その2
「このシュシュも可愛い!」
「ま、まだ買うのか?」
結局カチューシャを連れて外出することになった陽介であったが、当初の目的からは大きく外れ、今彼らはショッピングセンターのファッションフロアにやって来ていた。昨日二人が浴衣や扇風機を買いにきたショッピングセンターに、今度はターニャの替えの服と、カチューシャ自身の服を買いに。
――にしても、買い過ぎだろ……。
由孝の家を出る前に起きたやり取り。その謝罪の意味も込めて、『欲しい物があったら買ってあげる』と言ったのは陽介。
そんな彼の両手は、既に紙袋で塞がっている。
――残りの夏休みは由孝の家に寄生することになるのか。どうせなら帰省したかったのに。
寂しくなった財布の中身を思いながら、陽介は溜息を吐いた。
「ところで。随分と元気そうだけど、もう大丈夫なのか?」
「? 何が……って、ああ! だ、大丈夫ですよ! 人間じゃないんですから、一日中苦しめられるわけではありませんので」
「ならいいんだけど」
釈然とはしなかったが、かと言って男である陽介に理解出来る問題でもないので、彼はそれ以上の追及を避けた。
「そう言えば、浴衣なんですけど、ターニャにも似合うと思いません?」
「さらりと何を言い出すんだ。それはつまりあれか?」――俺に、浴衣をもう一揃え買えと言いたいのか。「ターニャさんがいないんじゃ、サイズも好みも分からないし、買いようがないだろ。今度、夜に買いに来ようよ。幸い、ここは夜十時まで営業してるんだし」
「まあ、とりあえず見るだけでも見てみましょうよ」
「お、おい、ちょっと待てよ!」
駆け出したカチューシャを慌てて追いかける陽介。と言っても、彼は両手が塞がって、視界も塞がっているわけで、目の前を横切ろうとした男にも気付けなかったわけである。
その結果、
ドンッ
「あ! す、すみません!!」
「……いやいや、大丈夫だ。これからは気を付けて、それじゃあ」
陽介がぶつかってしまった壮年の男性は、爽やかな笑顔で立ち去った。
「もう。気を付けて下さいね!」
「誰のせいなんだよ」
店――というよりは、浴衣フェア中の一角に入った二人は、ターニャに似合いそうな浴衣を物色していた。
「お客様、浴衣をお探しですか?」
「はい、一応」
陽介に話し掛けてきた女性は、昨日とは別の店員。二十代半ばの、若い女性であった。
「こちらの女の子が着る予定のものでしょうか?」
「いや、この子じゃなくて、この子の知り合いの浴衣を。訳あって今日は本人が来れなかったもので、俺らが下見に」
「そうですか。その方はどういった方でしょうか? 女性ですか? 男性ですか?」
「ああ、それは……」
「ターニャはとっても美人なんですよ!」
「否定はしないが、ちょっと待て。カチューシャ、馴れ馴れしすぎる」
――さっきから俺、謝ってばっかりだな。
「ふふふ、構いませんよ。日本語が上手ね。お二人はどういう関係なんですか? お名前は?」
「名前はカチューシャです。俺とは遠い親戚で、こう見えても、日本生まれの日本育ちなんですよ。だから、日本語は喋れて当然なんです」
磯神の時と全く同じ手を使う陽介。他に何も言い訳が思い付かないのだから仕方ない。
「カチューシャちゃん、ですか。可愛らしいお名前ですね」
「えへへ、ありがとうございます。自分でもこの名前、気に入ってるんです」
店員の女性とカチューシャはそのまま二人で話し込み始める。
ヒールを履いた店員より、運動靴のカチューシャの方がまだ背は若干高い。しかし醸す雰囲気的な年齢はカチューシャの方が明らかに幼い。
カチューシャは十九歳。来年には二十歳になる。少なくとも中身の上では。吸血鬼になると精神的な年齢の成長まで遅くなる……ということはないはずなのだが、彼女の精神的な年齢は肉体年齢と同程度でストップしている。
若い女同士の話となると、どうにも男は入って行きづらいもの。陽介は、何とはなしに二人から離れていった。その離れた先で、不意に声を掛けられる。
「あら、あなた、昨日もウチに来てたわよね?」
「あ、どうも」
陽介に声を掛けたのは、昨日、カチューシャの浴衣を買いに来た時、二人が世話になった中年女性の店員であった。彼女はまじまじと陽介の顔を見つめてから、しばし思案して言った。
「もしかして、あなたもなの?」
「……はい?」
何のことか分からない陽介は首を傾げた。
「あなたも返品するつもりで来たの? って聞いてるの!」
中年の店員は、声のボリュームこそ上げないものの、あからさまに威圧せんとする声色で陽介に迫ってくる。
二人の顔と顔の距離、五センチ以下。
これはこれで、大声を上げられるよりもよっぽど恐ろしい状況である。
「ち、違いますよ! 別の人の為の浴衣を、何というか、下見に来たんです!」
陽介は両手に抱えた荷物を落としそうになりながら答えた。
「あ、そうなの? あー、よかった」
大袈裟に胸を撫で下ろしながら、顔を離しつつ、女性は言った。
――正直、「よかった」はこっちの台詞なんだけどな。
陽介もまた、ほっと胸を撫で下ろしながら、心の中でぼやく。そして、
「あなたも、ってことは……誰か、返品しようとした人がいたんですか?」
と、正解の分かり切っている質問をする。そんな馬鹿げた質問にも、店員は律儀に答える。
「そうなのよ。今日だけで四組はいたわね。ほら、夏祭り、中止になったでしょう? 『必要がなくなったから返品させてくれ』ってお客さんが多くて」
「あー……なるほど」
ここで初めて陽介は『じゃあ、俺はこの人に迫られても仕方なかったんだ』と痛感した。夏祭りを中止させる直接の原因を作ったのは自分なのだから、と。
一方、そんなことを知る由もない女性の愚痴は止まらない。
「でもねえ、その人たちっていうのが、明らかに昨日の、中止になる前の夏祭りに浴衣を着ていった人たちばっかりなのよ。みーんな、泥や食べ物の滓、飲み物の染みなんかで汚れちゃってるし。本人たちは綺麗に落としたつもりだったんでしょうけど、私の目はごまかせないわ。当然、追い返してやったわよ。本当にとんだ災難だわ。でも、一番災難なのは、お祭りを企画した委員会の人たちでしょうね。同情するわ」
「そう、ですね」
陽介は頷きながら、胸を締め付けられる思いに襲われていた。
夏祭りが中止になって一番困るのは、ただ遊ぶだけの子どもなんかじゃく、それをなだめる親でもなく、その時のために尽力してきた人たちなのだと気付いて。
――一体、どれだけの人に迷惑をかけたんだろう。
お人よしな彼の気持ちが塞がる。間違ったことをしたつもりはなくとも、別次元で襲い来る罪悪感には勝てずに。
結局、途中で逃げ出すのも悪い気がした陽介は、その後も延々と続く店員の愚痴の聞き相手になっていた。彼の心中に逃げ出すつもりは起きなかったが、聞けば聞くほど、逃げ出したくなる気持ちは溢れてきていた。だから彼の耳には、
「陽介、ちょっといいですか?」
カチューシャの声が天使の声に聞こえた。
「すみません、連れが呼んでいますので」
「引きとめちゃって悪いわね。こんな話をお客さんにするなんて、絶対にしちゃいけないことなのに」
「そんなことはありませんよ。ためになる意見でした」
方便だったが、虚言ではなかった。
「お話中、ごめんなさい」
「いや、いいんだよ」
陽介は本心から思った。
「ターニャに似合いそうな浴衣を見つけたんですけど、どう思いますか?」
「カチューシャちゃんの言うターニャさんのイメージで、二人で考えてみたんですが、いかがでしょうか? もちろん、最終的にはターニャさんを連れて来ていただいて、ご本人さんに決めてもらった方がいいと思いますが」
二人が選んだという浴衣は、唐棣色を基調とし、毬のような花柄が幾つかあしらわれたデザインであった。帯はいわゆる縹色。それは一見、とても子供っぽい色づかいではあったし、こういう浴衣が似合う大人というのは、日本人ではなかなかいないだろう。しかし、ターニャが着るとなればまた別の話。彼女の、カチューシャより更に白い肌と天然物の金髪には、明るい色合いがよく調和しそうだと、陽介は感じた。ターニャに似合う浴衣ということで、彼は、藍色や、それに近い色を想像していたが、彼女がそんな浴衣を着ている姿を今一度想像した陽介は、それらが彼女にまったく似合わない配色であることに気付く。内面のイメージを先行させていたためであった。
――内面のイメージなら模様は……百合か? いや、イメージとかじゃないな、それは。
無用な考えを巡らせたあと、陽介は、最初に感じていた疑問を口にする。
「で、どうして君が着てるんだ?」
ターニャのために選んだという浴衣を、カチューシャは自分で着ていた。
「その方がイメージしやすいと思いまして」
「逆にイメージしにくくなる気もするけど」
理由は、幸か不幸か、ターニャのための浴衣がカチューシャにもよく似合っていたためであった。もっともこの場合、単にカチューシャが内面的にも外面的にも子どもっぽいというだけの話である。髪の色だけに注目した場合はむしろ不調和な色調だったが、それを補って余りある要素が幾つもあった。
「で、結局どうなんです? ターニャに似合うと思いますか?」
「ああ、似合うんじゃないか? でも、やっぱり店員さんの言う通り、本人を連れてきて直接聞いた方がいいよ。とりあえず、これは保留ってことにしておこう」
「うーん、そうですね。じゃあ、今度は一緒に来ましょう」
「ああ、そうしよう。どうせなら、由孝の分も買ってやりたいし。あいつ、ああ見えて和服とか好きだし」
「ああ、それでしたら、ああいうのが似合うんじゃないですか? 由孝には」
「え? ……あれが?」
カチューシャがぶっきらぼうに指差したのは、柄すらもない、ただ黒いだけの浴衣。まるで丈の長い甚平。男なら照れ隠しにそういう浴衣を着ることもあるだろうが、仮にも女の子である由孝が喜んで着るようなモノではない。古き良き怪談に登場する幽霊の少女だって、もう少しマシな格好をしていそうなものである。
――普通、こんなのが似合いそうだなんて言うか?
「由孝に何か恨みでもあるのか」
「別に」
昼食時と同様の機嫌の悪さを醸し出しながら、カチューシャは陽介から目を背けた。
「あちらは普通、男性用ですよ? あなたたちの来る前に来たお客さんが丁度同じ物を買って行きましたけど、その方も男性でしたし」
ほんの一瞬気を逸らしていた店員は二人の間に流れる微妙な空気を感じ取れず、ただ淡々とそう告げる。我に返ったカチューシャは、自分が台無しにしてしまった和やかな空気を取り戻そうと、努めて普段通りの口調――実際には少々上擦った声を出す。
「男の人でも浴衣着るんですね」
「そりゃあ、着る人もいるよ」
「でも、お祭りで来てるのは女の子ばっかりでしたよ? それでも普段着の人よりはずっと少ない方でしたけど」
「着る人はいる……いるけど、少ないんだろうな。女の子よりも圧倒的に」
「どうしてですか?」
「面倒臭いし、なんとなく気恥ずかしいからだろ」
それは世の中の一般人男性全体というよりは、陽介自身の感想であった。
「面倒臭いっていうのは分かりますけど、恥ずかしいのはどうしてですか?」
「少数派だから、だろ。それに、言葉は悪いけど、女々しい感じもするんだよ」
「むぅ。女々しいから駄目なんですか? それって、男女差別じゃないんですか?」
「そういうことじゃないだろ。男だから女々しいのを嫌がるんだよ。たとえばさ、俺がシュシュを着けてスカートも履いているところを想像してみなよ。どう思う?」
勿論これは、余りにも極端な例。浴衣を着る男性ぐらい、全国に幾らでもいることは陽介にも分かっている。カチューシャを納得させるためにはなるべく分かりやすい例えを持ち出した方がよいと判断してのことであった。
あったのだが。
「可愛いです」
「そう来るか」
冗談でないことを示すカチューシャの純粋な笑顔が、陽介を余計に傷つけた。