第二話:働く
私は動物園に行った。とある休日のことだ。しかし、休日という単語を使ったとて、それはなんら時間的限定をするものではない。なぜなら、私は仕事をしていないからだ。
そちらの国では皆仕事をしているのが当たり前だったが、こちらの国ではそうではない。むしろ、働いている人間のほうが珍しい。こちらで働いているのは、その仕事に見合う能力があるうえに、その能力を誇示したいと思っている人間だけだ。あいにく私は、自分が人並に仕事をする能力を持っていないということを自認している。そういうわけで、私にとっては毎日が休日なのだ。
私は、ありえないほど真四角なゲートをくぐって、動物園に入った。
経営能力を誇示したい園長が、満面の笑みで私を迎えてくれた。
「よくぞいらっしゃいました、三角コーナーにはまったチーズ絶体絶命さん。さあ早速、我が動物園のメインの部屋をご覧になってください」
そうやって案内されたのは、天井の高い、馬鹿でかい部屋だった。そこには、大量の敷布団が並んでいて、さらに、各敷布団に一匹ずつ犬がついて、何やら作業をしている。よく見ると、そいつらは、必死になって、延々と布団カバーを掛けたり外したりしているのであった。
その光景を見て私は、なぜか、ひどく懐かしいような、不愉快な気分になった。
園長が、作業に明け暮れる犬たちを指し示しながら、満足げに言った。
「どうですか。なかなかの見物でしょう。これを見ると、いい気分になる」
しかし私は、不愉快さから脱することができなかった。
「なぜ、布団カバーなんですか?」
「あれが、こいつらにできる最も難しいことだからです。昼食までまだ時間がありますから、さあどうぞ、好きなだけ、いろんな角度から見ていただいて構いません」
意地汚い園長から離れたかったので、お言葉に甘えて、ひとり、敷布団のあいだを歩き始めた。
耳を澄ますと、犬たちが、延々と布団カバーを掛けたり外したりしながら、何やらぶつぶつと呟いているのが聞こえて来た。
「努力なくして、成功はない」
「友だちは、大切だ」
「前向きに、考えよう」
「失敗が、糧になる」
「みんなの心をひとつにして、頑張ろう」
それらの呟きを聞いていると、なおさら気が沈んだ。この敷布団のあいだを一気に駆け抜けて、外に逃げ出してしまいたい気持ちに駆られた。
心臓をコンクリートで覆って耐えながら、しばらく進むと、中ほどで、動きのひどく緩慢な犬に出会った。その犬は、皆と同じようにひたすら布団カバーを掛けたり外したりしていたが、あまりにのろのろしているので、他と比べると随分リズムがずれていた。
私はどうしてか、その緩慢な犬に心惹かれたので、そいつが何を呟いているのか、耳を傾けた。
「子どもが、地上から百二十六歩のところにある月に、触りたがっている。百二十六段の梯子を持って来てやれば、助けになるだろうか。しかし、僕に百二十六段のはしごを、運べるだろうか。一段ずつ切って運べば、大丈夫かもしれない。しかし、そんなことをしているうちに、子どもは宇宙飛行士になって、自分で飛んで行ってしまうのじゃなかろうか。そもそも僕が、子どものために、なんの見返りも求めずたいへんな苦労をすることは、正しいだろうか。月に触りたがっている子どもは、果たして、可哀想な存在だろうか。大人よりも生まれて間もないことは、助けに値することの理由になるだろうか。はて、あの衝立の後ろには、いったい何があるのだろうか。はて、あの衝立の後ろには、いったい何があるのだろうか。……」
呟きは、このような調子で延々と続いた。
私は、この犬に向かって呼びかけた。
「そこのあなた、よろしければ、私とカードゲームをしませんか」
すると、永遠に続くルーティンを遮られた犬は、驚いたようにびくりと肩を震わせた。カバーを掴んだ手を止めて、こちらを振り向く。
「カードゲームですか。僕にはやり方がよくわからないのですが」
困り顔でそう答えた。
「心配要りません。私がお教えします」
私は緩慢な犬を手招きした。ふたりは、敷布団のわきの、剥き出しになった床の上に正座をして向かい合った。
私はポケットからカードの束を取り出した。
「神経衰弱をしましょう」
裏返しにして、床の上に並べてゆく。
カードを並べ終えると、そのうちの二枚を適当に選んで、表に返した。一枚にはドーナツが描かれていて、もう一枚にはカメレオンが描かれていた。
「すべてのカードの裏に、絵が描かれています。カードを二枚めくって、絵柄が同じだったら、カードはめくった人のものになります。ですが、今私が選んだ二枚のカードは、絵柄が違ったので、元に戻します。最後により多くのカードを持っていた側が勝ちです」
犬は、さらに困り果てたような顔をした。
「でも、裏返しになっているのに、どうやって同じ絵柄のカードを見つけるのですか?」
「まあ、とりあえずやってみましょうよ。交代でめくって行きます。次はあなたの番です」
私が促すと、犬は腑に落ちないような様子で、しかし、カードを二枚めくった。描かれている絵はばらばらだった。元通り裏に向けた。
続いて、私の番。今度も新しい絵柄が出た。元に戻す。
犬はカードをめくった。一枚目にドーナツが出た。何も考えることなく、すぐ近くのカードをめくる。テレビの絵。元に戻す。
私は、犬が裏に戻したばかりの、ドーナツのカードを表に向けた。そして、ほくそ笑みながら、いちばん最初にめくったカードをもう一度めくった。ふたつのドーナツが揃った。
「これで、この二枚のカードは私のものです」
犬は、ふたつのドーナツに、まったく同じ形の穴が空いているを見て、ひどくびっくりして、目を丸くした。
「どうして、裏返しになっているのに、同じ絵柄だとわかったのですか?」
私は何も言わずに、ゲームの進行を促した。犬は驚いた表情のまま、二枚のカードを選んでめくった。ばらばらだった。
次に私が、まだめくっていないカードをめくると、テレビの絵が出た。犬がさっき開いたカードをめくる。テレビのカードが二枚揃った。
犬は、再びびっくり仰天した。
「どうして、わかるのですか?」
「カードの絵柄は、ずっと変わらないからですよ。表を向いているときも、裏を向いているときも、ずっとずっと同じ絵が描かれているからですよ」
そのとき、向こうから園長がやって来て、怒鳴った。
「こら、何をサボっているんだ?」
犬は怯えて、さっと自分の持ち場に戻った。
「困りますよ、三角コーナーにはまったチーズ絶体絶命さん。こいつらに、別なことをさせては」
私は、園長に軽く謝った。床の上のカードをかき集める。ポケットにしまうときに、一枚を指で弾いて、カバーの剥がれた敷布団の上に落とした。
園長は、延々と布団カバーを掛けたり外したりしている犬たちに向かって、号令を掛けた。
「おまえたち、餌の時間だよ」
犬たちは、作業をやめた。
園長は、犬の前に並べられた皿に、端から順繰りに餌を注ぎ始めた。しかし、緩慢な犬のところまで来ると、吐き捨てるように言った。
「おまえは、無しだ。他のみんなはちゃんとやっているのに、おまえはサボったからな」
そして、皿を空のまま残して、次に進んだ。
餌を配り終えると、園長は敷布団の並んでいるところから離れて、自分の立ち位置に戻った。その人のわきに置かれた餌の袋は、まだまだ中身が残っているらしく、膨らんで、表面に印刷された文字がぴんと張っていた。
周りの犬たちが餌にがっつくあいだ、緩慢な犬は空っぽの皿の底をじっと見つめ続けていた。
やがて昼食時間が終わり、作業が再開された。犬たちはまた、あくせくと、布団カバーを掛けたり外したりを繰り返し始めた。
私は、遠く離れたところから、緩慢な犬の様子を観察していた。緩慢な犬も、作業を始めようとした。しかし、自分の担当の敷布団の上に、ドーナツのカードが落ちていることに気づいた。犬は、不思議がるように少し首を捻りながらも、カードの上からカバーを掛けた。そして、のろのろとした動作で外した。当然、そこにはドーナツのカードがあった。
犬は驚いて飛び上がった。再度カバーを掛けて、恐る恐る剥がした。ドーナツはやはり、同じように、丸い穴をこちらに向けている。
そのとき、茫然としていた犬の脳天に、雷が落ちた。
「僕がやって来たことは、ずっとずっと、無意味だったのだ!」
この世のすべての真理を、いちどきに悟ったかのようだった。敷布団の前に突っ立って、もはや、布団カバーに触れるのを一切やめてしまった。
すると、緩慢な犬の様子のおかしいことに、周りの犬たちが、わらわらと気付き始めた。
「おい、サボるんじゃないぞ」
「みんな頑張ってるんだぞ」
「ずるいぞ」
「みんな我慢してるんだぞ」
緩慢な犬は一ミリも動こうとしなかった。業を煮やした周りの者たちは、不届き者に飛びかかった。
しかし、緩慢な犬は、もはや緩慢ではない極めて俊敏な動きで、敵を避け、床を蹴ると、ばっと駆け出した。他の犬たちは、自分の持ち場を投げ出して、追った。
遠く離れたところから見ていた私も、カードゲームの相手を助けねばと思って、走る犬の大群の後ろに着いて行った。
大群は津波のようになりながら、部屋を出て、隣に入った。私も後から飛び込んだ。部屋はさらに奥に続いていて、群れを追って駆けて行くうち、五つくらい敷居を跨いだ。そしてとうとう、行き止まりにぶつかったのか、目の前の群れの動きが止まった。
私は、最奥の部屋に入り、群れをかき分けて進んだ。すると、奥の壁際に、すでに興奮が冷め、無目的にたむろする犬たちに囲まれて、ひとりの人間がぽつんと立っていた。
「こんにちは、三角コーナーにはまったチーズ絶体絶命さん」
「こんにちは」
「僕は、鍵穴に詰まったショートニング付和雷同と申します」
「ほう」
そのとき、意地汚い園長が部屋に入って来た。
「おいおまえたち、こんなところで何をしている? はやく向こうに戻れ」
うろうろしていた犬たちは、園長の一喝で、瞬く間に整列し、もとの部屋に繋がる扉の向こうに消えて行った。
「いやあ、すみませんねえ。どうしようもない奴らで」
園長は私とショートニング氏に卑屈な謝罪の笑みを浮かべると、自分もせかせかと帰って行った。
ショートニング氏は、私の顔を見て言った。
「出ませんか? ここに居ると、なんだか憂鬱な気分になります」
「そうですね。私もです」
私たちは連れ立って、ありえないほど真四角なゲートをくぐり、動物園の外に出た。
動物園の前にたこ焼き屋があったので、私たちは立ち寄った。
熱い、まん丸いたこ焼きを、ふうふうと冷ましながら食っていると、店主が身の上話をしてくれた。
「昔っからたこ焼きを焼くのが大好きでねえ。ずっと店を出したいと思っていたんです。みんなに、私のたこ焼きを味わってほしくてね」
「ほう。とてもおいしいです。他の人じゃ、こんな上手には、なかなか作れません」
「そりゃ、よかった。たくさん練習した甲斐がありましたよ」
ショートニング氏も、嬉しそうに頷いた。
「まったく有意義なことです。まったく有意義なことです」
美味いものを食って満足したふたりは、次の辻で別れた。私はひとり家路についた。
どこかで誰かが歌う満足げなファルセットが、遠くに聞こえた。
いい曲が、できそうだ。