その4
城――というより、喫茶店から帰ってきた陽介たちと、彼らが帰って来た時には既に起き出していたターニャ、そしてカチューシャの四人は、その後、特に何かをするわけでもなく、だらだらと時間を過ごした。別段昼間と変わることもなく、時刻は午後十時になった。
「そろそろ頃合いか。じゃあ、行ってくる」
「行ってきます」
陽介に続いて、カチューシャが玄関で靴を履く。
「気を付けてな。陽介、お前も死ぬんじゃないぞ。もし死んだりしたら、殺してやるから」
「物騒なのか何なのかよく分からない励ましだな」
しかしそれも由孝なりの優しさなのだと、陽介は内心、ありがたく、彼女の言葉を受け取った。四捨五入すれば二十年来の付き合いになる親友同士の会話は、必ずしも音声を伴うものではないのである。
「もしカチューシャに怪我なんかさせたら、分かってるわね? あなたの歯を全部引っこ抜いて、出来た穴へ順番に針を突き刺していってやるから」
「アンタのはただの物騒だな! ……はあ。じゃあ、今度こそ行ってきます」
陽介は戸を開き、一度だけ振り返りそう言って、外に出た。
カチューシャと一緒に。
『相手をおびき寄せるためには自分がいた方がいい。自分自身を釣り餌に使え』と。カチューシャはそう言った。そのために、自分を連れて行けと。
悩んだ末、陽介は彼女の申し出を承諾した。
彼としては、それは是非とも避けたかった事態であった。そもそも、自分がいない間の彼女の身を守るために由孝の家へと連れて行ったのだから。だが、ただでさえどこにいるか分からない、しかも警戒深い相手を誘い出すためには、彼女の協力が不可欠であることもまた事実だった。とは言えやはり、策が一つ無駄になったという思いは拭えないでいた。
「まったく無駄ってわけじゃないですよ。少なくとも、ターニャの身は安全になったわけですからね」
「それはそうかもしれないけど」
勿論、由孝の家に居るからといって、ターニャが確実に大丈夫でという保証があるわけではない。場合によっては――たとえ外をうろついていても――陽介と一緒にいるカチューシャの方が安全かもしれないのだ。
陽介にもその懸念はあったが、だからといってまさか、非戦闘員をぞろぞろと連れだって吸血鬼退治に出掛けるわけにもいかない。そうでなくとも、夜中に女性三人を外へ連れ出すことには抵抗感がった。無駄な心配を増やすことにもなりかねない。もっとも、たとえ〝表〟の暴漢が何人襲い掛かっても陽介を――そして恐らくはターニャも――どうこう出来るわけなどないのだが。
「とにかく急ごう。件の親さえ何とかすれば、当面の問題は解決するんだ。なにより、今は一刻も早く由孝の家に帰りたい。あの二人が心配だ」
「心配なのは本当にあの〝二人〟ですか?」
「どういう意味だ?」
如何にも含みを持った笑顔で訊ねてくるカチューシャに、陽介は逆に訊ねる。
「いえいえ。別に深い意味はないですよ。単なる確認ですから」
「お前、なんか今日は情緒不安定じゃないか? 大丈夫か?」
本気の心配であった。
「大丈夫ですよ。これ以上ぶれることはないですから。ま、私もちょっとは大人になったというわけですよ」
「何じゃそりゃ」
――留守番中に何かあったのか?
気にはなったが、これ以上余計なことを考えている余地はないと判断した陽介は頭を切り替え、再び辺りを警戒しながら歩き始めた。
二人が北条屋敷を出てから一時間が経過した。警戒し、徘徊しながらの一時間のため、歩行距離としては実質、北条屋敷から――陽介の足で歩いて――二十分弱といったところ。もう十五分近く、二人は誰とも会っていない。どちらかと言えば都会なこの町で、午後十一時、外に誰もいないなど、通常ならあり得ない。確かに今は異常事態。血の付着した斧が発見され、その斧の持ち主も、付いた血の主も分かっていない状況。しかし、だからといって、ここまで人がいないものだろうか。
そんな疑問を抱きながら歩いてた陽介の腕を、カチューシャが突然、震えた手で掴んだ。それと同時に陽介も気付く。
外灯の下。
人の形をした影だけが存在することに。
彼らが気付いたことを察したのか、その影は色を付け、膨らみながら立ち上がる。そうして徐々に三次元的な人の形を成していく。
完全に一個の人型、少年の形になった時、彼に影はなかった。
それも当然。彼自身が影なのだから。
影に影は出来ない。故に、純粋なヴァンパイアに、影はない。
「遂にお出ましか。それにしても」
現れたのは中学生、いや、下手をすれば小学生に見えなくもない少年だった。
男の子。
しかし、間違いなく人外。
それも、纏っている雰囲気は、紛れもなく夜の住人。
「初めまして夜殺し。ボクの名前はグリゴリー。カチューシャとターニャの親を務める者です。よろしく」
少年は陽介に向かって頭を下げた。