第13話 ファンタジー講座
思えば、来夏は学生の身にも関わらず、株で五〇〇万も稼いだ女だ。さすがは俺の弟子を名乗るだけのことはある。弟子と師匠は一心同体。弟子の功績は師匠の功績と同意義。つまりは、師匠である俺も相対的に偉いということだな、うん。一分の無駄も隙もない完璧な論理だ。
「師匠。どうしました」
「おわッ」
銀河の彼方まで飛躍した論理で満足感に浸っていた俺の目の前に、いつの間にか来夏の顔があった。距離にして数センチ。床に手をついて上半身だけ伸ばした、あまりにも無防備な体勢。以前にも似たようなことがあったが、来夏は俺のことを男だと意識していないのだろうか。
「師匠?」
薄くリップを塗った唇から聞こえる、心地よい声。来夏が俺の名を呼んでいる。不思議そうに小首を傾げる様は、まるで俺に何かを訴えているような、そんな感じで──。
「師匠ったら。私の話を聞いているのですか」
艶然と揺れる黒髪から、鼻孔をくすぐる甘い、フローラルな香りがする。これは柑橘系の匂いだ。香油か、それともシャンプーの残り香か。なんだか頭の奥が痺れて、ぼんやりしてきた。
俺は────って、俺は一体何を?
このままだと何か取り返しのつかないことになりそうに思えた俺は、強引に頭を振って思考を切り替えた。俺は年下すぎる女は、守備範囲外だ。ストライクゾーンからボール二つは外れている。そのはずだ。来夏がデートがどうのとか変なことを言い出したからこうなったに違いない。俺は悪くない。
「あ、いや。なんでも、ない」
「はぁ。そうですか。なんだか釈然としませんが」
そう言って来夏は再び距離をとって離れた。俺はなんでもないように、わざとらしく咳払いをすると話を再開した。内心に巻き起こった小さな動揺は、気のせいだと言い聞かせて。
「……じゃあ、さっきの話の前者の方から。既存のサークルに参加する場合について教えようか」
「お願いします」
「この場合、来夏はライターとして参加することになるとなるんだが……」
「はい。私はあくまでもライター志望ですので」
「大抵の場合、サークルにはすでにメインライターが存在しているので、後から来たライターはサブに回されてしまうんだよ」
「そういえば……私が入ったサークルでも、最初はサブライターを任命されました。最終的には更に格下げされて、雑用係にまで落ちてしまいましたが」
来夏が少しだけ遠い目をした。膝の上で握りしめた拳がかすかに震えていることから、恐らく内心では怒りを抑えているのだろう。
「もちろんサブのライターだから、ヒロインを担当できたとしても同じくサブヒロインだし、責任感はメインライターに比べて少ないのはメリットだが、ライターとして自由度も少ない。こいつはデメリットだな」
「なんと」
「学園物のシナリオって決まっていたら、それに合わせて書かないといけないしな。チャットで来夏が言っていたように、別ルートでジャンル自体を変更して書くってのは本来NG行為だ」
「なぜです? ルートによって内容が変化することこそ、ノベルゲームの醍醐味ではないですか」
「確かにそれはそうなんだが……」
選択肢の少ないノベルゲームは「一本道ゲーム」などとユーザーから揶揄されてしまうように、様々な展開を用意するのはシナリオを書くライターの義務であり楽しみでもある。だが、しかし。
「ファンタジーってジャンルはな。一言で言うと面倒くさいんだよ」
「面倒くさい?」
そう。一言で表すと、ものすごく面倒なのだ。もちろん一言で言わなくとも面倒なのだが、そこは言葉の綾だ。
「そもそもだな。ファンタジーとは、前準備も無しに軽々しく書くと必ず粗が出る」
「ふむん」
「いくら文化レベルを地球の中世風に似せて書くとしても、その世界にはどんな制度の国があり、どんな宗教の元に人々は暮らし、どんな習慣があり、どんな生き物がいて、どんな食事をし……と、数え上げたらきりがないくらいの細かな設定を一から考えないといけないからな」
「その設定を考えるのも作者の楽しみの内だとは思うのですが……」
「まぁ、そうなんだけどな。それをせず、なんとなく異世界を舞台に書いてしまう作者も多いんだよ」
「なるほど、奥が深い」
大きな目を何度か瞬かせ、神妙な面持ちで頷く来夏。無論──表情はいつもと変わらないので、俺から見れば神妙そうに見えたというだけの話。
「小説を書く前に設定を色々と考えるのは、私はとても楽しかったのですが、全ての人が設定を用意するというわけではないのですね」
「ま、そういうことだ」
かくいう来夏は、設定集をノート数冊分にびっしりと書いて用意してきていた。設定だけは巌のようにガチガチに固めていたものの、肝心の本文は至極残念な出来であったが……。
「この話はあまりしたくなかったんだが」
そう前置きした上で、
「俺も昔、ファンタジーを書いた経験がある」
それも──学生時代、来夏と同じくらいの年頃に。
「師匠もですか」
「ああ。若気の至りで、例によって現代人が異世界に召喚される話をな」
今になって思えば、あれは俺の黒歴史の産物だ。闇の中へ葬り去りたいので本当は思い出したくもない出来事なのだが、来夏のためにも言っておいた方がいいだろう。
「興味深いですね。そのファンタジーはどうなったのです?」
「最初は楽だと思ったんだがな……。書いてる内に、破綻してきた」
「なにゆえ?」
「なんというかなぁ。言語自体は魔法の力で通じているという設定で押し通したんだが、会話がなぁ……」
「はぁ。会話ですか」
そう、問題は会話文だったのである。このせいで俺は、それ以来ファンタジーに安易に手を出すことはやめようと誓ったのだ。
「異世界ファンタジーってのはやたらと横文字な名前の人物が出てくるのが常なんだが、そのくせ、そいつらの思考や価値観をどうしても現代世界の人間に当てはめて書いてしまってな。おかげで登場キャラの会話は現代人とあまり変わらんし、うっかりすると異世界人なのに『呉越同舟』みたいな地球の地名入りの熟語使ってしまうし、もう面倒くさいったらありゃしない」
「なるほど、参考になります。確かに異世界で地球の地名を出すのはまずいですね」
傍から見ると非常にまずい。まずのだが、書いている作者側からすればなかなか気付きにくいのだ。特にネットに溢れるファンタジー小説の類は、現代人が主人公の一人称物が多いので、作者はついつい主人公と同じ感覚で登場キャラにも会話させてしまう。これが大きな罠なのである。「呉越同舟」のような地名の入った熟語の問題を解決するには「アモルサァとクルグァが同じ橋を渡る」のような、読者に同じニュアンスだと思わせる適当な異世界的造語を作って対処するしかない。
「──で、ここまでは小説でファンタジーを書く時の話だ」
「と、おっしゃいますと?」
「ファンタジーはな。ゲーム化させると更に面倒が多くなるんだよ」
「……なんと」
ファンタジー世界が舞台のゲーム。それは、RPGと呼ばれるジャンルの国民的人気を誇る、ドラゴン的やファイナル的なゲームを筆頭に、現代日本では一大勢力として認知されている。
もちろんエロゲーも他ならない。つまりは、ノベルゲーム全般でも同じく大人気なのである。が、それはあくまでも商業メーカーがプロとして作れば、と前置きされる。素人集団である同人製作だと、ファンタジーというジャンルは非常に扱いにくい、諸刃の剣なのだ。
「その理由は──」
「その理由とは?」
「背景画像を用意するのが難しいからだ」
「背景、ですか? それは絵師の方が描いてくださるのでは?」
「んん?」
どうも、来夏は絵師に頼めば絵に関しては全て解決すると思っているようだな。言語道断の、なんとも甘い考えだ。
「いいか来夏。前に、ゲーム製作に必要なスタッフについては話したよな?」
「はい、もちろん。ディレクターにライターに絵師に音楽。それにスクリプターでしたね」
「そうだ。その中でも絵師は、場合によっては原画だけでなく、彩色専門や背景専門の絵師も必要になると俺は言ったぞ」
「そうですね。ですが、それはあくまでも『場合によっては』なので、必要になるとは限らないのでは」
「ん~……。そうだな。ではスタッフの中で絵師が一人ないし、少人数しかいなかったと仮定しようか」
「はぁ」
俺はよく仮定で物事を話すが、その方が初心者には分かりやすいからだ。決して思考実験が好きなだけの説明お兄さんではない。……と、考えが逸れてしまった。元に戻そう。
「その場合、原画を担当しつつ自分で彩色も行い、更に背景まで描くという行為は物理的に無茶だ」
「そうなのですか?」
「ああ。ライター畑の人間には絵なんか簡単そうに思えるんだが、それはあくまでも畑違いからくる勘違いに過ぎない。エロゲーの画面ってのは、八〇〇×六〇〇という解像度が一つの基準となっているんだが、この解像度できちんと映る絵を仕上げようと思ったら、莫大な時間がかかるんだ」
「……なるほど」
いきなり解像度とか言っても来夏には難しかったかもしれないと思ったが、どうやらきちんと理解してくれたようだ。
「絵の中でも背景ってのは特に時間がかかってな。同人制作では一般的に版権フリーの画像を探してきて使うか、もしくはスタッフが写真を撮影してきてトレースして線画に起こして塗ることが多いんだよ。で、どうしてもフリー画像やトレースしたもので補えない場合のみ、一から描くといった感じだ」
「ふむん。背景と一口に言っても、様々なものがあるのですね。私は絵のことは絵師が全てなんとかしてくれるとばかり」
ああ、やっぱりそう思っていたか。俺の予想通りである。
「ファンタジーで使う主な背景ってのはな。写真撮影しようと思っても日本じゃ難しいし、何よりフリー画像も数が少ない。となると、絵師に一から描いてもらうしかないんだが、人物だけじゃなく背景までしっかりと描ける絵師というのは存在自体が希少だ。つまり必然的に──ファンタジーというジャンルでゲームを作りたい場合。まずはファンタジックな背景を描ける絵師を確保した上でじゃないと、製作は無理ってことになってしまうわけだ」
「なんと」
絵師は絵に関してなら、注文すればなんでもやってくれるに違いない。素人はそう思ってしまうが、実は全然そんなことはないのだ。
「いいか来夏。よく覚えておけ。同人のゲーム制作ってもんはな。絵師の力量や作業状況次第で、ライターが絵に合わせてシナリオを変更することも多いんだ」
「な、なんと」
来夏はよほど驚いたのか、いつもの口癖がどもっている。そこまで衝撃だったのだろうか。
「ちなみに、ゲームで使う絵については全般的にスチルと呼称する。これも覚えておけ」
「了解しました、師匠」
他にもスチルの一部分だけ変更する「差分」といった用語があるが、この辺については後で教えればいいだろう。
──余談ではあるが、このような話がある。各社によって細かな差異はあると思うが、商業の場合スチルの変更点が三割以下なら、それは差分として扱われることとなる。そしてグラフィッカーには差分の料金が支払われることはないそうな。スチルに対して差分が多ければ多いほど、グラフィッカーは労力だけが増えていく。なんとも世知辛い世の中である。
「次は来夏自身が企画の代表者になってゲームを製作することについてのメリット・デメリットの話だが……。その前に、ゲーム製作におけるライターという存在の立ち位置に関して教えておいてやろう」
「立ち位置というと、企画内での偉さ的なランキングでしょうか?」
「その通りだ」
ゲーム製作とは集団作業である。それも数ヶ月から、長ければ数年単位で共に活動をしていく。すると、自然と派閥や階級のようなものが形成されてくるのだ。だが、これからの話はそういった単純なものではなく、一般的にそれぞれのスタッフの役職とは、周りからどう評価されているのかを基準とした話だ。
「まず、一番偉いのは企画の代表者たるディレクターだな」
「それは理解できます。まとめ役は権力が高い代わりに、作業量も多いのですよね」
「そうだ。ちゃんと覚えていたようで感心だな」
「このくらい、弟子として当然です」
むふー、と口から自慢気に息を吐く来夏。
「スタッフはピラミッド型の段階的組織構造……俗に言うヒエラルキーが構成されていてな。声優やらのスタッフは置いといくとして、まずはディレクターを頂点として、その後に続くのは絵師。次に同率で音楽とスクリプターが来る」
「あの、師匠」
「なんだ?」
「ライターの位置はどうなっているのでしょうか? 今の話の中では出てこなかったので、不安なのですが」
「そりゃもちろん──」
「もちろん? もちろん、なんですか? ライターの立ち位置は上の方ですよね? そうだと言ってください師匠」
「いやいや。最下層に決まってるじゃないか」
「……えぇ~」
「えぇ~、と言われてもな」
不満をありありと込めた、来夏独特の抑揚のない呻き声に、俺は苦笑しながら頬をかくのだった。