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勇者辞めました  作者: 比呂
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失意と絶望


 ユーゴは、穏やかに流れる小川の傍に屈み込んだ。透明な水の中に手を差し込むと、川の底にいた小魚が逃げる。


 両手で水を救い上げて顔を洗った。次に腰の短剣を抜き、顎に刃先を当てる。皮膚を傷つけないように、刃を滑らせた。

 剃られた髭が小川に落ちて、川下に流れていく。


「……ふぅ」


 髭を剃ったユーゴが、川面に映った自分の顔を確かめた。見る限りでは、剃り残しは無さそうだった。沐浴は、一日前に済ませたばかりである。


 ユーゴが立ち上がって、短剣を鞘に戻した。大きな背伸びをして、ここまで来たことを感慨深く思った。

 城から出て四日間、移動と野宿を繰り返し、故郷の近くまで辿り着いていた。


 通りすがりにも街や村はあったが、手配書が回っていることを警戒して、迂闊に立ち寄れなかった。

 少しばかり遠回りすることになったが、それも済んだことだ。


 見覚えのある懐かしい風景が、ユーゴの視界に入ってくる。

 そこはフールア村と呼ばれ、村人全員が顔見知りの、とても小さな村だった。

 行商の人間も寄り付かず、名産物など何も無い。自給自足が精一杯の寒村で、ユーゴの故郷でもあった。


「久しぶりだな」


 記憶と何ら変わることの無い山々の形が、何故か彼には嬉しかった。ユーゴが兵士になって以来、帰ってくるのは初めてのことだった。

 フールア村の入り口前で、小さな水車が回っていた。木の軋む音をさせながら動き続けている。

 長年の風雨に晒されたお陰で、見事に風化していた。


 ユーゴは、父代わりだった初老のルースと、水車小屋へ粉引きに来たことを思い出す。

母代わりのアラベラに、よく頼まれていたことだった。

 彼は目を閉じ、水車小屋の光景を心に留めた。


「もう、見ることも無いだろうし」


 苦笑いを浮かべ、歩き出した。

 すると、点在する畑や果樹園に気付いた。行く先を変えて、横道に足を踏み入れる。


 実家に帰る前に、農園の方に寄ってみようと思ったのだ。

 育ての両親に会う前に、遠くから一目でも見れないか、という淡い期待を抱いていた。

 草の生えた道を、感慨深げに歩く。


 会えるかもしれない、という期待が、気持ちを逸らせた。

 黙々と歩を進めると、積まれた石垣の向こうに、老夫婦が管理している葡萄畑が広がっていた。

 畑に人の気配はなく、どこか閑散とした雰囲気を受けた。あまり手入れが行き届いていないようにも見える。


「じいさん、歳かな。腰でも悪くしたか」


 ユーゴは少し心配になった。

 しかし、充分な仕送りは果たしていたのだ。村で生活する二人くらいなら余裕で養える額だった。歳を取って畑の手入れが悪くなっても、生活には問題ないはずだと考えた。


 葡萄畑から目を逸らし、再び元の道を帰る。水車小屋にまで戻って、村の入り口まで歩いた。

 杭と蔦で作られている低い柵で囲われた、小さな村だった。

 ユーゴは自分が住んでいた家に向かおうとする。


 その途中で、丈の長いスカートにエプロンを付けた中年の女性が、子供を遊ばせていた。隣では、藁で編んだ茣蓙の上で、豆を干しているようだった。

 女性はユーゴを見るなり、不審そうな視線をよこした。

 こんな田舎の小さな村にユーゴのような男が入ってくれば、警戒されるのは当然のことだった。彼は出来るだけ友好的な表情を作って挨拶した。


「どうも、こんにちは」

「はいよ、こんにちは。……ところでお兄さん、何の用事だい? 言っちゃなんだけど、この村にゃ年寄りくらいしかいないよ」

「その年寄りに会いに来たんだ」

「へぇ、それじゃあ村の人間かい。どこの者だよ」

「ウッドゲイトだ」

「……そ、そうかい。あんたがねぇ」


 ユーゴの名前を聞いた途端、中年の女性は目の色を変えた。取り繕うような笑顔をして立ち上がり、遊んでいる子供を捕まえた。

 すると、干している豆も集めずに、家の中に入ってしまった。


 手配書が回っているのか、と思ったユーゴだが、それにしては変な反応だった。犯罪者に怯えているというより、何かを隠しているような印象を受けた。

 嫌な予感がしたユーゴは、足早に実家へ向かった。

 それほど大きくも無い、木造平屋建ての家が見えてくる。

 建物自体には風化している様子もなく、空き家になっているわけでもなかった。屋根の軒下にある花壇などは、ちゃんと手入れがされていた。


 安堵の溜息をついたユーゴは、家の前に立った。

 何と言って家に入ろうか、少し悩んだ。だが、結局は何も思い浮かばず、扉を数回ノックした。


「……?」


 しばらくノックを繰り返しても、反応が無い。

 農園は先に見てきたので、留守である可能性はかなり低いはずだった。どこかに旅行へ行っているとは思えない。


 ユーゴが首を傾げていると、隣の家から、見知った顔の女性が現れた。壮年の女性で、小さい頃に何度か世話になった記憶があった。


「えっと……お久しぶりです、ベニタさん」


 最初は目を細めて難しい顔をしていたベニタだが、すぐに驚いた顔をして近づいてきた。


「まあ、ユーゴちゃんかい? 久しぶりだねぇ。大きくなって」

「はい、ベニタさんもお元気そうで」


 ユーゴが照れくさそうに笑っていると、ベニタが内緒話をするように声を小さくした。


「大変だったみたいだねぇ。ユーゴちゃんが魔王と戦ったことは……村中で噂になってねぇ」


 彼女の表情から察するに、良い話ではなさそうだった。ユーゴは気の無い相槌を打つ。


「そう、ですか。それじゃあ、その後のことも?」

「まあねぇ。この村は勇者出身の村だと有名だったからさ。そういう情報が回ってくるのも早いんだよ。……言いにくいんだけど、ルースさんのところも、嫌がらせを受けてたみたいでねぇ」

「え――――」


 ユーゴは、頭を殴られたような衝撃を受けた。

 少し息苦しくなって、喉の調子を整える。彼は、育ての親が嫌がらせを受けていたときの様子を詳しく聞きたかったが、声が上手く出せなかった。

 代わりに、ベニタが言葉を続ける。


「相当酷かったみたいだよぅ、狭い村だから、村中が敵みたいなもんさ。あたしも何とかしてやれればよかったんだけどねぇ」


 呆然とした様子で、彼女の言葉を聞いた。言葉は耳に入ってきたが、意味として理解することに時間が掛かった。

 ユーゴが何も言わないで立っていると、ベニタは周囲を見回して言った。


「……注意しなよ。ユーゴちゃんが帰ってきたのを知ったら、村の人間が何するかわかったもんじゃないからね。早く村から出て行った方が身のためだよ。じゃあね」


 何かを恐れるように、ベニタは隣の家に帰っていった。

 一人になったユーゴは、再び扉と向き合った。ノックしようと手を伸ばし、途中で止めた。その手で、扉を開けるための金属環を持つ。


 ゆっくりと引いた。鍵は掛かっていないようだった。

 蝶番が、嫌な音を鳴らしながら動く。


 扉が開いた。


 懐かしい居間が、そこにあった。


 テーブルの上に、枯れた花が刺さった花瓶が飾られていた。手製と思しき、くたびれたテーブルクロスが敷かれている。


 もう何十年も使われていそうな食器棚には、蜘蛛の巣が張っていた。

 台所の床には、僅かに埃が積もっている。


 何処からか、木の軋む音が聞こえてきた。


 彼は、音のする方へ身体を向けた。


 安楽椅子に座って揺られながら、ルースがパイプをふかしている様子を思い浮かべたユーゴだった。


 木の、軋む音がする。


 床を踏み鳴らして、ベッドのある寝室へ行った。




 老夫婦がいた。



 ――――天井の梁から、ぶら下がった状態で。



 木の、軋む音がする。


「――――」


 信じられなかった。


 わずかに、二人は揺れていた。


 彼らの足元には、倒れた椅子が放置されていた。


 まるで物のように、二人が揺れる。


 木の、軋む音がする。


 捩れている縄が、ゆっくりと回転し、それに合わせて二人も回転する。


 ルースの腫れ上がった顔が見えた。

 アラベラの零れ落ちそうな眼球が見えた。


「うあ、ああ、あああああああぁああぁあぁぁあぁあああああぁああぁあ――――」


 ユーゴの心の中で、大切な何かが砕けた。


 世界が反転したように、感じた。


「あああぁ、ああああぁあ、いぁああああああっ」


 叫びながら、涎を振り撒き、蹲った。

 額を床に捻り込み、血が出るのも構わずに、何度も頭を叩きつけた。


「ぁぁあぁあぁ……」


 叫びが止まり、静かになった。


 木の、軋む音がする――――。


 ユーゴは怯えるように、飛び跳ねて駆け出した。

 扉を突き飛ばすようにして開け、家から出た。

 とにかく激情のままに走り、奇声を上げる。


 涙は出なかった。


 心の中にいる冷静なもう一人の自分が、冷めた気持ちで、暴れるユーゴを見つめているようだった。


 苦しくはない。

 痛くもない。

 ただ、何も考えることが出来ないだけだった。

 何かの拍子に意識の歯車が噛み合わさってしまえば、どうしようもないものが溢れ出すことを予感していた。


「があぁぁぁぁぁっぁあうあぁあああっ」


 ユーゴが叫んでいると、石が飛んできた。


 村人たちが先の尖った農具を持ち、今にも襲い掛かってきそうだった。

 知っている顔もあった。

 知らない顔もあった。


 ただ、ユーゴにとって、彼らが人間には見えなかった。


「あぁぁ、やめ、やめぇ……」


 止めてくれ、と言葉にしようにも、口がもつれた。


 ゆっくりとにじり寄ってくる村人たちがその言葉を聞き入れるはずもなかった。

 憎しみと怨嗟の声が響く。

 突き出されたシャベルや鍬が、いまにも飛んできそうだった。


 ユーゴは、反射的に逃げ出そうとした。


 拳大の石が、ユーゴの背中を打つ。痛みで背中が弓反りになる。


 歓声が上がった。


 じりじりと、村人たちが間合いを詰めてくる。

 石を投げられた。


 村人たちの持つ農具の先が、日光を反射して光った。


 ユーゴは走った。


 村人のいない場所を目がけて、全速力で駆け抜けた。


 走った。

 走った。

 走った。


 息が切れて、足が前に出なくて、喉が詰まって、前が見えなくなって。


 ――――世界が真っ白になった。


 どれだけ走っただろう。


 どこに辿り着いたのだろう。


 どうすればよかったのだろう。





 誰も答えてはくれなかった。

 答えなどなかった。


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