新時代京都
その日、京都市内に住まう多くの人間の胸の内になぜか原始に回帰しようという衝動が芽生え、皆が一様に恥も外聞もパンツも全てそこらへんに放擲し自らの動物性を再確認していた。うだるような残暑の残る、八月の終わりの頃だった。
かくいう僕も多分に漏れず全裸で京都の街中を徘徊している一人で、今は同じ大学の友人•小田と連れ立って木屋町通りを高瀬川沿いに歩いている。何故か唐突に今着ているものを脱ぎ捨てたくなったのだ。今がまだ夏で本当によかったと思う。
ところが二人とも全裸にリュックとスマホといった出で立ちで、未だに文明から脱却しきれないでいる。周りの人は皆、とっくに文明の衣を脱ぎ捨てて肩で原始の風を切りながら堂々と闊歩しているというのに。
元•立誠小学校という、かつては京都市立立誠小学校として賑わいを見せていたが、今は「立誠シネマ」という小さな映画館が入っている市内最古の鉄筋コンクリート造校舎の前を通りかかった時、僕は迂闊にも足がもつれ、そのまま水深20センチにも満たない高瀬川に落ちてしまった。地味に痛い。慌てて歩道の上に這い上がったが、全身ずぶ濡れになってしまった。しかし、季節が夏なだけあってこのまま濡れそぼっているほうが返って快適であるかに思われた。そんな時だった。
「おい、膝のところ、擦りむいてるぞ」
小田は憮然とした面持ちで指摘してきた。見ると膝小僧に薄く血がにじんでいる。
「これを使え」
そういうと彼は自慢の大きなリュックから薄汚い絆創膏を取り出した。
ずっとリュックの中に入れっぱなしにしていたのだろう。絆創膏を包んでいる紙がすっかりふやけてしまっていて、さらに心なしかシミらしきものが付着している気がしたものだから思わず顔をしかめてしまう。
彼はというと、意地悪でしているのか、あるいはただ気付いていないのか、それとも単に阿呆なのか。不器用な笑みを浮かべてこちらに絆創膏を突き出す。
「ほら、遠慮をするな」
そう言うと彼は彫りの深い、厳めしい作りの相貌をニッと綻ばせた。
想像してみて欲しい。たとえばダヴィデ像や考える人像やモアイ像が笑っている様子を。それほどこの時の彼の笑顔は酷く不似合いで、不気味だった。
「......悪いな」
滅多にない彼の善意を無碍にするのはなんだか憚られる。僕はおずおずとそれを受け取り、彼が見ているので仕方なく、泣く泣く、患部に、衛生面に一抹の陰りのある絆創膏を見せつけるように貼り付けた。家に帰ったらすぐに取り替えよう。
「しかしあれだな」
思案顔な小田が口を開く。
「なんだよ」
「皆、幸せそうで何よりだなって」
「それはまあ、確かに」
人々は風の吹くまま気の向くまま、足の赴くままに各々獲得した自由を謳歌し、老若男女の別なく、伸び伸びと徘徊している。衣服という牢から解放された彼らの表情は朗らかだ。そこかしこに散乱している衣服は僕や彼らが常に胸中に抱いている、見栄、権力、欺瞞、そして喪失に対する恐れといった、人類が多くのものを手に入れるのに付随して抱くはめになった何か後ろ暗い感情を象徴しているかのように思えた。
「これもここに棄てて行こう」
そういって小田は背負っていたリュックを地面に下ろす。僕は未だにリュックと中に入っている財布への執着が捨てきれず、高瀬川を見下ろしながら暫し佇む。
ここいら一帯に散らばっている衣類や諸々の品々はどうなるのだろうか。このまま長い歳月をかけ、朽ちて大地に還っていくのだろうか。もしかしたら後で市や業者が回収していくのかもしれない。それとも無粋な泥棒が盗んでいくのだろうか。あるいは今のこの奇異な状況も今日限りの珍事で、明日になれば皆元の生活に戻っていつも通りの日常を送っていたりするかもしれない。それはそれで奇妙なことこの上ないが、もしそうなったらこれらのものは誰のものになるのだろう。これだけ散乱していれば、皆どれが自分のものかなんていちいち覚えていられないだろうに。
「先に行ってるぞ。もうすぐ河原町交差点で何か始まるそうだ」
小田は歩き出す。
「しょーがないなぁ」
そう言って僕も背負っていたリュックを渋々、財布ごと無造作に放り捨ててみた。すると不思議にもそれまで己のうちに残尿のようにしつこくわだかまっていたものが霧散し、何もかもどうでもよくなってしまった。あとは野となれ山となれ。僕は先にいる小田のところまで走る。
「空が青いな」
小田は遥か上空を見上げる。僕もそれにならう。そこには青空をキャンバスにまばらな羊雲が広がっていた。
「夏も終わりか」
名残惜しげに小田は言った。
少し歩くと四条大橋の向こうにシートで覆われている改修工事中の歌舞伎の聖地、南座が見えた。あのシートが無くなる頃にはあの南座はどう生まれ変わっているのだろうか。それとも今までと変わらず、ただ南座であり続けるのだろうか。僕たちはどうだ。
視線を前に向けると、祇園祭でもないのになぜか河原町交差点が歩行者天国と化しており、黒山の人だかりが出来ているのが確認できた。皆気分が高揚しているのか、あちこちで賑やかな声が上がっている。
「何が始まるんだろうな」
小田は抑えきれない期待で顔を綻ばせている。
「楽しいことだよ、きっと」
「違いない」
僕は立ち止まり、膝の絆創膏を摘んで引っ剝がした。
「つっ」
「痛むか?」
見るとすでに傷口はうっすらと薄い膜を張っていた。まあ大した怪我じゃないので当然だが。
「まあ、少し風が滲みるぐらいなもんかな。唾でもつけとくよ」
「それでいい。そのほうが生きている感じがする」
「そうなのかな」
その時。何か楽しいことでも起こったのか、交差点に蠢く群衆からひと際大きな歓声がわっと上がった。
「急ごう。祭りが始まる」
「ああ。さらば文明、また会う日まで」
僕たちは既に始まりつつある更なる珍事に遅れをとるまいと揃って駆け出す。
秋の風が尻を撫でた。