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第七話:重なる

 台所で昼食の準備をしていた。浅い器に、コーンスープを注ぐ。注ぎ終えると、スープの皿に銀のスプーンを添えてテーブルまで運び、席についた。

 テーブルのわきに、昨日の健康診断で撮ったレントゲン写真が置きっ放しになっているのが、目に入った。肺のところに黒い影がかかっている。

 私はスープに手をつけないまま、しばらくじっと、銀のスプーンの裏側を眺めていた。曲面に浮かぶふたつの歪な瞳が、こちらを見つめ返していた。

 そうしていると、玄関の呼び鈴が鳴った。私はスプーンを置いて、席を立った。

 玄関の扉を開けるとそこには、見知らぬひとりの人間が立っていた。親しげな笑みを浮かべ、挨拶をするように、手のひらを見せる。

「どうも、私は真空に弾けたハッシュドポテト無味乾燥と申します。あなたの同居人です」

 そして、なんの躊躇も無く敷居を跨ぎ、我が家に足を踏み入れた。

 今突拍子も無いことが起こったにも関わらず、私には、それはもう、事実として受け入れるほかないのだということが、自ずからわかった。だから、入って来る氏を止めることはしなかった。私は今日、同居人を得た。

 ハッシュドポテト氏は我が物顔で廊下をずいずいと渡り、リビングまで進むと、部屋じゅうを見回した。私が自宅に他人を入れるのは、初めてのことである。人を招いたことなど無いし、これから招く予定だってまるで無かったので、我が家の内装は完全に自分用であった。つまり、他人に見せることをまったく意図していない、淡泊なつくりであった。ハッシュドポテト氏は、その淡泊なリビングを、ただ黙って観察した。ただ静かに、頭を巡らせて、一切何も言わなかった。氏の瞳は一瞬、テーブルの上のレントゲン写真に留まったように見えた。

 私は散歩に出かけようと思って、外套を羽織った。それを見たハッシュドポテト氏は、馴れ馴れしく声をかけて来た。

「おや、おでかけされますか。どれ、私も一緒に行かせてください」

 そして、玄関の戸を押し開ける私の後ろに、ぴたりと着いて来た。

 私とハッシュドポテト氏は、並んで道を歩いた。空には灰色の雲がかかり、肌に触れる空気は冷たかった。

 しばらく進むと、無機質な白い建物の横を通りかかった。入り口はどこにも見当たらない。しかし、道路に面した壁にぽつんとひとつ、丸い窓が付いていた。

 私たちは、丸い窓から建物の中を覗いた。

 窓ガラスにうっすら反射する自分たちのシルエットの向こうには、青い手術着を着た人間が立っていて、台の上に押さえつけたモルモットに、何かしらの注射を打っているところだった。注射を打たれたモルモットは、苦しそうに身を捩った。

「なんて可哀想な」

 私は呟いた。

 すると、隣のハッシュドポテト氏が感心したように言った。

「あなたは慈悲深い方ですね。あのような実験動物を見て心を痛めるとは。あなたはきっと、このガラスさえ無ければ、あの動物を助けに行ったことでしょう。せめて、窓を破る金槌でもあれば。しかし、無いのでどうにも仕方ありません。可哀想だけれど、放っておくしかありませんよ」

 私の上着のポケットには金槌が入っていて、柄の尻がわずかに覗いていたけれど、ハッシュドポテト氏はそちらにはちらとも目をやらなかった。

「いやまったく、尊敬に値します。私だったら、あんな動物は自分に関係無いし、どうでもいいと思ってしまいます。わざわざ自分の時間を使って誰かを助けるなんて、正直、面倒臭いですからね。何もしないで、ただ案じているような顔をしておくのが、いちばん楽です」

 ハッシュドポテト氏が滔々と語るのを聞いていると、私は憂鬱になった。

 私たちはまた歩き出した。

 公園に差し掛かると、祭りでもやっているのか、屋台がずらりと並んでいた。公園の入り口を抜け、屋台の列に沿って進む。

 目の虚ろな、種々のお面を売っている店の前を通り過ぎたところで、せんべいの屋台を見つけた。

 私は、腹が減っていた。並んでいるせんべいのひとつを指差し、店主に向かって言った。

「この、花のような形をしているやつを、ください」

 すると、ハッシュドポテト氏が口を挟んだ。

「おや、あなたにはこれが花の形に見えるんですね。かわいらしい発想だ。心が無邪気な証拠ですよ」

 店主が袋に入れて差し出したせんべいを、私は受け取らずに、ただそこに黙って立ち尽くした。

「なんてったって、私なんかには、スナイパーの形をしているように見えましたから。それも、こちらに銃口を向けているスナイパーですよ」

 私はまたぞろ憂鬱になった。

 結局せんべいは食べないまま、公園を出た。

 私たちは河川敷を歩いた。いまだに天気は悪くて、空一面に雲がかかり、じめじめしている。

 低気圧の中を長時間歩いたせいか、そのうち、頭がずきずきと痛み出した。立ち止まって、言葉を漏らす。

「天気のせいかな、頭痛がする」

 すると、ハッシュドポテト氏は仰々しく心配そうな顔をして言った。

「それは大変だ。空の気分に体調が左右されてしまうとは、繊細なんですね。可哀想に。病院に行きましょうか、それとも、薬を買って来ましょうか」

 私はこめかみを押さえてうつむいたまま、何も答えなかった。

「ああ、私には今あなたが味わっている痛みがわからないのが、本当に申し訳ないですよ。なにしろ私は健康体なもので、あまり身体を壊さないのです。元気過ぎて仮病を使うくらいです。いえ、さすがに、何も無いのに何かあるように振る舞うことはないのですが、さかむけをまるで骨折みたいに言ってみるくらいはね。実に愉快です。義務をサボれるどころか、装っているあいだじゅう、ある種の特権階級のように扱ってもらえますから」

 私はこれ以上無いほど、憂鬱になった。

 これ以上無いほど憂鬱になって、思わず、ハッシュドポテト氏に向かって叫んだ。

「おい、きみ、いい加減にしたまえよ!」

 そして、駆け出した。

 川べりを離れて、商店街に入り、いちばん最初に目についた金物屋へ飛び込んだ。そしてそこで、刃渡り二十センチの包丁を買って、入ったときと同じように勢いよく飛び出した。私は包丁を携えて、人通りの無い、細い路地に入った。

 私は暗い路地裏で、箱から包丁を取り出し、ぎらぎら光る生の刃を、冷や汗をかきながら、じっと見つめた。

 そうしていると、背後から差す表通りの明かりがふいに遮られたので、振り向くと、路地の入口にハッシュドポテト氏が立っていた。

「まあまあ、落ち着いてください」

 氏は、逆光で暗くなった顔に不気味な笑みを浮かべながら、猫撫で声で言った。

「あと五分、逡巡してください。そうすれば、金物屋の店員が助けに来てくれるでしょう。必要以上に慌てて店に飛び込み、必要以上に慌てて凶器を選び、必要以上に慌てて財布から金を取り出し支払ったあなたの様子をおかしいと思って、探しに来てくれることでしょう。そしてあなたのことを心配し、あなたから致命的な道具を取り上げ、あなたの選択肢を奪ってくれることでしょう」

 私は、自分に投げかけられた不敵な笑みを睨んだ。

「わかっている! わかっているよ! 私の肺は穢れているのだ。何もかも、演出なんだ。何もかも、純粋ではないんだ」

 ハッシュドポテト氏は、ただにやにや笑うばかりで、何も答えなかった。

 私は酷く腹立たしく、憂鬱で、しかし手に握った致命的な道具を使う勇気は無く、うなだれた。

「私の本当の気持ちはいったい、どこにあるんだ?」

 ハッシュドポテト氏はおもむろに近づいて来て、懐から一枚の紙を取り出し、私の目の前でひらひらと振ってみせた。そこには、次のようなことが書かれていた。


 診断書

 私は、あなたにとっての癌細胞である。それは、歴とした名前を持ち、一般に認められた、抗えぬ病である。


 その文面の下には署名欄があって、空白になっていた。

 ハッシュドポテト氏は、私の鼻すれすれに迫り、囁いた。

「あなたが望むなら、ここにサインをして差し上げましょう。臆することはない。とても簡単な話です。他のみんなもこうしています。すべての人がこうしているのです」

 眼前で揺れる薄い紙。署名欄の空白が、私の両の瞳を吸い寄せた。

「さあ、楽になりなさいよ」

 しかし私は、相手の手から乱暴に診断書を奪うと、奇声をあげながらびりびりに破り裂いた。

「私を、自分の苦しみに名前をつけて喜んでいる連中と一緒にするな!」

 すると、ハッシュドポテト氏はまた、愉快そうに笑った。

「よく耐えたね。褒美をやろう」

 そう言って、一枚のレントゲン写真を私のほうに差し出した。それは確かに、私がテーブルに置きっ放しにしていたものだったが、肺にかかっていた黒い影は綺麗さっぱり消えていた。

「加工して、見えないようにしておいてあげましたよ。これがあなたの苦痛の対価です。あなたの肺が穢れていることを知っているのは、宇宙であなたひとりです。残念ながら、あなたが知っているという事実だけは、加工して差し上げられませんが。勝手な苦しみの対価など、所詮この程度のものです」

 そういう調子で、ハッシュドポテト氏は語り続けた。氏の言葉は無限に溢れ出て来て、止まることを知らなかった。私の耳元で鳴り、私の頭の中に流れ、私は精神を捻り上げられるのを感じ、そして、私の精神の捻り上げられる様子をハッシュドポテト氏が克明に観察するのを感じた。このどうしようもない攻撃の津波は、永遠だと思った。

 しかしそのとき、どこからともなく九官鳥が飛んで来た。

 単純だが、それゆえに美しく、容易に身体に馴染む和音の組み合わせで、歌を歌っている。のたうち回っていた私も、その歌声につられて、知らず知らずのうちにハミングを始めた。私は歌に夢中になった。私と九官鳥のセッションは、どんどん音を増して、しまいには、大所帯の合唱団が大会堂に響かせるほどになった。

 ハッシュドポテト氏の言葉のとめどない流れがいつのまにやら消えていたことに気づいたのは、合唱が最高潮で美しく弾けて終わり、九官鳥が飛び去って行った後だった。私の頭の中にはまだ、素晴らしいメロディーが響いていた。

 ハッシュドポテト氏は、能面でこちらを見ながら、小声で言った。

「私は先に、帰っておきます。また会いましょう」

 そして、私の家のある方角へ、ひとり去って行った。

 私はしばらくそこで余韻に浸っていたが、やはり家路につくことにした。

 自宅の玄関の戸を開けると、中は静まり返っていた。奥の部屋からかすかに、ハッシュドポテト氏の寝息の音が聞こえる。できる限り長く、そうやって眠っていてほしい。

 テーブルの上には、飲み忘れていたコーンスープが置きっ放しになっていた。

 いい曲が、できそうだ。

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