人形の目覚め
忘暦。
それはラグナガルドで人々が培ってきた全てを失った時代だ。
子供が自然に生まれることはなくなり、自然に還った土地にはマシンという兵器が人間を駆逐し、人々を統一しようと出産技術を独占する神国が領土を増やしていく。
伝統も文化も技術も知識も、そして希望も忘れられた時代に、過去を取り戻そうとする組織があった。
【第一話】 忘れてしまった世界
その部屋は暗く、静かだ。命が生まれる場所はそうあるべきだと、部屋の主であるデシレ・アウスオルが考えているためだ。
母、と呼んで差し支えないほどの年齢と愛情を重ねている彼女は、しかしそう呼ぶにはもったいないくらいに美しい。闇でも甘く艶やかな栗毛が背中の突起に流れるのを見ながら、エルステル・ミルキィはそう感じた。
この部屋を照らす光源は、その彼女の背にある突起――機人種であるマキナにだけ与えられた電脳送受信器官『エンジェルハイロゥ』がこぼす淡いきらめきだけであり、その新緑がエルステルの端正な面立ちを暗闇の中に浮かび上がらせている。
視覚には少し厳しいものがあるが、エルステルの瞳はそれぞれ紅金と青銀に反射し、短い髪からは尖った耳が突き出している。金銀妖眼に特徴的な耳の形は、彼が妖精種フェアリーであることを示している。エルステルが一つ息を吐く気軽さで魔力を放出すれば、この部屋の明度も上がるだろう。
実際に、エルステルにはデシレのジンクスは所詮思い込み効果程度のものだと思っている。それでもこの暗さを犯さないのは、悪戯好きな妖精種でありながら真面目な性格をしているためか、それともデシレの矜持に尊重しているためか、と言ったところだろう。
エルステルは黙ったままデシレの背後で壁に寄り掛かり、彼女がカプセルベッドを覗き込む様子を眺めている。今、彼女はその中で眠る自分の『子供』の最終調整をしているのだ。
エンジェルハイロゥが蛍よりも頼りない光を明滅させる時間がずいぶん長く続いている。
堪え切れなくなったのか、エルステルは口を開いた。
「それが最後の人形になるのか?」
顔立ちと同じく細くしなやかな、しかし冷たい声が闇に溶け込んだ。
エルステルが見下ろす栗毛が、さらりと一度だけ揺れて、続いてアルトの声が鈴のようにこぼれる。
「ええ。VD-22、この子がVDシリーズの最後」
その声が耳に届くまでの間、エルステルはオッドアイを閉じる。
「それで、そいつは『世界』なのか? それとも『お前』なのか?」
「あら……私がアルカナになぞらえてるとは限らないじゃない?」
問いかけをはぐらかそうとするデシレの言葉を、エルステルは鼻で笑い、あしらった。
「お前はそういうお約束は守る女だ、確実にな。二十二で終わるならば、アルカナくらいしか俺には思いつかん」
参ったとばかりに、デシレは肩をすくめてみせた。
「『世界』はVD-21ガルド・ワールドよ。この子じゃないわ」
「では、『お前』なのか」
思案げに目を伏せるエルステルに、デシレが振り返った。
歴戦の剣士でも、彼女の行動についていけなかったのは、自分の思考にとらわれていたからであろう。だが、そのような隙は、いつでも致命的なものだ。
デシレの薄い唇が、エルステルのそれに当てられた。
二メートルにあと十センチ足らずで届くエルステルの唇を奪うのに、爪先立ちだけで足りていた。
大人の余裕で相手を黙らせたデシレは、赤い跡を残して身を退がらせる。
「そろそろ会議の時間よ。私はまだ調整に時間がかかるから、遅れるって伝えてね」
「あ、ああ」
雰囲気に飲まれるエルステルの右手で、自動ドアが開き、光がその金の瞳を刺した。まともに動かない思考のまま、彼の足は光に誘われるように動く。
数歩でドアを潜るのを見て、デシレはエンジェルハイロゥでドアに、今度は閉まるようにアクセスする。空気の抜ける音だけで、それは実行された。
短く、そして切なくデシレが息を吐き出した。
「どうしてあんなにこの子達を嫌うのかしら」
しなやかな手が、カプセルベッドの透明なバイザーを撫でる。そしてその手は、力を失ったように降りていき、側面にある開閉スイッチに触れた。
手のひらに重なるように光が漏れ出し、白い手が暗闇に浮かび上がる。
「もう起きられるでしょ?」
デシレは静かに上がりきったバイザーを避けて、中を覗き込む。
そこにいたのは、細い体躯を持った男性だ。同じくスマートな体格とはいえ、引き締まった筋肉からそれが造形されているエルステルとは違い、線が細いという表現がよく似合う。
彼は数度目を瞬かせ、そしてデシレへと焦点を合わせた。
「私のことがわかる?」
「はい。自分の製作者であるデシレ・アウスオル様と認識しています」
その体つきに合わせたような、軽やかな声がデシレに答えた。回答の間、彼の緑銀の瞳に細かく光が走ったのは、予め入力されていたデータを参照していたからだ。マキナを素体としている体は、しっかりと機能しているようだ。
「そうよ。いい子ね」
デシレは彼の頬に手を当て、そのまま後ろ髪へと手を伸ばし、細い指でその黒髪を撫でてやった。寝たきりで張り付いていた髪が空気を取り込み、くしゃりとクセを付けられていく。
「VD-22。あなたの名前はログ。ログ・アウスオルよ」
自分の名前を告げられた瞬間、ログはきゅっと眉を寄せた。
その胸の渦巻きも理解出来ないまま、彼は視線を彷徨わせる。
「何故、自分にファミリーネームを?」
その質問はなんとか搾り出したという感覚で、喉に張り付いていた。
掠れて聞こえにくいその音も聞き逃さず、デシレは深く頷く。
「あなたは私の子供ですもの。それも、他のVDシリーズよりも、少しだけ特別なね」
くるり、とデシレの指がログの髪を絡めて、カールを作った。
「今の拒絶反応で、それを確信したわ」
「拒絶……?」
呆然と、ログはその言葉を反芻する。
「申し訳ありません。創造主に逆らうなど、大それたことを致しました」
「いいのよ。子は時として、母に反発するものよ?」
デシレはログの髪に絡ませていた指を名残惜しそうに離し、その手を取る。ログが立ち上がる手助けをしてやれば、彼の身長はデシレが少し見上げなければならないものだと分かる。
「いくわよ。みんなが待っているから」
ログは黙って頷き、先に歩いていく母の背中を追いかけ、外の光が入ってくる扉へと足を向けた。
『生まれた』ばかりだが、その歩みに問題はない。科学技術の失われたこの時代で、魔法を使わずにここまでのマンメイドを仕上げたデシレのレベルの高さを、それは証明していた。