敵と味方
ファルクラン陣地は、暗闇に包まれていた。その中で点を穿つように、幾つかの松明が燃えている。
雑木林を背後にした平地に陣が敷かれており、北側正面には、尖った杭を何本も突き立てていた。標準的な植杭陣地と言えるだろう。
陣地の外周には四箇所に櫓を組んで、弓を持った監視兵が松明と共に立っている。
「へぇ」
ユーゴは雑木林に身を潜め、背後からゆっくり近づいてくるシアンを見た。
「魔族が本気を出して暗殺者を送り込んできたら、戦況は変わっていたかもな」
「……次があれば、試しても良いですね」
「多分、将軍たちは鼻の下を伸ばしているから殺しやすいぞ」
軽口を言うように、ユーゴが笑った。
シアンは目を細める。
彼女は鱗の保護色を最大限に生かすため、軍服を脱いでいたのだった。女性らしいなだらかな曲線が、濃い褐色の鱗に覆われている。
「何でしたら、いま試してみますか」
ユーゴの首元に、彼女の手刀が添えられた。冷たく鋭利な爪が、彼の頚動脈に触れる。
「勘弁してくれ」
目を背けながら言うユーゴに、さらなる追い討ちが掛けられた。
「それと、顔を真っ赤にしながら冗談を言うのはどうかと思います。場を和ませるためだと好意的に解釈しておきますが、私には必要ありません」
「……すまん」
立場がないユーゴだった。気持ちを入れ替えて、とばかりに表情を変える。
「ざっと眺めてみたが、俺が来たときと配置は変わってない。砲兵主体の防御陣地だ。他に配備されてる兵は、恐らく砲兵の護衛だろう」
シアンは頷きながら、陣地の概容を眺めていた。
「ここは――――突竜飛行隊が全滅させられた場所です。竜将軍が撃墜されたのも、この周辺でした」
「しかし、竜種ってのは恐ろしいな」
陣地を眺めていたユーゴが、思わず溜息を漏らした。
その原因というのが、ファルクラン陣地を斜めに切り裂いている直線だった。大地が抉られ、石が融解していた。その深さは、城の堀を思わせる程だった。
「これから会えますよ」
「そうだった」
ユーゴは笑い、夜空を見上げた。月が雲に隠れそうになっていた。
「――――行こう。シアンは少し離れてついてきてくれ」
「了解です」
彼女の返事に頷き返したユーゴは、姿勢を低くしたまま、小走りで雑木林を駆けていった。
まるで雲の上を進むような、浮遊感が漂う走り方だった。しかし不気味なことに、殆ど音がしなかった。
彼の背後を遅れてついていくシアンは、ユーゴの無音歩行に軽く驚嘆していた。気を抜いていたら見失ってしまいそうだった。
そうして進んでいると、ユーゴが足を止め、茂みに身を隠した。手招きで彼女を呼ぶ。
シアンは身を屈めて茂みに行き、隠れているユーゴに寄り添った。耳元で可能な限りの小声を出す。
「どうしました」
「歩哨が二人いた。こっちにくる。片方は生け捕りにするから、俺に任せろ。もう片方は静かに片付ける。任せて良いか」
「はい」
「まず俺が、後ろの歩哨を拘束する。前を歩く歩哨が気付いたらやれ」
彼女は黙って頷いた。
そして、松明を持った二人組みの兵士が近づいてきた。獣道を歩き、周囲を確認しながら歩いてくる。
大きな茂みがあれば、立ち止まって槍を突き入れていた。
どうやら相当警戒している様子である。
ユーゴに思い当たることがあるとすれば、シアンを助け出したときに逃げた村人が、ファルクラン陣地に通報していることだった。
しかし、そんなことを考えている間に、歩哨の兵士がやってきた。ユーゴの隠れている茂みに槍を突き入れようとした。
瞬間、茂みから飛び出したユーゴが歩哨に飛びつき、背後に回って短剣を首元へ突きつけた。反対の手で口を塞ぐ。
前を歩いていた歩哨がユーゴの襲撃に驚いて、後ろを振り返った。槍を構える。
「き、貴様――――ぁ」
叫ぼうとした歩哨の首が折れた。人体の構造的にありえない方向へ曲がった頭が、虚ろな瞳で遠くを見つめている。
擬態を解いたシアンが、闇から浮かび上がるようにして現れた。歩哨の首元を片手で掴み、難なく持ち上げている。
彼女は、力なくぶら下がった死体を茂みの中に隠して、ユーゴを見た。
ユーゴは頷いてから、自分が拘束している歩哨に言った。
「聞かれたことには正直に答えろ。わかったな」
歩哨が大きく縦に首を振ったのを確認したユーゴは、口を塞いでいた手を外した。言葉を続ける。
「竜将軍の捕らえられている場所は何処だ」
「……本部詰め所の、隣だ」
「見張りは何人いる」
「二人だ」
「二人、か」
驚きを顔に出さないように努めて、ユーゴは問いかけた。
「どういう内訳だ」
「牢に向けて、魔玉誘導式バリスタを一台突きつけているんだよ。射手と補助員の二人だ。捕虜が妙な動きをすれば、撃ってもいいことになっている」
「そうか……」
ユーゴは顔を顰めた。
普通ならありえない待遇の悪さだった。将軍職の捕虜ともなれば、専用の部屋を与えられるくらいの厚遇が一般的なのだ。
それは自国の将軍が捕まえられたときのことも考えられているが、一番の理由は、将軍職の立場を兵が信頼しなくなるからである。
魔玉誘導式バリスタまで突きつけているとなると、エトアリア王国は、竜将軍を殺すことも視野に入れていることになる。
つまり、すぐに殺されないだろう、という前提が覆されてしまうのだ。竜将軍の価値が低くなった理由に、嫌な予感がするユーゴだった。
考え事をしているユーゴに、歩哨が声を掛けてきた。
「貴様は人間だろう? よく魔族の味方なんかしていられるな。裏切り者め」
怨念さえ篭っていそうな声だった。魔族をかなり憎んでいる様子の歩哨は、魔族の味方をする人間が余計に腹立たしかったのだろう。
だが、ユーゴは真面目な顔で言った。
「裏切る、か。まるで人間は無条件で人間の味方をしなきゃいけないような言い草だが、お前は俺の何なんだ? 教えてくれよ」
彼の目は、気味が悪いくらいに真剣だった。
まるで、命を握られているのは歩哨などではなく、ユーゴ・ウッドゲイト自身であるかのようだった。
救いを求めるような仕草で、ユーゴが言う。
「どうなんだ」
「知るか。くたばってしまえ、魔族の手先が……っ」
気圧された歩哨は自分で舌を噛み切り、口から溢れんばかりの血を吐き出した。舌根が喉の奥に詰まり、呼吸困難に陥る。苦悶の表情を浮かべ、暴れだした。
「死にたくなるほど俺が嫌いなら、それでいいさ」
ユーゴは持っていた短剣で、歩哨の心臓を突き刺す。歩哨は一度だけ痙攣して、息を引き取った。
シアンの冷たい声色が響く。
「慈悲の一撃――――ですか」
「長く苦しめることはないだろ」
彼は死体から短剣を引き抜いて、刃に付着した血を拭った。一連の動作で鞘に短剣を収め、先に進もうとしていた。
その背中に、シアンが声を掛ける。
「やれそうですか」
「何が?」
ユーゴが振り向いて彼女を見た。
シアンは冷たい目で、彼を見ていた。
「人を裏切ることです」
「俺は人を裏切ってるんじゃない。シアンの味方をしているだけだ」
「……そ、そうですか」
彼女が顔を伏せるのを見て、ユーゴは首を傾げた。
「何やってんだ、行くぞ。少し状況が変わった。歩哨の言うことが本当なら、竜将軍の身柄が危ないかもしれない」
「――――はい」
二人は身を屈め、雑木の背後に隠れるようにして、陣地へ近づいていった。少し開けた場所が見えるところで動きを止める。
雑木林を抜けた先は、身を隠せるところがない広場になっていた。その奥に柵で区切られた場所があり、幾つか天幕が張られていた。
ユーゴはその天幕の中で、指揮官用の天幕を見つけた。
「オルフォフ中佐は、あそこか……」
そこから視線を周囲に廻らせ、指揮官用の天幕の隣に、大きな天幕があることに気付く。そこが本部詰め所だろうと見当づけた。
「シアン、場所がわかった。ここからじゃ遠い。移動する」
「この暗闇の中でよく見えますね。夜目だけなら魔族並みではないのですか」
「そうかもな」
笑い返したユーゴが、口の前で人差し指を立てた。
ここから先は喋るな、ということだった。
無言のまま、可能な限り音を立てずに雑木林を迂回する。
ちょうど本部詰め所が覗けるような位置で身を潜め、状況を見守った。二人は茂みをカモフラージュにして、隣り合わせに腹這いとなった。
「…………」
ユーゴはシアンの肩を叩いてから、人差し指を陣地へ向けた。
指の先を辿ると、木製の頑丈そうな檻があった。そこへ矢の装填された魔玉誘導式バリスタが向けられていた。
バリスタは地面に固定されている台座式で、発射台は巨大なクロスボウに見えた。背後に射手が立ち、横にいる補助員が矢の装填をするのだろう。
「――――っ」
思わず身を乗り出しそうになったシアンだったが、ユーゴに肩を押さえられる。彼女は抗議の視線をユーゴに向けた。
難しい顔をしたユーゴが、人差し指を陣地の外と、檻のさらに向こう側へ交互に指した。
何があったのか気付いて、シアンは頷いた。
陣地の外には、松明の灯されていない見張り台があった。檻の向こうには、もう一台の魔玉誘導式バリスタが存在していた。
雑木林で捕まえた歩哨が偽証していたのだった。歩哨の言うことを信じて進んでいれば、侵入が発覚していたことだろう。
ユーゴは見張り台を指差してから、首を掻っ切るポーズをして、シアンを指差した。
見張りの始末を頼んだのだった。見張り台を素早く上るのは、彼女の方が適任だと判断したからである。
次にユーゴは、手前にある魔玉誘導式バリスタを制圧することを、ハンドシグナルで伝えた。
彼女は過不足なく彼の判断を了解し、首を縦に振った。
ユーゴが彼女の肩を二回叩いたことが、スタートの合図だった。
地を這うような素早い動きで、シアンが雑木林の中に消えていった。見張り台は陣地の外周に設置されており、上ることさえ考えなければ、近づくのは比較的に容易である。
大きく深呼吸したユーゴは、茂みから立ち上がった。
頑丈な柱で組まれた檻を観察すると、鍵は簡易的なものだとわかった。竜将軍を抑えているのは、やはり魔玉誘導式バリスタだと思った。
檻を監視している射手たちの視界に入らないような場所を見つけ、接近順路を考える。
そうしていると、見張り台を走るような速度で上っていくシアンを発見した。よほど注意していないと気付かなかっただろう早業だった。
見張り台にいた兵士が一突きで殺され、倒れた。シアンがこちらを向く。
ユーゴは手を広げたまま空に向かって伸ばし、振り下ろした。攻撃続行を意味するハンドシグナルである。
彼女が見張り台から降り始めると、ユーゴは無音歩行で歩いた。
視覚や物陰に隠れ、速度を殺さないように魔玉誘導式バリスタへ近づく。設営されている天幕の影に潜み、襲撃できる間合いまで距離を詰めた。
射手の呼吸を盗んで、タイミングを計る。
ユーゴが腰元の短剣に手をかけたところで、不測の事態が起こった。
何人かの兵士が、檻の前に集まってきたのだ。
射手が叫んだ。
「邪魔だ、お前たち! バリスタが撃てない!」
「黙れよ。魔族と直接やりあったことのねぇ砲兵は引っ込んでろ!」
兵士たちは射手を睨みつけた後で、やはり檻に群がった。もうバリスタのことなど無視をしている様子だった。
「三人の……酔っ払いか?」
誰にも聞こえない程小さな声で、ユーゴは呟いた。軍服の部隊章を見れば、歩兵であることがわかった。
日ごろの憂さ晴らしを、捕虜で晴らそうとしているのだろう。
事実、そのような罵倒が繰り返されていた。
「てめえの所為で、どんだけ人間が死んだと思ってんだコラ」
「何とか言えよ。それとも将軍様は、俺たちとは口をききたくねぇってか」
「お前には、もう価値なんてねえんだよ。明日、公開処刑されるらしいなぁ。死刑執行人になりてぇ人間が、列を作って待ってるぜ」
檻を揺すり、叩くが、当の竜将軍は何の反応も見せなかった。
ユーゴは竜将軍の様子を確認したかったが、三人の兵士に遮られて見ることが出来なかった。
続けて魔玉誘導式バリスタの射手を見ると、明らかに困惑して、三人の兵士傍観し続けていた。
短剣を抜いたユーゴは、天幕の影から歩き出た。普段の用事でも済ませるように、補助員の背後へ立つ。
口を塞ぎ、短剣を音もなく補助員の背中に刺し入れた。静かに地面へ下ろし、血が吹き出ないように短剣を抜いた。
そのとき、射手がこちらを見た。
「おい、憲兵を呼んで来い。このままじゃ――――あ?」
ユーゴと目が合った。
「どうも」
苦笑いしたユーゴは、短剣を素早く滑らせた。何か言う前に喉元を切り裂かれた射手は、前のめりに倒れた。
ユーゴはそれを静かに受け止め、補助員の隣に並べた。
そして警戒するように、もう一方の魔玉誘導式バリスタを見る。
そこでは、首を折られて倒れている補助員と、腹を貫かれている射手がいた。暗闇の中で、氷青の瞳が輝いている。
ユーゴが安堵して、檻に向かおうとしたときだった。
酔っ払いの兵士の一人が、振り返ろうとした。
「俺にもバリスタを撃たせろってんだ、クソが」
身を屈めたユーゴが、遠過ぎる間合いを走りきるために足を踏み出そうとする。
その直前、檻の中から竜将軍の笑い声が洩れた。
「ははははっ、お前のような酔っ払いが何を言っている。クソはお前だ、バーカ」
「なんだとぅ!」
酔っ払いの兵士三人は、馬鹿にされて腹を立てたのか、再び檻に群がった。
胸を撫で下ろしたユーゴは、シアンに合図してから、檻に向かう。
無防備な兵士の一人を、短剣で刺し殺した。もう一人は、逆方向から近づいてきたシアンに首の骨を折られる。
「てめぇ、ぶっ殺してやる。どうせてめぇは明日にでも処刑されるんだ。いま殺しても問題はねぇんだよ!」
残った兵士の一人は、まだ何にも気付いていないようだった。
檻の中にいた竜将軍が、ゆっくりと立ち上がった。
「やれるものならやってみろ……と言いたいところだが、もうバリスタは勘弁だな。あれは痛い。泣ける」
「は、はあ? 何言ってやがんだてめぇ、う、撃つぞこの野郎!」
「野郎ではないつもりだが?」
竜将軍は、長い金髪を揺らしながら、兵士に近寄った。真っ白な細い腕で、檻の格子を掴む。
「人間にとっては魔族の性別など、どうでもいいというのか。それはけしからんな」
ユーゴの夜目には、薄汚れた布一枚しか身につけていない女性が見えた。不敵に笑い、吊りあがった眼で黄金色の瞳を燃やす女だった。
「え、あ、てめぇ、動きやがったな! いまだ、撃てぇっ……え?」
兵士が振り返ると、そこにはユーゴとシアンが立っていた。
「すまんな」
ユーゴは兵士に言った。
その隙にシアンが動き、兵士の頭を兜ごと殴った。その威力で兜が陥没し、兵士は口から泡を吹いて倒れた。もう起き上がって来ることはなかった。
短剣の柄で檻の鍵を叩き壊したユーゴが、扉を開けた。
「ふむ、ありがとう人間……未満、でもないか。以上? 異常? まあいいか」
竜将軍はそれだけ言うと、困惑するユーゴを脇に避けて、シアンの前に立った。
「助けに来てくれると信じていたよ、姉上(、、)」
苦笑いしたシアンが、首を横に振って訂正した。折り目正しい敬礼をする。
「過分なお言葉、身に余る光栄です竜将軍閣下」
「……そんな気にすることもないではないか。私と姉上の仲だろう。同じベッドで過した日々を忘れてしまったとでも?」
シアンは口を曲げ、呆れたように息を吐いた。すると、いままで纏っていた堅苦しい雰囲気は消え、旧友に出会ったときのような笑顔になる。
「相変わらずの妄想癖ですね。檻の中で暇を持て余し過ぎて、妄想と現実を一緒にしないでください」
「そうだっけ? まあ、良いのだ。……これから事実にすれば」
「さり気なく有言実行するのは止めて欲しいですね。ともかく、脱出しましょう」
そう言われた竜将軍は、首を曲げてユーゴを見た。
「で、この中途半端な者は誰だろうか」
ユーゴは周囲を警戒しながら、その問いに答えた。
「ユーゴ・ウッドゲイトだ。魔王殺しの犯人と言えば、知ってるだろう」
途端に、竜将軍の気配が変わった。鋭い目がさらに吊り上り、僅かに金髪が逆立った。いつでも飛び掛れるような体勢になる。
「お前が、ゼルヴァーレン閣下を――――」
燃えるような金色の瞳が、強烈な怒気を持ってユーゴを射抜く。
ユーゴは誰にも気付かれないように、右手の短剣を構えようとした。
竜将軍がゆっくりと手を振り上げた。
それと同時に、ユーゴが身体の前に短剣を出そうとして、出せなかった。
「うん」
竜将軍の手が、ユーゴの肩に置かれた。
「閣下の《魔玉》を胸に嵌め込んでいるのが、まさにその証拠だ。誇りに思え」
「知っていたのですか」
シアンが安堵した様子で言った。
「いや、初対面だけどな。その《魔玉》が誰のものかくらいは、気配でわかる。……おっと、自己紹介が遅れたようだ。私は竜将軍をやっていた、ティルア・アイブリンガーだ。もう階級など意味を成さんがね。ところでユーゴ」
「何だ……ですか」
ティルアは屈託なく笑った。ユーゴの肩に置いた手を放す。
「ははは、敬語は無用だ。私は色んなことを気にしないから。それより、頼みたいことがある」
「……何だろう、手短にしてくれ」
ユーゴは頷きながら、短剣を腰の鞘に戻した。
その間も、周囲を警戒することは怠らない。いつ兵士に見つかるかわからない状況で、これ以上の時間を費やすことは避けたかったが、竜将軍の頼みを無碍に断ることは出来ない。
敵軍だったとはいえ、将軍職の者に敬意を払わないわけにはいかないからだ。
息を呑んで、頼みが口に出されるのを待つ。
「ゼルヴァーレン閣下とユーゴで、妄想しても構わないか?」
「は?」
彼女が何を言っているのかわからないユーゴは、真剣に考え始めた。
悩んで頭を抱えるユーゴと、輝く瞳で答えを待つティルアだった。それは、彼女がシアンに頭を叩かれるまで続けられたのだった。
「……いい加減にしなさい」
「すまん、姉上。ちょっと我慢が出来なかった」
「もういいです。では、逃げます」
「いや、頼み事は本当にあるんだ」
あまり信じてない目で対応したシアンだったが、ティルアの表情に何か思い当たったのか、仕方なく応じる。
「はぁ、では聞きましょう」
「うん。実は、ここの指揮官に用がある。空に散った部下たちの誇りを掻き集めていたようでな。取り返さねば私は逃げられない」
「誇りを?」
眉を顰めるシアンだった。
ユーゴは顔を俯かせる。
魔族の誇りは、言うまでもなく《魔玉》だ。《魔玉》は魔術の原料に使われ、竜種をも殺す武器になる。必死になって集めもするだろう。高値で取引されているというのも、納得の出来る話だった。
そして、ティルアの気持ちもわからないでもない。部下の誇りを敵に奪われるのは、自らを辱められたのと同じように苦しいのだ。
それは、仲間の遺体を切り取られて晒されたのと同義だ。
「気持ちは理解しますが……」
迷っているシアンが、ユーゴに視線を向けた。
「わかった」
ユーゴは言った。
「その代わり、脱出に竜種の力を借りたい。そうでないと、七百人近い大部隊を、三人で相手にすることになる」
「ほぅ、力を借りるとは、一体どういったことだろう」
ティルアは、やや挑戦的な顔になって言った。人間を見下す傾向のある魔族としては、これが当然の態度だった。
「まず、出来るだけ速やかに指揮官用の天幕を制圧する。《魔玉》を回収したら、ティルアは完全変貌してくれ。後は、陣地に配備されてる魔玉誘導式バリスタを薙ぎ払ってから、飛んで逃げる」
「それが妥当だろうな。……飛ぶことに関してだが、逃げるときは、そこの檻に入ってくれると助かるぞ」
彼女は、いままで自分が入れられていた檻を示した。
「檻ごと持って飛ぶのか。重くないか?」
ユーゴの質問に、ティルアは目を細めた。口を開く気はなさそうだった。
代わりにシアンが助け舟を出した。
「大丈夫です。ティルアの言う通りにしてあげてください」
「あ、ああ。それならいいけど」
全員が納得したところで、ティルアが言う。
「ユーゴに質問したい。バリスタを薙ぎ払え、と言ったが、それは砲兵を巻き添えにして構わん、ということなのだろうか」
「巻き添えにしないで済むなら、それで頼みたい。だが、無理なことも知っているさ。……俺に妙な気は使わないでいい。俺たちが気を使っても、ここの兵士が気を使ってくれるとは限らないからな」
ユーゴは真面目な顔で言った。
設置された魔玉誘導式バリスタだけを狙い打ちにすることが不可能であることくらい、言われなくてもわかることだった。人間が人間を敵にすることの覚悟を試したのだろう。
ユーゴが無言で手を出した。
初めは理解できなかったものの、それが握手を求めるものだと気付いた ティルアは、軽く笑いながら彼の手を握った。
「承知したよ」
すると、彼女の傷が急速に治癒されていった。
「……お、お?」
不思議に思ったティルアが身体前面の布を捲ると、墜落の原因となったバリスタの被弾箇所が、跡形もなく綺麗になっていた。
「閣下の『永劫回帰』か、凄いな」
ティルアが面白そうにして喜んでいると、またシアンに頭を叩かれていた。
「……今度は何だろう、姉上」
「全部見えていますよ。一応、竜将軍なのですから、しっかりしてください」
「姉上も見えているではないか」
「私は大事なところは隠せているので問題ありません」
ユーゴは彼女の傷が治ったことを知ると、握手をやめて身体の向きを変えた。
姿勢を低くして、静かに天幕の傍を歩いた。二人も同様にして後を追う。
指揮官用の天幕は、周囲のそれよりも頑丈な造りになっていた。防水のために皮張りとなっている。
短剣をいつでも抜けるようにして入り口へ近づき、皮布を掻き分けて侵入した。
内部はそれほど広くもなく、机と、ベッドと、荷物が転がっているだけだった。
ユーゴはベッドに近づき、布団の膨らみを確認した。布団を捲り上げようとして、全身が総毛立った。
「罠だ!」
ユーゴが短く叫ぶと、机の下から人影が躍り出た。一番後ろにいたシアンに襲い掛かる。
「くっ」
シアンは手を突き出しながら後退したが、人影は彼女の手を捉えて、さらに踏み込んできた。魔族でも比較的柔らかい部位である眼球を狙い、指が突き出される。
ユーゴが素早く短剣を投擲した。
「ぬぐぅっ!」
男の声がして、人影が蹲った。その隙を見逃さず、シアンがその男を拘束する。ティルアは男に近づき、胸倉を掴んだ。
「《魔玉》は何処にある?」
「く、ははっ、魔族などに答えるかよ」
己に突き刺さった短剣の柄を掴んだ男は、引き抜こうとしてユーゴに止められた。
「では、人間になら答えてもらえますか。オルフォフ中佐」
「君は――――そうか。ウッドゲイトか。王都での顛末は聞いている。君を知る者ならば、到底信じられる話ではなかったのだが、まさか、魔族と通じていたとはな。……魔族の捕虜を助けるために、私の部下五名を殺したのも君だな」
「はい、間違いありません」
「残念だよ、本当に」
オルフォフは歯噛みしてから、ユーゴを見た。
「……魔族の味方をするのなら、注意しておけ。まだ戦争は終わっていない」
「どういうことですか」
「グレンフル騎士団長とカティーナ姫の婚約が決まった。国の実権は、既にグレンフル騎士団長のものだ。そして彼は、魔族の全滅を望んでいるんだよ」
口端から血を流し、オルフォフが笑う。
「明日に予定されていた竜将軍の処刑を皮切りに、エトアリア王国軍が全力で魔王国に進撃を始める。……徹底的な虐殺が始まるぞ」
「――――っ」
ユーゴは、鉄格子越しに言われたジョアンの言葉を思い出した。その意味がようやく現実として理解できたのだった。
「私の国、か。そういうことか」
そう彼が呟いたとき、オルフォフが血を吐いて顔を歪めた。
「がはっ……君は、もう、人間の敵になってしまった。人間と相容れぬ存在になってしまった。我々は、決して君を許すことは無いだろう」
「…………」
ユーゴは悲しげな顔をして、オルフォフを拘束しているシアンを下がらせた。ティルアは黙って胸倉から手を放した。
オルフォフはよろめきながら立ち上がり、ユーゴを睨んだ。
「集めた《魔玉》は、そこの荷物の中にある……人を裏切りたくば持って行け。私はそれを、全力で阻止するっ! 魔族の味方をする人間を、決して許さない!」
彼は右胸に短剣を刺したまま、一歩だけ歩いた。短剣は肺を貫いており、致命傷だった。
オルフォフの膝が落ち、倒れそうになったところを、ユーゴが受け止めた。
「俺は、誰かに許されたい訳じゃない」
胸に刺さった短剣を引き抜いた。傷口から血が溢れる。
オルフォフがこれ以上苦しまないように、ユーゴは止めを刺した。
その瞬間、天幕の入り口が開いた。
「大変です、中佐! 捕虜が逃げ出して――――」
将官らしき軍服の兵士が、目を見開いて動きを止めた。
ただその場面だけを見れば、ユーゴがオルフォフを刺し殺し、捕虜だった魔族二人と一緒にいるということになる。
「き、貴様はユーゴ・ウッドゲイト! なんてことを……くそっ」
軍服の兵士は急いで逃げ出した。
その後を追っている暇も無いので、ユーゴは短剣を鞘に収めた。
「《魔玉》を手に入れたか」
「はい、確認しました」
シアンが麻袋を持って立っていた。どこか不安そうに見えたのは、ユーゴの気の所為だったのかもしれない。
ユーゴはティルアに向かって言った。
「じゃあ、頼む」
「まかせておけ。……では先に、檻に行って欲しい。私が完全変貌するときに近くにいると、踏み潰すかもしれないからな」
「わかった」
ユーゴを先頭にして、二人は天幕から飛び出した。
戦鼓が鳴らされ、陣地全体が騒がしくなってきていた。眠っていた兵士が飛び起き、槍を握ろうとしている。
檻に向かう途中、何人かの兵士に気付かれた。
「こっちにいるぞ!」
武装を終えた兵士から順に、檻の方へ駆けつけていた。
ユーゴとシアンは走り抜け、檻に辿り着く。檻の中に入って、扉を閉めた。
「檻の中に逃げ込んだぞ! 槍で突き殺せ! 殺害許可は出ている!」
檻が兵士の群れに囲まれた。
何人かが部隊長の命令に従って隊列を組み、檻に向かって槍を構えた。
そのときだった。
指揮官用の天幕が引き裂かれた。大気を叩きつけるようにして羽ばたかれた翼は、その巨体に相応しかった。
闇を切り裂き、天を突くように現れた竜種。
誰もがその姿に怯えた。
破壊の権化にして、最強種の魔族。
威風堂々たる殲滅の魔物は、大きく口を開いた。肉をすり潰すためにあるような乱杭歯が見えたかと思うと、喉の奥が僅かに光った。
――――光線の奔流が大地を斬る。
音と破壊が、後から遅れてやってきた。熱風が吹き荒れ、大地が溶けて赤熱し、瞬く間に火が燃え広がった。
光の直線状にあったものは、すべて無くなっていた。
200人の砲兵と、100基の魔玉誘導式バリスタが、一瞬で蒸発したのである。
生き残った兵士たちは、ただ呆然と被害の状況を見つめているだけだった。我に返った者から順に、逃げ出していった。
完全変貌したティルアが、翼を羽ばたかせて飛んだ。
檻の上まで来ると、両腕で檻を掴み、一気に飛び上がった。
弓が届かない上空まで行くと、巨大な口を開いて言った。
「さて、何処に行こう。このまま本国に帰ろうか」
不思議なことに、彼女の声は人の形をしていたときと変わっていなかった。
ユーゴは、地上に広がるファルクラン陣地の被害を見つめながら言った。
「待ってくれ。その前に、少し話がしたい。案内するから、フールア村に行ってくれ」
ティルアはユーゴを眺めた後で、シアンを見た。
「ええ、言う通りにしてください」
「わかった、姉上」
竜種は羽ばたき、ユーゴが指さす方へ進路を向けた。
夜空には月が浮かび、大地に影を落としていた。