第1話 師匠と弟子と
カーテンを締め切った、薄暗いアパートの一室。
そこにいるのは、座布団に座って向かい合う一組の男女。
俺の目の前で姿勢正しくちょこんと鎮座している、人間国宝が丹精込めて作った日本人形のような容姿の少女。肩にかかった艶のある黒髪。切れ長の瞳に、形の良い鼻。薄くリップを塗った小さな唇がどこか儚げで色気を誘う。そんな紛れもなく美少女と呼べるであろう外見をした少女は、開口一番にこう言った。
「私、エッチなゲームが作りたいんです」
──と。
俺は唐突なカミングアウトにどう返事をしていいのか悩んだが、とりあえず「なるほど」と無難に答えた。
エッチなゲームとはまさかアレだろうか。家電量販店の特殊なコーナーや、専門店でしか買えないというゲームのことか?
ヌメヌメした触手がウネウネしたり、ギシギシしてアンアンするアレのことか?
いやいや、まさか。
「師匠。私、本気です」
顔の筋肉を全く動かさないまま、無表情でとんでもないことを喋る少女。非常にシュールな光景だ。
俺を師匠と呼ぶ彼女の名は城戸来夏。今年で一七歳になる女子高生という職業の生き物である。
女子高生──それは、霊長類ヒト科ヒト目における究極の存在。女子高生という肩書きがあるだけで、その者の魅力値は一〇ポイント以上上昇するという。
女子高生って本当に存在したんだ。都市伝説じゃなかったんだ。すごいな女子高生。
狭いアパートの室内で向かい合う女子高生と、いい歳した俺。何も知らない他人が見れば通報されそうな光景だ。
「そうか、来夏さんは本気なのか」
「はい。本気です。あ、それと私のことは来夏って呼び捨てにしてください。師匠からさん付けされる弟子というのはおかしいと思いますので」
「いや、しかし年頃の女の子を呼び捨てには……」
「本人の許可があるのですから、構いません」
「分かったよ。来夏さ……」
「来夏です」
「……来夏がそう言うのなら」
「はい、師匠」
内心では一体何を考えているのだろうか、俺に来夏と呼び捨てにされても少女の表情は変わらない。
そしてそんな彼女に相対している俺の名は安藤竜一。歳は二七歳。目の前の少女の、ちょうど一回り上の年齢である。職業はフリーターと言い張っているが、実質ニートに近い。花の女子高生と比べると、ゴミのような存在であろう。
なぜそんなゴミのような俺に、女子高生が師事することになったかについては紆余曲折があるのだが、今は割愛。
「……で、そのエッチなゲームってのは、少女漫画的な、デートして手を繋いでドキドキして、最後はハグやらキスしたりとか、そういうの、かな?」
俺は一縷の望みを懸けて、問うた。
「師匠がいつの時代の少女漫画を思い浮かべているのかは存じませんが、違います」
「え、俺の知ってる少女漫画って古いの?」
そんな……まさか。俺は時代に取り残されていたのか? ちょっとショックだ。
「はい、古いです。が、今はそんなことはどうでもいいですので、話を戻します」
「あ、うん」
どうでもいい扱いされて、俺の心は少しだけ傷付いた。
「私の言っているのは、古い少女漫画的な内容ではなく、もっと直接的な表現のあるものです」
「それは……つまり?」
俺は口内へと溜まっていた唾を飲み込む。少女は真剣な目をして告げた。
「未成年お断りの、一八禁的なゲームの話です」
「エ、エロゲーですか」
「はい、いわゆる通称エロゲーというやつです」
淡々とした答えである。うわぁ。ぶっちゃけちゃったよこの子。乙女として恥じらいはないのだろうか。
「そしてこれが、構想中のゲームで使おうと考えているシナリオを書き溜めた物です」
制服姿の黒髪美少女──城戸来夏は脇に置いていた学生鞄からA4サイズのノートを取り出し、俺へと差し出した。無碍にするわけにもいかず、俺はそれを受け取る。
文具店に行けばどこにでも置いてあるような、ごく普通の量産品のノートだ。さわると死神が見えるようになり、中に名前を書くだけで人が死ぬような物騒な代物ではない。ただ、その表紙には黒マジックによる手書きで大きく「アルカンジュ・ワールド」とある。
これはもしかしてシナリオとやらのタイトルなのだろうか? アルカンジュとはフランス語で大天使を意味する言葉だったはず。ワールドは言うまでもなく、英語で世界という意味だ。なぜ英語とフランス語が混在しているのだろうかという疑問は、一時的に棚上げしておく。俺は内心に沸き起こる嫌な予感を振り払うように、その中身をめくった。
「これは……」
これはひどい。
続く言葉は心の中でそっと呟いた。
そのノートは、まるで中学生の黒歴史を体現したかのような内容だった。
パラパラと流し読みしただけだが、頻繁に出てくる「神」や「転生」や「能力」という単語。時折挟まれている主人公らしき人物の派手な自作イラスト。数分眺めただけなのに、俺は目眩がしていた。
「どうですか、師匠?」
上目使いで来夏が聞いてくる。綺麗に切りそろえられた姫カットの前髪から覗く目は、どこまでも真剣だった。
「どうですかって言われてもなぁ。まぁ、なんというか、その、うーん……」
返答に困る。
これが男性相手なら「ふざけんな、おととい来やがれバーロー」と一喝するところだが、相手はか弱い女の子だ。オブラートに包んで返答しなければ、きっと傷付けてしまう。最悪、泣かせてしまうこともありえるだろう。
「まずはしっかりじっくりと、丹念に余すとこなく隅から隅まで、かつ最後まで読んでください」
「ええッ!?」
これを最後まで読めと? それもしっかりと?
無茶だ。拷問にも等しい行為だ。とてもじゃないが俺にはできない。
「いや……その。できれば、来夏さ……来夏の方から内容を簡単に説明してくれないか?」
「私の口から直接語れと? 望むところです」
来夏は顔こそは無表情のままだったが、熱を帯びた口調で滔々と語り出す。ノートのページをめくった時と同じく、嫌な予感がした。
「まず、主人公である龍光牙零魔は元々日本で高校生をしていたのですが、学校の帰り道でトラックと正面衝突してしまい、死んでしまいます。しかしそれは神様のうっかりミスであり、本来死ぬべき運命ではなかった主人公は神様にお詫びとして炎を操る特殊能力をもらい、中世ヨーロッパ風の異世界に転生して活躍しつつ、ヒロイン達と恋愛を繰り広げるという素敵で無敵なヒロイックサーガです」
マシンガンの如く次から次へと早口で喋り出す来夏だが、言葉に抑揚はない。俺は閉じたノートを持ったまま、黙って聞くことしかできなかった。
「へ、へぇ……。主人公は龍光牙零魔って名前か。独特でかっこいい名前だね……」
とりあえず、話を合わせてみた。
それにしても龍光牙零魔。すさまじい名前である。奇抜な名前の多いエロゲですら、なかなかお目にかかれないような名前だ。
龍光牙という姓はまだ仕方ない。だって、姓だけは先祖から受け継いだものなのでどうしようもないから。
しかし零魔という名前はひどい。なんだ零魔って。出生届を出す時に市役所で怒られそうな名前だ。もしそんな名前の子供が現代日本に存在すれば、学校でいじめの原因になること請け合いだろう。親は何を考えてそんな名を付けたんだと言いたくなる。もしも俺の名前が零魔だったとしたら、恥ずかしさのあまり毎日改名を考えていることだろう。
「師匠も良い名前だと思いますか? さすがは師匠、素晴らしいセンスですね。ちなみに零魔は腰まである長い銀髪に、美しい紅眼の少年なんです。時々女性に間違われるような女顔でもあります」
名前は日本人なのに、なんで銀髪なんだとか色々言いたかったが、俺は沈黙を選んだ。雄弁は銀、沈黙は金という先人のありがたい教訓を守ったのだ。
「零魔の一族は世界的に有名な暗殺者の家系であり、代々受け継がれている伝説の古武術の使い手でした」
「ははぁ……」
頭が痛くなってきた。
「十代にして最強の称号を持つ零魔は、それを隠して高校に通っています。零魔は態度はぶっきらぼうですが心根は優しく、時折影のある表情をするんですよ。もちろんそれには理由があり、同業者から魔神の二つ名で呼ばれていたことなどが重要なファクターとなっています」
「なるほど……」
目眩もする。
「暗殺者として、かつて色々あったんですよ。敵対組織との対立とか。あ、それと前世では天使として悪魔を滅ぼしていたという設定もあります。ゲームの表題でもあるアルカンジュは天使という意味。つまり、物語の伏線にもなっているんですよ」
「そ、そうなのか……」
動悸と息切れもしてきた。
「悲しい過去を背負った主人公って、いいですよね」
「ああ、うん。そうだね……。一応、物語のお約束ではあるよね……」
そろそろ俺は限界だ。
「異世界に転生した零魔ですが、平穏は訪れません。世界の存亡を懸けた戦いに巻き込まれ、最終的には右腕に封じられた魔神を解き放つことになります。この封印解放は体に負担がかかるのですが、一時的に神々すら凌駕する能力が出せるという設定です」
「うん……。バトルあり、涙ありのシナリオなんだね……」
誰か、誰か助けてくれ。
「では、ここからが本題です」
「え?」
来夏が居住まいを正して、俺に向き直った。
今、彼女はなんと言った? 俺の聞き間違えでなければ、本題……だと?
背中に嫌な汗が流れているのが分かる。心の奥から嫌な予感が爆発的に膨れあがってくる。勘弁してくれ。もうこれ以上俺のSAN値を削るのはやめてくれ。
「ファンタジー物のゲームのシナリオですので、世界観はガッチリと作ってあります。先ほどお渡ししたノートはあくまでも主人公の紹介と、物語の導入部だけしか書いていませんので」
そう言った後、来夏は学生鞄から五冊のノートを取り出した。
床に並べられた各ノートの表紙には「アルカンジュ・ワールド設定集」とあり、それぞれ一から五までの番号が振ってある。
「設定集、五冊……」
「はい、少なかったでしょうか? ハリウッド映画では、ほんの数分しか出番のない脇役でも数十ページ以上の綿密で詳細な設定が用意されているそうです。人に歴史あり。ちょい役でも詳細な生い立ちを用意し、その人生を頭に叩き込んだ上でないと役者は生きた演技ができないそうです。それに比べると私の設定集五冊程度、まだまだ大したことはないですよね」
俺は瞼を閉じると、数秒間かけて大きく深呼吸をした。肺にしみこますように酸素を貯めながら、ゆっくりと目を見開く。
「師匠、どうなさったんですか?」
「……そ」
「そ?」
「そぉいッ!!」
俺は叫びと共に、床にあったノートを次々と天井へ放り投げた。合計六冊のノートが宙に舞う。
ここは狭い部屋である。ノートは放物線を描きながら壁や天井にぶつかると、慣性の法則に従ってすぐに落ちてきた。
「師匠、乱心ですか? 殿中でござるとか言った方がいいですか?」
「ある意味乱心したい心境だが、違う」
「乱心ではないということは……ああ、なるほど」
来夏が何かに気付いたように、ポンと手を打つ真似をした。
「すいません師匠。私、上方のお笑いにはあまり詳しくないんです。今のはもしや吉本系の技なのでしょうか?」
「俺がノートを投げたのは笑いを誘うためじゃねぇよ!」
申し訳なさそうに言う来夏に、思わず叫んでしまった。
「なんだかよく分かりませんがすいません、師匠。今のリアクションの意味をしばし考えてみますのでお待ちを」
形の良い顎に手を当てて、来夏は思考に没頭し始めた。ダメだ。この子は何か感性が常人とは乖離している。
「おーい来夏、俺が言いたいのはだな……」
「むッ」
「な、なんだ!?」
俺の言葉を遮って、来夏が声を出した。俯いていた顔を堂々と上げ、俺としっかり目線を合わせる。
「師匠の言わんとする意味について、大体見当がつきました」
「そ、そうか。分かってくれたか」
来夏はなぜか自らの左肩を手で押さえながら、自信に溢れた口調で言った。
「つまり、師匠はこう仰りたいのでしょう。イシャはどこだ、と」
「……なんでやねん」
悪質な冗談はやめてください。そろそろ僕は死ぬかも知れません。
「来夏の答えは、真実から明後日の方向に向かっている」
むしろ、答えを目指して進もうとして、スタートと同時に逆走していると言ってもいい。
「むぅ。では結局、師匠は私に何を言いたかったのですか?」
「……うっ」
「師匠?」
かわいらしく小首を傾げて聞いてくる来夏に、不覚にも俺は少し目を奪われてしまった。いかんいかんと煩悩を頭から振り払う。
「あーと……。つまりだな、来夏の用意した設定集やらは、ゲームのシナリオに使うには全然駄目ってことだ」
来夏はしばらくの間無言で身じろぎ一つしなかったが、やがて、
「……な、なんと」
と、さも驚いたかのように声を出した。無表情で。