第18話 まずは企画書から
忍耐力という言葉がある。それが限界に達した時、人は怒りを覚えるという。俗に言う、堪忍袋の緒が切れるというやつだ。
それはたとえるなら、空気を入れすぎて膨れた風船。軽くつつけば呆気なく破裂する代物だ。一度割れたが最後、溜まりに溜まった怒りという名の中身は周囲に暴威をまき散らす。たかが風船とあなどるなかれ。その特殊な風船の威力は、自然現象に近いものがある。偉大なる大自然は、いつだって人の手には余るのだ。
「まーちゃん。うるさい」
とどのつまりは、騒ぎすぎたまーちゃんに対しての来夏の一言。口調も表情も平素と変わらぬものであったが、言葉が発せられた瞬間、体感的に室温が一〇度は下がった気がした。空気が凍るとは、まさにこのことか。
「じょ、冗談やって来夏。ちょっとしたおふざけやん?」
「まーちゃん。うるさい」
来夏は、同じ文言を一句違わず繰り返した。有無を言わさぬ雰囲気に、まーちゃんは口角を引きつらせて静かになる。来夏という名の風船は、ほんのわずかな刺激でも破裂しそうだった。
「あの、分かりました。静かにします……」
俺は標準語になってしまったまーちゃんからバズーカを取り上げ、棚にある漫画でも読んで大人しくしていろと言って追い出した。しばらく無言のまま、部屋の隅へと追いやられたまーちゃんの背を見つめて佇んでいた来夏であったが、雰囲気は徐々に和らいでいった。
「改めて、話を続けようか」
「お願いします」
こうして、ようやく中断していた話を再開することになった。
「来夏の企画に足りない致命的にゃ……な、物は……」
「今噛みましたね、師匠」
「ええい! いいこと言おうとしている時に水を差すな!」
「あ、すいません。お話を続けてください」
「来夏の企画に足りない致命的な物。それは……」
「最初からやり直すんですね」
「それは、企画書だ!」
来夏の呟きは聞かなかったことにして、勢いに任せ最後まで言い切った。
「企画書?」
「ああ。企画と言うからには企画書がないとな」
「理屈は分かりますが、企画書ですか……。何やら難しそうな感じですね」
ふむん、といつもの口癖を漏らしながら唸る来夏。企画書という言葉の響きから難解な代物を予想しているのだろうか。
「別にどこぞの会社で使うような本格的なものを書けと言っているのではないさ」
「ふむん。ですが師匠。私は企画書など書いたことはありませんよ」
「だろうな」
企画書を書き慣れている女子高校生がいたら、むしろ怖い。ああいった物に普段からお世話になる人種は、企業戦士と呼ばれるみなさんくらいだ。二四時間戦える戦士達と違って、一般人には縁遠いのは間違いない。
「だろうなって……。では、どうすればいいのですか」
「それを説明する前にだな。来夏はなぜ企画書が必要なのかは分かっているのか?」
「企画書が必要な理由ですか? それは、師匠がおっしゃったように、企画と名の付くからには企画書が──」
「はい、不正解」
PCの前で椅子に逆向きに座り、背もたれの上で腕を組みながら話す俺。時々意味もなく、その場で右に左にと回転したりもする。態度はとても不真面目だが、話す内容は至極真面目だ。
「違うのですか?」
「そんな単純な理由じゃありません」
「ふぬぅ」
来夏の口癖が「ふむん」ではなく「ふぬぅ」に変化した。これは何かの予兆だろうか。
「来夏の作った募集サイトには、何が載っていた?」
「サイトですか。スタッフを募集する旨と、世界観の説明ですね」
「説明じゃなくて設定集だろう、あれは」
「そうとも言いますが、問題でも?」
目は口ほどに物を言う。来夏は気丈に真っ直ぐ俺を見返している。設定集のどこがいけないのだと、鳶色の瞳が雄弁に物語っていた。
「問題だらけだよ。あれじゃ駄目だ。企画で何をしたいのかまるで分からん」
「そ、そんな馬鹿なことが」
来夏はふらつく足取りで立ち上がり、俺の座っていた椅子を掴むと────勢いをつけて回転させた。
「おぉうぁあぁああ?」
回る回る。世界が回る。スプリングを軋ませ、フローリングの床の上を滑るように回転する椅子。部屋の景色が歪み、まるで走馬燈のように流れていく。
「師匠。設定集では駄目なのですか」
「駄目、だ」
「もっと具体的に教えてください。どこが悪いのですか」
「いいから、その前に、椅子を、止め、てくれ」
勢いが弱まりそうになると来夏が回転を追加するので、いつまで経っても終わらない、止まらない。そろそろ気持ち悪くなってきた辺りで、ようやく来夏が止めてくれた。吐く前に止まってくれて一安心。
というか、この行為に何の意味があったのだろうか。
「それで師匠。スタッフを募集するのに設定集では駄目な理由とは?」
「……設定だけ延々と見せられても、ゲーム性が書いてないと本末転倒だろう」
「ゲーム性ですか。むぅ」
来夏は形の良い顎に手を当てて、再び床に座ると考え込んでしまった。その様子を見た俺は、フローリングの床は直接座ると尻が冷えそうだと秘かに思ったが、口に出すとセクハラ扱いされそうだったので何も言わなかった。
我が家は狭いワンルームである。ソファすら存在しない。俺の部屋には椅子が一脚しか置いていないので、こうして俺が占有してしまうと必然的に客人は床かベッドに座るしかない。今度座布団でも買って来ようかなと、なんとなく考えた俺だった。
「こればっかりは、考え込んでも無駄だろうから先に答えを言うぞ」
「了解です。して、答えとは?」
顔を上げた来夏と視線がぶつかる。床にいる来夏を見下ろす体勢になっているせいか、なんとなく優越感。
「うむ。主に、ジャンル、コンセプト、基本となる物語の原案、システム面の簡易説明だな。この辺をきっちり書いておかないと、企画でどんなゲームを作りたいのかが伝わらない」
「なんと」
「これが商業なら、更に詳しく書く必要がある。ゲームの対象となる層はどこになるか、システムの訴求点は何か、演出はどういった部分が売りか、企画の意図はどの辺にあるのか、とかな。まぁ、さすがに素人の同人製作だから、そこまでは求めないが」
本来、ゲームの企画書とは偉い人に対して、こんな面白い企画がありますよと文面で伝えて、上手い具合に騙してお金をせびるための物である。
それを読んだ人がパッと見て意図を理解しやすく、かつ、面白いと一目で感じなければならないのだ。つまりは、設定集だけしか載っていないスタッフ募集サイトなんぞ言語道断。作者の自己満足だけが詰まった産物には用がないということである。
……ということも、ついでに来夏に話してやった。
「なるほど。企画書とは奥が深いのですね。騙すという表現は少々気になりましたが」
「何を言うか。同人製作も同じことだ。とりあえずスタッフに引き入れてしまえばこっちのものよ。俺達はNOと言えない日本人だからな。一度仲間になってしまえば、しがらみが増えて抜けにくいのだ」
「鬼ですね、師匠」
「これがゲーム製作における、ディレクターの処世術というものだ。覚えておけ」
ゲーム業界は地獄だぜ!
「さて、企画書について来夏も理解してくれたことだし、後はそれを書くだけだな」
「むぅ。ですから、書いたことのない物をいきなり書けと言われましても」
「そんなに難しく考える必要はないぞ。企画書の内容を、質問形式にしてみようか」
「ふむん」
「来夏の作りたいゲームのジャンルは?」
「ADVですね」
「ゲームのコンセプトは?」
「無敵で素敵で最強の主人公による圧倒的なカタルシスです」
「基本となるゲームの原案は?」
「原案……というと、あらすじ的なものでいいのでしょうか?」
「ああ、それで構わない」
「主人公が異世界の姫に召喚され、その世界を救うお話です」
打てば響く受け答え。立て板に水を流すがごとくの素早い返しだ。ゲーム製作という、お嬢様には未知のジャンルに挑戦しているおかげで普段は失敗も多いが、来夏は基本的に頭の回転は速い。文章作法を教えた時は、プロの文を模写しろなどという、ある種いい加減な指導を真面目にこなして短期間で物にしてしまったほどである。応用力は少々乏しいのかもしれないが、理解力は高いのだ。
「見事に一行でまとめたな。では最後に、システム面の簡易説明は?」
「ふむん。システム面の説明……。難しいですね。上手く言えません」
「以前、一般的なADVとはどんな物かは教えただろう? 全画面形式と小窓形式の違いを教えた時に」
「ああ、あれでいいのですか。では、ゲームのシステムは一般的な小窓形式の、紙芝居型ノベルゲームです。ヒロインの好感度を積み重ねて、専用ルートに移行します」
「うむ。よくできました」
「合格のようで安心しました。今のを詳しい文面に直せば、企画書となるのですか?」
「その通りだ。でもな、来夏。俺はお前に言っておかなければならないことがある」
「はぁ。なんでしょう」
「最強主人公というコンセプトも、ファンタジー世界を舞台とするのも、俺はメインの話として使うのは厳しいからボツだと言ったよな?」
来夏はさっと目を逸らした。
「おいコラ」
「いえ、そのですね師匠。これには山よりも高く、海よりも深い重大な理由が」
「ほほぅ。その理由は?」
「理由は……」
「理由は?」
「せっかく作った設定を使わないのは、もったいないかな……と、思わないでもないような、気が……しないでも……ない、ような?」
後半にいくほど、来夏の声が小さくなって聞き取り辛くなる。誤魔化そうとしていているのが、清々しいまでに丸分かりだった。
「とにかく、ボツだボツ。コンセプトと舞台を変えてやり直し。以前来夏が脱退した企画での、学園物でルートの一つとして毛色を変えてやるのとは訳が違う。あ、それと設定集もいらんから消しとけ」
「なんと。設定集までもですか。あれは渾身の力作でしたのに。納得いきません師匠」
興奮しているのか、目をくわっと見開いて来夏が俺の両肩を掴んできた。ちょうど肩が凝っていたので、親指の辺りがツボに当たって気持ちいい。あ、そこそこ。このままついでに腰も頼む……ではなく。
「落ち着け来夏」
「私はいつでも落ち着いていますが。これ以上なく冷静ですが。何があってもクールですが」
全然落ち着いているようには見えなかった。
「そう思うなら、まずはこの手を離せって」
「おっと。失礼しました師匠」
来夏の白魚のような細い手が、ゆっくりと肩から離れていった。
どうにも名残惜しい気がするので、今度師匠特権を使ってマッサージでも頼もうか。一銭にもならない来夏とのデートよりも、そちらの方がよほど嬉しい。身体疲労も回復して万々歳間違い無し。俺は名より実を取るのだ。
「来夏よ。微に入り細を穿つような設定集が用意してあり、隅から隅まで内容がガチガチに決まってる企画があった場合、サブライターの参入する余地がなくなるだろ。一から十まで全部指示通りに書けと言われたとして、来夏は楽しいか?」
「……楽しくないです。サブライターだとしても、自分の考えた設定を少しは使いたいと思います」
「そうだろ。実際、来夏は自分の設定を通したいからこそ、サークルを立ち上げたんだしな」
「まさにその通りです。私だけの物語をゲームという場で表現したいからこそ、新サークルを設立したのですから」
ゲーム製作に参加しようとする人は、みんな大なり小なり、己の世界を表現したいと思っている。それはライターだけでなく、絵師や音楽、スクリプターに至るまで変わらない。自分のやりたいことだけを他者に全て押しつけるのなら、それこそ金を払ってプロに頼めばいいという結論になってしまう。そんな独りよがりなものは、企画でもなんでもない。スタッフの気持ちを汲んであげるからこそ、長く辛い製作も乗り切れるようになるのだ。
「まぁ、サブライターを募集せずに、全てを自分一人で書くってんなら有りなんだがな」
「ふむん。さすがに一人で全て執筆するのは厳しいです」
「そうだろうなぁ。俺だってそんなに書くのは面倒で嫌だし」
来夏の製作するゲームはヒロインが三人いる平均的な内容だと仮定すると、一ルート辺り二〇〇~三〇〇キロバイト。共通ルートも同じく二〇〇~三〇〇キロバイトとした場合、文章の総量が約一メガバイト前後にもなる。文字数で換算すれば五〇万字以上だ。
甘めに見積もって製作期間に一年かかるとしても、シナリオは遅くとも半年以内に完成させなければならない。半年で五〇万字も書くのは、素人だとかなり厳しい。それも無償製作だと、書き慣れている人でもお断りするレベルだ。
「とりあえず来夏は募集サイトを一旦停止して、まずは企画書を書き上げることだな」
「了解しました。ボツになった部分は変更し、今度こそスタッフが釣れるような内容を目指します」
「……ほどほどにな」
教えた俺が言うのもなんだが、身も蓋もない。
「ん、そういやまーちゃんは何をしてるんだ? ずいぶん静かだけど」
「まーちゃんですか。それならあそこに」
来夏の指に誘導されて目をやると、そこにはヘッドホン着用で、ゲーム機に接続されたコントローラーのボタンを必死に連打しているまーちゃんの姿が。棚の横に設置されている液晶のテレビ画面(地デジ対応)では、某有名格闘ゲームの主人公が熱いバトルを繰り広げていた。
「師匠。あれはまさか伝説の一六連打ですか」
「いや、ただ無茶苦茶に押してるだけじゃないか?」
どこの名人だ、まーちゃんは。指でスイカでも割るのか。
と、その時。
「あ」
「あ」
俺と来夏の声が重なる。まーちゃんの操っていた、胴着にハチマキ姿という主人公キャラが、パンツ一丁な巨漢のモヒカン男に投げられて負けた。それも見事な逆転負けだ。一瞬で体力ゲージの半分以上が吹っ飛んだ。
画面いっぱいに広がる「YOU LOSE」の文字。
「なんやねん、今の理不尽な吸い込みと威力! クソゲーや!」
コントローラーを床に叩きつけ、雄叫びを上げる金髪娘。
どこまでいっても、フリーダムなまーちゃんであった。