表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

冥王《プルート》の娘

冥王(プルート)の娘

作者: 周防まひろ

 世代を跨る戦火は、数多の死と爪痕を残して終戦を迎えた。それから二十数年、戦災の後遺症で発生した異常気象により、世界中で雪が降り積もり、その限りを知らない。

 文明は吹雪に閉ざされ、白い荒地と化した。

 

             

              LIVING


 一


 そこは、目に映る限り雪に覆われ、一面が白一色であった。純粋と無垢の象徴であるはずの純白の絶景は、全てを支配する大自然の絶対的猛威を以って、黒の象徴たる死や絶望をも内包していた。

 その中に一人、エノラ・グリードはいた。分厚い防寒着に身を包み、履き古した藁靴の足は、無尽蔵の降雪によってできた底なしに近い大地を、一歩一歩踏みしめ前進を緩めない。

 先刻から吹雪が強まり、視界は零に近い。手元も覚束なく、テントを張る余裕もない。このままでは間違いなく、彼女は翌日には凍死しているだろう。

 だが、エノラに絶望感はなかった。彼女にとって、生とは死を上回る苦行なのだ。最果てのそのまたはるか遠くに眠る、ある一つの希望が19歳の少女の心を繋ぎ止める碇であった。

 一瞬、ゴーグルの奥の眼が光る。思わず、その口元が緩む。

 ホワイトアウトの彼方に、小さな光のポツリと点っていた。民家があるのだ。雪の降る数時間前に頭へ叩き込んだ地図と、その方角に狂いがなければ、もうすぐ小さな村に着くはずだったので、自分の平衡感覚は間違ってはいなかったわけだ。

 どうやら、私はまだ生からは逃げられない。

 背中のサックは、嵩張るほど大きくない。とは言え、長時間豪雪を移動すれば、やはり積もった雪でその質量は増す。

 食料や備品を入れたナップサックとは別に、左肩に掛けた六〇センチぐらいの布筒は、重量に相応する疲労をズッシリと肩にもたらしていたが、大陸の約七割を占める荒野において、この天候ならいざ知らず、丸腰で旅する愚か者など皆無であろう。

 先刻から背後が気になっていたが、エノラには振り返る余裕などなかった。数歩のロスを引き換えにするほどでもない。“彼”なら大丈夫だと、再度念を押した。そう、至って平気だろう。

 彼女は、自身の本質が冷徹であるのを心得ている。それを改心する気はないわけではない。だが、今は無慈悲でなければ、死者になり替わるだけだ。他人に手を差し伸べてまで自己犠牲を果たすほど、寛容さは持ち合わせてはいない。

 エノラは光に向かい歩き続けた。無我の境地に至り、足は嫌でも止まらない。生存のための本能と、執念がなせる業か。

 ともあれ、数十分後には少女は光源である一軒の小屋の扉の前に立つ事となる。猛吹雪の中、叩かれた扉に怪訝な顔を浮かべる主人は、彼女を迎え入れるだろう。

 エノラに遅れ、後方に甘んじていたそれは、小屋の招かれる彼女の姿を確かめると重い前進を再開した。

 長い外套を着たそれは、人間ではない。


 二


 ナサニエル・セオドラは27歳の青年で、村の人間からは物静かだが穏やかな若者とされ、先週鬼籍に入った彼の祖父とはまた別種の好人物として一応は通っていた。

 しかし、そんな彼も眼前に立つ客人に対し、無礼と思いながらも心底動揺を隠せなかった。永続的な寒冷に見舞われるこの世界で、旅人なんて数えるほど多くない。だが一人旅など、夜盗が跋扈する荒地では自殺行為であり、もってのほかだ。

「夜分に失礼します。旅の者なのですが、一夜の宿をお願いしたいのですが」深被りのフードから漏れるのは、女の声だった。

 その人物が頭のフードを脱いで、ゴーグルを外した時、ナサニエルは再度面食らう事になった。

 旅人の女性は、二十代ぐらい(もっと若いかもしれない)、首の所で揃えた黒髪は艶やかな光沢を放ち、彫刻のように端整な顔立ちは雪のように白い肌で敷き詰められている。なるほど、確かに美人の部類に入る。が、どこか無機質な印象を与える。おそらくは、黒い瞳のせいだろう。ここらでは非常に珍しい、東洋人の血が混じっているのか。しかし、その生気は乏しい感じだ。

「あ、いや、その……あなたは一人で旅を?」

「はい。人間の道連れは私以外には……」

 変な言い方だな、と青年は訝しんだ。

 考えてみれば、妙齢の女性が、しかもこんな美人が一人旅をしているなど、まともな神経ではないだろう。もしかしたら、商売女か気違いの類かもしれない。もしくは、人ならぬ存在か――彼自身、物の怪や幽霊など信じるたちではないが。

 しかし、結果的にその少女を家に入れたのは、下心があるわけではない。彼には、心に留める異性は既にいる。純粋な優しさから、素性の知れぬ彼女を敢えて招き入れたのだ。

「ありがとうございます。少ないですが、これを」そう言って、少女が差し出した袋には金貨が詰まっている。

「こんなに貰えないよ」

 彼女は、窓に掛かる、喪中を示す白黒のカーテンに目をやる。

「御不幸があったのを知らず、無礼をお許し下さい」と仰々しく深いお辞儀をし、「失礼ですが、亡くなられたのは?」

「祖父です。74歳でした」

 ナサニエルは、祖父の自室へ彼女を通した。老人は、その部屋の奥で眠っていた。白檀が彫られた棺。その真下で埋め尽くす花に囲まれるように、立派な正装を着た遺骸が眠っている。その顔は憑き物が落ちたように穏やかだった。

 その傍らには、《大胆不敵な君に幸あれ。氏の悪友アーネスト・ホーソン》や《我は汝を永遠に愛す。残り形見と共に、M》などのメッセージ・カードや贈り物が多く添えられている。

 デイビット・セオドラの死後、孫のナサニエルは祖父の部屋を整理し、そこに祭壇を設けたのだ。生前使用していた家具は取り除かれ、それらとベッドだけが整然とあるのみであった。

 少女はゆっくりと彼の真横に歩み寄って、老人の死に顔を覗き込むと、掌を合わせる独特の仕草で冥福を祈った。

「父が昔の大戦で戦死してからは、たった一人の家族だったんだ。ちょうど三日前に、流感に罹ってしまって――」

「天寿ではない……この歳で」彼女がポツリと小声を放つ。

「何か?」

「いえ、一人言ですから。どうか、気になさらないで」

 カンッカンッカンッ。その時、ナサニエルはガラスを叩く音を聞いた。喪中のカーテンが下ろした窓からだった。

『オオイ!開けてくれ!』男の声だ。感じからして中年ぐらいだろうが、どうも年齢は定かではない。

彼は恐る恐る窓辺に近づき、カーテンを退けた。窓の向こうにコートを着た者がいた。その顔は目出し帽を被り全く見えない。彼は窓を少し開け、相手に問うた。「どうしたのですか?」

 相手はヘヘヘと奇怪な笑いを出しながら『こんな猛吹雪じゃあ、凍死以外に何もできやしないさ。ところで、先に女が来たかい? いや来ただろうね。そうさ、俺は何でもお見通しだ。今頃、あったかい暖炉の前で両足を投げ出してんだろ』

 男は暖炉に掛かった少女の防寒着と藁靴を目敏く見つけると、頭の目出し帽に手を掛けた。気のせいか、男の指がどれも小枝のように細く、手の甲がやけに骨ばっているように見えた。

『それなら、説明はいらねえよな、兄ちゃん』

 天井のランタンに照らされた顔に、青年は最初悪い冗談かと思った。しかし、コートを脱いだその体が目に入った途端、彼は思わず小さな悲鳴を上げて尻餅を付いてしまった。その拍子に、修善をして久しい木の床板が少し軋んだ。

 コートの男は骸骨だった。骸骨のように痩せ細っているという比喩ではない。文字通り足から頭の先まで、子供の頃に学校で見た骨格の模型そのものだった。それが目の前に直立して、しかも普通に言葉を喋っているのだ。

「シルベスター!」少女が窓に立つそれに怒鳴った。

『ホラ、やっぱりいたよ』

「あなたは、鏡に映る自分がマトモに見えると、本気で思っているのですか? さっさと、その見苦しい体を隠しなさいな」

 少女に命じられるままに、骸骨男は渋々コートを着直し、『邪魔するよ』と扉を開けて入って来た。

「御覧なさい。この人も恐怖で固まっているではないですか」

『悪いね、兄ちゃん。見た目はこうだけど、生前は中肉中背の、やや美顔の小市民だったと思っておいてくれ』

 骸骨は暖炉の前で肋骨や頭蓋骨の隙間に挟まった雪を叩いて落とし、目のある位置にポッカリ空いた空洞に詰まる雪もほじくり出した。「美顔は余計でしょ」と少女が嘯く。

『それより、いい加減に説明した方がいいんでねえの、エノラ』

 彼の言葉にハッとして向き直り、腰を抜かしたままの青年を助け起こすと、エノラという名の少女が頭を下げた。 

「申し訳ありません。何分、不躾な下僕でして」

 何とか冷静を保とうとするが、「あんた達は一体?」というのが精一杯だ。蝋燭の炎が揺らぐように、彼の心も穏やかではない。

「申し遅れましたが、私はエノラ・グリードといいます。そして、これはシルベスター。見ての通り、彼は人間ではありません」

 少女の名前を聞いた時、ナサニエルは妙な感覚を覚えた。

『でも、心は生前の頃と同じ、純粋無垢なままだ』と骸骨の言葉を無視し、エノラは説明を続ける。

「死者を甦生させる術。その力の真偽の程は、この彼を見れば不要ですね。私は、その力を持つ者の一人なのです」

 黒い瞳で見据えながら、エノラ・グリードは言った。


 三


「……かくして、この世界で我々を知る者は、ごく僅かになりました。後は迷信か、虚構の類とされているでしょう」

 煉瓦造りの暖炉の奥で燃える炎がパチッと鳴った。暖炉の前には、エノラの履いていた藁靴とオレンジ色の防寒着、それにシルベスターの長コートなどが乾かすために掛けられている。

 人参、キノコそして玉ねぎに続き、スプーンでグリーンピースを一か所に集め終わり、エノラは甦生術における歴史を辿る長話を一旦止める。彼女の皿に入ったシチューは、野菜と肉がうまい具合に区分けされていた。何とも珍妙な癖だ、とナサニエルは思った。見た目や所作とは裏腹に、育ちはあまり良くないようだ。

「君は、“プルートの民”なのかい?」

 死者を奇妙な術で生き返らせる呪い師。彼らは“プルートの民”と呼ばれ、一方では畏怖され、他方では忌避されたという。

「正直に言うと、その呼称はあまり……まるで、死神と呼ばれているみたいで」頬杖を突きながら、彼女は溜め息を漏らす。

 この迷信を、ナサニエルは知らないわけではなかった。子供の頃に祖父から聞いた事があるし、十代の時には好奇心からそれらに関する文献を読み齧った。

 だが、まさか本当にいるとは思ってもいなかった。

『あたりき』

 髪と同じ色の黒いケープを羽織ったエノラの要請で、空気椅子の態勢で食事をするシルベスターの足元、ちょうど尻の真下にタライが置かれている。彼が口に運ぶ度に、それらは内臓のない吹き抜けの骨格を通過し、真っ直ぐにタライに落ちて溜まっていく。

 彼の姿勢といい、ボトボトという落下音といい、否応でもナニを連想してしまうナサニエルは、最後まで食が進まなかった。

「甦生術は勿論、万能ではありません」

「甦生できない人もいるのかい?」

「左様」そう言い、スプーンにすくった肉を全部隣の相棒の皿へ移していく。菜食主義者なのか、と彼はボンヤリと考えた。

「臍の緒を切る前に死産した胎児、そして当然ですが、天寿を全うした者」ジャガイモだけを咀嚼する。彼女のパンは、既に一口の大きさに千切られている。

「また、不可能ではありませんが、甦生を施してはいけない者もいます。殺された人間。彼らが生き返れば、大きな災いが生まれます。だから私達の間でも、それは最大のタブーなのです」

「大きな災いって?」ナサニエルは問うたが、『知らない方が身のためさ』と、シルベスターは言いながらパンを咀嚼する。案の定、それらは残らずタライへと直行していく。

 彼は、どうしても聞きたかった本題を切り出す。

「ミス・グリード、君はさっき、祖父の遺体を目にして、『まだ天寿ではない』と口走った。それはつまり――」

「あなたの御爺様は再生者になれる可能性があります」間髪入れずに、エノラはそう言った。

 再生者とは、甦生術で生き返った者の呼び名だという。

「祖父を、生き返らせられる……」

「お望みですか?」突然食器の手を止め、少女は問うた。

「い、嫌。冗談はよしてくれ。だって、74歳だよ。確かに生前は年齢に似合わず“無茶なところ”もあったが……」

「私達は、人生を最後の一片まで使い切った死者と、その半ばで終えた者の区別をできます。さすがに、本当の寿命は分かりません。しかし……」人参のみをすくい上げ、口に運んで咀嚼した後、「あなたの御爺様には、命の残り火がありました」

 祖父が生き返える。唐突な事実が、ナサニエルの脳裏を暴れ馬のように駆け巡り、冷静な判断を著しく阻んだ。適当な言葉さえ浮かばず、目の前の少女を見つめるしかできない。

 いつの間に食事を終えたエノラは席を立っていた。

「もう一度お尋ねします。私の見込み違いならば、どうかご容赦下さい。ナサニエル・セオドラ。あなたは、あなたの祖父デイビット・セオドラ氏の甦生を、私にお望みか?」

『相も変わらず、辛気臭い奴……すっかり飯が喉を通らねえ』

 相棒の小言も、その部屋を支配する沈黙を止めるには至らない。見つめる彼女の漆黒の瞳は、この上なく真剣そのものだった。まだ少女の面影の残るその顔は、どこか聡明さと影のある深淵な可憐さがあった。それを目にすると、自分の意識が底なし沼のように、どこかへ吸い込まれる感じがした。

「僕は……」

 すっかり矯正したはずの失語癖が、ナサニエルを知らず知らずのうちに、しどろもどろだったかつての自分に戻していた。

 その沈黙が永久に終わらないかと思った時、暖炉の中で、火の爆ぜると音に遅れて、薪が瞬く間に崩れた。浮遊していた彼の意識は、一気に現実に引き戻される。大声を出したわけでもないのに、冷水を一気に飲み干したいほど喉が干上がっていた。

 長い均衡を破るように、エノラが静かに告げた。いつの間にか、再び自分の席に着いていた。

「ごちそうさまでした。食事をありがとうございます。とてもおいしかったです」あの深いお辞儀で感謝を示した。

「もしも、あなたにその気があれば、部屋にいる私を訪ねて下さい。お時間は……あまり取りませんから」

 まるで男を誘う女の文句みたいになっているのに気づいたのか、彼女は白い頬を少し赤らめ、言葉に詰まりかけた。そして、横の相棒に何かを耳打ちしてから席を立つと、ゆっくりとした足取りでここ数十年誰も使用していない客室へと姿を消した。

 同じく食事を終えたシルベスターは、自分とエノラの食器を洗い、タライの中身を処分すると、静かな声で青年に言った。

『お兄ちゃん。これだけはじっくり考えた方がいい。犬猫を飼うのとはダンチだからな。それと、子作り以上にな』

「君達はここへ来たのは、偶然なのか?」

 なんとか絞りだした言葉がそれだけだった。

『偶然さ。あいつはそういう体質なんだ。なんていうか、大切な誰かを失った人にめぐり会うのがな。あんたはそうなんだろ?』

 骨の手が肩を軽く叩く。意外だが不快感は覚えなかった。

『まあ、じっくり考えなよ。夜はまだ長い』

「ありがとう」自然に出た言葉であった。

『どっちを選ぼうが、あんたの心は間違っちゃあいない』

 誰だって、それを一度望めば必ず悩む。そこまで述べると、彼は静かな足取りでエノラと同じ部屋へと入って行った。


 四


 老人の眠る部屋へ向かった青年は棺桶にもたれ掛かって座り込み、祖父が生きていた頃の過去を回想していた。

 ナサニエルの父は、大昔の大戦――十年以上も続き、彼の生年に終戦を迎えた――で戦死した。当時の思想的な風潮から志願をした父親は身重の母を残し、意気揚々と戦地へ赴いた。そして終戦から数年後、砂塵の混じった遺骨となって復員した。

 夫の死が原因か、未亡人になったばかりの母は、ナサニエルがやっと一人歩きを始めた頃、精神病を患った挙句、ある日の午後に蒸発した。二十年以上経つ今も、その消息は不明だった。

 勇気と蛮勇の区別もできん馬鹿息子。母親の資格もない無責任な阿呆嫁。酒が入る度に、亡き両親を祖父はそう罵倒した。

 お前は親父みたいになるな。奴のように馬鹿な信念で、一つしかない命を散らしたり、すぐどこかへ逃げたりするような、腰抜けの出来損ないにはなるんじゃないぞ。まだ物心をつく前から、気性の激しい祖父は、自分にしつこく言い聞かせた。

 そして、ある時分から言われなくなった。それは――。

 いけない。ナサニエルは脳裏に走馬灯のように漫然と流れる回想を断ち切った。老人の部屋を出て、向かるべき先へ歩いた。

 客室をノックすると、シルベスターが向かい入れた。

『意外と早いな。本当にいいのかい?』

「ああ、存分に考えたよ」そして、部屋の端で腕を後ろに組み、カタカタ鳴る窓から外を眺めるエノラに向かって言った。

「しつこいが、もう一度聞かせてほしい。本当に君は、祖父を生き返らせる事が出来るのか?」

「あまり時間は掛けません」そう言って振り返った彼女は、作り物の仮面を思わせるほど無表情であった。

「あなたの返事が是であれば、暁が上がらぬうちに、寸分違わぬ姿、性格、年齢、の再生者が産声を上げるでしょう」

 ナサニエルの気のせいかもしれないが、彼がその返答した時、エノラの唇が微笑んだかのように見えた。


 五


 儀式は、祖父の部屋で執り行われる事となった。そのため、棺桶と祭壇などは別室に移された。

 遺体は必要ないらしい。ナサニエルはてっきり、祖父の遺体に何やら呪文でも施すような類だと考えていた。

 それに対して、白装束に着替えた彼女――首元で揃えた黒髪は後ろで束ねてある――は不思議そうな顔をした。そして、既に腐乱の始まっている死体に魂を入れるなど、荒唐無稽だと答えた。

「この儀式は呪術の類ではありません。私は魔法使いでも、超能力者でもないのです。重要なのは、血と骨なのです」

 血は術者であるエノラと、ナサニエルのものが必要とされる。そして、骨は再生者である祖父のそれ。だが、まだ火葬も済んでいない。彼女のその答えは、身も蓋もないものだった。

「仕方ありませんが、指を一本採取して下さい」

 滅多な事を平気で言う少女に、言い知れぬ不安が今頃になって湧き上がってくる。

「御爺様が甦生すれば、その遺体を否応でも隠さないといけませんよ。本人が自分の死体を見たら、どう思いますか?」

「わかったよ」自分の立場なら、想像もしたくないと思った。

 仕方なく諦めて、彼は家と隣接する小屋から鋸を持って来た。使わなくなって久しいためか、錆びが所々に浮いている。

取り出す骨は、脚の小指に決めた。

 死後硬直はとうに過ぎ、軟質なゴムのような肌に、刃先を当てる。そして目を閉じて、一気に引いて押すのを数回繰り返す間、気味の悪い手触りから逃れたい衝動に何度も駆られた。

 それから、切り取った小指を紙の上に置いた。まるで芋虫のようなそれは、乾ききった肉の断面から小さな骨を覗かせる。

 吐き気が込み上げてくる。今、自分は何をやっているんだ。

「これから、骨を取り出して下さい。微量でも構いません」

 なんだって。青年の顔は蒼白になった。祖父の死体を損壊するだけでなく、魚の活造りのように捌けというのか。“当初の感情”を忘れ、彼の中に珍しく怒りが生まれた。

「どうしました?私が代わりにやりましょうか」

「いや、いい。不謹慎な要求が続くから、面食らったんだ」

 少女は聞こえるように、フフフと微笑する。

「死者の尊厳を侵害している、という気持ちは昔の私も同じでした。やっている事は、猟奇的な殺人鬼と変わりません」

 そこまで言うと、用意した容器と鳥肉を机に置いた。

「甦生が成された後、もはや空っぽとなったあれに、はたして尊厳は抱けるでしょうか? さあ、骨を取り出して」

 その行為の後、ナサニエルは忘れたいと一心に思った。

 かくして、骨は揃った。肉は二種類必要だという。一つは、ナサニエルのだが、それはほんの僅かな皮膚で足りるらしいので、彼は指先の皮膚を心ばかり歯で千切った。もう一つは、家畜の肉でいいと言うので、先刻彼女が置いた鶏肉が使われる事となった。

 後残るは血のみである。豚肉に包まれた骨と皮膚の欠片を透明な容器に入れ、「さあ、あなたの血をここに」と小刀を渡してきた。

「……まさか、全部を、ですか」

「再会を交わす前に死にたいのですか?」エノラは呆れ顔になって言う。「落ち着きなさいな。黒魔術じゃあるまいし、この儀式では人は死にません」そして、一言付け加えて小さな笑みを溢した。

「死人が甦る事はあってもね」

 収まりかけた吐き気が再びぶり返してくるのを彼は堪えつつ、指先には先を当てて、小さく引いた。一瞬の熱が走り、赤い筋から滴るのを容器で支えた。まるで肉腫に似たそれに、彼の血が掛かり、そして覆い尽くしていく。

 いつまでこうしていればいいのか尋ねると、「もういいですよ」と言った少女は、カーゼを渡す代わりに容器を取ると、顔と同じ白い二の腕に、躊躇なく小刀を刺した。

 そこから流れ出たのは、凡そ人間のものとは思えないどす黒い血だった。勢いよく細い腕を伝い、まるで生き物の如く掌から指先まで流れ、容器にポタポタと落ち込む。その量はナサニエルの比ではない。咄嗟に容器を奪おうとする彼を、骨の手が遮った。

『余計なマネはするな。これも儀式の一環だ』

「このままでは死んでしまう!」

『心配ない。こいつは、ずっとそうしてきた』

 今や彼女の顔色は蒼白を通り越し、灰色に近い。容器の約半分を血が満たすと、エノラはそれを止めた。用意していたカーゼで手当てをする。お礼を言う彼女は、「もう、私の仕事は、終わりました。後は……待つのみ」その言葉は途切れ途切れだった。

 シルベスターがなにやら波打つ皮袋を彼女に渡す。彼女は一気にその中身を飲む。口の端から赤い汁が出てきて、てっきり生き血を飲んでいるのかと思った。

「一体何です、それは?」

「これは、スッポンの血です。よろしければ、あなたも?」

 ナサニエルは丁重に遠慮した。

 その変化が起きるまでの間、彼は二人の血が満たす容器を見つめ続けた。底に沈殿する肉腫の様子は、皆目見当がつかない。

 たいぶ落ち着いてきたのか、エノラの顔は元の色に戻り、薄く浮いた汗にまみれて頬は紅潮していた。それに呼吸も荒い。まるで人仕事を終えたように、その表情は満足げだった。

「死を恐れる者は生をも恐れ、生を恐れぬ者は死とも戯れる」

 エノラは言葉に、「どういう意味なんだい?」

「私に術を授けた師の言葉。そして……」火照る唇を歪めて、子供じみた笑いを上げ、「ちょうど、今の私です」


 六


 儀式から一時間ぐらい経って、ナサニエルは床に置かれた肉腫に目に見える変化が起きているのに気づいた。容器から取り出した時には掌に収まるほどの大きさだったはずのそれが、時間と共に肥大化しているように見えるのだ。

「あなたの血は、どうしてあんな色を」

「私の血は、死人のそれなのです。比喩ではなく、文字通り」

 スッポンの血の効果は絶大だったのか、説明をしている彼女があれだけの流血をもたらしたとは思えない。

「再生者の甦生を願う生者の血、生きながらにして体内を流れる死者の血。それらが混ざり合って、一つになった死者の骨と肉を血で漬す時、再生者が生まれる」

「どうやって、死人の血を?」

「覚えていません。術者は皆そうです。数か月にも渡り、のた打ち回るほどの激痛に苛まれる。全身に血が通る頃には、記憶が飛んでいるか、正常でなくなっているかのどちらかです」

「そうか……」

 目の前にいる術者の少女は、記憶が飛んだだけなのか正常なのかは、各々の判断になる。もしくは、その両方かもしれない。

『それにしても、74歳の爺さんが天寿を全うしてないなんて。タフというか、大したもんだ。俺も見習うよ』

 興が乗ったのか、シルベスターも飲んでいるスッポンの血のほとんどが素通りし、血尿のように漏れて床に染み渡る

「祖父は、確かにパワフルな人だった。でも、繊細さはなかったな。その、個人主義というかな、自分を中心にモノを考える嫌いがあった。正直、気疲れする時もあった」

「それでも、あなたは甦生を望んだ」

 彼は頷き、「そうだね。少なくとも、どうでもいい人ではないよ、お爺さんは。父が死んで、母も後を追うように病死した後、男手一つで僕を育ててくれた。大切な人には変わりありません」

 自分はまだ祖父に対して果たしてない事がある。しかしそれを今、彼らに言うべきではないだろう。

 更に一時間経ち、肉腫はとうとう肉塊と表現できるぐらいの大きさになった。まるでエノラの流した血のようにどす黒い物体は、空気の抜けたゴム毬のように床に鎮座し、定期的に弾力性のありそうな表面が呼吸をするように隆起した。

「これから始まる事に、私達は一切手を貸してはいけない。たとえ再生者が老人であろうと幼子であろうと、彼ら自身の意志と力でこのように生れ出なければ、この儀式は失敗に終わります」

「祖父は大丈夫なのですか?」

「正直言うと、それが唯一の危惧です。高齢者の甦生は、実は今回が初めてなので、私も細心の注意で臨みました。しかし、あなたはデイビット氏の孫です。血縁関係だと、甦生の成功率は格段に上がります。後は本人次第です。我々は見守るしかありません」そう言うと、彼女も目の前の肉塊を静かに凝視する。

 さきほどから肉塊が小刻みに揺れている。その中には何かがいるようだ。それはひっきりなしに動いては、肉の殻をこじ開けて外へ抜け出ようとしているかのようだ。

 数分後、ついに転生の時は訪れた。


 七


 最初は肉腫に見えたそれは、時と共に巨大な肉塊になり、今では半透明な繭の形へと変容を遂げた。漆黒に包まれた表面は少しずつ脱色し薄れていき、所々を這うように走る毛細血管も消えた。そして、透ける球形の中には、人の形をした何かが浮いていた。

「あれが祖父なのですか?」そう尋ねても、エノラは頷くだけで何も言わない。彼女の眼差しはその物体に注がれている。ナサニエルには、一度も見た事はないが、人型を包んだ繭は嫌でも赤ん坊のいる胎内を彷彿とさせた。ただ違うのは、その中で蠢く新たな生命は、一度死を迎えた老人である。

 不意に、浮遊する誰かの指先が動いた、ような気がした。彼はもう一度確かめようと一歩前に出た時、繭の中にいる者が暴れ出し、その口元から泡が弾ける。

『先に言っておくけど……手を出すなよ』壁に背を預けてもたれるシルベスターがそう言った。事前には聞いていたが、中の者は呼吸もままならないみたいだが大丈夫なのか。

 ジタバタと足掻く四肢。首は故障した機械仕掛けの人形のそれみたく無茶苦茶に暴れる。その衝撃で、繭全体が揺れる。

 すると、それは溺れかけた者が水面に向かって上昇しようとするように、手を有らん限りに上部へと突き上げた。指が繭の薄い壁を貫き外部へと突き抜けた瞬間、そこから一気に大量の赤い液体がほとばしった。梁の並んだ天井が赤く染まる。決壊した繭の中に占めていた血潮の半分以上が舞い上がる

 そして、天井から緋色の雨をポタリポタリと降らした。ナサニエルは唯、半開きの口で驚愕とするしかなかった。

 赤い手で表面に聳える粘膜の壁を一気に引き裂き、人とも獣ともしれない雄叫びで空気を震わせながら外へ躍り出た。繭の底に溜まっていた残りの液体が流れ出し、床と天井の色が重なる。

 気にも留めず、彼はそれに近づいた。

 直立していたそれは、全身に付着した粘着質の血が落ちていくと、痩せ細った老躯に、薄い白髪を残した頭部、浮き出た肋骨、そして“一見”温和そうに見える老人の顔を現した。

 老人の目が少しだけ開いた時、エノラ達は、その瞳が少し濁ってはいるものの緑色なのに気づいた。

 彼は、老人の眼前に立ち、フラフラするその体を支えた。顔を撫で、血の膜を払い退ける。唇が小刻みに動いているのが見えた。

 最初は分からなかったが、絞り出した声を聞いて、青年は目の前にいる人物が数日前にこの世を去った祖父であると確信した。

「ナ、サ、ニエル……か」

「お爺さん?」彼は声を掛けるが、緑の瞳には生気がない。

「ナサニエル……わしは一体……」

 顔が下がり、手から力が抜けていく。慌てるナサニエルの傍に駆け寄った彼女は、老人の手首に指を乗せて脈を確かめる。

 術前は汚れのなかった白装束は、飛び散った血の雨でおびただしい返り血を浴びていた。その顔も同様に凄まじく、自分も相当な状態であろうと容易に想像できる。

「大丈夫、眠っただけです。時間が経てば目覚めます」

 目を閉じたまま深い安堵の溜め息をつき、「セオドラさん。おめでとうございます。儀式は、成功です」

 エノラの目には作り物ではないとナサニエルが確信できるほど、その黒い瞳には真の喜びに充ち溢れていた。

「ミス・グリード。本当に、ありがとう……」

 感極まったかのように、彼は嗚咽を漏らす。たった一人の家族と、生命の理を超えた再会に嬉し涙を流している青年。少なくとも、その時の二人には、彼はそう見えた。

 ナサニエル・セオドラの眼に、涙はなかった。


 八


 デイビット・セオドラの体を拭き、生前の寝巻を着せて寝室に運んだ後、儀式の部屋で掃除に取りかかった。二人も手伝うと願い出たが、ナサニエルは一人で十分だと言い張った。

「君達にこれ以上借りを作ったら、家と土地を差し出さないといけなくなる」そう言って、彼らに笑いかけた。

 血の粘膜は濡れ雑巾でも案外と簡単に落ちた。時間が経つと粘着質が劣化するようだ。掃除を終えて一段落が着くと、ナサニエルは彼らのいる部屋へと向かった。

「老人が目覚める頃には、私達は出立した後でしょう」

 開口一番に放った言葉に小さく驚き、「どうして?もっと、ゆっくりしていってくれ。君達には限りない恩義を感じてやまない」

 そして、最初に宿代として渡してきた袋をそのまま出した。

「これが約束の報酬だ」

どう言っても聞かないので、仕方なくエノラはそこから半分だけを報酬として受け取る事にした。

「いくつか、言っておかねばいけない事項があります」

 本人に、事のあらましを説明するのはしばらく避ける。本人に自分の遺体をなるべく見せない。彼女はそう説明した。さらに、他の人には口実を作って何とかごまかすか、正直に彼女の事を話すかは、自己判断に任せるという。どちらでも構わないという。

「遺体はどこかに隠すか、できれば処分しちゃって下さい」

 シルベスターが盛大に吹いた。彼もまた半笑いになった。

「おかしいですか?御爺様が蘇生した今、あの遺体はもはや物と同じなのですよ」難しい事を簡単に言い、歯に衣着せぬ物言いはどこか人間味があり、彼女なりの可愛げが垣間見えた。

「それと……あなたにはこれを言う必要はないと思いますが、どんな理由があろうと、再生者を絶対に殺めてはいけません」

 何故、と問うべきだったのだろうが、「分かりました」とつい一言で済ませたナサニエルに、彼女は一瞬眉をひそめ、「これだけは必ず守って下さい。自分の御身のためにも」と念を押した。

 エノラ達の部屋から出た後、彼は台所へ急いだ。そして洗い桶に顔を埋めて嘔吐した。今まで我慢していた何かが、一人になった途端に抵抗する間に溢れ出たのだ。

 顔を洗い、しばらく壁を見つめた青年は、途切れたままの回想の続きに思いを馳せた。そこから沸き上がるのは、儀式の直後、二人に見せた時とは似て非なる感情だった。

 蘇る記憶の時間は、実際には戻す事は出来ない。そこに閉塞された今の環境を形成した元凶があるとしても、それを消して過去を修正するのは不可能である。正に、覆水盆に返らず。

 うがいを済ませると、ポケットに入れた指輪を取り出してじっと眺め、銀色の弱い輝きを放つそれを強く握り締めた。

 振り上げる拳の落とし所は既に絶え、満身の限りに払ったナイフの刃も空振りする。時間を超えて、溜飲を下げる余地はない。

 だが今日、事態は急変した。永久に手の届かなかったはずだったそいつを、黄泉の国から無理矢理引きずり出してやった。

 そうだ、自分はあいつにまた勝ったのだ。

 一体どのくらいの間、心の行くままを受け入れるのを止めて、頑なに自我を殺して押さえ続けたか。ナサニエル・セオドラは真の感情でもって、喉の奥から静かな笑いを上げた。

 吹雪が徐々に衰え、夜は淡々と更けていった。



           INTERVAL


 九


 エノラは、同じ場所にいた。

 現実と同じように、雪が降り続ける空白の世界。生命の存在を徹底的に排除しようとする、零の次元。そこにいる彼女は、今よりもずっと幼い。全身に血を流し、左足首が変な方向に曲がっている。にもかかわらず、一切痛みは感じない。

 視界を剥奪していたホワイトアウトが弱まり、徐々に形作られる光景は、やはり変わる事のない地獄絵図だった。

 転倒した馬車。四方に散乱している荷物。瀕死の馬。虫の音に近い嘶きが悲痛に聞こえる。若い御者の死体。横転の衝撃で弾き出され、胸を大木の枝に貫通された、凄惨な死に様。そして――。

 小さな自分を抱える、見知らぬ二人の男女。顔から血を流す彼らは、口々に何かを言う。しかし、エノラには聞こえない。

 小さな体を殻のように囲み、吹雪から守ろうとする彼らの顔はしかし、揃ってインクをこぼしたように黒く塗り潰されていた。

 エノラは声なき絶叫を上げた。

 その途端、世界が崩壊し、幼き日の視界が暗転した。



             DEAD


 十


 エノラは、自分でも知らない間に眼を覚ました。

 蜘蛛の巣だらけの天井を見上げ、昨晩はテントでの野宿ではなかったのを思い出す。そして、また血を使ったという事実も遅れて殺到した。術後に眠ると、決まって“あれ”を見る。

 エノラは身を起こし、床に敷かれた毛布に包まり、変ないびきを立てる相棒を見やった。皮膚や神経はないのだから、寒いはずもない。食事もそうだが、今の彼には必要ないはずだが、生前の習慣が抜け切れていないのだろう。

 エノラがまだ旅を始めて間もない頃、偶然荒れ地で見つけた白骨死体。それを甦生させた理由は、一人旅での孤独に苛まれての事だった。不純であり、独り善がりなのは承知の上だった。

 唯一、肉がなかったのが難点だったが、まさか骨と血だけでも甦生が出来るとは思わなかった。

 瞼がない代わりに、珍妙な眼球がデザインされたアイマスクを被る相棒を起こさぬよう、彼女は着替えや準備を済ませた後、ついでに老人の様子を確かめた。彼は静かな寝息を保っていた。ナサニエルの姿はないので、自室に戻ったのか。

 部屋に戻ると、ちょうどシルベスターが起きていた。窓辺に立ち、大きく伸びをし、ポキポキと全身が唸らせる。誰かに姿を見られたらという羞恥心は、この男にはないのだろう。

 彼はエノラの顔を見るなり、『また、夢を観たのか?』

どうして分かったのだろう。「術後は、いつもそうですよ」

雪の積もった外を見つめ、そろそろ出立の頃合いだろうと思った。向かうべき目的地まで、まだまだ先だ。今からすぐ立つ旨を伝えられたシルベスターは『もう少し、休もうぜ。余裕なき若者は、すぐに老けるぞ』と愚痴ったが、それはいつもの事だった。諦めた彼は嫌々ながら身支度をしつつ、曇った窓を眺める。

『今夜からまた降るな。まったく、大戦の置き土産はしつこいにも程がある。これが後三百年続くなんて』

 眠っている老人をもう一度確認すると、泊めてくれた感謝と、黙って出立する事への詫びを綴った書き置きをテーブルに置いて、エノラはセオドラ家を後にした。後に遅れて、彼女の名前の下に、自虐を込めて『そのヒモ、シルベスター』と彼は書き走った。

 一行が出て行くのを見計ったように、ナサニエルの自室の扉がゆっくり開き、その主が様子を窺うように出てきた。

 手に持った何かが、薄暗い廊下で光った。


 一一


 針葉樹が並ぶ雪道を歩く二人は、ナサニエルの家の隣に、別の家屋の存在を初めて知った。そして、その庭に置かれた赤いベンチには若い女性が一人で座っている。

 赤いコートを着て、カールした金髪を覗かせる彼女は、二人に気づいて立ち上がると軽く会釈した。二人もそれに倣った。

「旅の方ですか?」

 目だし帽から『うほ。もろ俺好み』と囁く相棒の小脇に肘鉄を繰り出し、「はい、ちょうどそこの家の方で宿を」

 それは黙っておいた方がよかったような気がした。

「あなたは、そこの家人とはお知り合いなのですか?」

 その女性は、ミッシェル・フォルナーという名前で、ナサニエルとは小学校の頃からの幼馴染らしい。時々一緒に遊んだが、大人になった今ではどちらとも口を聞いていないのが、エノラには少し気掛かりだった。彼女達は数年前にここへ引っ越して来たらしいので、尚更、妙な話である。

 老人の話題に出すと、ミッシェルの表情が少し固まった。

「あの人が亡くなってから、彼はなんだか魂が抜けたような感じになってしまって。おそらく自分の不注意で、彼が亡くなられた事に負い目を感じているの。事故死であっても――」

「事故死?」

「彼から聞いてませんでしたか? あの人は屋根の雪を払っている時に足を滑らし、そのまま雪に埋もれて……」言葉を止めるミッシェルの目に涙が浮かび、ハンカチで咄嗟に覆う。

 エノラは老人の死因がナサニエルの説明と違っているのが腑に落ちなかった。確か、流感で亡くなったはずでは。

 彼が嘘をつく理由を考えていると、ベンチに向かって雪を掻き分けながら、一人の少年が走って来た。ミッシェルと同じ豊かな金髪の子供は、彼女の6歳になる息子で、名前はアーノンという。腕白な感じの顔立ちに、特徴的な緑色の瞳。

 ふと、エノラは既視感を覚えた。同じようにデジャブを感じたシルベスターが小声で伝えた時には、エノラ・グリードは機械仕掛けのように飛び出し、まっすぐナサニエルの家に戻った。

 唖然とするミッシェルに、『たぶん忘れ物だろうな』とシルベスターは言い繕い、『ところで、ミセス・ファルナー。可愛いお子さんですね。お父さんはさぞ立派な人でしょう』とさり気なく彼女の肩に手に手を回そうとする。

「夫は……少し前に亡くなりました」

 何か言いにくそうな雰囲気を、彼は感じ取った。

『そうですか。それにしても、緑色の目とは珍しい。セオドラさんの御爺様と同じですな』

しまった、とシルベスターは思ったが後の祭りだ。

「どうして、それを?」

 ナサニエルが甦生を頼んだ目的をこの事実から予想すれば、一つの可能性に行き着くのは成行きだった。

『ちょっと、失礼』怪訝な表情を浮かべるミッチェルを一人残し、彼もセオドラ家へ急行した。

 その頃には、すべてが過ぎ去っていた。


 一二


 ナサニエルは、ベッドに眠る老人をじっと見つめていた。一分にも満たないが、彼にとっては永遠に感じられるほど、その身の内に秘めた葛藤は瑣末ではなかったのだ。

 少し、痩せたな。生前と比べると、肉がげっそりと落ちているうだ。おそらく自分がどうしてここにいるのかさえも気付いていないようだが、それでも数日後には元の祖父に戻るだろう。

 青年の右腕が震え、同時にその手に握られた狩猟用のナイフも蝋燭の光に照らされた。

 祖父が目を覚ましても、どこにも逃げる術はない。両手両足はベッドの脚にそれぞれロープで括り付けてある。時々、寝返りをしようとするが、身動きができないので少し苦しそうだ。

 窓の外からは、アーノンの笑い声が聞こえる。どうやら、小さな欅の下で雪の玉を転がし、雪ダルマを作っているようだ。

 幼い顔は、いずれ精悍な顔立ちになる予感をさせる。父親のように。少年の種馬が誰か、村で知らない者はいないだろう。あの瞳を見れば一目瞭然だ。皆、知らないふりをしているのだ。

 そこにやらしい事実があれば、大抵は黙殺してカマトトぶる。村人の多くが年寄りばかりなのも、それを手伝った。ナサニエルを入れても、村の若年層は数えるほどしかいない。そのほとんどが新たな土地を求め、荒れ地や他の街へ出奔していった。

 そして、今は村の若い男に属されるのは、彼と村の外れに住む知恵遅れの青年だけだった。そして、ナサニエルとミッシュルは、幼い頃からの幼馴染でもある。

 少なくとも、アーノンの父親は妻であるはずの彼女とは、表だって婚約できない立場であるのは間違ない。

 しかし、それは自分ではない。

 ナサニエルは目の前の老人に対する感情がささくれ立つのに気づき興奮を抑えきれなかった。青年は寝ている祖父の頭を蹴った。昔、自分にされたのと寸分違わない強さで加減はない。

 いつまで寝てる気だ、根暗者。日の出の前からそう怒鳴られて叩き起こされた。それから数時間に渡って農作業を手伝わされた。学校へはいつものように遅刻しては、教師に教鞭で手の平を叩かれ、クラスメイトの笑い者にされた。

 過酷な農作業で出来たたこは体罰によって潰れた。掌から滲み出てくる血は、今でも脳裏に鮮明のまま残っている。

「起きてよ、爺ちゃん。昔の僕も一回で起きたんだから」

 んん、と呻くデイビットの顔を見つめる度に甦るのは、やはり老獪を具現化したような飄々とした馬鹿面だった。

 村の人気者である反面、自分の気に喰わない者に対しては、平気で小馬鹿にしたり、茶化して笑い者に祭り上げたりする、あの陰湿さはいつも孫のナサニエルを一番の標的にしていた。

「ナサニエル……か。どうしたんじゃ、こんなに早くに。ガキの頃みたく一緒に小便について行ってほしくなったのか」

 どんな時でも皮肉と毒舌を忘れない。自分が置かれた状況を把握できない時でも、神経を逆撫でさせるのは得意なようだ。

 衝動的に、ナサニエルは老人の口に拳を振り下ろした。前歯が数本折れて、手の甲に突き刺さっていた。鈍い痛みは感じたが、今のナサニエルには、どうでもいい要素だった。

 老人が力なく呻く。「な、ニャひをフる! ホのハわけが」殴ったせいか変な喋り方になり、彼は笑いを堪えた。

「もう一度あんたに会いたかったのは、そんな戯言を聞く為じゃないんだよ、爺ちゃん」

「いッハい……何の話をしホる?」

「どうして、ミッシェルを奪った?」

 あんぐりと口を開けた老人は阿呆のように硬直していたと思うと、ひび割れたカサカサの唇を震わせ、ヘラヘラと笑い始めた。

「ホんな事ハあ! まったくホって、バカな奴ハ! そんなもの、好き好んだからに決まっておるだろう。好きな者同士が一緒になって何が悪い」勢い余って、乾いた咳を出す。

「六十の年寄りが二十代の娘に言い寄って子供を孕ませるのは、年がいもないどころか悪趣味じゃないのか?」

 その彼女を想う、男がいながら、だ。

「相変わらずヒヨッ子だな、ナサニエル。恋愛に年の差など、関係あるか。わしのように爺になっても、その権利はあるぞ。まさか、ババアの相手でもしていろと言うのか」咳と一緒に血反吐を飛ばして、「それになあ、そもそも、お前が悪いんだぞ」

「僕が悪い?」

「お前がいつまでも根暗だから、あの子も愛想を尽かしたんじゃ。若いだけで世の中を渡って行けると思ったら、大間違いだぞ」

 堰を切ったように、祖父の罵詈雑言は止まらない。いつの間にか、あの滑稽な喋り方は直っていた。

「お前は昔からそうだった。息子は野蛮で、国家がどうとか、民族主義とかほざき、出征した挙句に死んで帰って来た。その嫁も、頭のおかしくなってどこかへ消えた。その時からわしは誓ったのだ。人生は勝手気儘に謳歌するのが一番だとな」

 大きな咳を発し、唾をこちらまで飛ばす。「息子夫婦は勝手に死んで、勝手に蒸発した。奴らも大馬鹿だが、連中がひり出したお前は、筋金入りの腑抜けじゃ。優柔不断どころか物を言う口も、どこに付いとるんじゃ? 目が悪いんで、教えてほしいぐらいだ」

 やはり、甦生を頼んだ甲斐があった。

「ミッシェルも言っておったぞ。真面目だけの銅像より、快活で明るい人が好きだと。つまり、わしの事さ」

 ナサニエルは、老人の減らず口に綿を押し込んで黙らした。

「一つだけいい事を思い出さしてあげる。死ぬ直前、あなたは屋根で雪掻きをしていた。屋根から落ちて、雪に被りそのまま窒息死した。皆にはそう告げた」

 何を言っている。緑の眼がそう問うている。

「だけど、そうじゃない。あんたは殺されたんだよ。雪の山に埋もれたあんたを、僕は偶然見つけた。でも、何もしないで黙って見てたんだ。日頃の鬱憤が溜まっていたからね」

 目が飛び出しそうなぐらい開いている。

「昏睡だったんじゃない。あんたは死んでいたんだ。それを僕の望みで、死の淵からあんたを連れ戻した。どうしてか分かる?」

 振り上げる刃が目に入り、老人の顔は歪む。モゴモゴと何かを喚いているようだが、それを止める理由などない。

 エノラが注意していた、絶対に再生者を殺してはいけない決まりを忘れているわけではなかった。知りながら、敢えて破るのだ。そうでなければ、一体誰がこんな老いぼれの甦生を望むのか。

「やっぱりあんたは、不良返品だ」

 この期に及んでも、口汚い罵りを上げたがっている老人に、ナサニエルはささやかな勝利の味に酔いしれた。これが見たかったのだ。村一番の元気者で、威勢のいい祖父が、皮一枚を剥げば唯の人間である事実を、これから確かめるのだ。

 彼は老人の口から血塗れの綿を取り出した。

「この気違いの青二才が!」と叫び、手に持ったナイフの刃先が、その頸動脈に突き刺さるのと同時だった。

 そして、老人の老躯を際限なく何度も突き刺した。縛られた手足がバタバタと痙攣し、眼球が目まぐるしく回転する。

 返り血を浴びる自分自身にも、柄に付着した血肉にも、骨に当たって欠けた刃にも歯牙にもかけず、屈辱と憎悪に塗れた過去の象徴たる祖父を、ナサニエル・セオドラは破壊し続けた。


 一三


 たち込める血生臭さに、エノラの鼻腔を刺激した。既に臭覚がないはずのシルベスターも、鼻があった窪みに手を置いた。

 二人は用心しながら、臭いの強い部屋の前まで来た。

『遅かったみたいだな。爺さんがやられたか、あの兄ちゃんか』

 エノラは無言で頷き、肩に背負った布筒から銃口が二連並んだショットガンを取り出した。大きな銃床を脇に抱え、引き金に指を掛けつつ、扉を徐に開け放った。

 部屋の中心に、ナサニエルと祖父のデイビッドがいた。

 最初に目に入ったのは強烈な緋色。横たわる老人の裂けた腹部からは、血肉と混じる内臓と、乱暴に盛られたように腸が溢れている。老人の、あの緑色の瞳はこれ以上ないほど見開き、だらしなく開いた口から赤い歯が覗いた。

 祖父の傍にひざまずく青年は、二人の姿を見ても、首を項垂れるだけで茫然としているままだった。

『やっちまったな……』

 遺体の下半身からは、血肉に混じって糞尿が流れ出ていた。

「後悔はしてない。これが望みだった」ナサニエルは消え入るように言った。「仕事をした君には申し訳ないが、僕がこの人に抱いていたのは、とどのつまりこれだったんだ」

 全身血まみれになったナサニエルは、ゆっくりと立ち上がってデイビットの死体を跨り、唖然とする二人の前に立った。

「僕と祖父は合わなかった。それだけなら、まだよかった。この人は僕の人生を永遠に狂わした。それが許せなかった」

 ナサニエルの左手から何かが離れ、音を立てて床に落ちた。それは、飾り気のない指輪だった。エノラが拾い上げたそれの内側には、彼とミッシェルのイニシャルが刻まれていた。

「婚約、していたのですか?」

彼は小さく頷き、「アーノンが生まれる前までね」

 エノラは、老人の棺の寄せられた中にあった、贈り主Mのカードの内容がずっと引っ掛かっていた。あれを出したのが彼女であれば、忘れ形見とはアーノンの事を指していたのだ。

 それよりも――両手に構えた銃口を老人の死体に向けた。

「自由奔放な、あの人にとって、僕が一番疎ましかったのでしょう。散々村の笑い者に仕立てた挙句、最大のあてつけに、僕から彼女を奪い取った。年がいもなく――」

 不意にエノラが「早く離れなさい!」と叫んだ。その直後、風を切る音が部屋に響き、怪異は起こった。

 膝を付くナサニエルの目の前で、老人が立ち上がったのだ。死体が目にも止まらぬ速さで直立するのを見て、青年は驚愕した。

 これは悪い夢か。「おじいさん?」

 次々と臓物をボトボトと落とす人間が、生きているはずがない。判断を失った彼は硬直したまま、祖父を見つめた。

「どうして?」その肩に伸ばそうとした手が掴かまれた。ナサニエルが呻いたのは、老人とは思えないほどの怪力だったからだ。

『だあれガあ、年寄リじゃて?』デイビッドの声が響く。

老人が顔を上げた時、ナサニエルは悲鳴を漏らした。生前は緑だったその目は、白内障のように白く染まり、口はだらしなく開かれている。そして、そこから伸びる舌は異常に長い。

 その顔はかつての祖父どころか、人とは思えなかった。

『ワシはなあ、お前を喰っテェ若返るゾ!』開かれた口が、まっすぐに青年の首元に伸び――。

その牙が到達する直前、人外の顔に何かが押し当てられた。それを構えたエノラが言った。「これをお食べなさいな」

 銃口から火が噴いた。耳をつんざく轟音が響き、頭部を吹き飛ばされた老躯は脳漿をばら撒きながら、後方の壁面に激突した。

 ナサニエルは悲鳴を漏らした。

「君は人殺しだ! おじいさんを殺した!」

「あなたもそうしたじゃないですか。それに、あれはもはや人間ではありません。死霊です」

「死霊……?」

「再生者が殺害された場合、その魂は、欲望に従った純粋無垢な存在になる。人や物に取り憑く邪悪な存在に……」

 床に倒れた老人の顔は、苺のパイ皿を被ったような状態で、ほとんど原形を留めていなかった。

「死霊は純粋な食欲から、生きた人間を喰い殺します。そして純粋な残虐性から、殺戮にも戯れる」

 少女はゆっくりと死体の足元まで近づく。シルベスターはその横で、暖炉から持って来たらしい引っ掻き棒を持って控える。

「さらに悪い事に……」と散弾銃の先を死体の胸に当てる。

「普通の銃では、彼らは殺せない」

 死体から何かが飛び出し、不意を突かれたエノラの頬を打った。その拍子に、武器を落とした彼女が後方に倒れそうになったのを、シルベスターが支えた。

 老人の腹部から零れた腸が、怪物の触手のようにうねり、歯が飛び出した歪な口から、今度こそ人間ではない笑いを漏らす。

『ヒャッヒャッヒャッ、はらわたガ躍るわい!』

 何本もの腸が天井の梁に張り付いた。体を浮遊させて、老人が迫る。彼らは急いで、部屋から出て扉を閉めた。

「一体、どうすれば!」

「落ち着いて。手はあります」このような状況に慣れているのか、エノラの声は至って冷静だが、薄く腫れた頬が痛々しい。

 ガラスが割れる音がした。窓を破る音だとすれば、怪物と化した祖父は外に出たのかもしれない。しかし、油断はできない。エノラはゆっくりと扉を開ける。

 ガラスが割れる音がした。窓を破る音だとすれば、怪物と化した祖父は外に出たのかもしれない。しかし、油断はできない。エノラはゆっくりと扉を開ける。

 荒らされた部屋の中には、老人の死体はなかった。彼は、開け放たれた窓の向こうを見て愕然とした。欅の下に、さっきまでいたはずのアーノンが見当たらないのだ。

「早く、彼女に知らせないと」そして、エノラが止めるのを聞かず、ナサニエルは窓から飛び出していく。

『ヤバくなってきたな。どうするよ?』

「なすべき事をするまで」

 銃を拾い、少女もまた身軽な動きで窓辺を飛び越えた。


 一四


「ナサニエル、どうしたの、その格好?」

 目の前に、全身血まみれになった知り合いが現れて、尋常でいられる者などいないだろう。事情を説明する前に、彼はミッシェルの手を無理矢理引いて行こうとした。

「待って! 痛いわ。何があったの?」

「早く逃げるんだ! 理由は後で話すよ」

 再び、その手を引っ張ろうとするが、事情がうまく飲み込めない彼女は、それをなかなか受け付けない。

「離してよ!」とその手を振りほどく。そして、深い溜め息をついた。ナサニエルには、彼女の自分に対する印象が相変わらずである事に、軽い失望感を覚えざるを得なかった。

「今日のあなたは変よ。御爺様が亡くなったのは気の毒だわ。けれど、いつまでもそれを引っ張るのは不健全よ。御爺様だって、そう言ったわ」さすが、あいつに感化されただけはある。ナサニエルは心の中で毒づいた。

「どうせ僕が言っても、君は信じてはしないな。お爺さんが言えば、聞いていただろうな」

「どうして……そんないまさら?」

 六年前、彼女の妊娠に身に覚えがない分かった時には、ミッシェルの眼差しは祖父に向いていた。彼が全てを悟ったが既に遅かった。自分に好意的だった彼女の両親が推し進めた縁談を、当の本人はあまり乗り気ではなかった、と別れ話の際に聞かされた。

 両家との清算により、表面上では勘当されたミッシェルは、祖父の計らいで子供と一緒に隣家へ移り住む事ですべてが清算された。ナサニエルは最後まで蚊帳の外のままだった。

 結局、残り者の自分は、単なる道化だったわけだ。

「アーノンの父親なら、僕なんかよりも明るい性格だ。人の人生を壊しても長生きしたほど大胆な間男だ。彼のおかげで、君も婚約者を裏切った負い目はすぐに消えたろ?」

 彼女が手を振り上げようとした瞬間だった。エノラが二人の元に駆け込んできた。なぜか、シルベスターの姿はなかった。

「そこの二人、喧嘩は止めなさい。子供を早く――」

「ママ、ママ見て、凄いよコレ!」

 アーノンが雪を掻き分けて走って来た。何か嬉しい事でもあったかのように歓喜する少年の背後に何かがいた。

「この雪ダルマ、動くんだよ!」

 ノシノシ歩くそれは、さっきまでアーノンがこしらえていた雪ダルマだった。その顔はどことなく、祖父に似ている。窓から見た時には葉っぱと小枝をつけただけの単純な顔だったはずだ。

 そして、雪ダルマの腹部の辺りから、純白の雪に不釣り合いな赤い筋が流れている。それはまるで血のように――。

「坊や、早くお逃げなさい!」咄嗟に銃を向けた手を、ナサニエルが押さえた。「よせ! あの子に当たってしまう!」

キャハキャハとアーノンは笑いながら、「すごいでしょ、この雪だるま。ボクが作ったんだよ。ノーマンって言うんだ」

 雪ダルマの口の辺りが大きく横に広がり、鮫のように並んだ牙が覗く。赤く光る眼が、子供を見ていた。

『そうだ、ワシの名ハ、ノー・マン(人でなし)じゃあ』

「アーノン!」ミッシェルの叫び声は、少年も気づいていない。

『おいしそうなニク……』蛇のような舌に、血走った目を持つ雪ダルマ。だが、その背後に立つ者が、その手に持った凶器を振り下ろした。シルベスターの一撃により、死霊が移った雪ダルマは脳天から一気に二分されて粉砕した。

『子供を大事にしな、爺さん』

 さすがに気付いた少年は振り返った先にいる、骸骨に悲鳴を上げて、母親の元へと走り寄った。

『これだから、ガキは嫌だ。見た目で……』肩を竦める相棒に合図を送ると、エノラは警戒を怠る事なく雪ダルマに接近した。

「死霊はこの程度では死なない」

『どこかに隠れてんのか?』周りの雪が積もった荒れ地を見渡す二人。「おそらく、様子を窺っているのでしょう」

 アーノンは、ミッシェルにしがみ付いて号泣した。

「よしよし、怖かったね。もう大丈夫よ」

「ママァ! ノーマンが死んじゃった! デイビットじいちゃんも死んじゃったよぉ!」と叫ぶ我が子から、サンタの被り物を脱がし、小さな茶髪の頭をなで回しながら、「ああ大丈夫よ、坊や。ノーマンもナサニエルのおじいちゃんも今頃は天国にいるのよ」

 小さな眼が見上げる。「ホントに?」

「ええ、そうよ」

 少年は何か考え事をしているように、頭を左右に揺らした。

「違うよ、ママ。じいちゃんは生きてるんだ」

「アーノン、何を言うの?そんな事、ナサニエルお兄さんの前で言うものじゃありません」

 シュンと頭を下げる少年は、さらに言葉を遠慮がちに続ける。

「ホントさ。お爺ちゃんが言ってるよ……」地面を見つめていた顔がさっと上がり、アーノンは母親の細い首に齧りついた。

『お前の肉が喰イたくて、ウズウズしていたんじゃア!』

 白目の少年が喰らいついた首筋から、血潮が間欠泉のように噴出した。「ミッシェル! どうしてだ?」

「あの雪ダルマは囮だった。あの子は最初に殺されていたのです。残念ながら、あれはもうアーノンではありません」

 両手に銃を抱え歩き出す少女を、止める手立ても理由も見つからず、ナサニエルは力なくうなだれた。「まさか、殺すのか?」

「あれはもう、生きていてはいけない」

 青年の顔に、何か同意を得ようとするかのように見つめる。

「殺すだけではない。狂いを正すのです」

 走り出す彼女に続き、『あんたはそこにいろ。野郎に喰われたいなら別だがな』と言い残し、シルベスターもその後に続いた。


 一五


 ミッシェルの顔の半分を根こそぎ抉り喰らいつく死霊は、背後に立つ気配に振り返った。散弾銃を向けるその少女が放つ、妙な死臭に鼻をしかめ、死霊は瞬時に身の危険を感じた。

 だが所詮、小娘は小娘。生来の粗野な性格は、少しばかり残っているのか、難しく考える事はなかった。殺すだけでいい。生きたまま内臓を抉り、その死に様を鑑賞するのも悪くはない。

『そんなモノでえ、ワシをコロせるかのお』

 水平の二連式ショットガンにしては大きい銃床を脇に挟み、両手で構えるエノラに、死霊は嘲笑する。少なくとも、自分にその武器は通じないのは知っていた。

『そんなぁ鉛じゃあ、ワシには効カンぞお』

「殺せます」と静かに言い、左側の引き金を引いた。

 それは、アーノンだった者の両足を粉砕した。膝下が消失し、死霊に乗っ取られた少年はバランスを崩し転倒する。

『痛いッ! イタイッ! ナゼじゃあぁ!』

 激痛の喘ぐ白目の顔に、初めて困惑が生まれた。

 エノラは硝煙が立ち込める銃口を下し、倒れている少年に近づきながら、エノラは銃身と機関部を折り、逆さにして数ミリ出た空夾を落とす。そして、負革に填まった数発分のうち、色の異なる二本の実包(散弾銃の弾)を取り出した。

 赤のラインが入ったスラッグ実包を、【HUMAN・BEING】と刻まれた右側の穴に装填する。そして、【EVIL・DEAD】と刻まれた左側に、黒いそれ――その中には、何やらどす黒い液体が詰まっている――を装填し、折れた銃身を直した。

『ワシは死なん。こんな事で死んでタマルか!戦後の飢饉でさえ、死肉を喰らっテ生き残ったンじゃぞ!』

 死霊は、人でも再生者でもない存在である。しかし、ある条件によって、生前の記憶を呼び覚ます事例もあると聞く。ある条件とは即ち、純粋なる死への恐怖に他ならない。

 膝の切断面からドクドクと流れる血を、必死に掻き集めるようともがく様がそれを物語っている。

 エノラは無言のまま、少年の脳天に銃口を向ける。

破顔したそれは、『コノ死人娘がぁ! コノ化け物娘ぇ!』と喚き散らしたと思えば、いきなり元の無邪気なアーノンの顔に戻り、さめざめと泣き出した。『ヤメテ、お姉ちゃん! ボクを撃たないで! ボクを悪い怪物から助け――』

 言葉も思惟も、今のエノラにはない。永遠に雪が降り積もる荒れ地の片隅で、何発目かの銃声が今一度轟いた。


 一六


 雪を点々と染める赤は、次々と降り続ける降雪で覆い隠されようとしている。底に横たわる二人の死体だけには、寝室から引っ張り出した毛布をかけてやり、そこに雪が溜まる度に払い落した。ナサニエルにはそうしてやる事しか思いつかなかった。

 祖父の死体は、アーノンが遊んでいた欅の木の上に隠すように吊るされていた。新たな人生を前に孫に殺され、死霊になり愛する者を喰い尽くした揚句、三度目の死を迎えた祖父。

 二度目の死を迎え、あの人は一体どこへ行くのだろうか。

 彼らがこの地を去って、どれだけ時間が経ったか。特にエノラは、術を終えたばかりなのに時間を置かずに出立した。だが、その気持ちは、彼にも分かっていた。代わりに全部の荷物を背負い、足取りの覚束ないエノラを支える相棒は頼もしそうだったが、その形のせいか同時に心許なく思えた。

 まあ、いい。もう自分には関係のない事だ。彼らにとっても。足早に去っていく二人の背中がそう告げていた気がする。

 彼は、先刻までの彼らとの最後の会話を思い出していた。

「あなたの憎しみに、私は異論を挟むつもりはありません。それに口外する気も毛頭ありません」エノラはそう言った。

 死霊に憑かれていたとは言え、6歳の子供を戸惑う事なく射殺した彼女に対して、不思議だが恐怖や怒りは湧いてこなかった。

 だがそれは、アーノンがあの祖父の子供であったからではないか、とナサニエルは思った。間男の血を引き、その本人に憑かれ、その短すぎる生涯を終えた少年に憐憫さえ抱かない自分は、ある意味祖父やエノラよりも冷酷な人間かもしれない。

「私の役目は、人を生き返らせる事。あくまで機会を与えるだけ。その後は知らない」そう述べた彼女は、一転声の調子が低くして付け加えた。「しかし……無関係だったあの二人だけは、出来れば助けてあげたかった」

 なぜ、言いつけを破って祖父を殺したのか。見えざる糸によって紡がれた運命だったのか、己が辿った意志だったのか。だが、今となっては愚問だ。甦った祖父を殺し、そのせいでミッシェルは子供と共に死んだ。その原因が自分にあるのは言うまでもない。

「僕は最低のエゴイストだ。君達を利用しただけでなく、ミッシェルたちを巻き添えにしてしまった。どんなに罵倒されても甘んじよう。それを承知で、最後の頼みを聞いてほしい。せめて、彼女を……ミッシェルだけでも生き返らせてくれないか?」

 当然だが、さすがの彼女も驚いた。後ろにいたシルベスターも口をあんぐりと開けていた。

「彼女は殺されて、死にました。それも死霊によって。ミッシェルさんが再生すれば、死霊になりますよ」

 殺されたと認識して死んだ者を甦生してはいけない。確かに昨夜、エノラはそう言っていたのは覚えている。

「その餌になるのは、僕だけだ」

「生きて償う道もあります。村人には、私からも説得します」

 ここの連中は、エノラが思うほど信心深くはないのを、彼は知っている。大方、狂人扱いか、人殺しと勘違いされて縛り首だろう。その前に、ミッシェルの遺族からリンチの憂き目に遭う。

 いずれにしろ、もう彼らをこれ以上巻き込みたくはない。

彼女の言葉を無視し、「僕の寝室のベッドの下に全財産がある。少ないが、残らず持って行くといい」

『イカれてる。とうとう、頭のネジが飛んじまったか!』

 喚いたシルベスターは彼女に殴られた勢いで、その首が半周したまま止まってしまった。

 どうせ、ここは空き家になる。どこの馬の骨か分からない野盗ならまだしも、村人にこれ以上好き勝手にされたくなかった。旅には金がかかるだろう。彼らが持っていた方が、醜聞と噂にしか関心のない老いぼれどもにくれてやるよりよっぽど有意義だ。

 特に、彼女に対する負い目は看過できず、どうにか埋め合わせをしてあげたかった。しばしの沈黙の後、エノラは問いかけた。

「教えて。それは、あなたにとっての贖いなの?」

 その声を聞いてハッとした。外面の敬語口調とは異なる、本当の彼女の声は、静かで清らかで、彼は心を奪われかけた。

「違う。僕にとっての救いだ。自分からそう望んだ」

少女はしばし目を閉じた。整えられた白い顔は微動だにせず、それはまるで聖母の石膏像に似ていた。

 エノラは目をそっと開け、「分かりました。あなたの依頼を承りましょう。ただし、お金は要りません。代わりに食糧を下さい」

「ああ、好きなだけ持って行ってくれ。これから肝心の家主が食糧になるのだから、もう必要はないだろう」

 彼は腹を抱えて笑った。自分の冗談に対してではなく、状況に反して絶望感のない己が面白おかしかくてたまらなかったのだ。

 青年を見つめるエノラの眼は、憐れみに満ちていた。

「そんな目で見るな。君は、何も間違ってない。君の力を私怨に利用して、本当にすまなかった」

「ナサニエル・セオドラ……」再び、あの女神を思わせる声で、「あなたに主の御加護と、そして御慈悲があらんことを」

 そして、散弾銃を満足に構えていたとは信じられないほどの、か細い腕を前に差し出し、エノラは言った。

「光あれ」

 それは、友人や赤の他人を問わず交わされる、別れの際の言葉。礼儀とそして他者への思いが込められている。

「ありがとう。ここから数十キロ先に、少し大きな宿場町がある。そこには船もあると聞く。どうか到着するまで、くれぐれもお体に気をつけて」小柄だが、その身の内に何かが宿る少女の瞳を見つめながら、「エノラ・グリード、残された時間を君達の旅の無事を祈ろう。君に会えて、本当によかった」

 そして手を伸ばし、別れを意味する作法に則った。

「光あれ」

『達者でな、お兄ちゃん』

 顔が後ろに向いたままのシルベスターも、それに従って骨の手を伸ばした。生前は、本当は良い人だったのかもしれない。

 そして、その場で速やかに儀式を終えた彼らは、地平線の彼方へと消えていった。しばらくして、再び雪が降り始めた。

 目の前にある肉塊は先刻よりも肥大化しつつある。祖父の時と同じぐらいの時間なら、もうそろそろ“孵化”が始まる。

 今までの人生は歪だった。祖父に虐げられ、村人に陰で冷笑され、幼恋を抱き続けた女性は、最も恨むべき者の子供を産んだ。そんな生き地獄にも似た小世界にじっと耐えてきた。

 しかし、似合わぬ愛想笑いを忍耐と苦渋と欺瞞の人生も、今日で終止符を打った。エノラは自分が死神と呼ばれるのを嫌っていたが、今になっては満更でもないと思える。

 エノラ――。今になって祖父の話を思い出した。大戦中、大国の黒い翼の飛行機が毎日、巨大な火柱の上がる爆弾を落としていった。それらが空爆した数日後、必ず黒い雨が降り続けた。それによって、多くの人間が死に絶えた、という話。

 その戦闘機の呼び名も、“エノラ”であった。まあ、偶然かもしれないし、今のナサニエルにはどうでもいい事だった。

 今、彼は待っている。肉の卵から、かつて愛した女性――今もその思いは残っている――が再びこの世に生れ出る瞬間を。それが眼前にいる自分に躊躇う事なく襲いかかる瞬間を。

 そうして、気が狂ったように抵抗するも、この身が肉片の一枚も残らず喰われ、27年の生涯を凄惨な最期で飾る瞬間を。

 死後、村の奴らが自分をどう思おうが、痛くも痒くもない。死霊もしばらくは、食糧に事欠かないだろう。

「死を恐れる者は生をも恐れ、生を恐れぬ者は死とも戯れる……それが今のこれなら、悪くはないな」

 今まさに、ナサニエル・セオドラは“救い”が訪れる瞬間を、降り続ける白銀の下で身を強張らせながら心待ちにしていた。

 吹雪は、それから一週間はやまなかった。



               【了】

 いかがでしたか?青年の顔や体型の描写が一切ないのは、作者のポカですので、どうかご容赦ください。

 来年の投稿予定は遅くなりますが6月です。全4話の短期連載を目指してますが、今のところ詳細は未定です。


追記(2011.3.1)

 予定通り順調にいけば、今年の6月3日か10日から、全11話の連載作品を毎月投稿します。


追記2(2011.4.28)

 6月3日から、初の連載作にして初の歴史物『砲台守の太一郎』を投稿していきます。太平洋戦争末期、神戸の架空の町を舞台にした物語です。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ