その8
「ひっ……うっうっ……ううぐっ……ターニャ、ターニャ…………う、うぇえ」
カチューシャの嗚咽は、涙や鼻水だけでなく、嘔吐まで伴っていた。血と臓物の匂いに混じって、吐瀉物の臭いまでもが漂い始める。匂いだけでも吐き気を催すほどの異臭が、部屋中にたちこめる。
しかし、今の陽介の関心は。
「由孝……」
両手、両足、首を乱暴に切断され、腹は割かれ、臓器までグチャグチャにされた幼なじみの死体。
そんなモノを前にして、何を想えばいいのか。
何をすればいいのか。彼には分からなかった。
すぐ傍で泣いている女の子を慰めることすら出来ないでいた。
「由孝、ごめん。ちくしょう……。なんだよ、これ。どういうつもりなんだよ、え!?」
部屋の中心に座していた男に向かって、陽介が吼える。部屋に入って最初に彼の目に入ったのは、実はその男であった。
真っ黒な浴衣を身に纏った、見目四十歳ほどの、黒髪の男。
昼間、浴衣を見に行く途中で陽介がぶつかった男だった。
「俺の名は四十万一路」
立ち上がりながら、男は自分の名を名乗る。
「四十万だって……? 《朝の一族》か」
「詳しい話は後にしよう。こんなおかしな臭いと色の部屋でゆっくり話し合うのは御免被る」
「っ!! 誰がこの状況を作り出したっていうんだ……!!」
「俺以外に誰かいるのか? 俺のことをどうにかしたければ、さっきまでお前が吸血鬼とじゃれていた場所に来い。俺は一足先に行かせてもらう」
自分の言いたいことだけを言って、男は姿を消した。
「陽介! 行きましょう! あの男、ターニャを、ターニャを……! 由孝まで……!」
「ああ、行かなきゃな」
陽介は躊躇いなくカチューシャの首筋に手刀を浴びせ、彼女を気絶させた。
………………。
…………。
……。
息を切らせながら、陽介は目的の場所に着いた。
ほんの二十分ほど前まで、グリゴリーと戦っていた場所に。
上空から見下ろせば、そこだけぽっかりと穴が空いているように見えるであろう空間。中心には、林の中の他のものと比べても、一際大きな木が一本だけそびえ立っていた。
グリゴリーが支配していた木の内のひとつである。
その木の幹に、グリゴリーは、胸を杭で串刺しにされて死んでいた。
彼の身体は、両足から徐々に灰と化していっている。その真下に、あの男が立っていた。
笑っている。嗤っている。哂っている。
何が愉快なのか。何が楽しいのか。何が面白いのか。
「やっと来たか。待ちくたびれてコイツも殺してしまったよ」
四十万一路は、取ってきたフリスビーを飼い主に見せつける犬のように得意気な顔で、崩れゆくグリゴリーに手のひらを向けた。