痛みと苦しみ5
日が落ちて、空は闇に覆われていた。撒いた砂粒のように光る星が、辛うじて建物の輪郭を浮き上がらせている。
重苦しいような暗闇の中、ユーゴはヘクトンホテルの前にたどり着いた。
それは、過度ともいえる装飾が施された高級ホテルだった。国外の大貴族や大商人が主に利用する滞在施設である。
一泊するだけで、農民が一年間暮らせる額を必要とした。
ユーゴがホテルに近づこうとすると、ケープを頭から被った人物が入り口から出てきてこちらに向かってくる。
暗闇に加え、ケープで顔を隠しているので、最初は誰だかわからなかった。
「随分と、奇抜な格好をしてるのね」
その声で、それがアイサだとわかった。
「まあ、色々あったんだ。……ところで、どうして俺が来るのを知ってたんだ?」
「ジェラルドとヘクターから連絡があったのよ」
彼女はそう言うと、周囲を気にするように見回した。誰も自分たちを見ていないことを確認すると、近くにあった石製の長椅子を指差す。
「あそこに座らない?」
「ああ」
二人で石製の長椅子まで歩いていくと、アイサが先に座って、足を組んだ。
ユーゴも、彼女から少し隙間を空けた場所へ腰を下ろした。
アイサは目を細めて、ユーゴを睨んだ。
「私には、ユーゴが理解出来ないわ」
「そうか」
彼は苦笑いを浮かべて、顔を俯かせた。アイサに『理解出来ない』と言われるのは、初めてではなかった。
彼女は過去の記憶を掘り起こすように、頬を緩めた。
「私たちの部隊は、危険な任務ばかりだったわね。命を助けたこともあるし、逆に助けられたこともあったわ。お互いに、この場で生きていられるのが不思議なくらいに」
「……まあ、そうかもしれないな」
ユーゴは後頭部を掻いた。特に何があったというわけではないが、落ち着かない気分だった。
「ええ、きっとそう。『死んでいてもおかしくはなかった』」
そう言ったアイサの瞳は、真剣そのものだった。まるで殺気でも込められているような迫力が感じられた。
それに対し、ユーゴは微笑んだ。そうするのが一番、アイサのためになるのだと思っていた。
「大丈夫だ。俺たちは生きてるんだからな。アイサのお陰だ」
アイサは急に夜空を見上げ、星を仰いで溜息をついた。
「はぁ……あなたは気味が悪いくらい優しいのよ。本当にいつも通り。ユーゴはもっと、貪欲になっても良いと思うわ。それくらいのことはしてきたはずよ」
「貪欲、って言われてもなぁ。俺はやりたいことをやってきただけだ。その分の給料は貰ってたし」
「それだけじゃ足りない、って私は言ってるの。ユーゴは自分の価値をわかってないのよ。安月給で働かされて、見下されて、正当な対価を貰っているとは言い難いわ」
「正当かどうかなんて、俺たちが決めることじゃないだろう。俺はエトアリア王国を救えたことが嬉しい」
彼女はユーゴから目を逸らし、僅かに怒りを滲ませた口調で言った。
「だから、あなたには欲しいものがないの? 生きてる理由は?」
「……いや、そうだな。あまり真剣に考えたことは無かった。生きること自体に精一杯だったような気がする」
「――――」
途端、アイサは思わず口を小さく開いた。ユーゴの核心に触れて思った言葉が、自然とこぼれた。
「あなたは優しいんじゃなくて、自分に興味が無いだけなのね――――だから、気持ち悪いんだわ」
「は?」
ユーゴが問い質す前に、アイサは懐から何かを取り出して、投げつけてきた。
不規則な金属音が、三回ほど鳴った。
「ほら、金貨三枚。……それであなた、何にお金を使ったのよ」
ユーゴは長椅子から立ち上がり、地面に落ちた金貨を拾い上げながら言う。
「俺が泊まった宿屋の主人が騙されてな。代金を踏み倒された。宿屋の主人に病気の弟がいたみたいで、困ってたようだから――――」
「助けたいっていうのよね」
言葉尻を奪うようにして、アイサが言った。彼女は酷薄そうな顔をしていた。
「どこの宿屋なの」
「城下町の、一番端だ。南側にある城門の傍にある」
「そう」
興味が無さそうに、彼女は小声で呟いた。
「この馬鹿、イライラするわ……」
「何か言ったか」
ユーゴは間の抜けた表情で聞き返した。
それがアイサの怒りに拍車をかけた。
「いいえ、何も言ってないわよ。金貨を拾ったのなら、さっさと帰ってくれるかしら。あなたと会いたいとも思って無かったし、二度と話すことも無いわ。金輪際、私とあなたが関わることはないのよ」
「……ああ、すまない。金は必ず返す」
「返しに来ないで。餞別としてあげるから、もう顔を見せないで欲しいのだけれど」
「わかった」
頭を下げて礼をしたユーゴは、金貨三枚をポケットに入れた。
長椅子から立ち上がり、背を向けて去っていくアイサを見送ってから、宿屋の方に足を向ける。
とにかくこれで、借金分の金を手に入れたことになる。そう思うと、疲労感が波のように押し寄せてきた。
歩み出すのその一歩一歩が重く、沼を歩いているようだった。
元勇者部隊の三人と会って話をすることが出来たが、関係の断絶を再確認するような作業でしかなかった。
開け放たれた酒屋から洩れる明かりを頼りに、舗装された道を歩いた。
賑やかな声と、音を吸い込むような静寂が交互に訪れる。
戦勝パレードが終わって、城下町にも落ち着きが戻ってきているようだった。
そして、どれだけの時間を歩いたのか、ユーゴは宿屋に辿り着いていた。長い時間を歩いたような気もするし、あっという間だった気もしていた。
開けっ放しになっていた一階の食堂に顔を出す。
「遅くなったな」
食堂のテーブルには、驚いた顔をした中年の男と、ベストを着た男が座っていた。
「お前……」
ユーゴが事の成り行きを飲み込めずにいると、ベストを着た男が逃げ出した。調理場を抜けて、裏口から出て行こうとしている。
中年の男も慌てて逃げ出そうとするが、ユーゴが飛び出してそれを阻止した。中年の男の胸倉を掴み、苦み走った顔で言う。
「どういうことだ、説明しろ」
「い、いやあ、あいつが俺の弟でよぅ。金を渡そうと思って呼び出したんだが……」
ユーゴは胸倉を掴んでいない方の手で、近くにあったテーブルを殴りつけた。鍛えられた拳は、長年使い込まれたテーブルを物の見事に粉砕する。
「正直に言え」
「ひ、ひいぃ、話しますから勘弁してくださいよぉ。あんたの思ってる通り、俺と弟で共謀して騙したんだよ。悪かった、許してくれぇ」
「…………もう、疲れたよ」
怒る気力も失せ、ユーゴはポケットから金貨三枚を取り出した。床に放り投げて、中年の男に言った。
「誓約書を返してくれ」
「……あ、いやぁ、その」
口ごもる中年の男は視線を逸らした。入り口の方を見て、しきりに頷いている。
ユーゴがそれに気づいて振り向く前に、背後から声をかけられた。
「こんな貧乏宿屋に借金した挙句、主人を脅しているとはな。王国の兵士だった男が、小汚い犯罪者に成り下がりおって。呆れて物も言えんぞ」
宿屋の入り口には、ジョアン・グレンブルが武装して立っていた。
その両脇には、騎士と思しき全身鎧を着込んだ兵士が控えている。
「ちょっと待ってくれ」
ユーゴが弁解しようとすると、ジョアンが一枚の紙を取り出した。それは紛うことなく、ユーゴが自分で書いた誓約書だった。
「貴様の字で、貴様のサインだろう。よもや、見覚えが無いとは言うまいな」
「だから話を――――」
「問答無用だ。貴様を野放しにしていては、国の名誉に泥を塗るどころか、民のためにもならない。よって、ユーゴ・ウッドゲイトを国家反逆罪で連行する」
「なっ」
国家反逆罪といえば、死刑になってもおかしくないほどの重犯罪だった。
言い返そうとするユーゴは、控えていた騎士に拘束された。両手に木枠の手錠を嵌められ、腰を縄で縛られる。
ユーゴが口を開こうとすると、ジョアンに殴られた。
ジョアンは笑顔になり、口から血の糸を垂らすユーゴの肩を叩いた。
「この誓約書は、金貨三枚で買ってやったから心配するな。ははは、礼はいらんぞ。どうしても礼を言いたければ、アイサ君にでも言っておくんだな」
ユーゴは目を見開いた。
確かに、アイサにだけは、この宿の場所を説明した。
借金の金額も知っている。早馬を飛ばせば、徒歩のユーゴよりも早くこの宿屋へ辿り着けるだろう。
その考えに至ったユーゴは、首を垂らして脱力した。両脇を騎士に抱えられ、宿屋の外へ連行される。
そのまま、鉄格子つきの馬車に乗せられ、鍵をかけられた。冷たい夜気が、ユーゴの身体を冷やす。
騎士の号令で、馬車が動き出した。
夜の景色が流れる。
車輪が石畳の段差を拾い、小刻みに揺れながら進んでいくと、一際大きな喧騒に出会った。
夜だというのに、妙に明るいことも気になった。
ユーゴは鉄格子の間から、外を見た。
「なっ――――」
スコットの道具屋が、完全に燃え上がっていた。その前で、スコットが膝を落として呆然としている。
炎上する道具屋は、まるで松明のように暗闇に浮かび上がっていた。火の勢いが強すぎて、誰も手を出せない状況だった。
ユーゴは立ち上がって、馬車の前方に座る御者に叫んだ。
「馬車を止めろ、火事だ!」
前方に座っていた騎士が拳を振り上げ、馬車の荷台を叩いた。
「黙って座ってろ! お前を牢屋にぶち込むのが最優先事項だ、このクソ野郎」
「俺のことはどうでもいい! 少しだけ時間をくれ! せめてスコットさんだけでも逃がさせてくれ!」
「馬鹿か貴様。誰が犯罪者の言うことを聞かなきゃならんのだ。それ以上口を開くと、この場で斬り捨てるぞ」
それからユーゴが何を言っても、帰ってくる言葉は同じだった。
見る見るうちに、燃える道具屋が遠ざかっていく。
捕まえられているユーゴには、スコットの無事を祈ることしか出来なかった。