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クローゼットの姿見に映る自分の制服姿が、理想や願望を一切排除して、望まない現実を突きつける。せめて似合うのならまだしも、大き目な制服は私の滑稽さを顕著にしているようにしか思えなかった。
「どうして……変わるんだろう。そんなのいらないのに、今まで通りの朝が良かったのに」
どう嘆いたところで現状が変わるわけはない。でも、口に出せば胸の中にためているよりはいくらか楽になる。
私に変化なんて必要ない、時間なんて止まってしまえばいい――
そんなことはできない、できないと分かっていても、望まずにはいられない。
今日の朝は、いつもと違う。今日から私は、地元の高校の生徒。
「……ふう」
鏡に映る自分を見て無意識に出たため息は、何も制服が可愛くないからとか、自分に似合っていないからじゃない。そんな事どうだっていいのだ。
私の心に重くのしかかっているのは、もっと別の、すごく大切なことなのだから。
「加奈ちゃん、光介くんが来てくれたわよ~」
下の階からおばさんの声が聞こえてきた。その声に私は「はーい」と返事をして、ベッドの上に置いてあったまだ皺も汚れもない真新しいカバンを掴んで一階に下りた。
一階のダイニングでは、なぜかこーちゃんが先にご飯を食べていた。
「何でこーちゃんがここでご飯食べてるのよ」
責めるように言うと、こーちゃんはご飯を口に含んだまま答えた。
「それは、そこにご飯があるからさっ!」
親指を立てる。どこかの登山家さんが残した名言がまさかこんなしょうもないことのために使われているとは、当の本人も芳しくは思っていないことだろうな。
そんな様子をおばさんは優しく笑いながら見ている。
「まあいいじゃない、光介くんみたいにおいしそうにご飯を食べてくれると、私も作ったかいがあるわよ」
おばさんが言った。きっと本当の息子のように思っているんだ。とっても優しい人だから。
「こちらこそいつもこんなうまい飯をありがとうございます! さあ加奈も早く食え!」
「何でこーちゃんに言われなきゃいけないのよ」と言いつつ、こーちゃんの隣の椅子に座って朝ご飯を食べ始めた。
「もう二人とも高校生なんだね、なんだかあっという間」
おばさんはキッチンから二人の様子を眺めながら言った。その眼には、今の二人と、今までの二人が重なって見えているのだろう。
「おばさんだってもう――」
「『もう』なあに?」
その一言でこーちゃんが言いかけた言葉を急いで呑み込んだ、おばさんは決して笑顔を崩してはいないが、その笑顔の裏に潜む感情を、二人は敏感に感じ取った。
不穏な空気がこの空間を支配する。
「……全然、変わらないんだから!」
「あらそう? ありがと」
こーちゃんはまた一つ学習しただろう。彼にはデリカシーと呼ばれるものが一片たりとも存在していない。これを機に少しは考えた方が良い。
朝ごはんを済ませた後、まだ登校するには時間が早かったので、私とこーちゃんはリビングでテレビを見ながら時間を潰した。テレビにはスーツをきちっと来たアナウンサーが、今日のニュースを読み上げていたり、栗色で長い髪の綺麗な女の人が今日の全国の天気を話している。今日は雨の心配はないみたいだ。
時計はそろそろ家を出る時間を指している。
「こーちゃん、そろそろ行こっか?」
「ん、そだな」
二人ともソファから立ち上がる。
「おばさん、そろそろ行くね」
「朝ごはんごちそうさまでしたー」
「はい、気をつけてね」
ドアを開けて外に出ると、冷たい空気が全身に覆いかぶさってきて、体がぶるっと震えた。春とは言ってもまだ四月の上旬、コートを着るほどではないけどまだ肌寒い。
「寒いね~」
「早く行こうぜ」
私たちは別に示し合せることをしないでも、それが当然のように並んで歩きだした。
この家から学校までは徒歩三十分ほどで着く。学校は自転車通学を禁止しているわけではないけど、やっぱり今まで通り、歩いて学校に通うことにした。その時は決まってこーちゃんが右側、私が左側、二人並んで歩く。小学校から変わっていない。
こーちゃんとは小学、中学、高校と同じ学校に通い、クラスもずっと一緒だった。改めて考えてみるとこれはすごい偶然なんだろうけど、私にとってはそれが当たり前なので、特別そういったことを思ったことはなかった。
「なあ」隣を歩いていたこーちゃんが突然口を開いた。「加奈さ、緊張してんだろ?」
その言葉にはっとしてこーちゃんとの顔を見た。でもすぐにまたうつむきがちに前を向いて、「分かる?」と小さな声で答えた。
どうも私は思ったことが顔に出やすいみたいだ。
「そりゃな、いつも以上に暗い顔してるぜ」
けけけ、とこーちゃんは笑ったけど、そんなことを言われては余計暗くなってしまう。不安がまた押し寄せてくる。
あまりにひどい顔をしていたみたいで、私の反応を見ていたこーちゃんは笑いを引っ込めた。
「……あれ、もしかして、泣いてる?」
「…………」
私は何も答えない。
「ええ、ウソ、マジ? ごめん、そんなに気にしてるとは思わなくて。あ、あの、まあ、元気、出せる?」
こーちゃんはいつもそう言って励まそうとしてくれる。気持ちは伝わるけれど、そんな言い方じゃいまいち効力がない気もする。それがこーちゃんの励まし方。今までずっとそうだった。
「だからさ、そこは疑問形じゃなくてちゃんと励ますところじゃないの?」
そう言って顔を上げた私が笑っていたのを見て、こーちゃんもほっと胸をなでおろしたみたいだ。
「でも、これ冗談とかじゃなくて、もう少し明るくいかないと。そんなんじゃ、今までと変わらないぞ」
横顔を覗くと、こーちゃんは意外にも、少し真面目な顔をしていた。
「……分かってるよ、分かってる」そう、分かってはいる。ただ、それを行動に移すのはまた別なのだ。
「小学校と中学でとは違って、高校はほとんどが初対面なやつばかりだからな、それだから難しくもあり、逆にチャンスでもあるんだよ」
「チャンス?」
「そ。だって、それは加奈だけに当てはまるわけじゃないだろ? みんなそう、みんな初対面、だから、みんなとりあえず周りと仲良くして友達を作ろうとするだろ?」
なるほど、確かにこーちゃんの言うことももっともかもしれない。
「だから、チャンス。でも、この機会を逃がすとどんどん輪に入りづらくなるからな」
「……うん」私はまたうつむいてしまった。下を見るのは、前を見るより楽だから。「……やっぱ、つくらなきゃダメかな、友達」
「そりゃそうだろ。何をするにしたって、いや別に何かをしなくても、いた方が良いに決まってる。小、中の数少ない友達がいなくなったからには、俺しか知り合いはいないわけだし、さすがに高校生活中、俺以外の友達がいないってのはきついだろ?」
「……だよね」ふう、と私は小さくため息をついて肩を落とした。だから、変わりたくなかった、今まで通りでよかった。あまり多くないけど気の置けない友達と、こーちゃんと、それで良かった。そのままが良かった。なのに……そう、心の中でどこにいるのか分からない相手に毒づいた。
そんな様子を見ていたこーちゃんは、笑って「大丈夫だって」と言ってくれた。「そんなに構えることじゃねーって、なんとかなるよ。むしろそんな顔してっと怖くて誰も近寄れねーぞ」
「……うん」
「元気、出せる?」
「うん」
よし――そう言ってこーちゃんは私の肩を軽く手のひらで叩いた。これも小学校からずっと変わらないな、なんて思った。こーちゃんがこうしてくれる度に、なんだか頑張れる力を分けてもらっている気がした。
話しながら歩いているうちに、いつの間にか二人の周りには同じ学校に向かう生徒がちらほら増えてきた。少し先に学校の校舎も見える。あそこで新しい生活が始まる。いつまでもこのままじゃいけないんだ、ここで――私は変わらなくちゃ。
「私、頑張るよ」
そう、校舎を見つめながら不安だらけの自分の心に鞭を打つように言い聞かせた。
となりのこーちゃんはそれを聞くと「そっか」とだけ言った。
学校は丘の途中にあって、そこから見える景色がとても綺麗と聞いたことがある。確かに、あそこからならこの町を見渡すことができるかもしれない。その学校の上には真っ青な空が広がっていた。雲ひとつない、静かそうな空だな、と思った。
「……あと、どれくらいなんだろうな」
静かだったこーちゃんが不意にそうつぶやいた。
私もまだ数回しか行ってない場所だから、ここからどれくらいかかるか正確なことは分からなかったから「分からないなー」とだけ答えた。するとこーちゃんは私の顔を見てから「俺も分からないよ」と苦笑いで答えた。
「当たり前でしょ、こーちゃんが聞いたんだから」
「……はは、そうだな」
また、苦笑いをした。
「まだ寝てるんじゃないの?」そう言って二人で笑った。
そこから学校までは十分程で着いた。




