた。

しかし……こんな潮風先生を見たのは初めてだ……春休み中、何かあったのだろうか。

僕は、天神の伸ばす両手に、半分ずつに分けたプリントを渡し、横を通り抜けて職員室を出ようと歩き始めた。

パーテーションを出て進み、職員室の扉のドアノブに手を掛けようとした、その時、僕の手は空振り、開かれる扉に頭突きされて、職員室側に押し戻されてしまった。

「おぉ、葉月、丁度良かった……大丈夫か?」

僕は頭を抑えながら「大丈夫です」と返すと、先生はそれを無視して自分の机へと向かって歩き出したので、僕はそれについて行く。

先生の机に到着すると、先生は椅子に座ってファイルを取り出し、そこからパンフレットを取り出して僕に渡してきた。

それは学校紹介の新入生用のパンフレットで、開いて中を確認すると、各学部や部活動の紹介等が書かれていた。

「そういえば、天神はどこ行ったんだ?」

そう声をかけられて、僕はパンフレットから顔を上げて先生の方を見た。

僕は何て返そうかと一瞬悩み、声を出そうとした。

それと同時に。

僕の左肩にポンっと手が乗せられたことで、僕は肩を上げ、声を殺してその手を見た。

透き通るように白く、指先に繊細さが宿るしなやかな手の正体は、髪がグチャグチャになって制服も乱れている天神だった。

左脇には、先程僕が渡した半分だけのプリントが抱えられていた。

「ひ、ひどいよ……葉月君……」

息を切らした天神に見上げられて、ドキッとした僕は、ゆっくりと冷静に担任の先生の方に視線を移した。

「先生、ここに居ました」

 先生は引きつった笑いを浮かべた。

「……まぁ、何があったのかは知らないが……天神、大丈夫か?」

天神は僕の肩から手を降ろし、小さく「はい」と呟いてから僕の隣に並んできた。

先生はそんな天神を見て「はぁ」と漏らし、直ぐに本題に入った。

「……じゃあ早速本題だが、葉月」

「はい」

僕と先生は目が合った。

「そのパンフレットを参考にして、天神と一緒に校内を回って案内してやってくれ」

「……何で僕なんですか?」

質問すると、先生は顎に手を当てて上を見た。

「……、席、隣だし?」

キョトン顔で言ってくる先生は、どこも可愛くなかった。

すると、僕が渋っているのに気が付いたのか、先生は追い打ちをかけるように続けた。

「なぁ、良いだろ~葉月ぃ。部活に行くのが遅れる事とかは俺から潮風先生に説明しておいてやるからさぁ~……それにさ」

先生は僕に顔を近づけて耳打ちしてきた。

「美人と学校歩いて回れるんだからさぁ~良いだろ?」

先生は顔を僕から離して元の距離に戻ると、ニコリと笑いかけてきた。

 この人は、理由をつけて潮風先生と話がしたいのかもしれない。

何にも良くないから、僕はその笑顔に、満面の苦笑いを返すと、天神が僕の袖をクイクイと引っ張ってきた。

僕は先生から目を離し、天神の方を見た。

「葉月君、私からもお願いだよ……これだけ話せる人、葉月君しかいないし……」

天神の本当にお願いするような、キュルルンとした目を見ていると、心の底から助けたいという気持ちがスクラムを組んで飛び出そうとしてくるので、僕はそっと、後ろの壁に目をやった。

「大丈夫だ、教室に戻れば人気者だから、その中に助けてくれる人がいるよ」

僕がそう言うと、天神は視界の下の方で両頬をぷくっと膨らませて怒り始めた。

右の方で先生も両頬を膨らませていたが、汚いので、視界を少しだけ左にずらして無視した。

「葉月君、これもあるんだからね」

天神は、先程の部活動紹介のプリントを、トンと僕の胸に押し付けてきた。

「潮風先生が、これを配り終えるまでは葉月君の部活の参加を認めないってさ」

吐き捨てるように言う天神に、僕が返そうと、するとそれを遮るように更に続けた。

「だから……これは交換条件だよ、葉月君」

「交換条件?」

「うん、私がプリントを配るのを手伝うから、葉月君には学校を案内してもらう……だめ?」

捲し立てたと思ったら、ハッとして急に甘えた目で見てくる。

「……分かったよ、案内するよ……部活は行きたいし……1人じゃ絶対無理だし……」

それを聞いて、天神はニコッと笑った。

そんな笑顔を見たら……勝てねぇよなぁ……。

「よし、話はまとまったな」

先生がそう言ったので、僕と天神は先生の方に体を向けた。

「じゃぁこれからあるホームルームの後、学校の案内、頼んだぞ、葉月」

「はい、分かりました」


それから教室に戻った僕は真っすぐに自分の机に戻り、天神はその途中でクラスメイトに囲まれて質問攻めに合っていた。

化粧品は何使ってるのとか、彼氏はいるのかとか聞こえてきたが、そんなことを知って一体何になるんだろうか。

僕は教室の外をボーっと眺めて時間が過ぎるのを待っていると、直ぐに先生が教室に入ってきてホームルームが始まった。

ボロボロになった天神は机に突っ伏してため息を吐いていた。

その後、ホームルームは明日からの流れ等を話して直ぐに終わり、その直後、天神は僕の手を掴んで教室を飛び出した。

「ちょ、ちょっと待って!」

「ダメだよ! 新入生が部活を見に行くのなんて直ぐなんだから! 時間との勝負だよ!」

言いながら階段を駆け降りる天神に、手を掴まれたまま何とか付いて行っていると、1階の廊下には既に、部活のことについて話している生徒や、真っすぐに帰ろうとしている生徒も居た。

どうやら天神の判断は正しかったらしい。

天神は、階段から一番近い教室の前で急ブレーキを掛け、僕もそれに合わせてブレーキを掛ける。

 そして、天神が流れるように鞄からプリントを取り出して、半分僕に手渡してきた。

「葉月君、5分で終わらせるよ!」

言うが早いか、天神は教室の中に入っていってしまった。

僕はそれに呆気に取られて突っ立っていると、廊下に立つ、1人の女子生徒と目が合ってしまった。

黒く輝くショートボブの前髪を横に斬り揃えた、丸顔の童顔で、青色の縁の眼鏡を掛けている……この学校、美人が多いのか……?

僕は気まずくて視線を反らしたが、視界の端で、どういう訳か、その女子生徒がトコトコ僕の前まで歩いて来て、立ち止まった。

「……んん?」

その女子生徒は、僕を見上げながら首を傾げて、不思議そうな顔を浮かべ始めた。

あまりに見つめてくるので、耐えきれずに僕は、1歩下がって、改めて女子生徒と目を合わせた。

「……どうかしたの?」

「んん? ……う~ん……あ、いえ……人違いでした」

う~ん、一体誰と間違えられたのか……初対面の筈だが。

「……あ、それ」

女子生徒の視線が、僕の持つプリントに移り、僕は持つ手を上にあげた。

これは、1枚減らせるチャンスなのでは?

そう考えた僕は、逆の手で1枚取って女子生徒に手渡した。

しかし、僕のその手は虚しくも女子生徒に拒絶され、押し返された。

「いえ、私、入る部活は決めているので……すみません」

「そっか……」

僕は、自分の実力では1枚も減らせないのか、という自己嫌悪に陥り、プリントを持つ手を、だらんと脱力して下ろした。

「……ひょっとしてそのプリント、貰ってほしいですか?」

首を傾げ、僕の目を見つめたままそう言ってくる女子生徒に、普段なら強気に断るところだが……どうしてか、今に限っては、その女子生徒が女神にも見えた僕は、涙ながらに答えた。

「はい、是非……受け取ってください」

その瞬間、廊下に立つ生徒たちの視線が集まってきたが……ひょっとして今の僕は、入学初日に、新入生に涙ながらに告白している、痛い男子に見えているのでは……?

 僕は姿勢を正し、涙と鼻水を引っ込めた。

しかし、当の女子生徒はそんな事気になって無いみたいに、落ち着いた声で、返してきた。

「じゃぁ、私を水泳部の活動場所まで案内してくださいよ……パンフレットには夏以外の練習方法が、陸上部との合同練習か、室内プールの練習って書いてあって、結局今日はどっちに行ったらいいか分からなかったので……間違って陸上部に勧誘されたら、嫌じゃないですか」

「……いいじゃん、陸上部でも」

「駄目ですよ」

スパン、パンと会話が途切れ、無言の時間が流れた。

確かに、プリントが1枚減るのは大きい……言い訳も出来るし……だが、僕には天神を案内するという重要任務があるのだ。

ここは、諦めるしかないか。

「夏以外の水泳部の活動は、陸上との合同練習と室内プール、自由に選べるから不安なら室内プールに言ったらいいと思うよ……僕は、この後やることがあるから、案内は出来ないけど」

「……どうして知っているんですか?」

「僕、水泳部だから」

 僕のその言葉に、女子生徒は、ハッとした顔を浮かべた。

「やっぱり、そうなんですね」

「? やっぱり?」

僕が疑問に思って聞き返すと、それと同時に、教室の扉が勢いよくバンッ! という音を立てながら開いて、そこから天神が現れた。

手に持っていたプリントの枚数がかなり減っていたのを見るに、配れはしたのだろうが……髪が更に爆発していて顔も赤く、どこか怒っている様にも見えた。

「葉月君! 早く逃げるよ!」

「ちょっと、まっ!」

天神は僕の方に走ってきて、そのままの勢いで僕の右腕を掴んで、逃げるようにその場を離れた。

その際に、先程の女子生徒は踵を返して下駄箱の方に向かっている様子と、1枚だけ裏になっている先程女子生徒に突き返されたプリントに何か書いてあることに気が付いた。

『私の名前は葉月陽花です。よろしくお願いします』

一体、いつ書いたのか。

なんて、そんなことを考えることも許されぬ勢いで、天神は僕を引きずったまま1階の渡り廊下まで飛び出して、そこでようやく止まった。

僕から手を離して両膝に手をつき息を切らす天神をよそ目に、僕はプリントを見つめた。

……葉月、まぁよくある苗字ではあるか……?

奇跡じゃん!

僕は少し心が躍り、プリントを綺麗に四つ折りにして、胸ポケットにしまった。

「はぁ……はぁ……ねぇ、葉月君……」

「ん?」

「何で皆、私の電話番号知りたがるの……?」

天神は姿勢を伸ばし、息を整えてから、僕の方を向いてそう言った。

何で、って言われてもなぁ……僕にも分からないし……天神は可愛いし、普通の男子生徒なら、連絡先くらい知りたいのかなぁ。

僕はそんな事を考えて、思ったことをそのまま口にした。

「天神が、タイプったんじゃないの?」

「う~ん……だってさ、葉月君……教室で電話番号聞いてきたの、ほとんど女の子だったんだよ?」

「じゃぁ、そういうことだろ」

「? どういう事?」

僕は顎に手を当てて、改めて天神の顔をジーっと見た。

……そういう世界も、有りなのかもしれない。

「で、結局教えたの?」

「ううん、教えてないよ……何? 葉月君、ひょっとして知りたいの?」

僕の目を見つめて、艶っぽい笑みでそう語りかけてきた天神を無視して返す。

「そうか……でも、そんなんでよくプリントを受け取ってくれたな」

そんな僕の態度が気に食わなかったのか、天神は頬を膨らませて不機嫌そうな顔になって、吐き捨てるように言い返してきた。

「葉月君と違って、皆良い子たちだったからね。1人3枚ずつ持って行ってくれたよ」

それは部活勧誘のプリントとしてはどうなんだろうか。

僕が苦笑いを浮かべていると、天神は僕の握るプリントに目をやってから、ゆっくりと不審な目を僕に向けて口を開いた。

「で、葉月君は何やってたの? 女の子と話してるように見えたんだけど」

そこで、僕は自信満々に、ほとんど厚さの変わっていないプリントの束を、天神の視線まで持ち上げてひらひらさせた。

「ほら、1枚減ってるだろ」

その直後、ドンという鈍い音を立てて天神の正拳突きが、僕の鳩尾に炸裂した。

全く痛くなかったが、プリントを全く配れていないとい後ろめたさから「うぅ」と言ってわざとらしく痛がるふりをして体を丸めた。

「ま、いいんだけどね」

すると、天神は満足したのかふふんと鼻息を吐いて僕を許してくれた。

僕は直ぐに背を伸ばし、天神を見た。

「じゃ、学校見て回るか」

「……プリントは?」

「いいよ、潮風先生には後日、頭を擦り合わせて謝っておくから」

「それで許してもらえるの?」

「まぁ、実績はあるから……何回か」

「何回もあっていいの? それ……じゃぁ、まぁ。お願いしようかな」

僕は天神の残りのプリントを受け取り、自分のと重ねて、その場で屈みこんで、パンパンの鞄に何とか詰め込こもうとした。

「ねぇ、そう言えば、何でそんなに鞄パンパンなの?」

「あぁ、朝は遅く起きるから……用意してたら間に合わないだろ?」

「……むしろ大変だと思うんだけど……代わりに持って帰るから、貸して?」

天神も僕と同じように屈みこんで、プリントを貰おうと手を出してきた。

その際に来た風に乗せ、天神の匂いなのか花の匂いが鼻腔をくすぐって、何もしていないのに悪いことをした様な罪悪感が押し寄せてきた。

「いいよ、ほとんど僕が配るべきプリントだし」

「ダメだよ、そんな鞄に入れたらぐちゃぐちゃになっちゃうでしょ?」

天神はパッと僕の持つプリントを持ち、弱い力で引っ張ってきた。

僕はそれに抵抗するように引っ張った。

「ぐぬぬ、何故折れないんでしょうか葉月さん」

「譲れないものがあるからですよ天神くん」

2人はそれぞれが喋り方を変えたことに少しクスっときて笑い、互いが隙を見てか同じタイミングで力を入れて引っ張り始めた。

ギュゥとプリントが音を立てて伸びている。

次第に、互いに力を入れすぎて逆に緩めれなくなってしまっていた。

そうしてお互いが後に引けなくなったその時に、ふとプリントに影が差した。

「……何してるんですか?」

僕はその人物を確認すると、そこに立っていたのは、先程の女子生徒―――葉月陽花だった。

「なに、してると思う?」

僕は、ギュっと力を込めて綱引きのような態勢になっている天神に対抗するように、中腰で力を入れて顔を向け、陽花にそう返した。

「……さっきのダサいプリントを奪い合っている、とても滑稽な光景に見えます」

ダサいて……ダサいて……潮風先生……。

「そうだな、そう見えるよな……だから、助けて欲しいんだが」

僕が再度助けを乞うと、陽花は1度、はぁとため息を吐いて前に進んでくると、プリントを横から両手で持った。

「……分かりました、私がこれ持って帰りますからね」

言うと、陽花はプリントを勢いよく上に持ち上げた。

どんな馬鹿力なのか知らないが、陽花がそんなことをしたせいで、途中までプリントを掴んでいた僕と天神の手は滑り、互いにプリント方向に引っ張られてしまった。

天神が僕の胸に飛び込んできて、その衝撃で僕は尻もちを着いた。

「大丈夫か? 天神……おい、陽花さん!? 何してるの!?」

「……助けたんですよ。ラッキーでしたね」

「何が!?」

天神は気が付いたのか、バッと僕から距離を取って立ち上がった。

天神の顔は真っ赤になっていて、いかに強くプリントを引っ張っていたかが伺えた。

「こ、コホン。助けてくれてありがとう謎の少女! さぁ、早く行こう葉月君!」

そう言いながら、天神は何も考えて無いのか、職員室や校長室などのある別棟の校舎へとスタスタ歩いて行ってしまった。

「……すみません、あの方は一体?」

「あぁ、天神栞だよ、因みに僕は葉月瑞。じゃぁ、追いかけるから、助けてくれてありがとう!」

僕は、目的も無くカタカタ歩いている天神を追って走り出すと、背後から「天神……葉月……う~ん」と聞こえたが、特に深い意味もないだろうと、特に気にはしなかった。


それから天神に追いついた僕は、同棟1階の保健室や、3階にある図書室、そこから移動して、美術室等がある技術棟の案内をして回った。

技術棟は旧校舎を使用しているため非常に古臭いが、ロボ研や美術部等が各々の用途で教室を使用しているため、非常に賑やかで様々な匂いが入り混じった場所となっていた。

しかしそれもその棟の2階までで、どうしてかは分からないが、3階からは部活で使用している教室はなく、下からの声が小さく響き、廊下で練習している吹奏楽部のトランペットや運動部の叫び声が窓越しに響いているだけのとても閑静な場所となっていた。

僕と天神は現在、そこに居た。

「……案内は以上かなぁ……多分」

「葉月君……私、この場所好きかもしれない」

次は部活動の案内でも、と思った矢先に、天神が急にそんなことを言い出したので、僕は呆気に取られてしまった。

僕は無言で天神を見つめた。

天神は窓際に近づいてどこか外を眺めながら、その下の壁に人差し指を当て、ゆっくりと歩き出した。

「その先には何にも無いぞ」と言いながら、僕は天神と話すために同じ速度で歩いた。

「私、この場所が好きなんだよ」

「……それは、学校の事か? それともこの技術棟の事か?」

その質問に天神は立ち止まり、くるりと髪を靡かせて振り返った。

金色の髪の毛が、ふわりと宙に舞い、太陽の光をキラキラと反射して輝いていた。

「違うんだよ、何か、分からないけど、ここ……この階が、好きなんだよ」

「……何で? この階が?」

別にいい匂いがするわけでもなく、静かな訳でもない埃だらけのこの階の、何が好きなのか分からず、僕は顎に手を当てて考えた。

しかし、そんな僕の横をスッと天神が通って、僕は我に返った。

僕は振り返ってその背中を追うと、天神は直ぐに立ち止まったのでそれに合わせた。

天神は1度深呼吸して再び振り返り、破顔して、僕を見た。

「何で好きなんだろ……ま、何でもいっか!」

「何だよそれ」

そんな天神に、つい僕も小さく笑みを零してしまった。

きっと、顔は真っ赤だと思う。

それ程、体温がボワッと上がったのを感じた。

僕も、この階に来てから胸の高鳴りが大きくなっている気がしていた。

「さ、葉月君。部活動、見に行こ」

「あぁ、うん」

気が付くと、天神は階段を降り始めていて、僕はまた、それを追いかけるように急いだ。


ポンポンと軽快に階段を降りる天神に、僕はなんとか1階で追いつくことができた。

「文化部、見なくて良いの?」

「うん、興味ないし」

下駄箱で靴に履き替え、外に出ようとしている天神は、無垢な笑顔で続けた。

「というより、水泳部以外見に行く気ないんだけどね」

靴の爪先を地面にトントンと叩きつける天神の横で、僕も下駄箱から靴を取り出した。

「何で水泳部に興味あるんだ? ……やってたとか?」

「ううん、やってたとかじゃなくて……葉月君も潮風先生も水泳部だしね」

辻褄の合わない天神の言葉に、僕は靴を持ったままキョトンとしてしまう。

しかし、天神はそんな僕はお構いなしで、外に出て行ってしまった。

その足音で、ハッとした僕も、踵を潰しながら急いで外へと出た。

外へ出ると、傾いた太陽が校舎の間から丁度良く顔を出していて、ムワッと体温が上がっていくのを感じた。

僕が腕でその太陽を隠していると、天神が僕の方を向いて立っていた。

日差しのせいで顔は見えない。

「そういえば、潮風先生がプリントを配り終えるまで部活の参加を認めないってやつ……あれ、全部嘘だから」

「ん?」

「葉月君が泳ぐところ、見せてね」

衝撃の言葉に脳の処理が追いつかないのだが、またしてもそんな僕を無視して振り返り、天神は室内プールを目指して歩き出した。

「ちょっとは待ってくれよ……」

何か、僕は天神を追いかけてばかりな気がする……。

僕は再び、天神の背中を追いかけるように歩くのだった。


室内プールの施設が見えてきた頃。

その入口の前で、施設を見上げた天神が「お~」と言いながら立ち止まっていた。

僕はその横に並び、同じように上を見上げたが、特に何にも見えなかった。

「……何見てるの?」

「ん? う~ん、大きいなぁって」

「……そうだけど」

天神は正面を向き直して、入口に向かって歩いて行った。

今度は置いて行かれまいと直ぐに反応し、僕も歩き出し、丁度入口の手前で天神の横に並んだ。

ウィーンという音を立てて自動ドアが開き、僕と天神は同時に施設の中に入った。

中に入ってすぐに通路があり、右手に男子更衣室、左手に女子更衣室、そのまま真っすぐ進むとプールがあり、通路を左に真っすぐ進むと、自販機やベンチなどが並ぶ休憩スペースとなっている。

 プール特有の匂いが、入口まで漂ってきていた。

「どうする? 泳ぐの?」

更衣室の間の通路で立ち止まった天神にそう声を掛けると、天神は振り返って、僕を見上げた。

「まさか……私は潮風先生に挨拶してくるよ……葉月君は、泳ぐでしょ?」

今日は泳ぐ気は全くなかったのだが、天神のその熱視線に、答えない訳にはいかない。

何故か勝手に、そんな義務感を覚えてしまっていた。

「……分かった、着替えてくるから、また」

「うん、待ってるね」

そう言い残し、ついでにいい匂いを残して、天神は土足のまま、プールの方へと歩いて行った。

靴……脱がないと怒られるのかなぁ……。

僕はそんなことを考えながら更衣室へと向かい、自分のロッカーに入っている水着に着替え、プールへと向かった。

トイレを素通りし、プール前にあるシャワーで体を洗って前に出るとプールがあり、そこでは数人の部員が泳いでいた。

僕はキョロキョロと首を動かして天神を探した。

天神は、僕の居る場所から右奥の、プールサイドに置かれたパイプ椅子に座る潮風先生と会話をしていた。

靴に靴下を丸めて入れて、体の後ろで持っていた。

 真っ白でスラっと長い足が目に入り、直ぐに逸らした。

怒られたのかなぁ、と思いつつも、僕は準備運動を終わらせて、空いていた第1レーンにゆっくりと足から入った。

まだ4月だ、温度管理はされているとはいえ、入った瞬間はやっぱり冷たい。

僕が小さく跳ねて体を温めていると、隣の第2レーンの部員の人が、向こう側から泳いで戻ってきた。

僕はゴーグルをかけて水飛沫を受けた後に外し、戻ってきた部員を見た。

その部員も、足を底について顔を振り、水を飛ばしてからゴーグルを外した。

「……先輩、やっと来たんですね」

「うおッ……お前もう泳いでたのか?」

視界が晴れて陽花の顔が近くに見え、僕は腰を抜かしそうになり、それを感付かれないように、早口で返した。

陽花はゴーグルを再び掛け直し、挑戦的な笑みを浮かべて返してきた。

「もう泳いでるも何も、私はこの高校に水泳の特待生で入ったんですよ……どうですか、先輩? 50m自由、私と競ってみますか?」

その笑みに、言葉に、ピキッた僕は、ゴーグルを掛けて壁に背中を当てた。

 飛び込み無しでタイムを競うのは久しぶりだが……良いハンデだろう。

「その勝負、受けて立つが……どうする、何か賭けるか?」

僕は思いっきり笑みを浮かべて陽花の方を向き挑戦的にそう言うと、陽花も壁に背中を当てながら小さく「後悔させてあげます」と呟いた。

「じゃぁ、スタートの合図は第5レーンの人がターンしたらにするか」

「分かりました」

やり取りを済ませ、2人して正面を向いてその時を待つ。

僕は第5レーンの人が見えたから、それを合図にしたのだが、どういう訳か犬かきをしていることに今気が付き、僕の心の奥底から笑いが込み上がってきていた。

隣の陽花はその犬かきを真剣に見つめている。

それが、更にその笑いを増幅させていったので、僕は大きく息を吐いて心を落ち着かせた。

その時、第5レーンの人がターンしたのか、陽花が顔を沈めて強く壁を蹴り凄い速さで泳ぎだした。

僕はそれに気が付いて、少し遅れてから急いで息を吸い込んで、泳ぎだした。

既にかなりの距離を離されていた。

前を向いて泳いでいるのに、陽花の足の裏が見えてしまっていた。

細かいルールは省くが、陽花はしっかりと15mギリギリまでドルフィンキックで泳ぎ、既に最高速度を出して泳いでいたのだ。

一方の僕は、呼吸も雑で壁も蹴れず、勿論ドルフィンキックも出来なかったため、どうしても追いつくことができない。

伊達に特待生じゃない。

僕が最高速度を出し始めた時には時すでに遅く、20m地点で陽花とすれ違っていた。

綺麗にターンし壁を思いっきり蹴ることができたが、どうしても追いつくことができない。

そうして、そのまま、いや、更に距離を離されて、僕は負けてしまった。

お互いクロールで泳ぎ方が一緒、更に年下で身長も僕よりかなり低いく華奢な体の陽花に負けた僕が受けたダメージは、無理に泳いで追った体の負傷よりもかなり大きい。

僕は壁に手を付いたまま、床に足をついて真っ赤であろう顔を水から上げた。

「先輩、私の圧勝でしたね」

既にプールサイドに上がっていた陽花が、第1レーンの飛び込み台に座ったまま煽るようにそう言ってきた。

疲れて何も言い返せなかった僕は、俯いたまま手すりを使い、プールサイドに上がった。

「お前、早いな……マジで」

僕は、ペタンとプールサイドに尻もちをついて、ようやく余裕ができ、陽花を見上げてそう話しかけた。

陽花はそれを聞いて満足そうに飛び込み台からプールサイドに足をつけ、ペタペタと僕の前まで歩いてきて屈んだ。

「じゃ、賭けの件ですけど」

ニヤニヤと笑いそう言う陽花に、僕は薄目で「覚えてたのかよ……」と返し、陽花の次の言葉を待った。

「私の事、陽花って呼んでください」

「え? そんな事でいいの?」

てっきり、1年間奴隷のようにこき使われたり、財布のお金全部持っていかれたりするものと思っていた僕は、唖然とした顔を陽花に向けた。

すると、陽花はそんな僕を怪訝そうな顔で見つめてきた。

「……あの、一体どんなことを言うと思ってたんですか?」

「いや、別に……」

僕は、分かり易く目を反らし、あらぬ方向を見た。

「もう、いいです。ただ、お前って呼ばれるのが癪だっただけですので……」

陽花は立ち上がり「あと」と続けた。

「最後に、陽花って呼んでください」

言われ、僕は口ごもってしまう。

改めて言われると……女の子を名前で呼ぶの……きっつ……。

だが、陽花の目は期待に満ちたキラキラとした目をしていた。

「……は、はる……はる、か」

「ん?」

陽花は腰を曲げ、もう1度言うように催促してきた。

「もう許してくれ陽花」

僕は恥ずかしいのを隠すように、矢継ぎ早に名前を呼んだが、陽花はそれで満足したのか、笑みを浮かべて、そのままシャワーを浴びに行ってしまった。

 帰り際「あと、今のじゃダメなので、あと1つ、お願いを聞いてもらいますからね」と聞こえてきたが、呆れた僕は、何も返せなかった。

僕は1度、小さくはぁとため息を吐き、立ち上がった。

その時、トントンと左肩に柔らかい手が触れ、振り返ると、僕の左頬に同じく柔らかい人差し指が触れ、ぷにっと凹んだ。

「仲、良さそうだね」

僕は首を右に傾け、天神の人差し指を避けてから体を向けた。

「……今のが仲良く見えたのか」

「見えたけど」

スパっと言い切る天神。

だが、シャツの上のボタンを数個外して裾をスカートから出し、無意識なのか何なのか、無防備で見てはいけないものを見ている気分になり、僕はそっと視線を上げて奥に居た潮風先生に向けた。

潮風先生がパイプ椅子を移動させようと自分の脛に当てていて、とても心が落ち着いた。

「ま。負けちゃったけど……葉月君も負けてなかったし、フォームも綺麗だったよ」

急に褒められ、ドキッとしたが、僕は直ぐに「ありがとう」と小さく言うと、天神が笑顔で「うん、お疲れ」と返してきた。

僕と天神は黙り、辺りに水を蹴る音と潮風先生の地面を叩く音だけが響いた。

「……じゃぁ、着替えてくるから……」

「あれ、もう終わるの?」

「この時期は基本、参加自由だし……疲れたから」

「そっか、じゃぁ入口で待ってるね」

天神はニコッと笑い、通路を目指して歩き出した。

しかし、僕はその背中に疑問に思ったことをぶつける。

「え? 先に帰っても良いんだけど……」

天神はその声を聞き切ってから立ち止まり、そして振り返って、頬を思いっきり、ぷくっと膨らませた。

「こんなに暗いのに、1人で帰らせる気?」

その言葉で、僕は振り返って窓ガラスを確認すると、確かに真っ暗だった。

……そんなに泳いだ記憶ないのに……。

左側に掛けられた時計を確認すると、18時27分。

犬かきをしていた部員も、気が付くともう居なかった。

……時間が飛んだわけでもあるまいし……やっぱり、それだけ泳いだのか……?

「ごめん、急いで着替えてくるから―――」

振り返ると、遠くの方で不機嫌そうに天神が歩いるのが見えた。

僕は急いでシャワーを浴び、更衣室に駆け込んだ。

急いで着替え、脱いだ競泳パンツを洗濯機に入れ、洗濯・乾燥を設定し運転開始し更衣室を飛び出した。

入口に向かうと、自動ドアの向こう側に天神が立っているのが見えた。

直前でスピードを緩め、自動ドアが開き切る前に体を横に向けて押し込み、外へ出た。

「ごめん、遅くなった」

「いやいや……早くない?」

スマホから顔を上げて、キョトンとした顔を僕に向けて天神は困惑していた。

その時、優しい風が天神の髪を靡かせ、水で濡れた僕の体を通り過ぎて行った。

4月ってこんなに寒かったっけ。

僕は両腕を抱えて風を凌ぐ。

「寒いの?」

その質問に、僕は顔を前に向けたまま「いや、大丈夫」と答えて続けた。

「……帰るか」

「うん、帰ろう」

短いやり取りの後、僕と天神は並んで歩き出した。

「そういえばさ、葉月君」

「ん?」

少しして、歩きながら天神は僕を見上げ、そう話しかけてきた。

「スマホって持ってる?」

「スマホは持ってないけど―――」

僕は鞄を持ち上げ、外ポケットに押し込んだガラパゴス携帯、通称ガラケーを取り出した。

「―――これなら」

「え!? ガラケー使ってるの!? 可愛い!」

天神は立ち止まって興奮気味にガラケーの下部を優しく掴んできたので、僕はパッと離して同じく立ち止まった。

僕の持っているガラケーは一般的な長方形の形で、上画面外側に縦長のサブディスプレイが付いていて、そこから時間が見え、下にカメラや赤外線ポートが付いた、本当に普通のガラケーだが、どうやら天神には刺さったらしい。

「別に可愛くないだろ」

「私、初めて見たもん! 可愛いよ! ……あ、そうだ!」

言って、天神はガラケーと自分の持っていたスマホを僕に押し付けて鞄を漁り始めた。

僕は、天神が何かを見つける間、押し付けられたスマホを見つめた。

スマホケースには、風鈴が大きく映る家から海を見た絵が描かれていて、更にキーホルダーが付けれるような物となっており、そこには風鈴のキーホルダーが提げてあった。

風鈴には、赤い金魚にも見える模様が描かれていた。

その時、優しい風が吹き、1度。

風鈴が「チリン」という音を立てて揺れた。

……久しぶりに聞いた、季節外れの風鈴の音。

「可愛いでしょ、それ……はい」

天神が鞄の奥から取り出したのは、今度は、青色の金魚に見える模様の描かれた、色違いの風鈴のキーホルダーだった。

天神は僕からスマホを取り、キーホルダーを渡してきた。

「あげるよ……ほら、お揃いだね」

言いながら天神はスマホを上げて、横に揺らした。

しかし風鈴は上手く鳴らずに、乾いた音を立てて止まった。

「……貰って良いの?」

「うん、いいよ。余ってた奴だしね」

「ありがとう」

僕は素直に嬉しかったので、お礼を言い、ガラケーに付けようと紐を通そうとした。

しかし、そこで思い出した。

ガラケーのキーホルダーの付け難さは、異常であったということに。

そのため、この暗い中、爪楊枝も無いのに、付けられる筈がないのだ。

僕は諦めてそっと鞄にしまおうとしたが、天神がそれを不思議そうに眺めてきていた。

「付けないの?」

「……う~ん。何て言ったらいいのか……付けられないんだよ」

「付けられない?」

「そう、難易度がね。高いから」

「ん? どういう事? 私が付けてあげるよ」

「……う~ん」

確かに、こればっかりは、試したことのある人間にしか、伝わらないのだろう。

何度、ギャルってすげぇって思ったことか。

「じゃぁ、頼んだ」

僕はキーホルダーとガラケーを天神に差し出すと、天神はスマホをしまって鞄を右肩に掛け直してからそれを受け取った。


それから校門へ辿り着くまでの間。

僕は、天神の鞄を受け取って、ガラケーにキーホルダーを付けようと、格闘する天神を安全に導いて歩いたが、結局付けることはできず、天神は謝罪しながらそれらを手渡してきた。

「ごめん葉月君……無理だった」

「謝るなよ、難しさは知ってるし……家に帰ったら付けるから」

「……うん」

申し訳なさそうに俯いた天神に、僕は切り替えられるように質問した。

「そういえばなんだけど聞いていい?」

「ん? どうしたの?」

「家って何処にあるの?」

「……」

天神はあらぬ方向を向いて、音の鳴ってない、カッスカスの口笛を吹き始めた。

風も先程よりも強くなってきた。

「まぁ、行けば分かるか……」

「そうだよ、行けば分かるよ……本当に、良いの?」

「……そりゃぁ、遅くなったのは僕の責任だし……勿論」

「……ありがとう、こっちだよ」

そう言って天神が歩き出した方向は、僕の通学路と同じ国道沿いだった。

僕は内心ほっとしつつ、先を行く天神の背中を追って歩いたが、次第にその距離は縮まっていき、遂には僕の後ろにピッタリついて歩く形になってしまった。

「……何してるの?」

「やっぱ怖い」

「……そうか……」

部活入らない方がいいんじゃない? と言いかけて、僕はそれを飲み込んだ。


そんな形で歩くこと数十分。

国道沿いを走る車が作る追い風に吹かれて体は冷え切り、時折天神が触れる部分だけが少し暖かかった。

その間、お互い特に口を開くことはなく、少しだけ、好きなアーティストとかドラマとかの話をしたが、天神にどうやらその余裕はなさそうなので、話しかけるのも辞めておいた。

「……あ、ここ、左だよ」

そう言って天神が僕の服の袖をくいっと引っ張ってきたその場所は、僕が今朝走って右に曲がった場所だった。

その道を1km言った場所に、僕の家があるが……天神さんって家を僕は聞いたことがない。

「この道であってるの?」

「……うん、あってるよ……あと2km位かな……」

そうか、通学路を逆に行くことは殆どないし、知らない訳だ。

僕たちはその道に入り、また歩き始めた。

その道は街灯も少なく、薄暗い。

確かに、女の子1人で歩くには不安になる道だろう。

天神は周りから見て、分かり易く美人だから特に危ないだろう。

それから僕と天神は無言で歩き、時折、天神が自分の足音にビックリして、僕もそれに驚きながら着実に家に近づいて行った。

既に僕の家は通り過ぎていたが、特に触れることもなく、道の突き当りで天神が「ここ、左」と言ったので、更に左に曲がって1km程進んだ頃。

奥に進むにつれ、木造建築が少なくなっていき、一軒家や高級そうなアパートが増え始めた事に気が付いたその時に、天神が僕の袖を引っ張って立ち止まった。

「ここだよ……本当にありがと……助かったぁ」

天神はマンション入口の明るい場所へトコトコ移動してお礼を言ってくるが、僕はそれどころでは無かった。

マンションの、ここからじゃ見えない屋上を見上げ、口をあんぐりと開けて質問する。

「……エエっと……ここに住んでるの?」

「うん、そうだよ……まぁ、お父さんもお母さんも、仕事が忙しくて滅多に帰ってこないんだけど」

僕は視線を天神に向けた。

奥の入口に、オートロックの付いた2重ドアとエレベーターがあるのが見えた。

「……そうだ、葉月君、あがっていく?」

「いや、帰るけど……」

今日会ったばっかりで家にあがるって……僕は男として見られてないのか……。

「そっか……あ、そうだ。ちょっと待ってて」

「ん? うん」

天神は、紙とペンを取り出してその場で屈み、鞄を下敷きに何か書き始めた。

そして直ぐに、書き終わったのか天神がトコトコ近づいてきて、その紙を渡してきた。

「……電話番号?」

「うん、私の電話番号……一応、渡しておこうと思って」

「そっか」

何で? って聞くのは野暮だろうか……。

「……じゃ、今日は色々とありがとう」

「あぁ、お疲れ」

「うん、また明日ね! 葉月君」

言って天神は入口へと戻っていった。

僕はそれを見届けて、背中を向けて自分の家へと歩き出した。

チラッと振り返ると、入口のオートロックを開けた天神が、スマホを持ったまま一生懸命に手を振ってきていた。

同じように、風鈴が揺れているのが見えた。

一生の別れでもないのに、と僕は自然と小さく笑って直ぐに前を向き直した。

風は既に止んでいて、いつもの帰り道と同じ様な風景なのに……何だか寂しく感じた。


僕がアパートの前に到着すると、見覚えのある人物が見えた。

「……何してるの?」

「あ、先輩……ここに住んでるんですか?」

何でここに陽花が……。

今居るってことは、付けてきた訳でもなさそうだし。

「そうだけど、何で知ってるの?」

僕のその質問に、陽花は口ごもり、答えにくそうになった。

「……いえ、……先輩……」

気まずそうにもじもじしている陽花だったが、次第に陽花の目元に水滴が浮かび上がってきた。

薄い街灯の光に照れされて、それを反射し、遠目の僕でもそれに気が付いた。

そうしてその後直ぐ「助けてくださいぃ」と泣きながら、陽花が僕に泣きついて来た。

凄い勢いで泣きついてきた衝撃を僕は左足を踏み込んで耐え、ギュッと抱きしめて来る陽花を何とか引き剥がそうと、肩に触れた。

「どうしたんだよ急に」

「私、帰る家が無いんですよぉ!」

「帰る家が無い?」

「そうなんですぅ! 今日一晩だけでいいので泊めてくださいぃ」

「ちょ、ちょっとまってくれ」

少しだけ気を遣っているのか、小さく叫ぶ陽花だが、十分に近所迷惑だ。

「わ、分かったから、とりあえず家で話聞くから」

僕がそう言うと、陽花はスッと僕の体から離れた。

最早涙の1滴も浮かんではいない。

「さ、行きましょうか先輩」

言って、既に部屋の位置を知っているかのように、真っすぐに僕の部屋の前まで歩く陽花の背中を見て、僕は呆気にとられ、内心ビクビクで恐怖した。

僕もそれを追いかけて、鍵を開け、扉を開き中に入った。

「お邪魔しま~す」

後ろから、陽花も入ってきた。

僕は靴を脱ぎ、振り返って立ち止まった。

「で、帰る家がないってどういう事なの?」

靴を脱ごうとしている陽花に、僕はそう質問をした。

陽花は、今度は真っすぐに僕の目を見て答えた。

「言葉の意味の通りです。帰る家が、無いんですよ」

「……答えになってないんだが……」

僕は左手の人差し指を眉間に、親指を頬に当てて支え、ため息を吐いた。

「ごめんなさい……先輩。無理を言ってるのは承知なんです……でも、本当の事は言えないんです……嘘も、吐きたくありません……ごめんんさい」

しんみりと、反省した声音で言って更に頭を下げる陽花に、僕は何も言えず、口籠ってしまった。

 しかし、直ぐに陽花はケロッとし「今日、水泳で勝ったお願いが残ってますよね」と開き直って、元気に聞いてきた。

僕はもう1度ため息を吐き、大きく息を吸った。

「……分かった、ただ……1日だけね」

その言葉に、陽花はパぁっと笑顔を浮かべて靴を脱ぎ、僕の脇を縫って中に入っていった。

「へぇ~、案外広いんですね、おと―――先輩!」

その溌溂とした声に、僕はまた深くため息を吐いてから、部屋の中へと入った。

それから少し雑談し、その中で、陽花が料理を振舞うと言い出し、それを食べ、陽花、僕と順番にお風呂に入り、早めに眠りに就いた。

因みに、料理はオムライスで、凄く凄く、美味しかった。

僕はぐちゃぐちゃにした卵や、ソーセージを焼いて塩コショウで食べたり、ご飯を電子レンジでチンしたりして食べるくらいしか出来ないので、それを使ってオムライスを作っていた陽花が、魔法使いに見えた。

 家庭科の成績は悪くないんだけど……全く関係ないらしい。

陽花は僕のベッドで眠り、僕はベッドの横の床で、ブランケットを被り、横になって眠った。

最初は逆だったのだが、陽花がベッドに潜り込んできたので、僕はロケット鉛筆方式で床で眠る羽目になってしまったのだ。

ブランケットには陽花の匂いが残っていて、僕は煩悩を抑えるのに必死で、結局ブランケットを畳んで離れた場所に置き、そのせいで、深い眠りにつけなかった。


翌朝。

陽花の「朝だよ! お父さん!」

という意味の分からない言葉で目を覚ました。

陽花はハッとしていたが、いつもギリギリに起きる僕には睡眠時間が足りず、ぼんやりとした意識の中の言葉だったので、それも直ぐに忘れてしまった。

「おはよう」

「お、おお、おはようございます! 先輩! まず顔を洗ってきたらどうですか!?」

「……うん……そうする」

僕は眠い目を擦って立ち上がり、洗面台に向かって顔を洗い、次に歯を磨いた。

そこでようやく意識が覚醒してきて、いい匂いがしている事に気が付いた。

洗面台を出てリビングに行くと、陽花が朝食を用意して座っていた。

「コホン、改めて。おはようございます、先輩」

「あ、うん……おはよう」

「さ、早く食べましょうよ。座ってください」

笑顔で元気そうに言う陽花に従って、僕は陽花の正面に座った。

朝ご飯、か。

食べるのなんていつぶりだろうか。

「じゃ、先輩。いただきます」

「いただきます」

綺麗に三角食べをする陽花に続いて、僕も食べ進める。

早寝早起きに朝食。

忘れていたが、良い物なのかもしれない。

時間も余裕があるし、今日は歩いていけそうだ。

鞄でも整理してから向かおうか。

そんなことを考える余裕のある朝って……本当にいつぶりだろう。

気が付くと、僕の頬を涙が伝っていた。

「ど、どど、どうしたんですか、先輩」

「ごめん、気にしないでくれ」

僕は、困惑する陽花をよそ目に、涙ながらにご飯を食べ進めた。

 少ししょっぱかったが、塩気が効いていて丁度良かった。

今日は、いい日になりそうだ。

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