第四話:知る
私の知人で、もみの木に刺さったヌガー初志貫徹というのが居る。人付き合いを好まない私も、この人には時折、会いたいと思うことがある。というのも、このヌガー氏というのが、他とは違う、賢い人間だからだ。氏を前にすると、天井を知らぬ私の傲慢さが鳴りを潜めてしまうほど、賢いのだ。
ヌガー氏は、もともと物静かな人だ。だがこの頃は、ますます口数が少なくなった。道でばったり出会っても、ひとこと発するのさえためらうような様子だ。私は氏を心配している。そこで、普段なら絶対こんなことはしないのだが、ヌガー氏の家を訪ねてみることにした。お互い人付き合いを好まないから、私がそんなことをするのは、千年に一度の奇跡と言っても過言ではない。
私はヌガー氏の家の呼び鈴を鳴らした。しかし、扉の向こうはしんと静まり返り、一向に氏が出て来る気配は無い。
そっとノブを回してみると、鍵が掛かっていなかった。私は、家の中に足を踏み入れた。ヌガー氏の自宅の内部を見るのは初めてだ。
廊下を進むと、いちばん奥には、広い書斎があった。部屋の壁のひとつが、天井まで届く本棚で一面覆われている。その、背表紙たちが描く巨大なモザイク模様の、壮観さ。私は思わず舌を巻いた。
振り返ったところには、これまた大きな文机が置いてあった。天板には、何やら、細長いものがたくさん並べてある。近づいてよく見ると、それは、長さのばらばらな木製のものさしだった。三十センチ、四十センチ、五十センチ、はたまた二メートルのものまである。その一本一本に、誰のものかは知らぬが、それぞれ人の名前が彫り付けてあった。
「おや」
居並ぶものさしの中に、見覚えのある名前を見つけて、思わず手を伸ばした。二十センチしかないそのものさしを拾い上げる。
三角コーナーにはまったチーズ絶体絶命
「私のまで、用意してくれてるじゃないか」
わきには、何かややこしい計算式がみっしり書かれた、ちぎれたノートの一ページと、削りかけの細長い木材が転がっていた。
「この計算式を使って、みんなの分を作っているんだな。しかし、自分のためのものは無いようだ。よし、私が作ってやろう」
私は木材と、ナイフとを手に取った。しかし、メモに書かれた計算式を読み解こうと思っても、なんとも難解で、しかもページの最後で式が切れているので、さっぱりだった。
いったん机を離れ、ノートの残りの部分を探そうと、巨大な本棚のほうに向き直った。大量の背表紙を順繰りに目で辿る。
そうして探していると、ふいに、本棚の向こうから、誰かの叫ぶ声の聞こえたような気がした。本棚に張り付くようにして、耳をそばだてる。やはり、壁の向こう側で、誰かの叫ぶ声が起こったり止んだりしていた。しかし、それがわかったとて、どうしようもない。本棚から身体を離すと、ちょうど耳を当てていたところに、それらしい、よれよれになったノートを発見した。
私はノートを持って机に戻った。その中に書かれていた解説も、なかなか高度で難しかったが、なんとかヌガー氏のものさしを作るのに必要な計算式を導くことはできた。計算式通りに木材を削ると、誰よりも短い、十センチのものさしが出来上がった。私は、ものさしの表面に、もみの木に刺さったヌガー初志貫徹と彫り付けた。
私は十センチのものさしを胸に当てて、思い巡らせた。
「もみの木に刺さったヌガー初志貫徹氏は、今頃何をしているのだろう。最近ではめっきり弱々しくなった。ひょっとして、どこかで消えかかっているのだろうか」
そのとき、背後から、大きなものが床をこするような音がした。
振り返ると、巨大な本棚の真ん中が、ぱっくりと左右に割れていた。そのあいだには、奥行きの長い空間が続いている。
私はものさしを懐にしまうと、本棚のあいだに現れた秘密の道に足を踏み入れた。
そこは、窓も飾りも無い、幅の広いまっすぐな廊下で、薄暗かった。あまりにも長く、どこまで伸びているのかとんと見当がつかないほどだった。
進めども進めども、同じ景色が続いたが、しばらく歩いたところでようやっと、前方に何か大きなものが置かれているのが目に入った。
近づいてみると、それは、テーブルだった。廊下の幅半分ほどを占めている。一羽のオウムが、テーブルに行儀よく腰かけて、ナイフとフォークを使ってステーキを食っているところだった。
私はオウムに尋ねた。
「もしもし。あなたは何をやっているのですか」
オウムは、ナイフを動かす手を止めて、面倒臭そうに答えた。
「見たらわかるだろう。門番をしているのさ」
「そうですか。門番をしているのなら、私を止めなければいけないんじゃありませんか」
「ふん。私が見張っているのは、そっちから来る奴じゃない。あっちから来る奴だ。それに、あんたは私にとっちゃ、空気みたいなものだ。あんたがここを通ろうが何しようが、俺には知ったこっちゃない。ただ、もみの木に刺さったヌガー初志貫徹が少し可哀想だとは思うがね」
そう言い捨てると、オウムはまたステーキを食べ出した。
オウムによると、私がここを通るのは、ヌガー氏にとって可哀想なことのようだ。しかし、ここまで来たからには奥まで行ってみたい。私は、オウムのテーブルを通り過ぎ、歩みを進めた。
またしばらく、無機質な廊下が続いた。進むごとに、だんだんと闇が深くなって行く。
足元が危ういくらいに明かりが入らなくなったところで、ふいに、前方の闇の中から、金属的なガチャガチャという音が聞こえた。私はそこで立ち止まった。
じっと待っていると、脅すような、荒々しい声が闇の中から呼びかけた。
「おい、そこに誰かいるのか?」
「はい。私は、三角コーナーにはまったチーズ絶体絶命と申します」
私は丁寧に挨拶をした。
目が闇に慣れて来て、廊下の真ん中に、大きな檻が据えられているのが見えた。さらに向こうに、壁がある。どうやらここが、最奥のようだ。
荒々しい何かが、中から檻に体当たりして、錠前をガチャガチャと鳴らしながら、叫んだ。
「はあ? 誰だよ、知らねえよ。人間か?」
檻の鉄棒のあいだから、血走った目玉を、ぎょろぎょろと覗かせる。
「そうです。人間です」
「クソッ、人間かよ、俺は人間は嫌いなんだよ。馬鹿ばっかりしてる、知恵遅れの脳足りんだからな! 人間の何人だ? オスか? メスか? ホモ野郎か?」
「まあまあ、落ち着いて。そんなのなんだっていいじゃありませんか」
「うるせえ、馬鹿が俺を諭そうとしてんじゃねえよ。物分かりの悪い奴め、痴呆か?」
謎の生き物は激情して、ますます激しく体当たりを繰り返した。
「いったい、何をそんなに怒っていらっしゃるんです?」
「何を怒ってる、だと? 俺はずっとここに閉じ込められてるんだ。おまえらみたいな馬鹿がのうのうと生きてる横で、閉じ込められてやってるんだ。人間ってのは皆、間抜けのクズだよ。生かされていることに、ちっとも気付かない。俺の言う通りにしてりゃいいのに、小さい脳みそで、俺の邪魔ばかりしやがる。おい、聞いてるのか? 犯罪者! 老害! クソッ、なんて不平等な世の中だ? おまえみたいな無価値な虫けらが、先に死ねばいいのに!」
私は、この生き物の醜さに、胸がじくじく痛むのを感じた。耐えかねて、黙ってその場を去ろうとした。
「あ、逃げるのか! 待て、クソ野郎、殺してやる! 殺してやる! 殺してやる!」
そのとき、体当たりされ続けた鉄棒が、とうとう派手な音を立てて折れた。檻の中から、恐ろしい形相をした猪が飛び出して来た。
私は、悲鳴をあげて駆け出した。まっすぐな廊下を走る、走る。背後からは、猪のけたたましい足音が聞こえる。
あのオウムのテーブルに差し掛かった。オウムは、猪の姿を見ると、ナイフとフォークを放り出し、慌てて廊下の真ん中に飛び出した。しかし、怒り狂った獣は、走って来た勢いのまま、易々とオウムを跳ね飛ばした。オウムは壁に頭をぶつけて、無残に気を失った。
私は、振り返りもせずに一心不乱に走り続けた。そして前方に、開いた出口から、書斎の光が四角く差し込んで来るのが見えた。
出口の三歩手前で、床を蹴って飛び上がった。隙間を抜け、書斎の絨毯に顔からスライディングする。間髪を入れず、背後で本棚の動く音がした。続いて、猪の胴体が棚の裏にぶつかる、ドガンという音が響いた。
私は、しばらくのあいだ、絨毯の上に寝転がったままはあはあと息を切らしていたが、やがて身を起こして、本棚のほうに向き直った。秘密の入り口はもはや、爪一枚入る隙間も無いほど、しっかりと閉ざされていた。奥からかすかに、猪の荒々しい声が聞こえる。
「クソッ、開けろ! 開けろってば! 聞こえないのか? この、つんぼ!」
私は、胸にずんと重いものがのしかかるのを感じた。素早く立ち上がり、ヌガー氏の家を出た。
当て所なく歩いていると、公園に辿り着いた。中央に池のある公園だ。池のほとりに、こちらに背を向けてひとりの人間が立っていた。
「あ、あなたは、もみの木に刺さったヌガー初志貫徹さんじゃないですか」
人間は振り向いた。まさしく、もみの木に刺さったヌガー初志貫徹氏であった。
「ああ、三角コーナーにはまったチーズ絶体絶命さんか」
私はヌガー氏に駆け寄った。
「お久しぶりです。ちょうどあなたとお話ししたかったのですよ。」
「私と? 冗談はよしたまえ」
「いえいえ、あなたは本当に物知りな方ですからね。それでいて上品で、まったく鼻につきません。あなたとお話しするのは非常に愉快なことです」
ヌガー氏は困ったような顔をした。やはり、物憂げな様子だった。
私は笑顔で言った。
「さっき、あなたの家を伺ったのですが、恐ろしい生き物が居ましたよ。酷いお住まいです。あんな叫び声を毎日聞いていたら、憂鬱になるのも頷けます。あなたが最近沈んでおられるのも、ひょっとすると、あれのせいじゃありませんか。僭越ながら、お引越しになられたほうがよいと思います」
しかし、ヌガー氏はゆっくりと首を横に振った。
「いや、どこに引っ越したってあれは居るさ」
「そうでしょうか」
「きみの家に本棚はあるかね?」
「ええ、ありますよ」
「じゃあ、きみの家の本棚の裏にも居るさ、きっと」
私はふむ、と唸った。覗いたことがなかったけれど、確かに、居るかもしれない。
「ずっとここに居たのですか?」
「ああ。もう一時間くらいここに居る」
「あなたは相当、憂鬱に陥っているようですね。よろしければ相談に乗りますよ。私が相談に乗ったとて、実利的な手助けはほぼできんでしょうが、聞くだけでも」
「ありがとう。でもきみは知ってるだろう? 私はそういうのに向かないことを……しかし、まあ、ひとつ尋ねておくか。幸せになるためには何が必要だと、きみは思うかね?」
ヌガー氏の質問に、私は首を捻った。おそらく、今までに一度考えたことのある議題だ。記憶をまさぐる。
だがそのとき、後ろを元気な人間のふたり組が駆け抜けてゆき、私の思考を乱した。
「なあ、隣町じゃ雨が降ってるってさ。知ってる?」
「知らない」
「そういえば、おまえ、昨日水溜まりにはまってたね」
「そうだっけ、忘れた」
「忘れただって? おまえ、痴呆かよ」
「あ、あれ、猫の死体だ」
「ほんとうだ」
ふたり組はぎゃはぎゃはと笑いながら去って行った。
私はこめかみを押さえながら言った。
「すみません。答えは知っているはずなのですが、集中力が途切れて、今は思い出せません」
「いや、別にいいんだよ」
ヌガー氏は、真っ平らな池の表面を見つめた。
「三角コーナーにはまったチーズ絶体絶命さん。俺はもう、耐えることに疲れた。だから、死ぬことにしたよ。さようなら」
そして、池に飛び込んだ。真っ平らだった表面が、一気に波立った。
「あっ」
私は驚いて叫んだ。池の縁に跪く。波のあいだに、ヌガー氏の腕が見える。
「待ってください。死なないでください。理由は思いつかないけれど、とにかく死なないでください。私も以前は毎日死にたいと思っていたけれど、今は思っていません。私の今が、いつかあなたにも来るかもしれません。死なないでください」
私は咄嗟に、懐から十センチのものさしを取り出し、目一杯腕を伸ばしてヌガー氏のほうに差し出した。
「ほら、掴まって」
ヌガー氏は、死を目前にして、怖くなったようだった。必死に水を掻いて泳ぎ、私の差し出したものさしを掴んだ。私は、全力を籠めて、ヌガー氏の身体を池から引っ張り上げた。ふたりは勢い余って、岸で転んだ。
「よかった。死にませんでしたね」
私は、身を起こしながら言った。
ヌガー氏はゲホゲホと水を吐くと、顔を上げて、私の手に握られたものさしに目をやった。
「そのものさしは」
「あなたのためのものさしですよ。あなたの計算式に基づいて作ったのです。もみの木に刺さったヌガー初志貫徹さん、やはりあなたは賢い人だ。計算式は完璧でした。だって、もしこれが二メートルだったなら、あなたはかえって溺れ死ぬことを選んだでしょうよ」
ヌガー氏は、十センチのものさしに彫り付けられた自分の名前を、じっと見つめた。
私は、ものさしを自分の胸に当てた。
「このものさしは、私にください」
「いいのかね?」
「持っておきたいんです」
私たちは立ち上がり、公園の出口まで歩いた。そこで、別れた。
私は去ってゆくヌガー氏の背に向かって言った。
「あなたがあの家で耐え忍んでいることを、私は理解して、敬意を表しますよ!」
ヌガー氏は黙って手を振り、道の向こうに消えて行った。
私も帰路についた。
道中、河川敷で草野球をやっていたが、私が通ったときには、九回裏に打った球がファウルゾーンに入ったところだった。
いい曲が、できそうだ。