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第一話:分ける

 晴れた日に、舗装された道を歩いていると、巨大な靴が二足向かい合っているのに行き当たった。それらの甲は私の背丈よりも優に高く、さらに頭上から、人間の会話する声が聞こえた。

「私、女の人が好きなのよ」

「へえ、そうなんだ」

「あなたは何が好きなの」

「僕は、裁判所とアイスクリームショップの境界線にコンクリートを流し込むのが好きさ」

「何それ、変なの。信じられないわ。あなたって頭がおかしいんじゃないの」

「……」

「すぐに病院に行ったほうがいいわよ。一緒に行ってあげるわ」

 その口論をやかましく感じながら、一足の靴が不意に消えたので、私はそこを通り過ぎた。

 やがて、道のはたに馴染みの小さなビルが建っているところまで辿り着いた。このビルの二階には、カードゲームをして遊ぶことのできるお店があるのだが、私はそこに時折世話になっているのだ。

 私はいつも通り、ビルの外階段を二階まで上がった。

 しかし、店の扉を開けると、予想外の景色が視界に飛び込んで来たので、思わず眉根を寄せた。というのも、店内には人っ子ひとり居ないうえに、部屋全体が闇に迫られていたのである。一応断っておくが、ここは、明るみを逃れねばならないようなやましいことをする店では決してない。

 不思議に思いながら、暗い部屋を横切る。さらに奥の部屋に入るとそこには、何らかの操作盤が管制室のようにずらりと並んでいた。壁に貼り付けられたたくさんの四角い液晶画面が、暗闇に煌々と光を放っている。

 私は、液晶画面に表示された文字を覗き込んだ。


 無条件に食べられる 6950

 腐敗など当該品固有の性質に帰することのできない事由がある場合を除き全般的に食べられる 584241

 他の品を加えペースト状に加工されたとき食べられる 276772

 当該品が料理全体に占める割合が十五パーセント未満のとき食べられる 342038

 前回の食事の終了時刻から起算して七十二時間以上が経過したとき食べられる 498

 色付きレンズを通すなどして当該品を他の品と誤認するとき食べられる 102


 切りが無いので、全部は申し上げない。つまりは、このような項目が延々と並んでいたのだ。私がここに提示したものは、ごく一部に過ぎない。また、各項目に添えられた数字は、ひっきりなしにちらちらと増えたり減ったりしていた。

 状況をなんら理解できないまま、ただ画面に映し出された項目を辿っていると、突然後ろから声をかけられた。

「おい、おまえ。何をしているんだ」

 私は振り向いた。ひとりの人間が、戸口に立っている。

「私は、三角コーナーにはまったチーズ絶体絶命と申します。カードゲームをしに来ました」

 すると人間は、肩をいからせながら近づいて来て、嘲るように鼻を鳴らした。

「馬鹿め、その店なら潰れたぞ」

 私は、間近に迫ったその人間の胸に名札の付いているのを見た。名札には、『肥溜めに紛れたレーズン曖昧模糊』とあった。

 私はレーズン氏に向かってあっさりと言った。

「そうですか。それは失敬。私は、帰ります」

 そして、身を翻して出て行こうとした。だが、その襟の後ろをレーズン氏が掴んだ。

「おい、待て。この部屋を見てしまったというのに、ただで帰れると思うなよ。俺がやっている仕事は、国家機密に指定されているんだ」

 私は逆らわなかった。レーズン氏の正面に立って、静かに、相手の次の言葉を待つ。

「本来なら、許可なく国家機密を覗いたおまえは今すぐ命を失うところだ。しかし、もし俺との個人的な取引に応じるならば、見逃してやってもいい」

「取引ですか。でも、内容がわからないので、そもそも私に応じる能力があるのかどうかわかりません」

 私は、考えうるあらゆる返答の中で最も合理的な答えを返した。にもかかわらず、レーズン氏はその趣旨を微塵も理解しなかった。私が取引に応じることに了承したものと、勝手に受け止めて、満足そうに頷いた。

 国家機密を生業とするらしいその人は、私の傍をふらふらと離れ、操作盤のわきに立った。視力を損ないそうな眩い人工光を発する液晶画面を、手のひらで指し示す。

「見られてしまったからには、もう隠しても仕方がない。教えてやろう。俺の仕事は、この国に生きるすべての人間の、トマトに関する指向を監視することだ」

 そう言って、画面に並ぶ数え切れないほどの項目を指でなぞった。指は、いちばん端の『無条件に食べられる 6950』に辿り着いた。

「見てみろ。この国には、腐っていてもトマトを食べられる人間が、六千九百五十人も居る。いっぽうで、三日間何も食っていないときでさえ、食えない奴も居るぞ。それに、ほら、こいつらは、キロ単価が全品種平均の三割増しじゃないと食べられない、贅沢野郎たちだ」

 私にとっては、非常にどうでもいい話である。

「俺はこの部屋で、どれかの項目の数字が、いつか一になるときが来ないかと、見張っているのだ。これが、俺の仕事だ」

「ほう、そうですか。一になると、どうなるんですか」

 どうでもいい話ではあるが、そちらの国に居たときに身に付いた癖で、私はつい、会話の間を埋める無用な質問をした。

 レーズン氏は、自信ありげに両手を広げた。

「威張れるのだ。一になると、一になった者は、唯一無二の存在として、威張れるのだ」

「ほう」

「俺がこの係に任命されてから、まだ、一になった者は居ないがね」

 氏の背後に並ぶカウンターは、数秒ごとにちらちらと変化する。しかしどれも概ね、大きな数字の一の位が、一減ったり、はたまた、一増えたりする程度だ。

「取引というのはほかでもない。俺は、一になりたい。唯一無二の存在になって、威張りたいのだ。だからぜひともおまえに、俺が一になるのを、手伝ってほしいのだ」

「なるほど。それなら、できそうです。簡単です。今すぐにでもできます」

 そう申し出たが、レーズン氏は怒って声を荒げた。

「馬鹿を言うな! これはそんなに簡単にできることじゃない。俺が一になるために、これまでどれほど苦労したと思っているんだ。舐めたことは言わずに、まあ、俺の言うことを聞け」

 私はまた、逆らわなかった。自分が正しいからといって、それをまっすぐに伝えて相手が聞いてくれるわけではないし、かと言って、他人を巧みに諭す技術など自分には無いことを、重々承知していたからである。あいにく、面倒な相手は、腹の底で笑っておくしかない。

 レーズン氏は、液晶画面を指差した。

「見ろ、今現在この国で最も少ない指向は、これだ」


 食するときより二十四時間以内に収穫され、かつ他の品を加えて液状に加工され、かつ政府より三ツ星の認定を受けた食堂内にて調理され、かつ当該品の料理全体に占める割合が五パーセント未満で、かつ食前に味覚を鈍化させる刺激物を摂取し、かつ当該品を調理した者に対して親しみを持つとき食べられる 3


「実を言うと、俺はすでにこの三人の中に入っている。一に近づこうと、たゆまぬ努力を続けて来た結果だ。俺はもともと、トマトが大好きで、腐っていなければ食えるという、いちばん平凡でありふれた人間だった。だが、一を目指し始めたときから、トマトの入った料理が出されたら、横に糞を並べるようにしたのだ。糞を横目に見ては、吐き気がして料理など食べられない。自らにトラウマを負わせた。そうすることで、この項目の示す条件が整わない限りはトマトを食べられないように、自分の指向を狭めて来たのだ」

 そこで、レーズン氏はため息をついた。

「だが、見たまえ。隣の項目を」

 悲しそうにそうつぶやき、再び画面を指し示す。


 食するときより二十四時間以内に収穫され、かつ他の品を加えて液状に加工され、かつ政府より三ツ星の認定を受けた食堂内にて調理され、かつ当該品の料理全体に占める割合が五パーセント未満で、かつ食前に味覚を鈍化させる刺激物を摂取し、かつ当該品を調理した者に対して親しみを持ち、かつ当該品が料理に含まれることを事前に告知されないとき食べられる 0


 私は、問いかけるようにレーズン氏の顔を見た。ふたつの項目の違いが、よくわからなかったのである。

 レーズン氏はやれやれと首を振った。

「ああ! この項目にはまだ誰も入っていない。ここに入ることができれば、俺は一になれるのに。よく読みたまえ。最後に、『当該品が料理に含まれることを事前に告知されないとき』という条件が加わっているだろう。これは、俺ひとりでは決して達成することのできない条件なのだ。なにせ、俺は自分が調理した料理の中にトマトが入っていることを、必ず知っているのだから」

「じゃあ、他人に頼んでわからないように作ってもらえばよいのじゃありませんか」

「おまえはやはり馬鹿だな。国家機密であるこの仕事のことを、易々と他人に話せるものか。だから、今日初めてこの頼みを他人に、おまえに、するのだ。おまえはもう国家機密を覗いてしまったのだから、構やしない。俺が一になれるよう協力してもらう」

「はあ、そうですか」

 レーズン氏は私に有無を言わせなかった。私たちはすぐに行動に移った。

 レーズン氏は私を連れてビルを出ると、車に乗って農園に向かった。そこになっていたトマトを大量にもぎ取って車に積み、引き返す。引き返す道中、レーズン氏は銀行に寄って金を下ろし、また、車の中で誰かに電話をかけていた。そうやって一時間後にはもう、私たちは山盛りのトマトを持って三ツ星レストランの前に居た。

「さっき、このレストランの権利をオーナーから買った。だから、この中で俺たちは好きなようにすることができる。コックたちを追い出して、さっそく作業に取り掛かろう」

 そう言うとレーズン氏はレストランに入って、そこに居たコックたちに、さきほど下ろした金を握らせた。

「これは退職金だ。おまえたちはもう、仕事はしなくていい。帰って、ゆっくりしたまえ」

 仕事を失ったコックたちはぞろぞろと帰って行った。

 何をやればいいのかわからず、テーブルのあいだで突っ立っている私に向かって、レーズン氏は指図した。

「さあ、おまえは、今からあの項目の条件通りにトマト料理を作るのだ」

「しかし、私はあまり料理をしません。トマト料理など作れませんよ」

「つべこべ言うな。インスタントスープにトマトを突っ込みたまえ。それで調理したということになるから」

 私は言う通りにした。最も珍しい指向に課せられた条件に合わせ、トマトをミキサーにかけて液状にし、総量に対して5パーセント未満になるよう慎重に計って、インスタントスープにぶち込んだ。そして、冷蔵庫の中に残っていた唐辛子を横に添えると、盆に乗せて、レーズン氏の待つテーブルまで運んだ。

「俺は、この料理を作った人物、すなわちおまえに親しみを抱かねばならない。親しみを抱くまで次の段階には進めない。今から、俺が親しみを抱けるような接し方をしてくれ」

 その命令を聞いて、私は困り果てた。なにしろ、他人に親しみを抱かせるなど、私にとっては最も不得手なことだからだ。

 スープの皿を前にしてじっと座っているレーズン氏に、まともに顔を見据えられながら、私はおずおずと言った。

「私はあなたを愛しています」

 しかし、氏は首を横に振った。

「駄目だ駄目だ。そんなんでは親しみは感じられない。もっと、心を籠めてくれ」

 それから私は、何度も何度もレーズン氏に向かって、愛していますと述べた。そうしているうちに、どうしてか感極まって、果ては、氏の手を自分の両手で包んで、その場に跪いていた。

「私は、あなたを愛しています!」

 するとレーズン氏も、これまで始終高圧的でつっけんどんだったのに、感激にうち震えて、叫んだ。

「それだ! それだよ。俺もおまえを心から愛するよ」

 そして跪いている私の背中に手を回して、抱きしめた。私は、愛されるということを今までよく知らずに生きて来たので、例えようもなく嬉しい気持ちに包まれた。相手に対して抱いていた嘲りの心は、瞬く間に消え失せてしまった。

 レーズン氏は満面の笑みを浮かべて、スプーンを掴んだ。

「さあ、俺は今からこのスープを食べるが、食べたら吐かなくてはならない。なぜなら、俺はこのスープにトマトが入っていることを知っている。今までは俺は、事前の告知があってもトマト料理を食べることができたが、それでは三のままだ。一になるためにはまず、事前の告知があるときには食べられないということを証明しなければならないのだ」

 氏がそう宣言すると、私は命令されるまでもなく、素早くその場を離れ、便所に駆け込んだ。例によって、私は膀胱が切り取られているので、尿意を催すのは得意だが、便意に関しては別問題である。しかし、レーズン氏の愛に報いたい思いがあれば、十分であった。

 私は急ごしらえの糞を持って戻って来ると、テーブルの上の、スープの皿の隣に置いた。

 レーズン氏は、唐辛子を齧ってから、スープをひとすくいし、口に含んだ。

「不味い!」

 スープをべちゃりとテーブルの上に吐き出す。

 私は、工作の成功に喜んだ。レーズン氏も嬉しそうにしていたが、しかし落ち着いた様子で、宥めるように手を振った。

「まあ待て。まだ、事前の告知があるときには食べられないことを証明しただけだ。今の私は、食するときより二十四時間以内に収穫され、かつ他の品を加えて液状に加工され、かつ政府より三ツ星の認定を受けた食堂内にて調理され、かつ当該品の料理全体に占める割合が五パーセント未満で、かつ食前に味覚を鈍化させる刺激物を摂取し、かつ当該品を調理した者に対して親しみを持つとき食べられるの項目から、全般的に食べられないの項目に移ったという状態だ。次は、同じ条件下で、事前の告知が無いときには食べられることを証明しなければならない」

 私はテーブルの上の糞とスープを回収し、捨てた。

 レーズン氏は次の指示を出した。

「同じ条件のスープの、トマト抜きのものを、ひたすら出し続けてくれ。そうすることで、もう永遠にトマト入りのスープは出て来ないのだと、俺に錯覚させてくれ。一ミリでも、トマトが入っているかもしれないと予想すれば、それでは事前の告知が無いということにはならない。俺が完全に、完璧に、錯覚に陥るまで、トマト入りのスープを出してはいけない。完全に錯覚に陥り、俺の予測が閉ざされたときに、トマト入りのスープを出してくれ。それを食って吐かなければ、それで初めて、俺は事前の告知が無い場合のみトマトを食べられるということを証明できる。すなわち俺は、唯一無二の存在になれる」

「わかりました」

 私は氏の言う通り、トマト抜きのインスタントスープを作り始めた。

 そこからはもう、ふたりの我慢比べであった。私は、ひたすらトマト抜きのスープを出し続けたし、レーズン氏もそれを食べ続けた。指向の問題以前に、満腹のために吐きそうになっていたが、しかしそれでも食べ続けた。終わらない戦いのために、苛立ちを募らせ、私に対する親しみをしばしば失いかけたが、私はそのたびに愛していますよと繰り返して、共謀者の親愛を引き戻した。

 二十八杯目の器を出したとき、レーズン氏の予測は一瞬、閉ざされたかに見えた。疲れた顔は、永遠に変わらないルーティンに染まったかに見えた。だが用心深い私は、ひとり首を振って、またトマト抜きのスープを次の器に注ぎ始めた。もしこのとき給仕をやっていたのが私でなかったなら、戦いから解放されたいがために、きっとここで綻びを見せて、トマト入りのスープを出してしまっていたことだろう。しかし、ここで出してしまえば、工作は必ず失敗する。レーズン氏の鋭敏な脳は、まだ予測をする力を失ってはいない。

 私は、六十五杯目のスープをテーブルに置いた。レーズン氏はそれをごくりと飲み干した。温かいスープを飲み続けていたので、こめかみに汗が垂れている。そのときにはもう、ふたりの作業は機械的になっていたので、氏は黙って空になった皿をわきに押しやり、そつなく次に取り掛かる体勢をとった。

 しかし私は、次の皿を出さなかった。

 需要と供給のテンポが崩れたので、レーズン氏は顔をしかめて私を見た。だが、私が満足げに微笑んでいるので、すぐに真実に気付いて、はっと口を開けた。

「まさか、おまえ!」

 そして、氏の顔はみるみるうちに喜びに染まり、立ち上がって、諸手を上げた。

「一になった! 一になった! 俺は、唯一無二の存在になった! 俺は、今この瞬間から、威張ることができるのだ!」

 喜ぶ人間の様子を見て、私も嬉しい気持ちになりながら、促した。

「さあ、威張ってみてください」

「ああ、そうしよう」

 レーズン氏は襟を正して、胸を張った。

「この俺、肥溜めに紛れたレーズン曖昧模糊は、今、この国で唯一無二の存在になった。俺以外の人間は皆、互いに似たり寄ったりの、特質の無い存在である。彼らの頭は空っぽで、何も考えてはいない。彼らのように、その他大勢にしかなれなかった連中は、俺のように、この国にたったひとりしか居ない、研ぎ澄まされた絶妙な思考を持った存在に、ただ着いて行くしかない……」

 私は、静かに行儀よく、レーズン氏の傲慢な語り口に耳を傾けていたが、だんだんと、違和感を抱き始めた。というのも、始めは自信満々だった氏の背中が、次第に小さく丸まって来たからである。

「……しかし、本当に俺が研ぎ澄まされた存在だろうか? どうも、俺のように自分は特別だと考えている連中は、ほかにも五万と居るような気がする」

「いったい、どうされましたか?」

 私は、もはや半分ほどの背丈に縮んだレーズン氏に近寄って尋ねた。

「いや、なぜかわからないが、とても威張る気になれないんだ。俺は一になったはずなのに」

 そのとき、開いていた窓から、一羽の鷹が室内に飛び込んで来た。

「肥溜めに紛れたレーズン曖昧模糊殿。国家トマトに関する全国民の指向管理局より通達があります。『肥溜めに紛れたレーズン曖昧模糊殿。貴殿は、トマトに関する全国民の指向管理局管制室係員として守るべき、国家公務員法に定められた国家機密情報の秘匿義務に違反したため、本日付で解雇処分とする。以上』」

「解雇、だって!」

 レーズン氏は素頓狂な声をあげた。

 鷹は、伝えるべきことを伝え終えると、素っ気なく身を翻して、飛んで行こうとした。しかし、レーズン氏が跳ね上がって、その両足首を掴んだ。

「いや、ちょっと待ってくれよ」

 鷹は眉根を寄せて振り返った。

「あんたも管理局の職員なんだろう。せめて、これだけでも教えてくれないか。俺は一になったはずなのに、どうして威張ることができないんだ?」

 必死にすがりつくレーズン氏を、鷹は軽蔑の目で睨んだ。

「私は職務中なのですが。よいでしょう、個人の情により、あなたの質問にお答え致します。あなたの分類はそもそも一になってはおりません」

「なんだって?」

「一になっていないどころか、あなたの分類は以前から一度も変わったことはありません。人為的に分類を変更しようと、いろいろ画策されたようですが、変わったと認識しているのはあなたの思考の表層だけです。芯に根付いた指向はまったく変わっておりません。あなたの現在の分類は、『腐敗など当該品固有の性質に帰することのできない事由がある場合を除き全般的に食べられる 584241』です」

 吐き捨てるようにそう言うと、レーズン氏の手を振り払い、飛び去って行った。

 レーズン氏は、レストランの柔らかい床にがくりと膝を突いた。顔が、真っ青になっている。

「クビになったうえに、一にもなれなかった。それどころか、本当はずっと、この国でいちばん平凡な人間だったのだ。特別だと思っていたのは自分だけだった。くそ! 唯一無二の存在になど、どうやってもなれないではないか。それを夢に見続けて来たというのに……」

 そして、ぼろぼろと涙を流した。

 私は、レーズン氏がひどく可哀想に思えた。隣にそっと跪いて、慰めるように背中に手を回す。

「まあ、まあ。まだ方法はありますよ」

「あるものか。一になど、なれやしないのだ」

「いえ、なれますよ。最初に言ったではありませんか。簡単だと。管制室に戻りましょう。あなたの後任が来る前に」

 私はうなだれているレーズン氏を立たせた。氏は私の言うことを信じていないらしかったが、この短いあいだに生まれた愛情のためか、抗うことはしなかった。

 私とレーズン氏は、小さなビルの二階にある管制室へと戻った。管制室の液晶画面は相変わらず、目まぐるしく変化するカウンターをちかちかと表示していた。どこにも、1を示す項目は無かった。

 私は、操作盤に繋がったコンピューターの前に座ると、カチカチとキーボードを叩き始めた。レーズン氏は、訝しげな表情でこちらを見守っている。

 しばらくして、プログラムを書き換え終えたので、私は立ち上がって、レーズン氏に向かって液晶画面の端を指し示した。

「ほら、あれを見てください」

 氏は目を細めて、私の示した部分を睨んだ。そこには、次のように書いてあった。


 腐敗など当該品固有の性質に帰することのできない事由がある場合を除き全般的に食べられる、かつその食する者の名前は、肥溜めに紛れたレーズン曖昧模糊という 1


 煌々と輝く画面に並ぶ文字列を見て、レーズン氏はあんぐりと口を開けた。

「これは、いったい!」

「あなたは一になりましたよ。こんな名前の人間はあなたしか居ませんから」

「しかし、しかし、新しい項目を増やすなんて、ルール違反ではないのかね?」

 生真面目な元管制官は、信じられないとでも言いたげに首を捻り、そうこぼした。

 だが私は笑った。

「いつ、誰がそんなルールを作りました?」

 レーズン氏はしばらく、ただぼうっとその場に突っ立っていた。しかしやがて、その身体は感動に震え始め、瞳は喜びに爛々と輝いた。

「俺は、一になったのだ! 唯一無二の存在に、なったのだ!」

 そして、あまりにも胸を張るので、海老反りになって、後頭部が床にくっついた。

「あっはっはっは。一だ。一だ。唯一無二の存在だ。威張ってやるぞ。今俺は、威張ることになんの障害も感じない。ほら、三角コーナーにはまったチーズ絶体絶命よ、おまえも威張りたまえ。おまえにも威張る権利があるぞ」

 しかし、私は黙って首を横に振った。たくさん並んだ液晶画面のうちのひとつに、壊れて真っ暗になっているものがあったが、そこに映る自分のシルエットもまた、首を振っていた。私は、与えられた権利を行使することを選ばなかった。

 レーズン氏は、海老反りになったまま愉快げに笑い続けた。その笑い声を背後に残して、私はビルを出た。

 胸は満足感に満たされている。

 家路を辿りながら、ふたりの人間が路上で抱きしめ合っているのに行き当たった。

「あなたは、あなたよ」

「きみは、きみだ」

 私はそのふたりの横をてくてくと通り過ぎた。

 道のわきの物流倉庫に停まったクレーン車が、楽しげに、四角い箱をゆらゆらと吊るしているのが目に入った。

 いい曲が、できそうだ。

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