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ノー!キリスト

作者: ちりぬるを

 その男は今にも血の涙を流しそうなくらい恨みのこもった目で俺を見ていた。彼の足下には異国人の姿を描いた銅板。なぜそれを踏めぬのだろう? 俺は衣の襟を正しながら理解の出来ない彼の行動に眉をひそめた。

「呪ってやる!」

 唾を飛ばす勢いで俺をののしる彼に心の中で「それは八つ当たりだ」と呟く。俺も御上の命令でやっていることで彼がどうなろうと俺のせいではない。

「呪ってやる! 末代まで呪ってやるからな!」

 連行されながらもなお俺を呪い続ける彼を尻目に、次の者に絵踏みを促す。溜め息がこぼれた。

 彼女は今にも抱きついてきそうな嬉々とした目で僕を見つめていた。

「……うん、いいよ」

 僕が頷くと予想通り人目もはばからず抱きついてきた。

「やった、大好き、じゃあ日曜日ね」

 僕の耳元で彼女が囁く。それがあまりにも可愛すぎて大学構内のど真ん中にも関わらず僕も抱きしめ返す。

 彼女と離れてから気付かれないように溜め息をついた。日曜日、晴れ予報、付き合いたての恋人との美術館デート。普通に考えれば、普通の大学生ならば最高に幸せな予定だ。

 ただ残念ながら僕は普通ではなかった。約三百年前の先祖の呪いだかのせいでキリストの絵を見ると全身に激痛が走る体質なのだ。絵の精度にもよるが有名な画家の宗教画展など僕からすればただの拷問場だ。下手をすれば命に関わるかもしれない。

『ごめん、僕キリストの絵を見ると体中が痛くなって最悪死ぬかもしれないんだ』

『え? そうなの? じゃあ美術館やめて遊園地にしようか』

 ……とはならないだろうな。

『は? 行きたくないならもう少しましな嘘つきなよ』

 となるのがオチだ。もちろん彼女はそんな言い方をしないだろうけど、不快になったり不審に思ったりはするだろう。初めての彼女だ、そういう事態はなるべく避けたかった。……恨みますよご先祖様。とりあえず帰りに痛み止めの薬を買おう。そう思いながら教室へ向かった。


 久しぶりの快晴の週末ということもあり、駅北口の時計台前はなかなかの人通りだった。待ち合わせで僕を見つけると嬉しそうに駆け寄ってくる、そんな彼女の姿が大好きで、僕はいつも少し高い見晴らしの良い所に立って彼女を待つ。五分程で白いワンピースの彼女が改札の方から走ってくるのを見つけた。ああ、やっぱり可愛いな。その一瞬だけこれから訪れる恐怖の時間のことを忘れることが出来た。

「ごめん、待った?」

「いや、ぴったり」

 元気よく歩き出す彼女と裏腹に僕はどうしても足取りが重い。合流する前に痛み止めは飲んできたが、前代未聞の痛みが来ることを覚悟しすぎて美術館の入り口でチケットを買う時点ですでに胃が痛かった。

「うおっ……」

 入館してすぐ、巨大な磔のキリストの絵でいきなり体中の痛みはクライマックスを迎え、僕は思わずうめき声をあげてうずくまる。

「どうしたの? 大丈夫?」

 彼女が怪訝そうに僕の顔を覗き込む。そりゃそうだろうな、逆の立場なら僕も最大級に心配するだろう。

「大丈夫、なんかつまずいて足ひねったみたい」

「こんな平坦なところで? やっぱ変わってるね」

 僕の苦し紛れの言い訳を信じてくれたのか、彼女が安心したように微笑んだ。

 要はキリストさえ見なければいいだけの話なのでなるべく絵の隅を見るように心掛けた。それでも少し視界にキリストが入るだけで、歯を食いしばらなければ声が漏れてしまいそうな痛みが襲う。ここを出る頃には奥歯がなくなってしまうんじゃないかと不安になった。

 ここに来てからというもの終始そんな調子だったので、「これが最後の絵だよ」と彼女に言われるまでそんなことにも気付かなかった。思えば静かにしなくてはならなくて、あまり会話をしなくていいというこの環境は救いだったのかもしれない。

 最後の絵は他と比べても小さく、正面に立つ彼女の姿で完全に隠されていた。

「最後くらいちゃんと見てね」

「え? うん」

 やばい、気付いてたのか。覚悟を決め、僕は泳ぎそうになる視線をなんとか彼女とその背後にあるであろう絵に合わせる。彼女がすっと横に逸れると、現れたのは聖母マリアの肖像画だった。ほっと安堵する僕の肩を彼女が叩いた。

「偉いね、痛みに耐えてよく頑張った」

 感動した! なんて言わんばかりの彼女の言葉に僕は目を丸くする。「知ってたの?」今多分僕は相当間の抜けた顔をしているだろう。

「うん、まあ結構有名な話だし。どのくらい私のこと好きなのかなって確かめたくなっちゃったの。ごめんね」

 可愛く舌を出す彼女の目の前に僕はへなへなと座り込む。

「勘弁してよ、フミエちゃん」

 僕はもう笑うしかなかった。

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