10-3 ◇
◇
やっぱり、脈絡がない。あたかもこちらが何を話しているのかを知っているかのように、知っていて当たり前のように、彼は話す。
「……何のこと言ってるのか分からない」
そう言った。それは本心だった。でも、
――あの病院に入院している時だよ。
そう言われて、一瞬だけ、何かを思い出しそうになった。ふっと、まるで風が吹き抜けていったように景色が目の前をよぎったように見えた。
でも、それだけだった。
結局何も思い出さなかった。彼の話は、私にとって何の思い出にもならないような、ことだった。
「あの病院で、加奈は彼に会った。でも加奈だけじゃない、ぼくもだ。ぼくは呼ばれたんだ。そしてここに来て、あそこにいる彼に会った。まっすぐで、純粋で、強い願いを持った彼。彼は願ったんだ、加奈のために」
「何を……」
「彼はね、自分と同じ病室に来てからずっと泣いている加奈のために願ったんだよ、加奈が失ってしまった寄る辺の存在を、ぼくにね。自分のことじゃなければ親しい人でもない、ほんの少しの間だけ一緒にいた同室の少女のために願ったんだよ。そしてそれはぼくのところまで届いた。だからぼくは来た。そしたら彼はね、少し驚いていたけど、すっごい喜んでくれたんだ。ありがとうって何度もお礼を言ってたよ。全部、加奈のためさ」
全部、私のため……?
全く知らない私のために、誰かが願ってくれた?
とても、信じられない。何の根拠もないそんな優しい話を。
「彼はね、僕に加奈の隣にいてくれって頼んだんだ。加奈が寄る辺を必要としなくあるその日まで。……すごいと思わないかい?」
そう言うと、突然彼は笑い出した。
「……何で、笑うの?」
「だって、何一つ自分のためになんかならないじゃないか。もしかしたら、ぼくに願えば自分の病気を治すことも出きったかもしれないんだよ? つらい治療も必要なくなるし、失ってしまった時間までは取り戻せないとしても、これからでも遅くはない、好きなことができるようになるかもしれないんだよ? ……でも彼はそう望まなかった。加奈のことだけだったんだ。『だから君まで届いたんだ』って彼は言ってた。確かにそうかもしれない。でも、ぼくはそんな彼ともっといろんなことを話したいと思った。彼に長生きしてほしかった」
一旦話を区切ると、私から視線を外して遠くを見た。その視線の先には病院はない。
また私に視線を戻す。
「彼は長生きすることを望んではいなかった。でも死にたいと考えていたわけでもないよ。そもそも人生を短い長いという概念でとらえていなかったんだ。自分の人生を受け入れて、それを気の済むまで楽しんで生きようとしてた。……かっこよくて、美しかったよ。だからぼくはもうそれ以上言えなかった。彼の願いをかなえることにしたんだ。彼の代わりに、ぼくがこーちゃんになって、君のそばにいよう。加奈が僕を必要としなくなるその日まで。そして『こーちゃん』になったぼくは――君に会った」
小学校三年生。私の隣に座っていた少年は、私のために本物の光介が望んで『こーちゃん』になった彼だった?
そんな話を信じろと言っている。
「何言ってるの?」
「ぼくには分からないことばかりだった、そんな時は彼に相談していたんだ。彼には毎日会っていたからね。加奈がみんなと仲良くするためにまずぼくがみんなと仲良くなって、それから加奈との間を取り持ってみたりとか、オリエンテーションの班をくじ引きできめたりとかも……全部彼が教えてくれた。他にも、いろんな話をしたよ……彼は宇宙飛行士か教師になりたかったとか、体育が得意で特に短距離走では小学校に通えていた時はいつも一番だったとか……」
そこで、彼は黙った。その視線は私に向けられているようだったけど、目に映っているのは全く違うもので、何が映っているのかなんて私には分からなかった。
「最近、加奈には気の置けない友人が出来た。もう、ぼくを必要としなくなってきていた。それは少し寂しくもあったけど、嬉しかったんだ。彼の願いは加奈を一人にしないことだ。君がもう一人じゃなくなった――もう一人じゃないと思わなくなったのなら……ぼくはもう必要ない。ぼくはもうここにこうしていられなくなる。それを彼に言ったらね、すごい悲しんでくれた。悲しんで、でも笑って『ありがとう』って言ってくれた。『君がいてくれて、本当に良かった』って。……それ以降、彼はもう目を覚まさなかった」
目を覚まさなかったと言う、彼の言葉の意味をすぐには理解できなかった。それを言った彼の顔を見て、ようやく分かった。
でも、それに関して何とも思わなかった。
「ぼくが最近学校に行かなかったのはね、ずっと彼のそばにいたからなんだ。ずっと彼のそばで、彼の体が静かに動きを止めるその時まで、ぼくは彼と一緒にいた。そして彼の体がすっかり静かになった時、ぼくは感じたんだ――彼が、いなくなったのを。そこにいたはずの彼が、どこかに行ってしまったのを」
どこかへ行ってしまった……彼が言った多くの言葉の中で、それだけが残響となって何度も響いていた。
「この世界にあるものがこの世界から消えて無くなることは無い。きっと彼は一人でどこか遠くへ行ってしまったんだ。でも、ぼくにはまだ話したいことがある。まだ聞きたいことがある。まだ出来なかったことがいっぱいある。……だから、ぼくは行かなくちゃならない」
彼は私を見た。今度こそ、まっすぐ私を見た。
「ねえ加奈、教えて――」
そして彼は、さっきと全く同じことを聞いた。
私は、一度大きく息を吸い、はいて――笑った。ひどい笑顔だった。ひどく醜いのに、それでも笑顔だった。たぶん、これが嘲笑だった。
「……こーちゃんは、本当はこーちゃんじゃなくて、本当のこーちゃんはずっとあの病院にいて、あなたはこーちゃんに頼まれて『こーちゃん』になってて、それで家族でも何でもない私のために今までずっとそばにいてくれて、それで、それで……もう、いなくなるって、そう言ってるの?」
彼は何も答えない。頷きさえしない。ただ、笑っているだけ。
私を待っているだけ。
「そんな話……信じられるわけない」
最初から、何を信じていいのか私には分からなかった。何が起こっているのかも私には分からなかった。それがひたすら悔しかった。情けなかった。腹が立った。でもそれは、自分のせいだと思わなかった。感情は目の前の彼に牙をむいていた。
「意味、わかんない……頭、おかしいんじゃない?」
また、涙が出てきた。
やっぱり私の不安は的中した。私の幸せな毎日は台無しにされた。
ひどく脆くてぐらぐらと揺れていて、それでもようやく積み上げられた幸せだったのに。
こんなことで。
また、積みなおし。
入学式の日、真新しい制服の袖に腕を通したあの日から、振り出し。
「……大っ嫌い」
本当に大っ嫌いだ――。
その言葉を、口にするよりもはるかに多く心の中で繰り返す。繰り返すたびに怒りが募っていく。その怒りが私を支えてくれる。
分からないのは君のせいじゃない、あいつのせいだ。腹が立つのも、あいつのせいだ。君は何も悪くない。悪くない君が、悪いあいつをやっつけてしまえ――
誰かがそう耳打ちした。
優しい声で、柔らかい口調で、温かい息で、甘いにおいで。
見たくないことに靄をかけて、立ち往生する私の手を引く。
「……消えて」
さあ、言ってしまえ――。
「もう――もう、私の前から消えてっ!」
腹の底から声を出して、心の底から悪意を込めて、真正面にいる彼に向けて。私は言った。
悪いのは、私じゃない。
だから、これは間違っていない。
でも、私はまだ泣いていた。私は首をかしげる。悪いのは私じゃない、私は正しいはず……そうだよね?
なのに、あの声はもう聞こえなかった。どこにもいなかった。
私はようやく思い出した。私は一人しかいないことを。私じゃない私なんていないことを。さっきから、いやそのもっと前、生まれる前から、私は私以外ではなかったことを。
私は一人だった。
でも、一人いた。
ずっと傍にいてくれた、一人が。
どこに行ったんだろう?
置いて行かれたのだろうか?
待っていてくれているだろうか?
もちろん。だって、今までずっとそうだったから。
――でも。
私が忘れた。
私が捨てた。
私が拒んだ。
「……あ、あ、あ、あ、あ」
私が?
違う、私が悪いんじゃない。
悪いのは?
私じゃない、私は悪くない、私のせいじゃない。
そうでしょ? そうだよね?
そうだと言ってよ。
助けてよ。
私を助けてよ。
「加奈」
だって。
わたしは。
こんなにも。
――不幸なのだから。
「元気、出して」
そう。
私には――いつだって私しかいない。
「まっ――」
涙で滲んだ視界から見える世界は、まるで私のようにとても柔く脆かった。
そんな視界で見えた彼は――笑っていた。
今まで私の行く先を示してくれていた、道標のように。