痛みと苦しみ6
ジョアンに捕縛されてから、二日が経った。
独房に押し込められたユーゴは、薄暗い牢屋の中で、ひたすら何も考えないでいた。そうしているうちに無精髭が目立ち始め、気付けば服も相当にみすぼらしくなっていた。
風呂に入れず、沐浴も出来ない生活が続いていたため、体臭がひどく匂うようになった。肌を掻くと、垢が剥がれた。
淡々と、時が来るのを待つ。
いま、ユーゴの裁判が行われているはずだった。弁護人など形式に過ぎず、最初から判決の決まっている形だけの裁判であることは、ユーゴも承知の上だった。
裁判を行うのは貴族であり、貴族を束ねるジョアンが国家反逆罪を言い渡したのだから、結果は見えていた。
その中で幸いと言えたのは、粗末とはいえ、食事は出たことだ。
死刑で殺す前に餓死されてはいけない、という思惑があるのだろうが、それでもありがたいことに違いは無かった。
二日目の夕食を終え、器の載ったトレイを鉄格子の隙間から外へ出した。
廊下を叩きつけるような足音が響き、人影が近づいてきた。
いつもの看守だとユーゴが思っていたら、影の長さが違っていた。
「おめでとう、ユーゴ・ウッドゲイト」
微笑を湛えたジョアンが、ゆっくりと歩いてやってきた。
「貴様の死刑が決まった。明日の昼には、城前の広場で断頭台に首を乗せられているだろう」
ユーゴは顔を上げもしなかった。ずっと床を見つめたままだった。
「おや、口を利くことまで忘れてしまったのか。それとも、恐怖のあまり身動き一つもとれんのか?」
ジョアンが含み笑いを漏らす。
それでもユーゴは微動だにしなかった。
「……ふん、精神でも病んだか。ならば、この贈り物も無駄だったか」
憮然とした表情になったジョアンが、手に持っていた荷物をぶら下げて見せた。鉄格子の間を通し、動かないユーゴの近くに落とした。
「貴様の短剣だよ。せめて自害させてやろうと思って持ってきたのだ。感謝しろ」
ユーゴが視線を動かした先には、ホルスターに納められた、愛用の短剣が落ちていた。
二の腕ほどの長さもある、片刃の鋭利な短剣だった。スコットの道具屋で手に入れた特注品である。特殊部隊隊長だった頃の給料で、半年分の値段がしたものだ。
随分と握っていなかったために、とても懐かしく思えた。
その様子を見逃さなかったジョアンが、嗜虐的な笑いを見せる。
「刃物が手に入って嬉しそうだな、犯罪者」
「……ああ、嬉しいよ」
ユーゴは素直に感想を述べた。
あまり面白くなさそうに、ジョアンが片眉を上げる。
「この気狂いめ。やはり特殊部隊の男とは気が合わないな。……では、明日の朝までに自決しておくといい。そうでなければ、断頭台に殺されろ」
ジョアンは背を向けた。そして、思い出したように背中越しで言った。
「そうだ、言い忘れていたよ。私は、カティーナ姫と結婚する。これでようやく始まるのだ。――――私の王国が」
高笑いを残し、騎士団長が去っていった。
ユーゴは遠ざかる声を目で追い、何事も無かったかのように顔を伏せた。
落ちていた短剣を拾い上げ、柄を持って刃を抜く。
ヴァレリア城から帰ってきて手入れもしていないのに、刀身にはいつもの輝きがあった。
刃にも歪みや毀れは無く、業物であることを証明し続けていた。
「……自害、か」
手に持っていた短剣を素早く半回転させ、自らの心臓に刃先を向けた。後は、強く押し込むだけで、死に至る。
この短剣ならば、刃を横に寝かせなくても、肋骨すら切り裂いて心臓を貫くだろう。
しかし、短剣が押し込まれることは無かった。
死ぬことが怖いわけではない。
特殊任務で数々の死線を乗り越えてきたユーゴにとって、自分の死とは任務の失敗、それだけだった。
自害できない理由は、彼も分からなかった。
国のために死ぬでもなく。
誰かのために死ぬでもなく。
「ああ、そうか――――」
ユーゴは擦れた笑いを見せた。
もう魔王は君臨せず、国は平和となるだろう。
――――勇者など、必要無い。
そんな自分に何が残っているのかとも思う。
戦友は既に無く、国からは死刑を言い渡されている。
心残りといえば、育ての親くらいなものだった。
「そう……だな」
深く頷くユーゴだった。
そして、自分を育ててくれた老夫婦を思い出す。
このまま自分が生きていれば、迷惑をかけるかもしれないと思った。
元勇者で大罪人の関係者などと露見すれば、道具屋のスコット以上に苛烈な仕打ちを受けるかもしれなかった。
考えていると次第に、育ての親の安否が心配になってくる。
ユーゴが除隊になったので、仕送りさえも止まっていることを思い出した。
ユーゴは手にしている短剣を見つめ、これを形見にすることを決めた。いまある唯一の財産を渡そうと思った。
その後、誰にも迷惑をかけないよう、自害しようと思った。
自分の心の内だけに聞こえる声で呟く。
「これで、『勇者』は終わりか」
彼は悲しみも感慨も抱かず、静かに目を閉じた。
目的は達した。
そもそも、ここまで生きて来られたことこそ幸運と言えた。
「ありがとう」
誰にとも無く感謝して、頭を下げる。
そうしていると、ユーゴの耳に、聞きなれた足音が聞こえてきた。
看守が食事の終わったトレイを下げるためにやってきたのだ。
看守は鉄格子の前まで来ると、屈んでトレイを手に取った。顔を上げて、ユーゴの様子を見ようと視線を這わせる。
ユーゴは、ホルスターから外した短剣を、振りかぶった。
「な、お前、どこから――――ぐゅっ」
看守が気を失って、鉄格子にもたれかかるようにして崩れ落ちた。
ユーゴの投げた鞘入りの短剣が、看守の鳩尾にめり込んでいたのだ。。
ユーゴが鉄格子に近づき、投げた短剣を回収した。ついでに看守を引き寄せ、牢の鍵を奪った。
牢屋の錠前を外すと、一旦倒れている看守を引きずり込んだ。看守の装備と服をすべて脱がせ、ユーゴの着ている服を着させた。
残った看守の服と装備をユーゴが身につけ、鉄格子から外に出た。鍵をかけて、看守室に向かう。
扉を開くと、看守の二人がテーブルに向かい合って左右に座り、札遊び(カードゲーム)をしていた。ユーゴの顔も見ずに手招きをしてくる。
「おう、お疲れ。お前も混ざれよ」
「へへへ、負けた分は取り戻すぜぇ」
ユーゴは看守の二人にあっさり近づき、右の看守の首筋に手刀を打ち込んだ。
「お、おお?」
もう一人が異常に気づくも、ユーゴは看守が携帯している棍棒を投げた。残った看守は額に棍棒を受けて蹲った。
「すまない」
聞こえるはずの無い侘びを入れたユーゴは、蹲る看守の首を絞めて昏倒させる。
看守室から外へ続く扉に手をかけた。開くと目の前に、上っている階段があった。
ここまで連れてこられたときの記憶を思い出したユーゴは、最も危険の少ない道順を考える。
階段を上り、広間を抜けてから城外へ脱出し、衛兵の目を潜り抜けて城下町へ行くのが上策だと思われた。
城下町へ出てしまえば、問題はない。監視の目は城壁の外ばかりに向いているので、内側から逃げ出すのは忍び込むよりも容易だからだ。
意を決すると、ユーゴは腰のホルスターに短剣を装着した。そして、即座に行動へ移る。
音をさせずに階段を駆け上がり、階段の一番上で警備していた衛兵を当身で気絶させた。廊下に出て、いまが夜であることを確認する。
食事が出ていたことで、現時刻は予想通りだった。
廊下の周囲を見て人がいないことを確認し、屈みこんで床に耳を当てた。聞こえてくるような足音は聞こえなかった。
物陰や死角に潜みながら廊下を抜け、広間の前に差し掛かる。
広間の中には、衛兵が一人もいなかった。普通なら、一人や二人は配置していてもおかしくない状況である。
ユーゴは、微かに香水の香りを嗅ぎ取った。それが誰のものであるか、思い出すことに苦労しなかった。
腰の短剣に手を添えると、堂々と広間に姿を曝け出す。そのままゆっくりと広間の中央へ進み、相手が出てくるのを待った。
すると、広間の端にある柱の影から、騎兵剣を腰に下げたジョアンが現れた。
「やはり、脱獄したようだな」
「ああ」
ユーゴが頷くと、ジョアンが歓迎するように両手を広げた。
「期待通りに動いてくれて感謝しよう。これでこそ、短剣を渡した甲斐があったというものだ」
ジョアンは騎兵剣を抜いて片手に持ち、刺突剣のように半身に構えた。
「脱獄した者は、ここで斬り殺されても構わないだろう。なあ?」
「殺されるわけにはいかないな。まだもう少し、やることが残ってる」
腰の短剣を抜いたユーゴは、短剣を持った手を突き出すようにして、低く構える。
頬を歪めたジョアンが、喉の奥から搾り出すような笑い声を上げた。
「くくくっ、いいぞ。抵抗しろ。命を懸けて私に向かって来い……踏み潰してやる」
喋りながら、ジョアンが間合いを詰めてきた。
騎兵剣を突き出したように構えているため、かなり間合いが広かった。短剣のユーゴとしては、正面から攻め難い。
ユーゴが剣線をずらす為に、横へ動こうとしたときだった。
空気を切り裂く音と共に、鋭い切っ先が突き出された。
辛うじて狙いを外すことが出来たユーゴは、サイドステップで横に飛んだ。嫌な予感がしたので反撃に移ろうともせず、もう一度横に飛ぶ。
追撃の斬り払いによって、看守服が捕らえられる。肩の部分が、一直線に裂かれていた。
「ふっ」
騎兵剣を構えなおしたジョアンは、再び間合いを詰めるように動き出す。
ユーゴは冷静に、相手の動きを観察していた。
彼が考えたところ、ジョアンは刺突を主体とした攻めが基本だった。先ほどの突きなど、刺突剣の戦い方を飽くほど修練したと思われる鋭さである。
それに加えて、騎兵剣が難敵だった。
切っ先は槍状に尖っており、片刃のために軽くて扱い易い。
そしてこの剣は本来、馬上で扱えるように設計されているため、突きにも斬りにもバランスが良かった。
流石に、騎士団長を名乗るだけのことはある強さだった。真正面から敵を打倒するために磨かれた剣技だろう。
対するユーゴは、間合いの短い短剣を持ち、暗殺を主目的とする特殊部隊の動きをしている。
互いに積み上げてきたものが違うのだ。
まさに、明暗分かれた剣質の差が、如実に現れていた。
いま二人が行っている一対一での決闘は、ジョアンが有利なのは無理からぬことだった。
ただし、ユーゴが弱いわけでは無い。
「……貴様」
ジョアンが忌々しそうに呟いた。ユーゴの動きが、急に捕らえ難くなったのだ。
剣技で負けるなら、他のところで挽回するより他にない。
ユーゴは足音を消し、床を滑るような動きを見せた。
広場の暗い場所を選んで移動し、自分の姿を闇に紛れさせる。
突然、ジョアンの視界からユーゴが消えた。
軽い恐慌状態に陥るジョアンだったが、後ろに飛んで間合いを取る。
ユーゴは追撃をせずに、ゆらゆらと闇の中に身を置いていた。いつの間にか、短剣の構えは自然体になっている。短剣の刀身が光を反射しないように、身体で隠しているようにも見えた。
「流石に、暗殺を得意とするだけのことはあるか」
ジョアンは気を入れなおして、剣を構えた。
ユーゴが消えた理由については、既にわかっていた。しかし、わかっていても避けようがなかった。
足音もさせずに動かれると、気配を読みづらい。暗闇を選んで動かれるのだから、それは尚更だった。
その上、ゆっくりとした横の移動に目を慣れさせておいて、急激な縦の移動をされると、視線が追いつかなかった。
視覚の盲点を突いた、暗殺者の手管である。
知らないうちに間合いを詰められ、喉を掻っ切られる。そんな想像さえ簡単に脳裏へ描くことが出来るだろう。
「良いな、実に良い! それでこそ殺す価値がある――――」
ここにきて、ジョアンの集中力が増した。瞳孔が最大限に開き、暗闇を昼間のように見透かした。
騎兵剣を構えたまま、静かに剣先でユーゴを捉え続ける。
「…………」
動きを見切られ始めたユーゴは、無音歩行に緩急を織り交ぜた。わざと足を止めて攻撃を誘っても、ジョアンは攻撃をしてこなかった。
まるで息をすることすら忘れているように、相手に動きは無い。
いまなら逃げ出せるか、とユーゴが考えた瞬間だった。
雷光の如く閃いた突きが、いつの間にかユーゴの右肩に突き刺さっていた。
「――――ふん、外れたか」
その傷が致命傷でないことに『気付いた』ジョアンが騎兵剣を抜いて、大きく後ろに下がる。反撃を避けるためだった。
「ぐぅっ、あぁ」
ユーゴは刺された肩を押さえ、歯を食いしばった。
いまの突きは、完全に見えていなかった。身体のどこを刺されていてもおかしくは無い。
連続する意識の間に、無理やり捻じ込まれたような一撃だった。次に同じ攻撃をされても、避ける余地さえ見出せない。
ユーゴが知覚を『騙す』なら、ジョアンは知覚を『凌駕する』。
それはどうあっても、互角と言えることのない格差だった。
痛みに顔を歪めたユーゴは、次の手を必死に考えていた。
短剣のホルスターを投げて牽制し、格闘戦に持ち込むことが最良だと思ったが、いまのジョアンに、果たして通用するのかどうか疑問だった。
しかし、黙って殺されるわけにもいかない。
ユーゴがホルスターを振りかぶる。
ジョアンの構えている騎兵剣の刃先が、僅かに揺れた。
「――――」
「――――」
そのとき、城外から叫ぶような声が微かに聞こえた。声は次第に城へ近づいており、はっきりと聞き取れるまでになった。
「伝令! 伝令! 至急にてお取次ぎ願う!」
城の扉が叩かれる。すると何人かの衛兵が廊下から現れて、急いで扉を開けた。
飛び込んできた伝令兵が、広間にいるジョアン・グレンフルを見つけて報告をする。
「魔族の大規模な反抗作戦の折に、ファルクラン陣地にて竜将軍を捕縛しました! 処分の裁可を願うとの伝令です!」
ジョアンが、ユーゴから目を離さずに言う。
「邪魔が入ったようだな。……まあいい。どのみち、私と貴様が一緒にいるところ見た者は殺さねばならない。こいつらを殺した罪は、貴様に被ってもらうとしよう」
「え、ジョアン……様?」
伝令兵の胸に、騎兵剣が突き刺さっていた。
伝令兵は自分の身体から突き出ている騎兵剣とジョアンを見比べ、不思議そうな顔のまま息絶えた。
冷笑を浮かべたジョアンが、瞳に僅かな憎悪を見せる。彼がユーゴに剥き出しの感情を見せるのは、これが初めてだった。
「思うようにいかない、か……」
その憎悪が、ユーゴを射抜く。
まるで運命に守られたように生き抜く、その存在。
殺しきれない亡霊を見て、ジョアンが言う。
「王国中に、貴様を指名手配しよう。老いた病犬のように逃げまわれ。……万が一にでも、この国に『勇者』はいらない」
指名手配書を利用し、ユーゴが犯罪者であることを国中に広めるために、この脱獄劇が引き起こされたのだった。
無論、ここでジョアンがユーゴを殺してしまっても、不都合はないように工夫されてある。
すべては、ユーゴを『勇者』にさせないための工作だった。彼が『勇者』になってしまっては、ジョアンの理想とする国は誕生しない。
「魔王を殺した『勇者』が、貴様であってはいけないんだよ」
すぐさまジョアンは死体から剣を引き抜き、扉を開けた衛兵に襲い掛かった。
「ぎゃぁ」
「ぐぁっ」
たった二振りで、衛兵たちを斬り飛ばし、物言わぬ肉塊にしてしまった。
ユーゴは衛兵たちを助けられなかったことに唇を噛みながら、逆方向へと走り出した。
「……もう勇者はいないんだ」
そう呟きながら廊下に戻り、窓ガラスを突き破って庭に出る。植木を掻き分けて庭を横切り、伝令兵がやってきたおかげで開いている門を通り抜けた。
暗闇の中、城下町に踊り出た元暗殺者を相手に、追いつける者は皆無だった。
走って逃げる途中、ユーゴは伝令の内容が気になっていた。
「反抗作戦……それに竜将軍か」
未だに魔族と戦闘を繰り広げている事実も知らなかったし、竜将軍といえば、魔族で最高位クラスの大物だった。
魔族にとっての戦いは、未だ終わっていないことに気付かされた。
ユーゴは、魔王のことを思い出した。
出来ることなら、色々なことについて語り合いたいと思った。心の底から、魔王に教えを請いたかった。
街路を駆け抜けながら、ユーゴは自分の掌を見た。魔王の肩に斬り込んだ感触を、まだ覚えていた。
今さらながら、親友になれたかもしれない魔王の死を悼んだ。
しばらく走ると、闇の中にぼんやりと、城下町全体を包む外周城壁が見えてきた。見張りの兵士が三人ほど、巨大な城門の傍に立っている。
走る速度をさらに増したユーゴは、姿勢を低くして駆け抜けた。
ようやく彼に気付いた兵士たちは、槍を構えて叫ぶ。
「賊か!」
ユーゴは勢いを殺さず、最高速のまま、正面にいる槍を構えた兵士へ飛び蹴りを浴びせた。二人はもつれ合って転がり、城門に衝突する。
ユーゴだけが起き上がり、残った二人に向かって突っ込んでいった。
「ひ、ひぃ」
歳の若そうな兵士が、怯えた表情で槍を構えていた。それを庇うように、軍歴の長そうな兵士が剣を抜いた。
「下がれ、新兵じゃ話にならん! 応援を呼んで来い!」
「は、はいぃぃ」
若い兵士は槍を放り投げて、必死の形相で逃げていった。
ユーゴはそれを目で追うだけで、何もしなかった。
剣を持った兵士が、疑わしげな表情をしていた。無論、警戒は緩めていない。それどころか、冷や汗を流していた。
「お前、本当に賊なのか……」
「悪い、そこを通してもらう」
無造作に間合いを詰めたユーゴが、剣を振りかぶった状態の兵士の顎を、拳で打ち抜いた。
兵士が膝から崩れ落ち、うつ伏せに倒れる。
ユーゴは兵士が息をしていることを確認してから、門扉に取り付いた。
門を閉じている巨大な閂を持ち上げようとしたが、片腕ではどうにもならなかった。
右肩の傷が開くことを承知で、閂を持つ。思ったよりも肩の痛みは無かった。
足を肩幅に開いて力をいれ、持ち上げた閂を地面に放り投げた。
門扉を押し開き、人が一人通ることが出来る隙間を作った。城門を潜る前に、一度だけエトアリア城を見上げた。徐々に明かりが灯り、騒がしくなっているようだった。
第二の故郷と言ってもおかしくない王都に別れを告げ、城壁の外に出た。
見つかり難そうな暗闇の物陰を選びながら、ユーゴは小走りで駆ける。
時折、空気を切り裂く音がして、矢が飛んできた。恐らく、城壁の上から兵士が放っているのだろう。
矢は、どれも見当違いの場所へ飛んでいったことから、まだ見つかっていないことがわかった。
背後を振り返って、追手が来ないことを確認したユーゴは、木の陰で立ち止まった。ジョアンに刺された肩を見る。まだ血に濡れている服を引き破り、傷口を確認した。
すると奇妙なことに、傷が塞がりかけていた。
「……変だな、もっと深い傷だったと思ったんだが」
首を傾げるユーゴだったが、傷が浅いことに越したことは無い、と無理やり納得した。一応、引き裂いた布で傷口を巻いておいた。
もう一度、エトアリア城の方角を確認する。騎兵が出てこないことに安堵した。
馬の足で追いかけられると、簡単に追いつかれてしまうのだ。
しかし、いまが夜であることが幸いした。
見通しの悪い夜に騎兵を出すことは、事故によって損害が出ることを覚悟しなければならなかった。
貴重な騎兵の数を減らしてまで、犯罪者を捕らえに出て来る可能性は低いだろう。それに、ジョアンが故意に追手を止めているのかもしれなかった。
ジョアンの言ったことが本当なら、ユーゴを脱獄犯に仕立て上げることが目的だったからである。
どの道、ジョアンの手の内であることに違いなかった。抵抗すら虚しくなるほど、踊らされていることはわかっていた。
ユーゴは再び歩き出した。
夜空を見上げると、煌々と光る三日月があった。
「ああ、綺麗だなぁ」
月光が僅かに夜道を照らし、その先には淡い黄金色の大地が広がっていた。
土を踏みしめる音を聞きながら、ユーゴは夜空を眺めて、故郷までの道のりを歩き出した。