プロローグ
私の名前は、三角コーナーにはまったチーズ絶体絶命。本名だ。と言っても、実際に普段からそっくりそのままこう名乗っているというわけではなく、まあ、つまり、そちらの国の言葉に翻訳すると大体こういう意味になるということだ。読者諸君が私のことを呼ぶ際には、『チーズさん』、あるいは『絶体絶命』とでも呼ぶがいい。私の名前の前半で呼ぶことはわざわざ強制しない。なぜなら、そちらの国の住民たる諸君が、こちらの国の我々と比べると、記憶力という点において少々劣り、それゆえに、私の名前の後半を読んでいるときにはすでに前半を忘れてしまっているということを、私は重々承知しているからだ。できもしないことを、やればできる、などと言って他人に強いることは私の趣味ではない。
さて、この、のっけから慢心に染まった説教臭い文章を読みながら、なんだか腹立たしく感じるという場合は、無理はせず、今すぐこの手記を閉じて川に投げ捨てるか、または、定められた日の定められた時刻にきちんと古紙回収に出すなど、諸君の上品度合いに応じて適宜処理してくれたまえ。こちらとて、自分から針山に触れておいて、おまえのせいで怪我をしたぞ、どうしてくれるのだ、などと、文句を言われたくはないのだ。この手記はおそらく最後までこのような高慢な語り口が続くであろうことはここに明記しておくので、ご自身の体質はご自身で把握して、不愉快を避けていただきたい。いい加減、科学がそう要求したわけでもないのに、お互い不愉快な思いを抱かせ合うのはやめようではないか。しかし、万が一諸君が、いかなる罪人も赦す天使の寛容さで、私の傲慢さをも受け入れるというのならば、次の段落に進んでくれたまえ。諸君の頭にすでに浮かんでいるかもしれない疑問、すなわち私はいったい何者なのか、なんのためにこんな手記を書いているのか、そういった疑問に対して、ある程度答えに繋がりそうな二、三の事柄を申し上げよう。
まず第一に不可思議に思われることは、冒頭から早々と、私が諸君とは別の国に生きていることを匂わせておきながら、なぜそちらの国の言葉を知っていて、現にそちらの国の言葉でこの文章を書くことができているのか、ということだ。それは、外でもない、私がこちらの国に来る前に、一度、間違えてそちらの国に生まれてしまったからなのだ。
ここから、事情をより明快にお伝えするために、文章が少々単調な、叙述的なものになることをお許しいただきたい。
昔々私は、そちらの国のさる病院のベッドの上で、おのれの存在の正当さを疑わない堂々たる態度でおんぎゃあと産声をあげた。実際にはその誕生からしてすでに正当性は無かったわけだが、以来、しばらくは、自分が生まれて来る国を間違えたことには気付かなかった。だが、そちらの国で呼吸を続けるうちに、私は、まっとうな市民権を持っていれば抱えるはずの無い様々な違和感に出会うようになった。誰とも会話が成り立たず、誰の行動も理解不能で、地上に立っていると、まるで自分が無理数になったような気がした。絶えず、肺と空気が合わないために激しい憂鬱に囚われるという現象の、もっとわかりにくくなったような、非物理的な苦痛に悩まされていた。いや、確かに、そちらの国の空気の中で、物理的に呼吸をすることは可能であったが、しかし、精神的に正当な生活はしていなかったのである。そのために私は、本来別の場所に生まれるはずだったのに、何かの手違いで誤ってこの国に生まれてしまったのだという予測に、思い至った。
そういうわけで、私はそちらの国で過ごしていた人生の半ばに、こちらに移ることになった。国を移ることが決まったときの、私の勘は正しかった、四六時中胸にのしかかる憂鬱は、やはり、生まれるべきでない国に誤って生まれてしまったせいだったのだ、という晴れ晴れとした気持ちは、今でもよく憶えている。ところで、その移動の手続きの際に私のとった行動が、さきほど提示した疑問の答えに関わるので、ぜひとも言っておかねばならない。国を移るとき、担当の係官に、「あなたの居た国では身体のどの部分を使って思考していましたか?」と問われたのだが、私は咄嗟に、これは、新しい国に入る前に私の記憶を消すつもりなのだな、と勘付いた。もし私が、この移動の決定を予想だにしていなかったならば、瞬時にこうも冴えた推理はできなかったであろう。そちらの国で苦しい日々を送りながら、自分の存在に違和感を抱き、このときが来るのを予想し、様々な想像を巡らせていたからこそ、勘付くことができたのであろう。そこで私はつい、記憶を失いたくないという欲に駆られ、係官の問いに対して、脳みそではなく膀胱を指差してしまった。すると案の定、係官は私の膀胱の一部を切り取り、その処理が済むと私をこちらの国に通してくれた。おかげで今の私は、他人より少々頻繁にトイレに行かなければならない体質になってしまったが、代わりに、そちらの国に居た頃に聞いた音を、見た景色を、身につけたすべての語彙と文法を、すっかり憶えている。今考えると、こんな記憶には大して価値は無く、むしろ失ったほうがよかったとも思う。あのとき咄嗟に係官に対して嘘をついたのは、ふたつの国の記憶を同時に有しているという稀有な状態を維持したかった、愚かな特別への憧れのためだった。しかしながら、そちらに居た頃の憂鬱を覚えているがゆえに、こちらの国の有難みというものがわかるのだから、そういう点においては役に立っていると言える。
くだくだと書いて来たが、本編に移る前に伝えておいたほうがよい私の過去の事情は、これで大体すべてだ。続いて、私の未来のお話、すなわち願望について述べることをお許し願いたい。なんと言っても、この願望こそが、この手記の本題であるのだ。ここまでに書いて来たことは、実は本題とはまったく関係が無く、ただ、足し算や引き算を学ぶ前に数字の読み方を憶えねばならないのと同じで、この手記を読むための最低限の前提知識を記しておいたに過ぎない。
率直に言おう。私は、不死を望んでいる。
今、諸君は私の願望を知って、笑っただろうか。先回りして読者の感想を決めつけるのは些か卑怯ではあるが、それにしても、散々回りくどい枕を読ませておいて、本題はなんともちんけじゃないか、と思った方も居るには居るはずだ。なにしろ、そちらの国で不死と言えば、映画、小説、漫画、あらゆる物語において、最も愚かな役回りを引き受けた登場人物が望むものだからだ。無論、こちらの国でも、そういう価値観を提示する文化作品が無いではない。しかし、こちらではそもそも、人々の価値観がさほど均一ではないので、そちらで見かけるほど、不死の望みを愚として否定する作品は氾濫していない。あくまで、こちらの国の住民の代表としてではなく、私個人の意見として言わせていただくが、そちらの国で不死の望みが矢鱈に愚物として扱われるのは、ひとえに、皆が死を避けることのできない絶対のものと思い込んでいて、死を避ける方法を知らない自分の無力さから目を背けたいがために、不死を望む者を嘲笑うことを慰みにしているからではなかろうか。しかし、私は思う。生きるのがつらくないのであれば、生き続けたいと望んでもよいではないか。そのほうが至極自然な発想のように、私には思われる。花は散るから美しい? だが、死を避けることのできない、あるいは避けたことのない諸君のうち、誰か美しかった者がひとりでもあるだろうか。美しいものは永遠にでも美しいし、美しくないものはいかに儚く散っても、一秒たりとも美しい瞬間は無いのである。
少々感情的になって、道を逸れてしまった。ともかく、私は不死を望み、永遠に生きたいと願っている。そちらの国に居た頃は、毎日死にたいと思っていたものだ。こちらとて、一切嫌悪感の無い楽園のような暮らし、というわけではないが、そちらに居たときの、生きながらずっと罰を受けているような感覚とは無縁だ。少なくとも、呼吸をしている限り、永遠に無意味な犠牲を払い続けなければならないような悲惨な状況ではない。こちらでは、じっとしているあいだは何も苦しむことは無く、犠牲は、払いたいときにだけ払えばいい。リスクを冒してでも何かを得たいという決意が固まったときに、初めて動き出せばよい。こちらの津波は、私の時計を気にしてくれるのだ。こういうつらくない人生を送っていると、あれほど現世との別れを望んでいた私も、死というものが、最も恐ろしくつらいことのように思えて来て、これはぜひとも免れねばならぬと考えるようになったのだから、不思議なものだ。
そして実は、その恐ろしい生命の終末を避けるための方法を、ごく最近発見したのだ。その方法とはつまり、今のうちに、魂という現象を、不滅の形に翻訳しておけばよいのである。この宣言だけで十分説明に足りるとは思うが、私と読者諸君とでは思考の基盤がまったく違うゆえに当然のこともしばしば当然でないということを考慮して、少し念を入れて補足しておこう。この世には、循環の輪というものが存在する。すなわち、動物は大地の恵みを喰って育ち、死ぬと土に戻る、あるいは、海に流れた水が蒸発し空に昇り、雨となって降る。この世のすべてが、永遠の循環を巡り巡っているのだ。しかしながら、魂という現象だけが、無情にもその循環の輪から締め出されている。私は、循環の輪から締め出されたこの魂を現世に永遠に結び付けるために、いったい何が必要なのかと考えたとき、本来はいとも簡単に潰えてしまうその現象を、不滅の形に書き換えておけばよいのだと思い至った。そして、その役割に最もふさわしいのは、私にとっては音楽であることも、ほとんど同時に、思い至ったのだ。音楽というものは、一度生まれると、永遠に消えることはない。魂という現象が、無意味な情報の羅列でしかないのに対して、音楽は調和を抱いた有意な現象だからである。一度ある意図に沿って形成された瞬間、そのパターンは意味を持ち、もはや意味を持たない状態には戻れず、演奏されることが無くても、歌われることが無くても、永遠に存在し続けるのだ。
しかし、まあ、こういったこまごまとした原理を語っていても、読者諸君は眠くなるだけだろう。私のほうも、便宜上軽く説明しておかねばならないと思って書いてはいるが、この理論の言語化の困難さにはいい加減飽き飽きして来た。詰まる所、私が言いたいのは、この手記の本編で語られるのは、私の魂を、不死を得るために、音楽に翻訳する過程だということである。ここでもし、どうしてわざわざそんな過程を手記に残そうとしているのかと問われれば、それは実のところ、私の趣味と言う外ない。天使の寛容さで我慢強くここまで読み進めてくれた読者諸君ならば、私がたいへんな自分語り好きであることには、すでにお気付きだろう。自己顕示欲の強い私は、我が偉大なる発見の、実行の過程を、目に見える形に昇華させずにはおれないのである。そのくせ、この手記を誰かに見られたならば、自己満足の詰まった可愛い子どもから、瞬く間に、恥ずべき過去に変わってしまうのではないかという心配もしている。私は永遠に生き続けるのだから、我が人生に恥が張り付いては非常に困るのである。忌まわしい過去を持っては、永遠に生き続けたい気も失せてしまうだろう。そういうわけで、こちらの国では誰にも読むことのできない言語で今、これを書いている。私はもはや、そちらの国には存在しないので、諸君にならば、どれだけこの手記を読まれようと構わない。まだ見つかってはいないが、もしこの手記をそちらの国に投げ込む方法が見つかったときには、投げ込むとしよう。
さあ、それでは、回りくどい前口上はこの辺にして、そろそろ本編に取り掛かることにする。原稿用紙を極めて経済的に使用している文字の詰まり具合に、読者諸君も随分疲れて来ているはずだ。本編ではもう少し頻繁に行替えをすることができると思う。だが、確約はしない。なにせ、まだ書いていないのだから。