第五話:出会う
結婚相談所の前を通りかかると、派手な色の看板が目に入った。
人と人との出会いというのは、大変貴重なものです。何百通りもある中から選ばれたひとつの道と、何百通りもある中から選ばれたひとつの道が交差し合う、それは、決して容易に成し遂げられることではありません。当結婚相談所では、そんな貴重な出会いの一助になれるよう、全力であなたをお支え致します。まずはご相談ください。
その看板の傍の窓が開いていて、中から話し声が聞こえて来た。
「本当に、素敵な人に出会えますかね。なんだか難しいような気がして来ました」
「ご安心ください、肉屋の店頭に並んだサーモン戦々恐々さん。私どもはこれまで、たくさんの出会いを実現して参りました。あなたのご要望にも、必ずお答え致します」
「そうですか。じゃあ、これからよろしくお願いします」
私はその場を後にした。
それからしばらく散歩を続けていると、向かいから一匹の猿が、とぼとぼと歩いて来るのが目に入った。猿はどうも困り果てたような様子で、私の姿を見るやいなや、話しかけて来た。
「すみません。ちょっとお助け願いたいことがあるのですが」
「なんでしょうか」
「指にはめた指輪が、抜けなくなってしまったのです。どうか、外すのを手伝ってくれませんか」
私は、猿の手を見た。確かに、大きな宝石の付いた指輪が、しっかりと猿の指にはまっていた。締め付けられた肉が、輪の縁に沿って盛り上がっている。
「大変ですね。食い込んでるじゃありませんか」
「そうなんです。はめるときは、すんなり入ったんですがねえ」
「いいでしょう、手伝いますよ」
私は、猿の手を取り、指輪を引っ張った。
「痛い痛い痛い」
猿は悶絶した。私は慌てて手を放した。
「すみません」
猿は、痛みに汗をかきながら、首を横に振った。
「いえ、いえ、いいんですよ。私が怪我をするのは、構いません。指輪さえ無事に外れれば、少しくらいの怪我は、どうってことありません。なんせ、大事な大事なダイヤモンドの指輪なもので」
「しかし、随分しっかりとはまってしまっていますから、ただ力任せに引っ張るだけじゃ、外れなさそうですよ」
ふたりは、解決策が見つからず、道端でううんと頭を捻った。
すると、そこに外科医が通りかかった。私たちが悩んでいる様子を見て取ると、声をかけて来た。
「いったいどうされました?」
「この方の指輪が外れなくて困っているのです」
私は、指輪のはまった猿の手を外科医に指し示した。
外科医はうーんと唸ってから、手をぽんと打ち合わせた。
「隙間に何か差し込んでみたらどうでしょう。ちょうど今、ピンセットを持っていますから、私にやらせてください」
私は猿の手を外科医に譲った。
外科医は、器用な手付きでピンセットを操った。ものの数秒で、ピンセットの先端は指と指輪のあいだの隙間に滑り込んだ。
「ほら、いけそうです。てこの要領で取りましょう」
そう言って、ピンセットを捻る。
「痛い痛い痛い」
しかし、指輪は一向に外れる気配が無かった。さらに、ピンセットを捻ってみたり押し込んでみたりしているうちに、ピンセットも引っ掛かって動かなくなってしまった。
私は、猿と外科医の手もととを覗き込んで言った。
「まずいですね。ピンセットまでくっついてしまった」
外科医は、申し訳なさそうな顔をした。
「これは、指輪より先にピンセットを外さなければなりませんね」
私は外科医と一緒にピンセットを引っ張ったが、それはうんともすんとも言わず、ただ猿が痛みに声をあげるだけだった。
そこに、釣り人が通りかかった。
「いったいどうされました?」
「このピンセットが外れなくて困っているのです」
「なるほど、確かに、しっかり挟まってしまって、取れなくなっていますね。これは大変だ。糸を結び付けて、みんなで引っ張るのはどうでしょう。三人で引っ張れば、なんとかなりそうです」
釣り人は、用具入れから釣り竿を取り出し、釣り糸の先を、慣れた動作でピンセットにしっかりと括り付けた。
猿を路傍に立たせると、釣り人は釣り竿を握り、私と外科医は釣り人の身体を後ろから掴んだ。
「いっせいのーでで引っ張りましょう」
「わかりました」
「いっせいのーで……」
三人は一斉に釣り竿を引いた。しかし、ピンセットは外れなかった。代わりに、猿が身体ごとこちらに飛んで来た。
私たちは猿にのしかかられてドミノみたいにどどどと倒れた。
「上手くいきませんね」
起き上がりながら、やれやれと漏らす。
「仕方ない。糸を解きましょう」
ところが、糸を解こうにも、あまりに固く結び付けてしまったので、爪をかける隙も無かった。
「しまった。釣り竿まで離れなくなった」
「こんな大きなものがくっついていたら邪魔ですよ。先に釣り竿をどうにかしましょう」
そこに、料理人が通りかかった。
「いったいどうされました?」
「この糸が解けなくて、困っているのです」
「随分固く結び付けたようですね。油をかければ、きっと滑りがよくなって解けますよ。どれ、私にやらせてごらんなさい」
そう言うと、料理人はポケットからオリーブオイルの入った瓶を取り出した。
「たくさんかけたほうがよいでしょう」
釣り糸の上に、勿体ぶることなく、たっぷりオイルを垂らす。猿の指の爪がてかてかと輝くくらいまで油をかけると、満を持して、糸を引っ張った。
しかし、それと同時に、地面にこぼれたオイルが料理人の足を捉えた。芸術的に、でんぐり返る料理人。反対の手に握っていた瓶が跳ね上がって、残っていたオリーブオイルが、見事に猿の頭の真上からぶちまけられた。
私たちは、派手に転んだ料理人を、慌てて助け起こした。
「申し訳ありません、少しかけすぎたようです」
猿は、油まみれになって突っ立っていた。釣り糸は、何食わぬ顔でいまだにピンセットに結び付いている。
「こんな油まみれじゃ可哀想だ。はやく綺麗にしてあげないと」
「しかし、上から下まですっかりべとべとです。これを綺麗にしようと思ったら、なかなかの大仕事ですよ」
そこに、科学者が通りかかった。
「いったいどうされました?」
「この方の身体についた油が取れなくて、困っているのです」
「はっはっはっ。そんなの簡単に取れますよ。遠心力を使えばよいのです」
いまいち意味が呑み込めなかったものの、私たちはとりあえず、科学者に連れられて、近くの遊園地に向かった。
遊園地に着くと、科学者は猿をメリーゴーラウンドの馬に乗せた。安全ベルトで身体を固定する。
「何周か回れば、油など、遠心力で飛んで行ってしまいますよ」
科学者の説明に、私たちは納得した。
私はメリーゴーラウンドの傍にある操作室に入って、スタートボタンを押した。猿を乗せた馬が、優雅に回り始める。私は優雅な気持ちで、金属の馬たちが闊歩する様子を眺めた。
しかし、科学者が操作室に入って来て、言った。
「そんなんじゃ遅すぎて、遠心力がちっとも働きません。油も取れませんよ。もっと速くしないと」
私は加速ボタンを押した。馬の常足が速足に替わる。
「まだ遅い、もっと速くしてださい」
もう一度加速ボタンを押す。駆け出す馬。
「駄目駄目、もっともっと速く。マックスにしてください」
私は、言われるがままに加速ボタンを連打した。馬はもはや、目にも止まらぬ速さで回転していた。あまりのスピードに、メリーゴーラウンド全体がキーキーと悲鳴をあげる。
「いいぞ。これですっかり綺麗になりますよ」
科学者は満足げにそう言った。
しかしふいに、ぞっとするようなバキッという音が響いた。かと思うと、猿の乗った馬がメリーゴーラウンドの土台から外れて、吹っ飛んだ。
「わっ」
驚きの声をあげる一同。
猿は、空に弧を描き、馬ごと遊園地の外に飛んで行った。
「大変だ、外に飛んで行ったぞ」
私たちは慌ててロケットを追いかけた。
どこまで飛んで行ってしまったのやら、遊園地を出ても、猿の姿は見当たらなかった。私たちは飛んで行った猿を探して、町中を歩き回った。
しばらく歩き回ったところで、道端に何やら人だかりができているのを発見した。人だかりをかき分けて進むと、道の真ん中に空いたマンホールに、尻に馬を付けたままの猿が、逆さまに頭を突っ込んでいたのだった。宙にばたばたさせている指先には、いまだに、しっかりと指輪がはまっていて、その下にはピンセットが挟まり、そこから釣り糸が延びていた。おまけに、身体は油でべとべとのままだ。
下水道工事の作業員が、困ったような顔をして私たちに近づいて来た。
「さっきあれが空から降って来て、マンホールを塞いでしまったのですが、これがどうやっても抜けないのですよ。見事にぴったり、穴にはまっているのです。このままじゃ作業ができません。どうにかならないでしょうか」
しかし、私も外科医も釣り人も料理人も科学者も、もうお手上げだった。私たちは、戸惑いぎみに顔を見合わせた。
そのとき、道の向こうからひとりの人間がやって来た。
「なんだなんだ、何かあったのか」
声から察するにそれは、先ほど結婚相談所に居た、肉屋の店頭に並んだサーモン戦々恐々氏であった。サーモン氏は、道路から飛び出した猿の下半身と馬とを見て、目を丸くした。
「こりゃいったい、どういうことですか」
私は、サーモン氏に事情を説明した。
サーモン氏はふむふむと頷きながら説明を聞いていたが、聞き終えると、自信ありげに胸を叩いて言った。
「なるほど、そういうことですか。それでは、私が抜いて差し上げましょう。私はボディビルダーをやっているんですよ。力には自信があります」
私たちは、サーモン氏の提案にすがることにした。氏と猿とを取り囲み、見守る。
サーモン氏は、猿の下半身と繋がった馬を両手で抱えると、力を込めて引っ張った。しかし、穴にぴったりとつっかえている猿の身体は、びくともしない。
サーモン氏は、深く息を吸ってから、もう一度改めて力を込めた。それでもなかなか猿は動かない。氏の二の腕の筋肉は盛り上がり、顔は真っ赤に染まった。
そのとき、地面がみしみしと鳴り、マンホールの縁から亀裂が入り始めた。見学していた私たちは、咄嗟にまずい、と思い、サーモン氏を止めようと走った。しかし、遅かった。
道路の亀裂が瞬く間に広がり、観衆の足もとまで来たかと思うと、次の瞬間には、すべての地面が一気に崩れた。視界がひっくり返り、轟音が耳の奥に響く。地下から吹き出した冷たい水が、顔面を激しく打つ。周囲を確認する余裕など無かったが、おそらく他の者も私と同じような体験をしたことだろう。
私はしばらく気を失っていた。目が覚めたときには、周りは瓦礫だらけの水浸しになっていた。道路が陥没し、下水道管が破裂してしまったらしい。瓦礫の中にぼうっと座っていると、他の者たちも意識を取り戻して、わらわらと身を起こし始めるのが見えた。
私は立ち上がって、瓦礫の中を歩いた。すると、例の猿が、崩落の衝撃でばらばらになった馬の傍にしりもちをついて、うなだれているのを発見した。見ると、その指にはもう指輪は無く、ピンセットも釣り竿も無く、油もすっかり水に流されていた。
「大丈夫ですか?」
私は猿に声をかけた。
猿は、悲しそうな顔をこちらに向けた。
「私は大丈夫なんですが……見てください、これを」
そう言って指差した先には、真っ二つに割れたダイヤモンドが転がっていた。
「私の大事な大事なダイヤモンドの指輪が……」
猿は、背を丸めて嗚咽を漏らした。
しかし、私ははっとして、言った。
「待ってください。ダイヤモンドがそう簡単に割れるはずありません」
無残な姿になった指輪を拾い上げ、まじまじと見つめる。
「やっぱり、これはダイヤモンドじゃありません。贋物です」
私の言葉を聞いて、猿は目を丸くした。
「なんですって」
そして、指輪を受け取り、自分でもまじまじと見つめた。ダイヤモンドが確かに贋物であることがわかると、さらにしょぼくれた。
「なあんだ。贋物だったのか。私は、こんなつまらないもののために悩んでいたんですね」
がっかりした猿は、瓦礫を飛び越えてさっさと帰って行った。
私も帰ろうとしたところで、ばったり釣り人に出会った。釣り人は、折れた釣り竿を抱えていた。
「それは、いったいどうするのですか?」
私が尋ねると、釣り人は肩を落として答えた。
「修理して使ってみるつもりですよ。でも、すっかり元通りというわけにはいかないでしょうね。きっと、ずっとガムテープを貼り付けたままになるでしょう」
その会話を、いつの間にか傍まで寄って来ていたサーモン氏が聞いていた。サーモン氏は何かに気づいたみたいにはっと飛び上がって、急いでどこかに去って行った。どこに行くのか尋ねる暇も無かった。
私はびしょ濡れのまま家路についた。
行きがけに通った結婚相談所の前に差し掛かると、また中から話し声が聞こえて来た。
「キャンセルですって? 今朝お申込みされたばかりなのに、どうしてまた」
「すみません、どうかお願いします。軽率になってはいけないと思ったんです」
「貴重な出会いを逃すことになるかもしれませんよ」
「いえいえ、出会うなんて、簡単です。離れるほうがよっぽど難しい」
私はその場を後にした。
ふと、短い電線に留まった七羽の雀が、楽しそうにダンスを踊っているのが目に入った。
いい曲が、できそうだ。