その2
「えーっと、呼び方はどうすればいいんだ? カチューシャ……ちゃんでいいのか?」
突っ立ったまま物珍しそうに部屋中を見渡していたカチューシャに、陽介が問い掛ける。
「私のことはお好きにお呼びください。あなたのことは陽介さんでいいですか?」
「ああ、いいよ。呼びたいように呼んでくれ。いや、待てよ……。君、何歳だ?」
「十九歳です」
「ふーん……」陽介は少しの間考え込み、「誕生日はいつ?」と続けた。
その質問にカチューシャは、
「六月です」
と答えた。直後、間髪を入れずに陽介が言葉を放つ。
「じゃあ呼び捨てでいいな」
「え、なんでですか?」
目を白黒させて陽介を見遣るカチューシャに、陽介は続ける。
「俺は同い年の子には、男だろうと女だろうと呼び捨てにすると決めてるんだよ」
「えーっと、よく分かりませんが、陽介さん独自のルールですか?」
「まあな。で、相談なんだけど、出来ればそっちも俺のことは呼び捨てにして欲しい。仰野でも陽介でも、どっちでもいいからさ」
「それじゃあ……陽介で」
「うん、オーケー。じゃあ、お互いの名前の呼び方はそれでいいとして……、もう少し君のことを聞かせてくれるか? なんせ突然だったからな。君は俺のことを幸人さんから聞いているかもしれないけど、俺は君のことを、名前の他には、ほとんど何も知らない。幸人さんからもっと詳しく聞ければよかったんだけど」
あの人、嵐のように去って行ったし。と、陽介は愚痴るように続けた。カチューシャは「確かに」と笑い、
「いいですよ。信頼関係はまず、知ることからですもんね」
と、陽介の申し出に応じ、自分の素性、過去を語り始めた。
自分がまだ、二本の足で立つこともままならない赤ん坊だった頃、両親が不治の感染症にかかり、働くことが出来なくなったこと。頼れる親戚がなかった二人は、仕方なく自分を教会へ預けたこと。そして。それから一ヶ月もしない内に、その両親は帰らぬ人となったこと。
「なるほど。それだけでも、結構ヘビーな人生を送ってるんだな」
「そりゃあ、赤ちゃんの時の話ですから」
「いや、ベビーな人生じゃなくて……。まあいいや、続けてくれ」
一見、ただカチューシャが天然でボケたように思えるやり取りであったが、その実は極力暗い雰囲気にならないようにしようとする、彼女の気遣いであった。のかもしれない。
「では続けます。本題は、むしろここからですから。何はともあれ、教会に預けられた私はそこで育ったんです。同じ境遇の友達もたくさんいました。……事件が起きたのは、私が十三歳の時です。その日、私たちは山登りをしていました。シスターに連れられて。……そこへ、あの吸血鬼……たちが……」
カチューシャの語調が徐々に弱々しくなっていく。彼女の脳裏には、当時の光景が、否応なく鮮やかに浮かんでいた。カチューシャの喉から、ごくりと唾を飲み込む音が鳴る。陽介はバツの悪い顔になり、追及を止めようとする。
「思い出したくないならそれ以上は――」
「いえ、大丈夫ですから。ちゃんと最後まで話させて下さい」カチューシャは、ふうっ、と大きく息を吐き、気合いを入れ直すように両手で頬を叩いた。「私たちは山で吸血鬼の一群に襲われて、バラバラになってしまいました。幸人さんの話ですと、一人だけはあの山で遺体が見つかったらしいです。それが誰のものなのかは教えてもらえませんでした。『知りたければ自分で調べればいい。知りたくなければその方がいい』と言われて。今も知りません。他の子たちは遺体すら見つからず、遭難として処理されたそうです。皆、あいつらに攫われたんだと思います。私みたいに」
「そうか……。しかし、その教会は相当問題になったんじゃないのか? だって、預かっていた子どもたちもシスターも皆そんなことになって」
「そりゃあ、大問題になったそうですよ。もちろん、私は幸人さんから聞いて始めて知ったんですけどね。まず、マクシム教会……あ、それが私たちのいた教会の名前なんですけど。とにかく、その教会自体は今でもあるそうです。ただ、当時の関係者全員にはそれ相応の処分が与えられるはずだった。でも、その前に全員が教会から去ってしまったそうです。自ら自分たちを破門したとか。やっぱり、責任を感じていたんでしょうね」
自らを破門する。それは、一度信じた神を否定することになりかねない行為である。
「これから聞くことは、言うのが辛かったら本当に話さなくてもいいんだけど。吸血鬼に捕まった後、君はどうなったんだ?」
「山で捕まって、その時に気を失った私が目を覚ましたのは、私を攫った吸血鬼の住処、というか根城でした。気付いた時には既に血を吸われていて、私は人間ではなくなっていました。太陽の光が届かない、お昼でも真っ暗な洞窟の中。灯りは小さな火だけ。そんな場所で過ごしました。彼、つまり、私の親となった吸血鬼の召使として。扱いはそれほど酷くなかったんですよ。食事も貰えていましたし。だけど、やっぱりあんなのは嫌だった。生きている気がしなかったんです。体は吸血鬼になっても、心は人間のままなんですから……。だから逃げ出したんですよ。親が眠っている隙に」
「へえ……ん?」
陽介の頭に何かが引っ掛かった。
ヴァンパイアは夜の魔物。カチューシャのように後天的なヴァンパイアは、太陽の光を浴びただけで灰と化してしまう。純血種と言われる先天的なヴァンパイアなら、たとえ太陽の下であろうとも歩き回ることが出来るが、それでは地力の半分も発揮できない。だから、彼らにとって夜という時間は貴重なのだ。カチューシャの親が純血種だろうと、夜に眠るなどということは考えられない。つまり。
「君が逃げ出したのは昼間か?」
「ええ、そうです」
「そんな、どうやって? 君は何か魔術が使えたのか?」
そうでなければ、洞窟の外に出た途端に肉体が灰化し始めてしまうはずだから。陽介には他の可能性が思い付かない。しかしカチューシャはあっけらかんとした顔で否定する。
「まさか。だって私は、こんなことになる前までは完全に〝表〟の世界の住人だったんですよ? 吸血鬼も魔術もただの作り話だと思っていたんですから。そんなにヒトが簡単に使えるようになるものじゃないんでしょう? 魔術っていうのは」
「確かにその通りなんだけど。でも、それじゃあ説明が付かない。そりゃあ、太陽の光を浴びても、一瞬で全身が灰になるってことはないだろうけど。十秒はもたないだろう? 第一、体が焼ける激痛でまともに身動きなんてとれないはずだ。なのにどうやって君は逃げたんだ?」
「ああ、それはですね。私がそういう力を持っていたからですよ」
少女は気軽に言った。少年は苦々しい顔をした。
「君も能力者だったのか。というか幸人さん、そんな大事なことも言わないで行っちゃったのか……。まあ、あの人のことはいいや。よくあることだし」呆れているのとも少し違う、ただただ諦めを感じさせる溜息を吐いた陽介は本題へと戻る。「さっき君は、自分が吸血鬼になるまでは〝裏〟世界のことなんて完全に知らなかった、って言ってたよな? ということはその力も、吸血鬼との接触で覚醒したんだな?」
「はい。完全に目覚めたのは、逃げ出そうと洞窟を出て陽の光を浴びた時でしたけど。その瞬間までは、半ば命を捨てる覚悟で逃げ出すつもりだったんですが、とんだ幸運でしたよ」
カチューシャの言う通り、彼女は素晴らしく幸運であった。ただでさえ能力者の数は少ないというのに、そんな中で、種としての弱点を克服するような力に、今しかないというタイミングで目覚めるというのは、もはや幸運というより神の奇跡に近い。
異能というのは、完全に目覚めた時、その力の詳細が異能者の頭に自動的にインプットされる。能力名も、使い道も。だからこそ、つい最近に目覚めたばかりのカチューシャも、自分の力については、ほぼ完全に把握していると言っていい。
「私の能力は『真っ白な紙』です。簡単に言うと、あらゆる環境に適応する能力ですね。吸血鬼なのに太陽の下でも全然へっちゃらだし、水の中でも呼吸出来るんですよ。真空空間では、そもそも呼吸が必要なくなるみたいです」
「なるほど。そんな力なら、一時的に抜け出すことも簡単だったわけだ」
「はい。でも、それは私にとっても賭けだったんですよ。だって私の親は純血種ですから。気付いたら当然、私のことを追ってくるはずです。だからこそ、あの子も油断していたんでしょうけど」
――あの〝子〟?
カチューシャの言い回しに違和感を覚えた陽介であったが、あえてそれを振り払い、話の要点を進めることに集中した質問を重ねる。
「いざ逃げ出そうとした時には、能力の方も半端にしか目覚めてなかったみたいだし、賭けにしちゃあ、あまりにも割が合わないんじゃないか? さっき、『命を捨てる覚悟で』って言ってたけど、覚悟と呼ぶには苦しすぎる決断だよ。それだけ自棄になってた、ってことか?」
「本気で自棄になっていたら、逃げるより先に親を殺そうとしてますよ。少なくともそれが不可能だって理解できるだけの理性は残ってました。それでも私が賭けに出た理由は、幸人さんです。親が他の仲間と喋っている時に幸人さんのことを聞いて、その人なら私を助けてくれるかもしれないと思った。『表側の人間でありながら裏側の被害に逢ってしまった人たち』を助けて保護してくれる団体『ナインズ』。それを率いる人が、すぐ近くに来ていることを知ったんです。だから逃げました。親たちの話の内容を思い出して、必死で幸人さんを探して、探し当てて、保護してもらったんです」
当時、真壁幸人は別件で、カチューシャの親が潜んでいた洞穴の近くにある集落に滞在していた。聖マクシム教会の元関係者の一人が隠居していた村である。
「何というか、本当に色んな幸運が重なり重なって今君がここにいるって感じだな」
「はい、本当にそう思います。これも神様のお蔭かもしれません」
「……まあ、そうかもね」
本当に神様がそんなに優しいなら、そもそもカチューシャが吸血鬼に襲われることもなかったはずだ、と陽介は素直に思ったが、敢えてそれを口に出すことはしなかった。わざわざ純真無垢な少女の心の拠り所を壊す必要はないと。
「ところで、陽介と幸人さんはどういう関係なんですか?」
「俺と幸人さんの? 聞いてもあんまり面白くないよ。既視感バリバリの話だし」
「それでも、聞きたいんです」
「じゃあ、話すよ」食い下がるカチューシャに根負けし、陽介は仕方なく口を開いた。「俺は小学生の時、遠足中に吸血鬼に襲われたんだ。そいつはヴァンパイアみたいにメジャーな種族じゃなかったけど。その時、俺の能力が発現して、とりあえずその吸血鬼は退治したんだ。そこに、遅れてきた幸人さんが現れた。で、その後は色々と世話をしてもらってる、って感じ。その日までただの子どもだった俺が、異能なんか抱えたまま一人では生きていけないからな」
「へえ、そうだったんですか。あれ? でも何か、半分ぐらいはどこかで聞いたような話ですね。それも、ごく最近に」
「……だろうな。俺も同じだよ」
「それにしても、この国の夏は本当に暑いですね。外はとっぷりと暗くなってるのに、暑くて暑くて、このままだと灰になりそうです」
「君が『灰になる』なんて言うと洒落にならないな。まあ、暑いのは仕方ない。クーラーが壊れてるんだ。そうだ、アイスクリームでも食べるか?」
「あ、はい。戴けると嬉しいです」
「よし。ちょっと待ってな」
と言って、陽介は冷蔵庫に向かった。
一人暮らし用のマンションに備え付けられているものとしては、かなり大きめの冷蔵庫。その半分が冷凍室になっている。冷凍肉、冷凍野菜、更にはレンジでチンの冷凍食品が大量に放り込まれているそこから、奥にあるはずの目的物を発掘しようと、陽介が手を突っ込んだ。その様子を見ていたカチューシャから感嘆の声が上がる。
「うわあ、いっぱい入ってますねえ。陽介って、意外とよく食べるんですね。ヤケの大食いですか?」
「ヤケの大食いって、要するにただのヤケ食いじゃねえか。言っとくけど、別に痩せの大食いってわけでもないぞ。単に買い溜めしてるだけだから」
「買い溜めですか。地震か何かに備えて? 日本は多いって聞きますし」
「非常食としての買い溜めなら缶詰とかの保存食だろ。いちいち何回も外に出て買い物に行くのが面倒なだけだよ。俺は出不精だからね」
「そんな。陽介のどこが太ってるんですか」
「定番のボケをありがとう。お、あった。ただのミルクバーだけど、これでいいか?」
「はい、ありがとうございます!」
差し出されたアイスを受け取ったカチューシャは笑顔になり、空手となった陽介はすぐさま冷凍室の扉を閉じた。
「あれ? 陽介は食べないんですか?」
「俺はあんまり好きじゃないから」
「ふう……ん? じゃあ、なんで買ってあるんですか?」
「ゲスト用」
「変わってますね」
「別にいいだろ。役に立ったんだし」
客人など滅多に来ない彼の家に、ゲスト用のおやつなど用意されているはずもない。だから真相は、そのアイスが最後の一つだったから、というだけのことである。
「ふぅー。身体が涼しくなりました。どうもありがとうございます」
「どういたしまして」
とりあえず一時的な暑さ凌ぎになったようで、カチューシャは満足そうに礼を言った。歯型もとい牙痕のついたアイスの棒がゴミ箱に入っている。
――今夜はもう仕方ないとしても、明日っからもクーラーなしだとカチューシャはちょっとキツいか? この子の能力なら、この暑さにもその内〝適応〟出来そうなもんだけど。結局それまでは我慢させることになるし。
クーラーの修理が叶うのは三日後。それまでを我慢大会のように過ごすのは、陽介自身にとっても耐えがたいことであった。
「明日、扇風機でも買いに行くか」
「センプーキと言うと、あのセンプーキですか?」
「俺の知っている扇風機の他に一体どんなセンプーキがあるのかどうか気になるところだけど、多分、君の想像している方で当たってる」
「やっぱり、そうですか。あれって、自分の手にまで穴開けちゃいそうで怖いんですよね」
「……それって、穿孔機のことじゃないだろうな?」
「ああ、それですそれ。戦闘機」
「余計物騒になったぞ!? そんなもんで俺が一体何をしようっていうんだ」
「壁に穴開けるんじゃないですか?」
「なるほど、確かにそうすれば、扇風機みたいな人工の風じゃなく、爽やかな自然の風を浴びられるか!」
カチューシャと陽介の会話はその後もしばらく弾んだが、日付も変わって三十分が過ぎた頃になると、カチューシャの方はとうとう眠気に負けてしまった。寝間着にも着替えずに、自分と同じ名前の髪留めを外しただけで、ベッドに潜り込んでしまった。
陽介はというと、座布団の下敷きになっていた今日の新聞を取り出して読み直していた。
「なんというか、今回もまた単純な仕事じゃなさそうだな……」
そう独りごちて、彼は『聖マクシム教会の元・関係者たち、惨殺される』という見出しのその新聞を押し入れへと突っ込んだ。