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第4話 ジャグワーと家令とテキスト形式

 その黒光りするボディは、西日を反射して輝いていた。


「え、何この車? 外車か? というか、こんな狭い道でドリフトすんなよ……ああ、もう色々ツッコミが追いつかん」

「車はジャグワーですよ、師匠」

「ジャグワー、ですか」


 妙に発音のいい、クイーンズイングリッシュで前半の質問にだけ答えてくれる来夏。

 

 ジャグワー。それはつまり、世間で言うところのジャガーのことですね。超高級車ですね。


「なんともまぁ、セレブな話だこと」


 呆れる俺をよそに、ゆっくりと車のドア──それも外車なので左側が開いた。


 運転席からきびきびとした動作で出て来たのは、これまた車と同じく高そうなレディーススーツに身を包んだ長身の女性だった。非常に均整の取れたスタイルであり、服全体をダークグレーで統一している。


「女……の人?」


 女性は長い黒髪を頭の後ろで無造作に束ねてポニーテールにしており、整った顔には人の良さそうな柔和な笑みを浮かべている。俺より年上ということはないのだろうが、一見して年齢不詳風な美女である。彼女が噂のガトウさんなのだろうか。


「お迎えに上がりました、お嬢様」


 そう言って彼女は、教科書に掲載されそうなくらい見事な角度でお辞儀をした。無論、その相手は俺でなく来夏だ。


「ガトウ、ご苦労様。早かったですね」


 口調は労っているのだが、表情はデフォルトから動かさないまま来夏が返した。やはりこのスーツの女性がガトウさんで合っていたようだ。ガトウというゴツい名前に似合わず、眉目秀麗な女性が来るとは少々驚きだった。


「お嬢様、こちらの方は?」


 ガトウ女史が俺の方を訝しげに見つめる。


「師匠です」


 間髪入れずに来夏が答えた。


「お嬢様の師匠……ですか?」

「そうですよ」

「師となると、お嬢様は何か新しい習い事でもされておられるのですか?」

「まぁ、習い事みたいなものですね」

「それは一体?」

「エロ──」


 俺は、今まさに余計なことを言わんとする来夏の口を慌てて押さえた。ふがふがともがく来夏を尻目に、ガトウ女史へと向き直る。


「あ、あの、こちらの来夏嬢に文章作法の手ほどきをしております、安藤竜一と申します」

「これはこれはご丁寧に。私は城戸家で使用人をしております、ガトウカナエと申します」


 ガトウ女史は懐から小さなケースを取り出し、その中に入っていた名刺を渡してきた。


「あ、どうも」


 頭を下げて片手で受け取る俺。本来名刺は両手で受け取るのが礼儀だが、この際仕方ない。


 名刺には城戸家家令、賀東香奈惠(がとうかなえ)と書かれていた。これでようやく、ガトウという字がどんな漢字なのかを理解できた。


「賀東さんは、使用人とのことですがメイド……とは違うのですか?」

「確かにメイド『も』致します」

「ほほぅ」


 ずいぶん含みのある言葉だな。本人は使用人と言っているが、名刺には家令とあるし、もしかするとかなり偉い立場の人なのかもしれない。


「安藤様は文章作法の手ほどきをしておられるとのことですが」

「は、はい」


 俺は嘘は言ってないぞ。嘘は。ちょっと方向性が違うだけだ。


「お嬢様とは論文のお勉強をなさっていらっしゃるのでしょうか?」

「論文とは似たようなもの……みたいな……感じ……ですか?」

「はぁ。私に聞かれましても」


 そりゃそうだ。


「なぜ疑問文だったのかはさておき」

「な、なんでしょうか?」

「安藤様がお嬢様の口をふさいでおられるのは、一体なぜなのです?」


 あ、そういやふさいだままだった。鼻まで押さえるようなミスはしていないので、気道の確保はできている。これなら呼吸は大丈夫だな。


 話が終わるまでもうちょっと我慢してろと、もがき続ける来夏に流し目でアイコンタクトを送っておく。


「これは、その、コミュニケーションの一種です」

「そうなのですか。ずいぶん斬新でございますね」

「こうやって口を圧迫し、鼻からの呼吸を促してやると気分が落ち着くようになるんです」

「まぁ、それはそれは」

「あはは」

「うふふ」


 笑い合う俺達の周りには、穏やかな空気が流れていた。


「……って、痛ぇ!」


 突然、手の平に鋭い痛みが走った。


「来夏、お前噛みやがったな!?」

「噛みましたが」

「痛いだろうが!」

「まぁ、噛みましたからね」


 犯人は来夏だった。俺の手を振りほどき、大きく深呼吸している。


「年頃の女の子が噛みついたりするんじゃありません! 歯形付いただろうが!」

「いえいえ。師匠風に言えば、これもコミュニケーションの一種です」

「歯形が付くコミュニケーションってどんなコミュニケーションだよ! バイオレンスすぎるわ!」


 それでいてドメスティックでカニバリズム臭い。こんな痛みの伴うコミュニケーションはご免である。


「まぁまぁ。仲がよろしいのでございますね」


 賀東女史は笑みを崩さない。この人は大物かもしれない。


「私と師匠は仲良しなんですよ。ですよね、師匠?」

「そうね。仲良しね……」


 噛まれて歯形の痕が残るくらいに弟子の愛が痛い。


「お嬢様、そろそろ」


 賀東女史が、来夏を促した。


「ん、分かりました。では師匠。私は車で帰りますので」

「あ、ああ……。気を付けてな」

「安藤様。私は常日頃より安全運転を心がけておりますので心配ご無用ですよ」


 嘘を付け。あんた峠でも攻めそうな勢いでドリフトしてここに来てたじゃないか。


 とは、口が裂けても言わない。俺は空気が読める男なのだ。


「それでは安藤様。失礼致します」


 出会った時と同じような完璧な動作でお辞儀をすると、賀東女史は来夏を連れて車に乗り込んだ。来夏は助手席から一度だけ軽い会釈をし、俺もなんとなく頷き返す。そうして、ジャガーは発進していった。


 それも急加速で。


「あれは果たして安全運転なのだろうか?」


 答えはない。

 

 V型八気筒のエンジンを爆音で響かせながら、ジャガーは去っていった。


 後にはただ、焦げたタイヤの臭いと、黒い跡の付いたアスファルトだけが残された。





 十日後。


 俺はアパートの自室で死の危機に瀕していた。


 身体に力が入らず、大の字になって床に転がっている俺。


「死ぬ。このままでは死んでしまう」


 もう四日も食事を取っていない。人は水道水だけでは生きられない。このままでは孤独死の危険性がある。


 それもこれも、全てはあの女のせいだ。あの女が悪いのだ。


「あの糞アマめ。何がマリンだ、変な名前でふざけやがって。あんだけ魚群外しておいてごめんねはねぇだろうが。そんな言葉で許されるのだろうか? いや、許されるはずがない。マジでくたばれマリン。明日を救うような名前しやがって、ちくしょうが。俺を救ってくれないのはどうしてだ。本当にどうなってんだよ」


 俺は数少ない貯金を、パチンコという高尚で知的なギャンブルで全てスッてしまったのだ。財布の中には一円玉が数枚入っているのみ。見事なまでのオケラ状態。


 誠心誠意頼み込めば飯くらい奢ってくれそうな友人知人に親類はいるが、みな住んでいる場所が遠方だ。頼んでも来てくれないだろうし、こちらからたかりにいく金すらない。


 まさに進退窮まった。まとまった金が入る前に賭けに出るのではなかった。一体どうするべきか。


「外に行って……野草でも採ってこようかな……」


 食べられる草の判別できるほど詳しくはないけれど。まぁ、仮に毒草食っても死にはしないだろう。よし行こう。すぐ行こう。


 俺は芋虫のような緩慢な動きで、匍匐前進しながら玄関へと向かった。


「あ、靴……」


 そういえば、革靴って牛の皮で出来てるんだよな……。


「靴って、焼いたら食えるかな……?」


 外に行って野草を採取するより、靴を焼いて食った方が早いのではないか? いや、むしろ生でもいけるのでは? こう、タタキ感覚というかレアというか、そんな感じで。


「……ぬぅ」


 喉の奥で、嚥下した唾が音を立てて鳴った。ちなみに腹の方はずっと鳴りっぱなしで自己主張が止まらない。


 俺の思考が危険域へと突入しかけた、その時だった。


「師匠、来ました」


 数度のノックの後、玄関のドアを開けて現れたのは制服姿の美少女。そこには十日ぶりに見る来夏の姿があった。


「師匠、何してるんですかそんな格好で。新しい遊びですか? 流行ってるんですか?」

「お前は、俺が遊んでいるように見えるのか……?」

「はい、見えます」

「そうか……」


 だめだ。言い返そうと思ったが気力がない。しかし、代わりに俺の胃袋が激しく音を立てた。


「なんですかこの音。師匠、空腹なんですか」

「ああ、ものすごく腹減った……」

「そうですか」

「そうなんだ……」

「なら、何か食べればいいのでは?」

「冷蔵庫には食材がない……。何か買いに行く金もない……」

「本気で言ってるんですか?」

「ああ……」


 冗談を言う気力もない。


「仕方ありませんね。ちょっと待っててください」


 来夏はそういうと携帯を取り出して、どこかへとかけ始めた。


「あ、丑乃屋の方ですか? 特上一つ、注文お願いします。住所は──」


 来夏は話し終えると、携帯をしまった。


「師匠、店屋物を頼んでおきましたので、しばしご辛抱を」

「おお……おお……!」


 神だ。神はここにいた!


 現金な物で、飯が食えると思ったら急に元気が出て来た。俺はうつ伏せ状態を脱して玄関の前で正座をし、今か今かと配達の人を待ち続ける。来夏は部屋の方に通しておいたが、特に何も言わずに大人しくしていた。恐らく内心では呆れていたのだろうが。


 と、チャイムが鳴った。


「お、来たぞ来夏! 金よろしく!」

「はいはい」


 ぞんざいに言いながら奥からやって来た来夏は、俺の前で玄関のドアを開けた。果たしてそこには宅配の方らしき人がいて、来夏は一言二言会話を交わすと料金を支払って食料を受け取った。


「師匠、お待たせしました」

「……来夏、そいつはまさか?」


 その手に持っている素晴らしい香りの食料は……? お盆に載った重箱はもしかして……?


「ただの鰻ですよ。どうぞ、冷めない内に食べちゃってください」

「鰻来たあッ!!」


 俺は来夏の手から鰻丼を奪い取ると、むさぼるようにして一気に食った。恐らく完食までに、時間にして二分もかかってはいなかっただろう。それくらい俺は腹が減っていたのだ。


「ごちそうさん。すっげぇ美味かった」

「はぁ。お粗末様でした」

「いやぁ、持つべき者は弟子だね。師匠のピンチにご飯奢ってくれるなんて孝行者だね、このッ!」

「何を言ってるんですか師匠?」

「え?」

「は?」


 何って何が?


「寝言は寝てから言ってください。あくまでも貸しですよ」

「え? え?」

「ちゃんとお金返してくださいね」

「……ちなみに、あの鰻のお代はいかほどで?」


 嫌な予感がした。こういう時の予感はえてして的中率が高い。


「そんなに大した値段ではありませんよ」

「だ、だよね。鰻って言っても、食ったの一杯だけだしね」

「たったの二万円ほどですので」

「高ぇよ!!」


 財布に三円しか入ってないんだぞ俺は!


「そうは言われても、私にとっては大した値段ではありませんし。そもそも師匠は自分より年下の、それも女子高生相手にお金を借りるという事態を恥じるべきなのでは?」


 ちくしょう、好き放題正論言いやがって。こんなことならもっと味わって食っておけばよかった。


 それにしても失態だ……。こいつがセレブなお嬢様だということを忘れていた……。せめて何か頼む前に安いピザにでもしてもらえばよかったのだが、今となってはもう遅い。


 くそ、こうなったら……!


「来夏、アレだ! 今は金の話は置いといて先日の続きをしよう! すぐしよう!」

「確かに先日、プロットを書いてこいと言われたから書いてきたのですけれども」

「お、偉いぞ来夏。では早速それを添削しようじゃありませんか!」

「はぁ。まぁ構いませんが」


 来夏が「これです」と差し出したUSBメモリを受け取り、俺のパソコンに繋いで閲覧する。


 そこには二つのテキストファイルがあった。


 あったのだが……。


「来夏君、来夏君」

「なんですか師匠」

「このファイルはなんだね?」

「ニキロバイトの方がプロットで、五キロバイト以上書いてある方がオープニング部です」

「ほほぅ」

「それが何か?」


 そう、確かに二つのファイルの拡張子はテキストである。


 プロットの方の二キロバイトというのはまだいい。元々サイズは指定してなかったし、好きに書かせるつもりだった。


 しかし──。


「テキスト形式はテキスト形式でも、これは両方ともリッチテキストの拡張子じゃないか!」

「ふむん?」


 ──Rich Text(リッチテキスト)


 それは一太郎などのワード系ソフトで使用する文書ファイルの形式の一種である。拡張子は「.rtf」であり、確かにテキストファイルではあるのだが、通常「テキスト形式で○○キロバイト書いてこい」などと指定された場合には、拡張子「.txt」の方で提出するのが常識であると言われている。


 ……ということを、俺は来夏に説明した。


「リッチテキストは適当に改行入れただけでもサイズがモリモリ増えるし、キロバイト指定の時には当てにならないから使っちゃだめなのよ。来夏の書いてきたオープニングも、リッチテキストじゃなくてこっちのテキスト形式に直すと……」

「直すと?」

「なんということでしょう。三キロバイトしかありません」

「おお」

「と、こうなるわけだな。分かったか?」

「なるほど、奥が深い」


 こくこくと頷く来夏に、深い溜め息を吐いた俺だった。


投稿間隔は10日~2週間に1度と書きましたが、場合によっては今回のように少し早くなる時もあります。

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