その6
「タ、ターニャ! 陽介! だ、大丈夫ですか!?」
女が突然倒れたのを遠目で確認したカチューシャが、二人の元に駆ける。陽介は慌てて緑色の光も解除しながら言う。
「平気だよ。ちょっと気絶しているだけだから。おでこの火傷だって、一日も経てば跡形もなく消えてなくなると思うし。これがただの火傷なら、今すぐにでも修復されるんだろうけど」
「いや、その……ターニャのこともですけど、陽介は!?」
「俺? 俺も大丈夫だよ。別に大した怪我を負ってない」
「ほ、本当ですか?」
そう言ってカチューシャは陽介の身体中を凝視し始める。そして、その視線が彼の背中に移った時、彼女の顔は青ざめた。目からは涙さえ零れ出す。既視感のある光景。
「ま、また、血、血が出てますよ!? おいしそ……じゃなくて! ご、ごめんなさい。私のせいで、私のせいで」
「今、何を言いかけた?」――いや、そんなことより……。「どうしてカチューシャのせいになるんだ。言っとくけど、俺だってこの人を殺す気はなかったぞ? 頼まれる前から」
「そう、なんですか?」
「ああ。だからもう、泣くなってば。ほら、立って」
陽介はカチューシャを抱き起こし、気絶しているターニャを背負う(それには背中の傷を隠すという意図もあった)。
「背中、痛くないんですか?」
「平気、平気。帰る途中に誰かに傷を見られるよかマシだろ? さあ、もう帰ろう」
「は、はい!」
家に着くまでの間、陽介はずっと辺りを警戒していた。普通に考えれば、ターニャの親がどこかで二人の戦闘を見ていた可能性は高い。陽介にも当然、それが分かっていたから。もし今襲われても二人を守りながら戦い切る自信。そんなもの、彼にはなかった。迎え撃つつもりではなく、すぐに逃げられるように警戒をしていたのだ。
しかし結局、ターニャの親が現れることのないまま、三人は312号室に到着した。
「はぁー、なんとか無事に着きましたね」
緊張から解放されて全身の力が抜けたのか、カチューシャは家へ着くなりへたり込んだ。陽介も、ベッドにゆっくりとターニャを下ろしてから、そのベッドを背もたれにして座り込む。
「……カチューシャ、この人ってやっぱり教会の人?」
「はい。私より九つ年上だったので、吸血鬼に襲われた時にはもうシスターになってましたけど、私と同じ、孤児でした」
「ふうん……」
半端な相槌を打ちながら、陽介はターニャの顔をのぞき込んだ。十九歳のカチューシャより九つ上ということは、三十近い歳になるはずである。しかしベッドで眠る、もとい気絶している女性は――少なくとも陽介の目には――どうみても二十歳そこそこにしか見えなかった。
「ターニャはもう大丈夫なんですか? 目が覚めた瞬間襲い掛かってくるなんてことは?」
「心配無用だよ。親の支配は断っといたから、気が付いた時には正気に戻ってるよ」
「そうですか。それなら良かったです」
戦闘中、ターニャは親による完全な支配下にあった。故に自意識はなく、ただ命令に従うだけの傀儡と化していた。陽介は〝太陽〟の力をもって、その支配を断絶したのである。
「……」「……」
話すことがなくなった二人は沈黙する。徐々に部屋の空気が重くなっていくのを感じた陽介が、何とか現状を打破しようと試みて質問する。
「あ、あのさ、ターニャさんってどんな人なんだ?」
「ターニャですか? ターニャはですね――」
カチューシャは嬉しそうな顔でターニャについて話し始めた。その間、彼女は笑顔を絶やすことなく喋り続けていた。
「――それからですねー、ターニャって、私が眠ってるベッドによく潜り込んで来たんですよ」
「君が潜り込んだの間違いじゃないのか? ターニャさんに甘えようとしてさ」
「違いますよう。ターニャが寒がりだったからですもん。裸同士の方があったかくなるからって言って、私の寝間着まで脱がそうとしてきたのには困りましたけど」
「教会で何をやってんだ! ……話はもうその辺でいいからさ、そろそろ寝ないか?」
「陽介、もう眠くなっちゃったんですか?」
「そうじゃないけど、どの道ターニャさんはまだしばらくは目が覚めないし。どうせなら話の続きは三人でした方がいいだろ?」
「うん、それもそうですね」
頷いて、カチューシャは自分の浴衣に手を掛ける。
――……は?
「何やってんだよ! いきなり!」
陽介は頓狂声を上げながらカチューシャの手を掴み、彼女の動きを止めた。
「何って、着替えるんですよ。流石にこのままじゃ眠れないですから」
「どうして俺の目の前で着替えようとするんだよ!」
「何かおかしいですか?」
心底意味が分からないという顔でキョトンとする少女に、もしやと思った少年が告げる。
「カチューシャ……俺は男だぞ?」
「うぇ!? 冗談ですよね!?」
カチューシャは、本気で驚いたという表情を浮かべ、叫んだ。彼女の盛大な勘違いに大きく落胆した陽介は、深い溜息を吐き、言葉を紡ぐ。
「……見れば分かるだろ?」
「分かりにくいですよ!」
「その逆切れはひどすぎる!」陽介は童顔で、しかも女の子みたいな顔だと言われることが未だによくある。しかし、流石に十九にもなった彼を、本気で女性だと勘違いする者は滅多にいない。「というか、名前で気が付かなかったのか?」
「日本人の名前ってよく分からないですもん!」
「それは、まあ、仕方ないか。じゃあ、幸人さんからは何も聞いてなかったのか?」
「幸人さんからは『陽介くんは男勝りな子』としか聞いてませんでした。だから、女の子だと思ってたんですけど……」
「絶対わざとだ! 遊ばれてる!」――男勝りな男ってなんだよ。『鉄より硬い鉄』みたいなもんか?「それにしたって、一日一緒にいて気が付かなかったのか?」
「先入観があると意外と気付けないものです。びっくりしました」
「ああそうかい……。しかし何てこった。どうするんだ? 女の子との同居だと思っていたからこそ、君も了承したんじゃないのか? 最初から俺が男だって分かっていたら、会いもせずに断っていてもおかしくないもんな」
「それは、まあ、そうかもしれません」
見ず知らずの男のところでしばらく一緒に暮らせと言われて簡単に了承するような女の子はまずいない。カチューシャは世間知らずであったが、常識的な感覚が欠如しているというわけではない。たとえ恩人(=幸人)からの頼みでも、警戒ぐらいするはずである。にも関わらず、彼女は初対面の時から陽介に対して安心し切った相手のような態度を取っていた。これは彼女が、陽介のことを同年代の同性だと思っていたからに他ならない。
「でも、もう知らない仲でもないじゃないですか。私は陽介のことを信用しています。だから陽介さえよければ、まだここに置いて欲しいです」
「そっちがそれでいいんなら、俺は構わないけど」
「ああ、よかったです。では、改めてよろしくお願いします」
「こちらこそ」
二人は正座して向かい合い、お互いに頭を下げた。事情を知らぬ第三者から見れば、結婚初夜の光景に見えなくもない。
「で、カチューシャ、お風呂は? 昨日は入ってないだろ?」
「私はヴァンパイアですから。汚れるっていうことはないんですが」
「ああ、そうだった。っていうかそもそも風呂なんて沸かしてなかったや。じゃあ、俺はシャワーだけ浴びてくるから、その間に着替えておきなよ」
「はい、そうします」
返事を聞いた陽介は、着替えとタオルを持って脱衣所へ向かった。
――瞼は重くないけど、体が重いや。シャキっとしなきゃな。
と決意しながら。
陽介がシャワーを浴び終えて出てくると、寝間着に着替えたカチューシャが、ターニャを抱き枕のようにしてその背中に抱きつき、すやすやと眠っていた。
「今日は着替えてるのか。それにしても……疲れてたんだな、やっぱり」
陽介の言う、カチューシャの疲れとは、精神的なものを指している。ヴァンパイアにとっての睡眠は本来、夜が来るまでのただの時間潰しである。寝ようが寝まいが体力は回復するのだから。しかし、心の疲れを癒せる数少ない手段として、睡眠は重要な意味を持つ。
陽介は二人の寝顔(一人は気絶顔というべきかもしれないが)をしばらく眺めていた。
「親友か」親友という言葉を幾度か頭の中で反芻しながら、彼は十一年前の出来事を思い出す。自分の人生が百八十度変わってしまった日の出来事を。「あの時、俺は由孝の親友である資格があったのかな」