その1
陽介は用意されていた布団の上に寝かされている。場所は由孝宅の寝室。
「今回は下手すりゃ死んでるところだったぜ」
彼の顔を覗き込みながら、由孝はそんなことを言う。
「いや、お前はもうとっくに死んでるからな。それはともかく。どうやら、後遺症の心配はなさそうだな」
「おう、大丈夫みたいだ」
十一年前、真壁幸人の持っていた『万能第五要素』、またの名を『賢者の石』によって、北条由孝は――おかしな表現だが――生ける屍として生まれ変わった。ブードゥーのゾンビとは違い、記憶も意思もちゃんとあり、由孝本人には違いないのだが、数々の代価を払うことになった。まず、ゾンビではなくとも、生ける屍たる彼女は間違いなく夜留。後天的なヴァンパイアやクドラク、アサンボサムのように、陽に当たって灰になるようなことはないが、それでも普通の人間と比べると、日差しにはかなり弱い。そして身体は間違いなく死体のままなのだ。心臓から何から、機能などしていない。考えることが出来るのも、食べた物が消化されるのも、血色がよく見えるのも、頬を赤らめることが出来るのも、涙を流せるのも、すべては『万能第五要素』によるもの。そのまま暮らしていては正体などすぐにバレてしまうのだが、幸人の労あって、誤魔化せている。死体にも関わらず歳をとるのも、それが理由である。四十万一路という男が気付けなかったのも仕方のないことなのだ。一路と幸人とでは、術者としてのポテンシャルがあまりにかけ離れていたのだから。
「それにしたって、バラバラだった由孝が、私が気付いた時にはすっかり元通りになっていた時は、今日一日のことが全部夢だったのかと思いましたよ」
「まあ、そうだろうな」
呪禁『生活続命之法』によって、死体を蘇らせることは出来る。だがそこに魂はない。人は死と同時に、霊魂が冥道に逝ってしまう――ごく一部の、いわゆる幽霊となって現世に留まってしまった霊魂を除いては。そして冥道に干渉することは、たとえ当代最高峰の呪禁師である真壁幸人を持ってしても出来ない。『招魂続命之法』を実現した者は創作の中にしか存在しない。だから、術式では本当の意味で死者を蘇らせることは出来ない。例外は化身能力。
『万能第五要素』は、物質でありながら化身能力を持っていた。『死神の化身』。それは死をもたらすものではなく、死者に対して絶対的な権能を持つ、いわば死者の神たる能力。その力は死の直後で未だ冥道の内にあった北条由孝の霊魂を、現世にある彼女の死体と再び結び付けた。彼女の肉体と霊魂は、片や現世、片や冥道にあるまま、見えない糸で繋がっているような状態。
だが『死神の化身』は死者にしか干渉出来ない。もし由孝の死体を完全に蘇生させてしまえば、肉体と霊魂の繋がりも切れてしまう。そうなると霊魂は冥道を通り抜け、別の生命に生まれ変わるだろう。いわゆる成仏。だからそうならないように、由孝の身体は死体のまま。そして死体でありながら、化身能力のお蔭で、生きている時と同じように活動出来る。もっとも生き生きとした屍。
故に彼女はこの世で最も死んだふり――擬死が得意なのだ。なにせ本当に死んでいるのだから。ひとたび擬死の状態に入れば、痛覚も何もかも完全にシャットアウト出来る。そして脅威が去れば、どれだけ肉体に損壊を受けていても、擬死に入る直前の状態にまで復元する。それは純血のヴァンパイアすら舌を巻くほど。
「つまり、痛覚すらもなかったわけでしょう? その割には、本当に由孝ちゃんが殺されたみたいに怒っていたわよね、あなた」
「そりゃそうですよ。由孝が普通の人間なら、間違いなく殺されていたわけで、そうでなくとも、由孝の身体をあれだけ蹂躙したあいつのことは、絶対に許せない。それに、放っておけば、あいつはこの先も〝夜〟を殺し続けていた。いつかあいつが由孝の正体に気付いたら、きっとまた殺しに来ていた。〝夜〟の敵は由孝の敵。由孝の敵は俺の敵です」
「相変わらずお前はそんなこと言ってるのか……。でも、アタシのためにそこまで怒ってくれたっていうのは、純粋に嬉しいよ。今回ばかりは、義理堅いってことにしといてやるか。ありがとう、陽介」
屈託のない笑顔で、由孝が言う。
「お、おう。どういたしまして」
照れた陽介は裏返った声で返答した。二人のやり取りを見ていたカチューシャは、意味ありげに笑う。
「ふふふ。由孝ってば、あんなに心配そうにしてた癖に強がっちゃって……。自分から『陽介を信じて待とう』なんて言い出したのに、その発言から一分後には完全に立場が逆転してたもんね。『待てない! 行こう!』って騒ぐ由孝をなだめるのは、かなり骨が折れましたよ。『行っても邪魔になるだけだよ』って何度言っても聞かなかったもんね?」
「ば、馬鹿! それは言わない約束だろ!?」
由孝の顔は見る見る内に真っ赤になっていく。
「心配してくれたんだ、由孝」
「そ、そ、そりゃ、し、心配ぐらいはするさ! 友達だもんな!」
「へえ、友達ねえ……」
ニヤニヤしながら言葉を発するカチューシャは、昨夜由孝をからかった時のターニャを彷彿とさせる顔をしていた。
「由孝にカチューシャ。二人とも、知らない間に随分仲良くなったな……」
「二人っきりで陽介とターニャの帰りを待っている間、色々とお話しましたからね」
「ふうん。一体どんな〝お話〟があったのかは知らないけど、仲良くなったのはいいことだ」
陽介は頷きながら
「そ、そう言えば。お前、幸人さんに電話しなくていいのか? 携帯、持って来てるだろ?」
「電話か。そうだな。事の顛末ぐらい、話しといた方がいいな」
由孝の見え透いた話題逸らしにも気付かず、陽介はごく普通に返答した。
「陽介……、グリーシャ君はやっぱり、本当に死んじゃったんですよね……」
「ああ……。残念だけど」
「ええ。残念です……」
今回の一件での、彼らにとって最大の無念。それはやはり、グリゴリーの死であった。第三者が聞けば、『その人は死んでも仕方ない』とさえ言われるであろうグリゴリー。特に、それを聞いたのが人間ならば、誰しもそう思うことだろう。確かにそれは否定出来ない事実。それでも陽介は、今回の彼の死を、教訓として胸に刻もうと決めていた。しかし、カチューシャにまでそれを背負わせるのは酷だとも思っていた。彼女は一方的な被害者なのだから、と。
カチューシャの心中には、『あの時、私が飛び出てこなかったら』という思いがあった。悔やみがあった。それは大きな間違いであるのに。もしカチューシャがあの時飛び出てこなかったら、グリゴリーを殺していたのは陽介だった。或いはグリゴリーが陽介を殺し、グリゴリーとカチューシャは両方、あの場にいたはずの一路に殺されていただろう。
今回の一件、グリゴリーは最初から生存の可能性が絶望的に低かったのだ。よほどの偶然が重ならなければ、彼はどう転んでも死んでいた。
「はあ、身体中痛むけど、それ以上に眠いや」
一日の内に〝力〟を使い過ぎた陽介は、その反動として強烈な睡魔に襲われていた。今の彼には、その睡魔を殺すだけの気力も残っていない。
「今日はもう寝ろよ。っていうか、アタシも今夜は寝る。普段なら寝る必要なんてまったくないけど、なんか気持ち的に寝たいや」
「私も寝ます。ここ数日で一番眠いです」
「私だけ全然眠くないんだけど」
「まあ、ターニャさんは」
――仕方ないんじゃないか?
「というわけで、私は寝ずに見張ってるわ。あなたがカチューシャに何かしないように」
「この体で何が出来るんですか」
「カチューシャの体じゃ不満ですって?」
「この体〝に〟じゃなくて、この体〝で〟ですよ!」
既視感すら覚えるやり取りに、陽介はもはや懐かしさを感じていた。彼――、いや彼らにとって、それほどまでに、この夜は長かった。
「でも、寝る前に幸人さんに電話だけはしておきますよ。って、しまった。携帯はマンションに置きっ放しだったんだ」
「仕っ方ないな。アタシのを貸すよ、ほら。通話料はお前が払えよな」
言って、由孝は充電器にさしていた自分の携帯電話を陽介に渡した。
「サンキュー。でも、月に何十万も小遣い貰ってる奴がケチケチしたこと言うなよな」
「冗談に決まってるじゃんか。……ホントに冗談だかんな?」
「分かってるよ。何年の付き合いだと思ってるんだ」
そのやり取りの後、陽介は由孝の携帯電話の電話帳の中から『真壁幸人』の項を見付け、電話を掛けた。