10-2 ◇
◇
「…………」
沈黙。静寂。耳を掠める風の音。自分の血管が脈打つ音がやかましい。
「……ふははっ、何やってんだお前は。どうかしちゃったのか? いや、俺たちか。ホント、何がしたいんだかさっぱり分からねーとりあえず腹減ったから加奈の家行こうぜ」
と、いつもの調子で笑って言い返えされる。それに対して私も「ホント、何考えてたんだろ」と笑い返して――
そんな光景を、頭の中で考えていた。現実的に考えてこんなことおかしいじゃない――と、自分勝手な自己解釈の世界で、自分で作り上げた現実にのっとって全てを解決しようとした。そうであってほしいと心の中で望んだ。ここまで来て、私は目をそらそうとしていた。
だって、こんなのおかしいから。全てが変だから。今まで何事もなかったから。普通の毎日だったから。すごいことどころか、悪いことなんて何もしてないはず。私が、こんな思いを――折角辿り着いた憧れの幸せな毎日を台無しにされてしまいそうな思いをしなくちゃならない理由なんてどこにもないはず。そうでしょう?
何が起こっているのかなんて分からない。どうしてこんなに不安になるのかも分からない。でも何かが起こっていることは分かる、私がすごく不安になっていることも分かる。
ねえ、どうして?
「ねえ、どうして?」
どうして……何も言わないの? どうして私を不安にさせるの? どうして友達たちと遊ぼうとするのを邪魔するの? どうして隠し事をしてるの?
どうして?
「どうして……普通じゃないの? こんなの変」
私の声は掠れていて、ちゃんと言葉になっていなかったかもしれない。そんな心配は無用だった。
「変、か」
彼は私が言った言葉を繰り返した。そして、
「……ふう」
一つ大きなため息をついた。でもそれは、呆れるというよりかはまるで大きな仕事が一段落したというような、安堵のため息。
そして彼はようやく、訥々と言葉をこぼす。
「終わり、かな。長かった……いや、早かった気もするな。時間っていう感覚はぼくには分かりづらいや」
その話し方を、私は知らない。それは、いつもの彼じゃない。いや違う、そもそもいつもは彼じゃない。今、目の前にいる彼は、間違いなく知らない彼だ。間違い様がないほど別人だ。
私の現実にそぐわない彼……私はもう何も考えられず、頭の中は真っ白になった。
その真っ白に、彼の言葉が浮かんでは消えて、また浮かんでは消えていく。
「んー、でも、やっぱり短かったな。うん、短かった。あっという間だった。毎日楽しくて仕方なかった」
言っていることの意味は分からない。だから、ますますわけが分からなくなる。ますます不安になる。保てない私が崩れていく。
でも、そんな私に構わずに、彼は続ける。
「でもそろそろかな、って思ってたんだ。中学の時と違って、ぼくに依存する気持ちがどんどん薄くなっていってた。自立しようとしてた。これでもし友達ができたら、もう終わりかなって思った。求められないのに居続けることはできない。だから覚悟はしてたよ。それで、今日は彼のところに行ってきたんだ。報告と、お別れを言いにね。本当は、彼自身に言いたかった……もう一度、彼に会いたかったな。それは君も同じなのかな? ぼくとしてはそうであってほしいけど……」
そして、私を見た。その一瞬、身体がこわばった。
そこにいる彼は、私の知らない彼は――本当に、笑っていた。私の全く知らない顔で。
「ねえ加奈、教えて」
どういうことか分からない。どうしたら良いのか分からない。
「もう、大丈夫?」
私にはもう、何も分からない。
「ぼくが――こーちゃんがいなくなっても、元気、出せる?」
完全に日は沈み、あたりの街灯に明かりが灯っている。こんなに近くに立っているのに、街灯に照らされている彼はずいぶん遠くにいるように見えた。いや実際にその声が届くのには時間がかかった。でも、そんな声が届いたって、意味なんか無かった。
何を言っているの? 彼は一体何を言っているの?
何度も繰り返される自問は一向に止まることなくむしろその速さを増して、ぐるぐると台風のようにどんどん力を増しながら私の中で暴れ続ける。
もういや。
いやだいやだいやだいやだいやだいやいやだいやだいやだいやだいやだいやだ――。
「いい加減にして!」
熱い、体が熱い、頭が熱い、なんだかボーっとする……。
「何言ってるのか分かんない! 何にも分かんない! 意味分かんない!」
その時だった。
私には、もう自分のコントロールが利かなくなった、そんな感覚だった。
私は「私」を後ろに隠れていた別の「私」に任せ、そして私自身は、勝手に動く「私」を後ろから冷めた目で見ているような感覚。もうどうにもできなくなって、もう――どうなってもいいや、って、すべてを投げた。後ろに下がって、私に任せて、私は逃げた。
「やめてよ! あなた誰? ホントは誰なの? ホントに……何なの?」
決壊したダムのように、私は溢れ出す感情は抑えられていない。ただ、ひたすらに目の前の彼にぶつけていく。その、傷つけるための刃物のような言葉を。
それでも彼は、ただ黙っているだけだった。
「何で黙ってるの? ちゃんと説明してよ! ……怖いの、あなたがすごく怖いの! すごく……気持ち悪い」
私は涙を流していた。何のための涙なのか、誰のための涙なのか、分からない。
だって考えないから。
私はただ、刃物を――言葉を、振るい続けるだけ。
「泣かないで、加奈」
優しい口調で私を慰める。それは、やっぱりいつもと違う。
手を差し伸べてきた。私は一歩後ろに下がる。私が手を伸ばしても、届かない距離を保つ。
だから、彼は一歩、こちらに近づくために足を踏み出そうとした。
「来ないで!」
しかし私はその全てを拒絶する。
だから、彼はその場に立ち止った。宙に浮いた手を静かに自分の体の横まで戻す。
そして、何かを諦めたように、力なく笑った。
「……言わないって言うのが、約束なんだけどね。でもやっぱり、ぼくは加奈に知ってほしいな。だって加奈は覚えていないみたいだから」
突然、何の脈絡もなくそう言った。
覚えていない? 私が? 何を?
疑問には思ったけど、考えようとはしなかった。
彼は振り返り、自分の後ろにあった病院を指さしながら言った。
「加奈は一つ間違えてる。加奈がこーちゃん――本物の光介に初めて会ったのは、小学校じゃない、君が事故にあった後あの病院に入院している時だよ」